帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
道具には、性格がある。
白線布は真面目だ。
まっすぐ伸びる。
人を迷わせない。
ただし、汚れるとすぐ自信をなくす。
赤布は目立ちたがりだ。
風が吹くと必要以上に揺れる。
だが、煙でも夕暮れでも真夏の陽炎でも、最後まで自分が赤だと言い張る根性がある。
黒札は口数が少ない。
置けば、そこにいる。
説明しない。
でも、あると人が足を止める。
確認棒は少し偉そうだ。
排水溝をつつく。
泥をつつく。
危ない場所を先に殴る。
あれはたぶん、棒なのに現場監督のつもりでいる。
カナタはそんなことを考えながら、格納庫の長机に並べられた装備を見ていた。
真夏の午前だった。
格納庫の中は暑い。
屋根の鉄板が太陽を溜め込み、空気が上から押されている。油の匂い、金属の匂い、乾いた布の匂い、汗の匂い。窓は開いているのに、風は入口で迷って帰ってしまったように入ってこない。
夏は、遠慮がない。
暑いなら暑い顔をする。
冬の寒さはまだ美しさの言い訳ができた。雪とか、白い息とか、凍った洗濯物とか。
夏は違う。
ただ暑い。
とても正直で、かなり嫌だった。
「装備点検会、という名の地獄です」
ユウトが言った。
額に汗を浮かべている。
「地獄にしては、豆スープがありませんね」
タクトが答える。
「地獄にも補給は必要です」
「地獄の豆制度」
「やめて。永遠に二粒っぽい」
リゼが赤布を持ったまま笑った。
今日は髪をまとめるのではなく、手首に巻いている。
キャンプの夜から、彼女は赤布をただの目印としてだけではなく、声の代わりにも使うようになった。
振る。
結ぶ。
置く。
掲げる。
それぞれ少しずつ意味が違う。
帰ってこい。
こっちへ。
ここで待て。
帰ろう。
同じ赤でも、動きで変わる。
道具には性格がある。
だが、使う人間によって、言葉も増える。
「はい、全員こっち見る」
ミナが長机の前に立った。
工具箱を抱えている。
まるで教師だった。
ただし黒板の代わりに、机には白線布、赤布、黒札、携行灯、反射板、杭、静音用の布、予備金具、簡易拡声器が並んでいる。
「今日から正式改良版を使います」
「正式なんですか」
マコトが訊く。
「正式っぽい」
「だめでは」
「正式にするための試作版」
「試作なんですか」
「正式試作」
「矛盾しています」
ミナは胸を張った。
「現場はだいたい矛盾で動く」
ガレスが格納庫の入口で煙草を咥えた。
火はついていない。
「その通りだ」
「副長の承認が出ました」
ユウトが言う。
「出たんですか」
「たぶん」
「たぶんで装備が正式化する部隊」
ヒナセは携行灯を手に取った。
小さな赤い灯り。
前に《シジュウカラ》から落としたビーコンを参考にしたものらしい。
「赤灯は三段階。常灯、点滅、低光量。ハウラーがいる時は音声が死ぬので、点滅で指示を出します」
「点滅にも意味をつけるんですね」
カナタが訊く。
「はい。一回が集合。二回が待機。三回が撤退。長点灯が危険区域」
ユウトが手を上げた。
「五回は?」
「使いません」
「六回は?」
「使いません」
「七回」
「ユウトさんが点滅させすぎた、という意味にします」
「個人指定」
リゼが吹き出す。
「便利だね。ユウト警告」
「不名誉すぎる」
マコトは手順書を開いていた。
表紙には、例のタイトルが残っている。
《帰還誘導兵のだいたいのやつ》
その下に《改訂予定》。
さらに昨日、誰かが小さく《暑い》と書き足していた。
たぶんユウトだ。
セナが見つけ次第消すと思う。
「正式手順にするなら、名称を統一すべきです」
マコトが言った。
「白線布、赤布、黒札、確認棒。この辺りは通称です」
「通称で通じてますよ」
ユウトが言う。
「通じることと、引き継げることは違います」
マコトの声は真面目だった。
軽い会話が、一瞬だけ止まる。
引き継ぐ。
それは、誰かがいなくても続くという意味だ。
誰かが倒れても。
誰かが帰ってこなくても。
道具と手順が残れば、別の人間が動ける。
春の頃なら、嫌な言葉だと思ったかもしれない。
今も嫌だ。
でも、必要だった。
「名前は、大事ですね」
カナタは言った。
「正式名称、考えますか」
ユウトの目が輝く。
「やめましょう」
「まだ何も」
「顔」
「顔で止める文化、もう制度ですね」
リゼが赤布を持ち上げる。
「これは?」
マコトが即答する。
「帰還誘導標識布・赤」
「長い」
「でも分かる」
タクトが頷く。
「白線は?」
「帰還誘導連結布・白」
「長い」
「でも分かる」
「黒札は?」
「一時停止および危険表示札・黒」
「長い!」
ユウトが叫ぶ。
マコトは少し困った顔をした。
「では、略称を併記します」
「略称?」
「赤布、白線、黒札」
「最初に戻った」
ミナが満足そうに頷く。
「現場と書類の妥協だね」
「大事です」
マコトは本当に大事そうに言った。
その横で、タクトは静音用の布を並べていた。
布は何種類かある。
薄いもの。
厚いもの。
油を吸いやすいもの。
濡れても固くなりにくいもの。
彼はそれぞれを手に取り、缶を巻くような手つきで金具に巻いていく。
「タクトさん、それ正式化します」
ミナが言った。
「え」
「静音処理。荷物の音消し。タクト式」
「やめてください」
「じゃあ缶式」
「もっとやめてください」
「オレンジ式」
「最悪です」
ユウトが真面目な顔で言う。
「正式名称、帰還誘導静音処理布・橙」
「橙、どこから来たんですか」
「オレンジソーダから」
「だからやめてください」
タクトは困っていた。
だが、困りながらも手は止めていない。
巻く。
縛る。
揺らす。
音を聞く。
鳴らなければ頷く。
その動きは、もう彼だけの癖ではなく、隊の技術になりかけている。
小さなものが、手順になる。
手順になれば、誰かに渡せる。
それは少し怖く、少し頼もしかった。
午前の後半は、新しく配属された隊員たちへの装備講習になった。
名前は三人だけ覚えている。
オルガ。
声が大きい女性兵。
ベン。
いつも水筒を二本持っている男。
ニコ。
まだ若く、黒札を持つ手が少し硬い新人。
他にも数人いる。
全員が主役ではない。
でも、列を作るには必要だった。
オルガは赤布を持って言った。
「これ、振り方で意味が違うんですよね」
「そう」
リゼが答える。
「上で大きく振ると?」
「集合」
「低く横に振ると?」
「止まらないで進む」
「小さく左右は?」
「詰めない」
「ぐるぐる回すと?」
「やらない」
「何か意味をつけたくなりますね」
「ユウト警告になる」
「なぜ俺が」
ベンは水筒を二本置いて、白線布を触っていた。
「濡れると重いですね」
「はい」
カナタは答える。
「持つ人間を交代する必要があります。白線係は一人にしないでください」
「二人一組?」
「できれば三人。張る人、見る人、代わる人」
「見る人」
「張っている人は、張ることに集中します。だから、曲がりすぎていないか、列が見えているかを別の人が見ます」
ベンは頷いた。
「水筒と同じですね」
「水筒?」
「飲む人、配る人、残量を見る人」
カナタは少し驚いた。
それから頷く。
「同じです」
見える場所を分ける。
水でも、白線でも、同じなのだ。
ニコは黒札を持っていた。
手が硬い。
かなり緊張している。
「置く場所が、分かりません」
「分からない時は、置かない方がいいです」
カナタは言った。
「でも、置かなきゃいけない時は」
「人が止まりそうな場所より、止まってほしい場所に置いてください」
ニコは少し考える。
「危ない場所に置くんじゃなくて?」
「危ない場所にも置きます。でも、黒札はただ危険を知らせるだけじゃありません。人の足を止める道具です。止まる場所を間違えると、そこが詰まります」
ニコの顔が少し青くなる。
リゼが横から言った。
「大丈夫。最初はみんな変な場所に置く」
「そうなんですか」
「ユウトは自分の足元に置いた」
「言わないで」
ユウトが頭を抱える。
「記録します」
マコトが言う。
「しないでください」
ニコが少し笑った。
手の硬さが、少しだけ解けた。
昼前、装備講習は実地試験になった。
格納庫の外、乾いた泥の広場に仮想避難列を作る。
隊員たちが歩く。
途中で荷物を落とす役。
足を痛めた役。
通信不良役。
暑さで不機嫌な役。
最後の役はユウトが非常に上手かった。
「暑い。もうだめです。豆もない」
「演技ですか」
タクトが訊く。
「半分本音」
「リアルですね」
リゼがオルガに赤布を渡す。
「じゃあ、中央を動かして」
オルガは赤布を上げた。
大きく振る。
全員が集まりかける。
「違う!」
リゼがすぐ言う。
「今は集合じゃない。詰めないで進む」
「低く横!」
オルガがやり直す。
列が少し動く。
ベンが白線布を持ち替える。
ニコが黒札を置く。
置いた場所が少し悪い。
人が止まりすぎる。
カナタは言いかけた。
だが、言わなかった。
ニコが自分で気づいた。
「ここじゃない」
黒札を半歩ずらす。
止まる場所が変わる。
列が流れた。
それでよかった。
全部をカナタが見る必要はない。
気づける人が増えればいい。
その時、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い警告音。
訓練の空気が一瞬で変わる。
暑さも、くだらない会話も、汗の匂いも、そのまま残っているのに、全員の背中だけが戦場になる。
アイラの声。
『前線第三方面より通達。夏季広域後退計画、準備段階へ移行』
広場が静かになった。
夏季。
広域。
後退。
計画。
単語の一つ一つが、真夏の空気の中で重く落ちた。
『各隊、装備・人員・補給線の再確認を開始』
ノイズ。
『繰り返す。再確認を開始』
カナタは長机に並んだ道具を思い出した。
白線。
赤布。
黒札。
静音布。
赤灯。
確認棒。
手順書。
新しく加わった隊員たち。
全部、必要になる。
たぶん、嫌になるくらい。
ユウトが小さく言った。
「急に本番っぽくなりましたね」
「訓練です」
カナタは言った。
「でも」
「本番のための」
リゼが赤布を握り直す。
「じゃあ、続きやろう」
「今?」
ユウトが訊く。
「今」
リゼはオルガへ赤布を渡した。
「夏が来るなら、今やる」
オルガは頷いた。
ベンが白線布を持つ。
ニコが黒札を構える。
ヒナセが赤灯を点ける。
マコトが手順書を開く。
タクトが静音布を結び直す。
ユウトが声を張る。
「列、再開!暑くても歩く!豆がなくても歩く!」
「豆は関係ない!」
セナが怒鳴る。
「でも関係ある気がします!」
「ない!」
少しだけ笑いが起きた。
笑いながら、列は動いた。
真夏の広場で、道具が手順になっていく。
手順が人に渡っていく。
人が線を作っていく。
帰るための線。
まだ本番ではない。
でも、本番の影はもうすぐそこまで来ている。
カナタはそれを感じていた。
怖い。
弱気にもなる。
でも、全部を一人で見る必要はない。
赤布を振る人がいる。
白線を張る人がいる。
黒札を置く人がいる。
音を消す人がいる。
水を数える人がいる。
声を出す人がいる。
それぞれが、帰る道具になる。
夕方、装備点検が終わった。
格納庫はまだ暑い。
でも、風が少しだけ入った。
帰ってきたもの置き場の横に、新しい棚が作られた。
ミナが余った板で作ったものだ。
少し斜めだった。
「味がある」
リゼが言った。
「歪みです」
マコトが言った。
「味のある歪み」
「言い換えただけです」
棚には、試作赤灯の壊れた外殻が置かれた。
点滅しすぎて熱を持ち、試験中に死んだものだった。
ユウトが言った。
「俺警告、過労死」
「だから五回以上点滅させない」
ヒナセが真顔で言う。
「はい」
カナタは棚を見た。
帰ってきたもの。
帰る道具。
その境目は少し曖昧だった。
でも、どちらも必要だった。
食堂の豆スープは二粒だった。
市民。
湯気はほとんど見えない。
でも、温かい。
カナタは椀を持ち、窓の外を見た。
真夏の夕方。
空が重い。
遠くで前線の砲声が一度だけ鳴った。
誰も大きく反応しなかった。
ただ、少しだけ耳がそちらを向いた。
夏季広域後退計画。
その言葉が、食堂の湯気の少ない空気に残っている。
カナタは手袋を外した。
今日は乾いていた。
珍しい。
息を吹きかける。
温かくはならない。
すでに、少し温かかった。
「夏ですね」
リゼが言った。
「はい」
「道具、増えたね」
「はい」
「人も」
「はい」
「なら、少しは大丈夫」
大丈夫。
便利で、怖い言葉。
でも今日は、その言葉を完全には否定しなかった。
少しだけなら。
道具がある。
手順がある。
人がいる。
そして、帰る場所は作れる。
そのくらいの大丈夫なら、信じてもいい気がした。