帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十七話 キャンプ

 真夏は、勝手に来る。

 誰も許可していない。

 まだ初夏のつもりでいた。

 朝の風は少し湿っているだけで、昼の屋根は少し熱いだけで、食堂の湯気が弱くなっただけで、手袋が乾きやすくなっただけで、まだ夏ではないと思っていた。

 だが、ある朝、ハウンド七の格納庫の屋根が朝から触れないほど熱くなり、食堂の窓を開けても風がぬるく、豆スープの湯気が立つ前に消え、ユウトが「暑いですね」と言った瞬間、夏はもうそこにいた。

 いつの間にかではない。

 勝手に。

 かなり図々しく。

「暑いですね」

 ユウトが言った。

「はい」

 カナタは答えた。

「会話、終わりましたね」

「暑いと頭が動かないので」

「冬にも似たこと言ってませんでした?」

「寒いと頭が動きません」

「春は?」

「花粉で」

「秋は?」

「たぶん何かあります」

「一年中だめじゃないですか」

 食堂の中は、朝から少し溶けていた。

 もちろん、実際に人が溶けているわけではない。そんなことになったらセナが怒る。いや、怒る前に医療棟が騒ぎになる。けれど、椅子に座る背中の角度がいつもより浅い。椀を持つ手が少し遅い。窓際の風が来る席をめぐって、兵士たちが無言で牽制し合っている。

 ストーブは消えていた。

 冬の間は、あれが赤い腹を見せているだけで少し安心した。

 今はただの邪魔な鉄の箱だ。

 季節が変わると、同じ物の評価がひどく変わる。

 人間は勝手だ。

 でも、夏の方がもっと勝手だった。

「今日の豆、二粒」

 ユウトが椀を覗く。

「市民ですね」

 タクトが答える。

「暑い日の市民、きついですね」

「貴族なら涼しいんですか」

「豆三粒あると、心が少し涼しい」

「心の冷房」

 リゼが隣で笑った。

 今日は赤布を手首ではなく、髪をまとめるのに使っている。

 赤い布が、真夏の朝の光で少し明るく見えた。冬の吹雪の中で見た赤とも、旧学校区の放送室で見た赤とも違う。暑さの中で赤は、妙に元気がよかった。

「今日は野営訓練だって」

 リゼが言う。

「キャンプですね」

 ユウトの目が少しだけ輝いた。

「訓練です」

 カナタは訂正した。

「でも、外で火を使って、飯を食べて、寝るんですよね」

「訓練です」

「それを民間ではキャンプと言います」

「ここは軍です」

「軍事キャンプ」

「急に正式っぽい」

 ミナが格納庫側から顔を出した。

「火起こし、機械でやっていい?」

「よくないと思います」

 カナタが言う。

「なんで」

「野営訓練なので」

「火が起きれば同じじゃん」

「過程も訓練です」

「過程って、だいたい面倒くさいものにつく名前だよね」

 かなり正しかった。

 野営訓練の目的は、夏季撤退に備えた分散宿営と夜間誘導の確認だった。

 そう書くと真面目だ。

 だが実際には、ハウンド七の北側にある旧採掘場跡地へ移動し、簡易天幕を張り、火を起こし、夜間灯火と赤布誘導と見張り交代を行う。つまり、かなりキャンプだった。

 ガレスは言った。

「遊びじゃねぇぞ」

 声はいつも通り低かった。

 しかし、火のつかない煙草の先が少しだけ楽しそうに見えた。

 そう見えただけかもしれない。

 だが、ユウトは見逃さなかった。

「副長、ちょっと楽しみですか」

「お前の見張り時間を倍にするぞ」

「すみませんでした」

「早い」

 リゼが笑う。

 

 野営地へ向かう道は、真夏の匂いがした。

 草が強い。

 湿った土が強い。

 雪の気配は完全に消えていた。

 防雪柵は乾いた骨みたいに立っている。道端には小さな虫が飛んでいる。遠くの水路は、春よりずっと細くなっていたが、そのぶん生ぬるい匂いを出していた。

 荷物は多かった。

 天幕。

 杭。

 白線布。

 赤布。

 携行食。

 水。

 医療袋。

 拡声器。

 灯火器。

 乾パン。

 また乾パン。

「乾パン多くないですか」

 マコトが言った。

「前回の反省です」

 ユウトが答える。

「何の反省ですか」

「遠足にはおやつが足りなかった」

「訓練です」

 カナタとマコトの声が重なった。

 タクトは腰の缶を押さえながら、荷物の音を確認していた。

 缶は鳴らない。

 荷物も、布で巻かれているものは鳴らない。

「音、かなり減りましたね」

 ヒナセが言う。

「タクトさんの功績です」

「缶から始まった技術体系」

 リゼが言った。

「名前つける?」

「やめてください」

 タクトは困った顔をした。

「缶式静音術」

 ユウトが言う。

「だめです」

「じゃあオレンジ流」

「もっとだめです」

「炭酸派?」

「派閥にしないでください」

 旧採掘場跡地は、思ったより広かった。

 平たい岩盤。

 低い草。

 壊れたレール。

 錆びた滑車。

 使われなくなった小屋。

 遠くには、採掘口だった黒い穴が口を開けている。中は封鎖されていた。鉄格子と警告板。そこだけ、真夏の光が届かない。

 カナタは無意識に出口を見た。

 北側の道。

 南側の斜面。

 小屋の裏。

 採掘口。

 水場。

 集まるなら中央。

 逃がすなら南側。

 詰まるなら小屋の前。

 まだ何も始まっていないのに、頭の中で線が引かれる。

「また見てる」

 リゼが言った。

「はい」

「今日はキャンプだよ」

「訓練です」

「でもキャンプ」

「……はい」

「全部は見なくていいけど、見えるなら少しだけ置いといて」

 リゼは赤布を取り出した。

「今日の戻る場所、ここね」

 彼女は中央の杭に赤布を結んだ。

 風で揺れる。

 真夏の草の中で、その赤はよく見えた。

「帰る場所って」

 リゼが言う。

「作るものかもね」

 軽く言った。

 でも、カナタの中には残った。

 帰る場所は、最初からあるものだと思っていた。

 基地。

 食堂。

 車列。

 ハウンド七。

 だが、今日のこの草地には何もなかった。

 赤布を結ぶまでは。

 

 天幕設営は、ひどかった。

 主にユウトのせいだった。

「この棒、どこの棒ですか」

「支柱です」

 マコトが答える。

「支えてないです」

「立てる前なので」

「なるほど。将来性の棒」

「真面目にしてください」

 タクトが布を引っ張る。

 ユウトが支柱を立てる。

 マコトが手順書を読む。

 リゼが横から口を出す。

 結果、天幕は一度、かなり芸術的な傾き方をした。

「これは」

 ヒナセが見上げる。

「風に弱そうですね」

「風どころか視線に弱そう」

 リゼが言う。

「見ないでください」

 ユウトが支柱を押さえながら言った。

「見ないと直せません」

 ハルクが無言で支柱を持ち上げた。

 天幕がまっすぐになる。

 全員が黙った。

「壁、強い」

 リゼが言った。

「支柱だ」

 ハルクが答える。

「自分で言った」

 ユウトが感動した顔をする。

「壁から支柱へ進化しましたね」

「うるさい」

 火起こしは、もっとひどかった。

 ミナが最初から工具箱を開けたからだ。

「それは何ですか」

 カナタが訊く。

「小型点火器」

「禁止です」

「なぜ」

「火起こし訓練なので」

「火を起こす器具だよ?」

「たぶん想定より強いです」

「便利だよ」

「便利すぎます」

 ミナは不満そうに点火器をしまった。

 代わりに火打ち具を渡される。

 彼女はそれを見て、真顔で言った。

「文明が負けてる」

「今日は負けてください」

 結局、火はセナがつけた。

 誰よりも手際がよかった。

 ユウトが言う。

「セナさん、火起こし選手権も勝てそうですね」

「出ない」

「包帯畳み選手権に続いて」

「出ない」

「二冠の可能性が」

「出ない」

 火が起きると、野営地は一気にキャンプになった。

 訓練なのに。

 火の匂いがすると、人間は不思議と少し原始に戻る。

 鍋を置く。

 水を入れる。

 携行食を崩す。

 乾パンを砕く。

 誰かが意味もなく火を見つめる。

 誰かが火に近づきすぎて暑がる。

 ミナが鍋を見て言った。

「これ、車の部品煮てるみたい」

「食欲をなくす例えやめてください」

 ユウトが言う。

「部品は煮ない」

「安心しました」

「油抜きなら別」

「安心を返してください」

 夕方になると、空の色が変わった。

 真夏の夕方は、春より少し厚い。

 光が草に貼りついて、なかなか離れない。採掘場跡の錆びたレールが赤く光り、遠くの警戒灯が点く前に、空だけが先に燃えたような色になる。

 リゼは赤布のそばに座っていた。

 手には椀。

 中身は、携行食を煮たもの。

 豆はない。

 代わりに乾パンのかけらが浮いている。

「制度が壊れた」

 ユウトが椀を見て言った。

「乾パン階級?」

 タクトが提案する。

「浮いてる数で?」

「砕けているので数えにくいです」

「階級制度、流動化」

「社会不安ですね」

 マコトが真面目に頷いた。

「記録します」

「しないでください」

 笑いが起きた。

 火の前の笑いは、食堂の笑いと少し違う。

 天井がないからだろうか。

 広がっていく。

 でも、夜が近づくと、その広がりの端が少し不安になる。

 空が暗くなる。

 採掘口の黒が深くなる。

 虫の声が増える。

 遠くで、前線の砲声が低く鳴った。

 誰もすぐには喋らなかった。

 火がぱち、と鳴る。

 訓練だった。

 キャンプだった。

 でも、戦争は遠くでちゃんと鳴っている。

「怖い?」

 リゼが言った。

 誰にでもなく。

 たぶん、全員に。

 ユウトが少し考えて答える。

「少し」

 タクトも言う。

「少し」

 ヒナセが通信機を抱えたまま頷く。

「通信が届くうちは、少しだけ」

 ハルクは火を見ていた。

「怖い時は、場所を決める」

 短く言った。

「場所?」

 リゼが訊く。

「戻る場所。立つ場所。下がる場所」

 ハルクは中央の赤布を見る。

「決めれば、動ける」

 リゼは少し笑った。

「支柱っぽい」

「支柱ではない」

「さっき自分で言った」

「撤回する」

 火のそばで、また笑いが起きた。

 その時、ヒナセの通信機が小さく鳴った。

 警報ではない。

 でも、全員の顔が上がる。

 反射だった。

 ヒナセが耳を澄ませる。

「前線第三方面、夜間砲撃。異常拡大なし」

 カナタは息を吐いた。

 異常拡大なし。

 それは、異常があるという意味でもある。

 でも、広がってはいない。

 今夜、この火の周りまでは来ない。

 たぶん。

 たぶんで十分な夜もある。

 

 夜間誘導訓練は、その後に行われた。

 灯火を絞る。

 赤布に小さな反射板をつける。

 白線布は暗いと見えにくい。

 代わりに、足元の短い杭と手信号を使う。

 タクトの静音術が役に立った。

 荷物が鳴らない。

 缶も鳴らない。

 ユウトだけが少し鳴る。

「俺、鳴ってます?」

「心が」

 リゼが言う。

「心音?」

「焦りの音」

「消せますか」

「布では無理」

「精神にも防音材が必要ですね」

 くだらない会話をしながら、暗い草地を歩く。

 赤布へ戻る。

 火へ戻る。

 天幕へ戻る。

 何度も繰り返す。

 帰る場所は、作れる。

 火。

 赤布。

 声。

 人。

 その四つがあれば、知らない場所でも少しだけ帰る場所になる。

 カナタは、それを体で覚えていった。

 深夜、見張りの交代で目が覚めた。

 天幕の中は暑かった。

 布の匂い。

 汗の匂い。

 乾いた草の匂い。

 外へ出ると、火は小さくなっていた。

 リゼが起きていた。

 赤布のそばに座っている。

「寝てないんですか」

 カナタが訊く。

「寝てた」

「起きてます」

「今は」

「屁理屈」

「帰還誘導兵の影響」

 リゼは小さく笑った。

 火の光で、赤布が暗い赤に見える。

 旧学校区の放送室で見た赤とは違う。

 真夏の夜の赤。

 少し眠そうで、でも消えない色。

「ここ、帰る場所になったね」

 リゼが言った。

「はい」

「昨日まで、ただの採掘場だったのに」

「赤布と火がありますから」

「人もいる」

「はい」

「じゃあ、大丈夫」

「何が」

 リゼは夜の向こうを見た。

 前線の方向。

「夏に、知らない場所へ行っても」

 カナタは何も言えなかった。

 真夏の虫の声が続いている。

 遠くで砲声が鳴る。

 火が小さく崩れる。

 帰る場所は、作れる。

 それは希望だった。

 でも、作らなければならないほど、帰れない場所が増えるということでもあった。

 カナタは手袋を見た。

 今日は少し乾いている。

 火のそばだからだ。

 息を吹きかける必要はなかった。

 それでも、癖で少しだけ息をかける。

 温かくはならない。

 もともと温かかった。

「悪化してない」

 小さく呟く。

 リゼが笑った。

「夏の勝利?」

「手袋の話です」

「文化だね」

「責任を文化にしないでください」

 

 朝になると、野営地は少しだけ汚れていた。

 灰。

 足跡。

 倒れかけた杭。

 半分残った乾パン。

 誰かの寝癖。

 帰る場所を作ると、片付けが必要になる。

 それもまた、帰ることの一部だった。

 ハウンド七へ戻る前、リゼは中央の赤布をほどいた。

 そこには、布が結ばれていた跡だけが残る。

 杭の傷。

 草の倒れた輪。

 火の灰。

「持って帰る?」

 ユウトが訊いた。

「布は」

 リゼは答えた。

「場所は置いていく」

「場所を?」

「うん。また来た時、ここが帰る場所だったって分かるように」

 カナタはその草の輪を見た。

 何もない。

 でも、何かがあった跡。

 世界は、きれいに消えることが下手だ。

 だから、人はそこへ戻れるのかもしれない。

 ハウンド七へ戻ると、食堂の窓が全開だった。

 湯気はほとんど見えない。

 豆は二粒。

 市民。

 ユウトは椀を覗いて言った。

「キャンプ後の市民、沁みますね」

「温かいなら勝ち」

 リゼが答える。

 カナタは椀を持った。

 薄い。

 でも、ちゃんと味がした。

 遠くで前線の砲声が鳴った。

 食堂の誰かが一瞬だけ顔を上げる。

 でも、すぐ椀へ戻った。

 帰る場所は、ここにもある。

 そして、作ることもできる。

 夏はもう来ていた。

 その夏の中で、帰還誘導兵は火の起こし方と、赤布の結び方と、くだらない乾パン制度を覚えた。

 たぶん、全部必要になる。

 嫌になるくらい。

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