帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十八話 帰る道具

 道具には、性格がある。

 白線布は真面目だ。

 まっすぐ伸びる。

 人を迷わせない。

 ただし、汚れるとすぐ自信をなくす。

 赤布は目立ちたがりだ。

 風が吹くと必要以上に揺れる。

 だが、煙でも夕暮れでも真夏の陽炎でも、最後まで自分が赤だと言い張る根性がある。

 黒札は口数が少ない。

 置けば、そこにいる。

 説明しない。

 でも、あると人が足を止める。

 確認棒は少し偉そうだ。

 排水溝をつつく。

 泥をつつく。

 危ない場所を先に殴る。

 あれはたぶん、棒なのに現場監督のつもりでいる。

 カナタはそんなことを考えながら、格納庫の長机に並べられた装備を見ていた。

 真夏の午前だった。

 格納庫の中は暑い。

 屋根の鉄板が太陽を溜め込み、空気が上から押されている。油の匂い、金属の匂い、乾いた布の匂い、汗の匂い。窓は開いているのに、風は入口で迷って帰ってしまったように入ってこない。

 夏は、遠慮がない。

 暑いなら暑い顔をする。

 冬の寒さはまだ美しさの言い訳ができた。雪とか、白い息とか、凍った洗濯物とか。

 夏は違う。

 ただ暑い。

 とても正直で、かなり嫌だった。

「装備点検会、という名の地獄です」

 ユウトが言った。

 額に汗を浮かべている。

「地獄にしては、豆スープがありませんね」

 タクトが答える。

「地獄にも補給は必要です」

「地獄の豆制度」

「やめて。永遠に二粒っぽい」

 リゼが赤布を持ったまま笑った。

 今日は髪をまとめるのではなく、手首に巻いている。

 キャンプの夜から、彼女は赤布をただの目印としてだけではなく、声の代わりにも使うようになった。

 振る。

 結ぶ。

 置く。

 掲げる。

 それぞれ少しずつ意味が違う。

 帰ってこい。

 こっちへ。

 ここで待て。

 帰ろう。

 同じ赤でも、動きで変わる。

 道具には性格がある。

 だが、使う人間によって、言葉も増える。

「はい、全員こっち見る」

 ミナが長机の前に立った。

 工具箱を抱えている。

 まるで教師だった。

 ただし黒板の代わりに、机には白線布、赤布、黒札、携行灯、反射板、杭、静音用の布、予備金具、簡易拡声器が並んでいる。

「今日から正式改良版を使います」

「正式なんですか」

 マコトが訊く。

「正式っぽい」

「だめでは」

「正式にするための試作版」

「試作なんですか」

「正式試作」

「矛盾しています」

 ミナは胸を張った。

「現場はだいたい矛盾で動く」

 ガレスが格納庫の入口で煙草を咥えた。

 火はついていない。

「その通りだ」

「副長の承認が出ました」

 ユウトが言う。

「出たんですか」

「たぶん」

「たぶんで装備が正式化する部隊」

 ヒナセは携行灯を手に取った。

 小さな赤い灯り。

 前に《シジュウカラ》から落としたビーコンを参考にしたものらしい。

「赤灯は三段階。常灯、点滅、低光量。ハウラーがいる時は音声が死ぬので、点滅で指示を出します」

「点滅にも意味をつけるんですね」

 カナタが訊く。

「はい。一回が集合。二回が待機。三回が撤退。長点灯が危険区域」

 ユウトが手を上げた。

「五回は?」

「使いません」

「六回は?」

「使いません」

「七回」

「ユウトさんが点滅させすぎた、という意味にします」

「個人指定」

 リゼが吹き出す。

「便利だね。ユウト警告」

「不名誉すぎる」

 マコトは手順書を開いていた。

 表紙には、例のタイトルが残っている。

 《帰還誘導兵のだいたいのやつ》

 その下に《改訂予定》。

 さらに昨日、誰かが小さく《暑い》と書き足していた。

 たぶんユウトだ。

 セナが見つけ次第消すと思う。

「正式手順にするなら、名称を統一すべきです」

 マコトが言った。

「白線布、赤布、黒札、確認棒。この辺りは通称です」

「通称で通じてますよ」

 ユウトが言う。

「通じることと、引き継げることは違います」

 マコトの声は真面目だった。

 軽い会話が、一瞬だけ止まる。

 引き継ぐ。

 それは、誰かがいなくても続くという意味だ。

 誰かが倒れても。

 誰かが帰ってこなくても。

 道具と手順が残れば、別の人間が動ける。

 春の頃なら、嫌な言葉だと思ったかもしれない。

 今も嫌だ。

 でも、必要だった。

「名前は、大事ですね」

 カナタは言った。

「正式名称、考えますか」

 ユウトの目が輝く。

「やめましょう」

「まだ何も」

「顔」

「顔で止める文化、もう制度ですね」

 リゼが赤布を持ち上げる。

「これは?」

 マコトが即答する。

「帰還誘導標識布・赤」

「長い」

「でも分かる」

 タクトが頷く。

「白線は?」

「帰還誘導連結布・白」

「長い」

「でも分かる」

「黒札は?」

「一時停止および危険表示札・黒」

「長い!」

 ユウトが叫ぶ。

 マコトは少し困った顔をした。

「では、略称を併記します」

「略称?」

「赤布、白線、黒札」

「最初に戻った」

 ミナが満足そうに頷く。

「現場と書類の妥協だね」

「大事です」

 マコトは本当に大事そうに言った。

 その横で、タクトは静音用の布を並べていた。

 布は何種類かある。

 薄いもの。

 厚いもの。

 油を吸いやすいもの。

 濡れても固くなりにくいもの。

 彼はそれぞれを手に取り、缶を巻くような手つきで金具に巻いていく。

「タクトさん、それ正式化します」

 ミナが言った。

「え」

「静音処理。荷物の音消し。タクト式」

「やめてください」

「じゃあ缶式」

「もっとやめてください」

「オレンジ式」

「最悪です」

 ユウトが真面目な顔で言う。

「正式名称、帰還誘導静音処理布・橙」

「橙、どこから来たんですか」

「オレンジソーダから」

「だからやめてください」

 タクトは困っていた。

 だが、困りながらも手は止めていない。

 巻く。

 縛る。

 揺らす。

 音を聞く。

 鳴らなければ頷く。

 その動きは、もう彼だけの癖ではなく、隊の技術になりかけている。

 小さなものが、手順になる。

 手順になれば、誰かに渡せる。

 それは少し怖く、少し頼もしかった。

 

 午前の後半は、新しく配属された隊員たちへの装備講習になった。

 名前は三人だけ覚えている。

 オルガ。

 声が大きい女性兵。

 ベン。

 いつも水筒を二本持っている男。

 ニコ。

 まだ若く、黒札を持つ手が少し硬い新人。

 他にも数人いる。

 全員が主役ではない。

 でも、列を作るには必要だった。

 オルガは赤布を持って言った。

「これ、振り方で意味が違うんですよね」

「そう」

 リゼが答える。

「上で大きく振ると?」

「集合」

「低く横に振ると?」

「止まらないで進む」

「小さく左右は?」

「詰めない」

「ぐるぐる回すと?」

「やらない」

「何か意味をつけたくなりますね」

「ユウト警告になる」

「なぜ俺が」

 ベンは水筒を二本置いて、白線布を触っていた。

「濡れると重いですね」

「はい」

 カナタは答える。

「持つ人間を交代する必要があります。白線係は一人にしないでください」

「二人一組?」

「できれば三人。張る人、見る人、代わる人」

「見る人」

「張っている人は、張ることに集中します。だから、曲がりすぎていないか、列が見えているかを別の人が見ます」

 ベンは頷いた。

「水筒と同じですね」

「水筒?」

「飲む人、配る人、残量を見る人」

 カナタは少し驚いた。

 それから頷く。

「同じです」

 見える場所を分ける。

 水でも、白線でも、同じなのだ。

 ニコは黒札を持っていた。

 手が硬い。

 かなり緊張している。

「置く場所が、分かりません」

「分からない時は、置かない方がいいです」

 カナタは言った。

「でも、置かなきゃいけない時は」

「人が止まりそうな場所より、止まってほしい場所に置いてください」

 ニコは少し考える。

「危ない場所に置くんじゃなくて?」

「危ない場所にも置きます。でも、黒札はただ危険を知らせるだけじゃありません。人の足を止める道具です。止まる場所を間違えると、そこが詰まります」

 ニコの顔が少し青くなる。

 リゼが横から言った。

「大丈夫。最初はみんな変な場所に置く」

「そうなんですか」

「ユウトは自分の足元に置いた」

「言わないで」

 ユウトが頭を抱える。

「記録します」

 マコトが言う。

「しないでください」

 ニコが少し笑った。

 手の硬さが、少しだけ解けた。

 

 昼前、装備講習は実地試験になった。

 格納庫の外、乾いた泥の広場に仮想避難列を作る。

 隊員たちが歩く。

 途中で荷物を落とす役。

 足を痛めた役。

 通信不良役。

 暑さで不機嫌な役。

 最後の役はユウトが非常に上手かった。

「暑い。もうだめです。豆もない」

「演技ですか」

 タクトが訊く。

「半分本音」

「リアルですね」

 リゼがオルガに赤布を渡す。

「じゃあ、中央を動かして」

 オルガは赤布を上げた。

 大きく振る。

 全員が集まりかける。

「違う!」

 リゼがすぐ言う。

「今は集合じゃない。詰めないで進む」

「低く横!」

 オルガがやり直す。

 列が少し動く。

 ベンが白線布を持ち替える。

 ニコが黒札を置く。

 置いた場所が少し悪い。

 人が止まりすぎる。

 カナタは言いかけた。

 だが、言わなかった。

 ニコが自分で気づいた。

「ここじゃない」

 黒札を半歩ずらす。

 止まる場所が変わる。

 列が流れた。

 それでよかった。

 全部をカナタが見る必要はない。

 気づける人が増えればいい。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 短い警告音。

 訓練の空気が一瞬で変わる。

 暑さも、くだらない会話も、汗の匂いも、そのまま残っているのに、全員の背中だけが戦場になる。

 アイラの声。

『前線第三方面より通達。夏季広域後退計画、準備段階へ移行』

 広場が静かになった。

 夏季。

 広域。

 後退。

 計画。

 単語の一つ一つが、真夏の空気の中で重く落ちた。

『各隊、装備・人員・補給線の再確認を開始』

 ノイズ。

『繰り返す。再確認を開始』

 カナタは長机に並んだ道具を思い出した。

 白線。

 赤布。

 黒札。

 静音布。

 赤灯。

 確認棒。

 手順書。

 新しく加わった隊員たち。

 全部、必要になる。

 たぶん、嫌になるくらい。

 ユウトが小さく言った。

「急に本番っぽくなりましたね」

「訓練です」

 カナタは言った。

「でも」

「本番のための」

 リゼが赤布を握り直す。

「じゃあ、続きやろう」

「今?」

 ユウトが訊く。

「今」

 リゼはオルガへ赤布を渡した。

「夏が来るなら、今やる」

 オルガは頷いた。

 ベンが白線布を持つ。

 ニコが黒札を構える。

 ヒナセが赤灯を点ける。

 マコトが手順書を開く。

 タクトが静音布を結び直す。

 ユウトが声を張る。

「列、再開!暑くても歩く!豆がなくても歩く!」

「豆は関係ない!」

 セナが怒鳴る。

「でも関係ある気がします!」

「ない!」

 少しだけ笑いが起きた。

 笑いながら、列は動いた。

 真夏の広場で、道具が手順になっていく。

 手順が人に渡っていく。

 人が線を作っていく。

 帰るための線。

 まだ本番ではない。

 でも、本番の影はもうすぐそこまで来ている。

 カナタはそれを感じていた。

 怖い。

 弱気にもなる。

 でも、全部を一人で見る必要はない。

 赤布を振る人がいる。

 白線を張る人がいる。

 黒札を置く人がいる。

 音を消す人がいる。

 水を数える人がいる。

 声を出す人がいる。

 それぞれが、帰る道具になる。

 夕方、装備点検が終わった。

 格納庫はまだ暑い。

 でも、風が少しだけ入った。

 帰ってきたもの置き場の横に、新しい棚が作られた。

 ミナが余った板で作ったものだ。

 少し斜めだった。

「味がある」

 リゼが言った。

「歪みです」

 マコトが言った。

「味のある歪み」

「言い換えただけです」

 棚には、試作赤灯の壊れた外殻が置かれた。

 点滅しすぎて熱を持ち、試験中に死んだものだった。

 ユウトが言った。

「俺警告、過労死」

「だから五回以上点滅させない」

 ヒナセが真顔で言う。

「はい」

 カナタは棚を見た。

 帰ってきたもの。

 帰る道具。

 その境目は少し曖昧だった。

 でも、どちらも必要だった。

 食堂の豆スープは二粒だった。

 市民。

 湯気はほとんど見えない。

 でも、温かい。

 カナタは椀を持ち、窓の外を見た。

 真夏の夕方。

 空が重い。

 遠くで前線の砲声が一度だけ鳴った。

 誰も大きく反応しなかった。

 ただ、少しだけ耳がそちらを向いた。

 夏季広域後退計画。

 その言葉が、食堂の湯気の少ない空気に残っている。

 カナタは手袋を外した。

 今日は乾いていた。

 珍しい。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 すでに、少し温かかった。

「夏ですね」

 リゼが言った。

「はい」

「道具、増えたね」

「はい」

「人も」

「はい」

「なら、少しは大丈夫」

 大丈夫。

 便利で、怖い言葉。

 でも今日は、その言葉を完全には否定しなかった。

 少しだけなら。

 道具がある。

 手順がある。

 人がいる。

 そして、帰る場所は作れる。

 そのくらいの大丈夫なら、信じてもいい気がした。

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