帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
真夏は、勝手に来る。
誰も許可していない。
まだ初夏のつもりでいた。
朝の風は少し湿っているだけで、昼の屋根は少し熱いだけで、食堂の湯気が弱くなっただけで、手袋が乾きやすくなっただけで、まだ夏ではないと思っていた。
だが、ある朝、ハウンド七の格納庫の屋根が朝から触れないほど熱くなり、食堂の窓を開けても風がぬるく、豆スープの湯気が立つ前に消え、ユウトが「暑いですね」と言った瞬間、夏はもうそこにいた。
いつの間にかではない。
勝手に。
かなり図々しく。
「暑いですね」
ユウトが言った。
「はい」
カナタは答えた。
「会話、終わりましたね」
「暑いと頭が動かないので」
「冬にも似たこと言ってませんでした?」
「寒いと頭が動きません」
「春は?」
「花粉で」
「秋は?」
「たぶん何かあります」
「一年中だめじゃないですか」
食堂の中は、朝から少し溶けていた。
もちろん、実際に人が溶けているわけではない。そんなことになったらセナが怒る。いや、怒る前に医療棟が騒ぎになる。けれど、椅子に座る背中の角度がいつもより浅い。椀を持つ手が少し遅い。窓際の風が来る席をめぐって、兵士たちが無言で牽制し合っている。
ストーブは消えていた。
冬の間は、あれが赤い腹を見せているだけで少し安心した。
今はただの邪魔な鉄の箱だ。
季節が変わると、同じ物の評価がひどく変わる。
人間は勝手だ。
でも、夏の方がもっと勝手だった。
「今日の豆、二粒」
ユウトが椀を覗く。
「市民ですね」
タクトが答える。
「暑い日の市民、きついですね」
「貴族なら涼しいんですか」
「豆三粒あると、心が少し涼しい」
「心の冷房」
リゼが隣で笑った。
今日は赤布を手首ではなく、髪をまとめるのに使っている。
赤い布が、真夏の朝の光で少し明るく見えた。冬の吹雪の中で見た赤とも、旧学校区の放送室で見た赤とも違う。暑さの中で赤は、妙に元気がよかった。
「今日は野営訓練だって」
リゼが言う。
「キャンプですね」
ユウトの目が少しだけ輝いた。
「訓練です」
カナタは訂正した。
「でも、外で火を使って、飯を食べて、寝るんですよね」
「訓練です」
「それを民間ではキャンプと言います」
「ここは軍です」
「軍事キャンプ」
「急に正式っぽい」
ミナが格納庫側から顔を出した。
「火起こし、機械でやっていい?」
「よくないと思います」
カナタが言う。
「なんで」
「野営訓練なので」
「火が起きれば同じじゃん」
「過程も訓練です」
「過程って、だいたい面倒くさいものにつく名前だよね」
かなり正しかった。
野営訓練の目的は、夏季撤退に備えた分散宿営と夜間誘導の確認だった。
そう書くと真面目だ。
だが実際には、ハウンド七の北側にある旧採掘場跡地へ移動し、簡易天幕を張り、火を起こし、夜間灯火と赤布誘導と見張り交代を行う。つまり、かなりキャンプだった。
ガレスは言った。
「遊びじゃねぇぞ」
声はいつも通り低かった。
しかし、火のつかない煙草の先が少しだけ楽しそうに見えた。
そう見えただけかもしれない。
だが、ユウトは見逃さなかった。
「副長、ちょっと楽しみですか」
「お前の見張り時間を倍にするぞ」
「すみませんでした」
「早い」
リゼが笑う。
野営地へ向かう道は、真夏の匂いがした。
草が強い。
湿った土が強い。
雪の気配は完全に消えていた。
防雪柵は乾いた骨みたいに立っている。道端には小さな虫が飛んでいる。遠くの水路は、春よりずっと細くなっていたが、そのぶん生ぬるい匂いを出していた。
荷物は多かった。
天幕。
杭。
白線布。
赤布。
携行食。
水。
医療袋。
拡声器。
灯火器。
乾パン。
また乾パン。
「乾パン多くないですか」
マコトが言った。
「前回の反省です」
ユウトが答える。
「何の反省ですか」
「遠足にはおやつが足りなかった」
「訓練です」
カナタとマコトの声が重なった。
タクトは腰の缶を押さえながら、荷物の音を確認していた。
缶は鳴らない。
荷物も、布で巻かれているものは鳴らない。
「音、かなり減りましたね」
ヒナセが言う。
「タクトさんの功績です」
「缶から始まった技術体系」
リゼが言った。
「名前つける?」
「やめてください」
タクトは困った顔をした。
「缶式静音術」
ユウトが言う。
「だめです」
「じゃあオレンジ流」
「もっとだめです」
「炭酸派?」
「派閥にしないでください」
旧採掘場跡地は、思ったより広かった。
平たい岩盤。
低い草。
壊れたレール。
錆びた滑車。
使われなくなった小屋。
遠くには、採掘口だった黒い穴が口を開けている。中は封鎖されていた。鉄格子と警告板。そこだけ、真夏の光が届かない。
カナタは無意識に出口を見た。
北側の道。
南側の斜面。
小屋の裏。
採掘口。
水場。
集まるなら中央。
逃がすなら南側。
詰まるなら小屋の前。
まだ何も始まっていないのに、頭の中で線が引かれる。
「また見てる」
リゼが言った。
「はい」
「今日はキャンプだよ」
「訓練です」
「でもキャンプ」
「……はい」
「全部は見なくていいけど、見えるなら少しだけ置いといて」
リゼは赤布を取り出した。
「今日の戻る場所、ここね」
彼女は中央の杭に赤布を結んだ。
風で揺れる。
真夏の草の中で、その赤はよく見えた。
「帰る場所って」
リゼが言う。
「作るものかもね」
軽く言った。
でも、カナタの中には残った。
帰る場所は、最初からあるものだと思っていた。
基地。
食堂。
車列。
ハウンド七。
だが、今日のこの草地には何もなかった。
赤布を結ぶまでは。
天幕設営は、ひどかった。
主にユウトのせいだった。
「この棒、どこの棒ですか」
「支柱です」
マコトが答える。
「支えてないです」
「立てる前なので」
「なるほど。将来性の棒」
「真面目にしてください」
タクトが布を引っ張る。
ユウトが支柱を立てる。
マコトが手順書を読む。
リゼが横から口を出す。
結果、天幕は一度、かなり芸術的な傾き方をした。
「これは」
ヒナセが見上げる。
「風に弱そうですね」
「風どころか視線に弱そう」
リゼが言う。
「見ないでください」
ユウトが支柱を押さえながら言った。
「見ないと直せません」
ハルクが無言で支柱を持ち上げた。
天幕がまっすぐになる。
全員が黙った。
「壁、強い」
リゼが言った。
「支柱だ」
ハルクが答える。
「自分で言った」
ユウトが感動した顔をする。
「壁から支柱へ進化しましたね」
「うるさい」
火起こしは、もっとひどかった。
ミナが最初から工具箱を開けたからだ。
「それは何ですか」
カナタが訊く。
「小型点火器」
「禁止です」
「なぜ」
「火起こし訓練なので」
「火を起こす器具だよ?」
「たぶん想定より強いです」
「便利だよ」
「便利すぎます」
ミナは不満そうに点火器をしまった。
代わりに火打ち具を渡される。
彼女はそれを見て、真顔で言った。
「文明が負けてる」
「今日は負けてください」
結局、火はセナがつけた。
誰よりも手際がよかった。
ユウトが言う。
「セナさん、火起こし選手権も勝てそうですね」
「出ない」
「包帯畳み選手権に続いて」
「出ない」
「二冠の可能性が」
「出ない」
火が起きると、野営地は一気にキャンプになった。
訓練なのに。
火の匂いがすると、人間は不思議と少し原始に戻る。
鍋を置く。
水を入れる。
携行食を崩す。
乾パンを砕く。
誰かが意味もなく火を見つめる。
誰かが火に近づきすぎて暑がる。
ミナが鍋を見て言った。
「これ、車の部品煮てるみたい」
「食欲をなくす例えやめてください」
ユウトが言う。
「部品は煮ない」
「安心しました」
「油抜きなら別」
「安心を返してください」
夕方になると、空の色が変わった。
真夏の夕方は、春より少し厚い。
光が草に貼りついて、なかなか離れない。採掘場跡の錆びたレールが赤く光り、遠くの警戒灯が点く前に、空だけが先に燃えたような色になる。
リゼは赤布のそばに座っていた。
手には椀。
中身は、携行食を煮たもの。
豆はない。
代わりに乾パンのかけらが浮いている。
「制度が壊れた」
ユウトが椀を見て言った。
「乾パン階級?」
タクトが提案する。
「浮いてる数で?」
「砕けているので数えにくいです」
「階級制度、流動化」
「社会不安ですね」
マコトが真面目に頷いた。
「記録します」
「しないでください」
笑いが起きた。
火の前の笑いは、食堂の笑いと少し違う。
天井がないからだろうか。
広がっていく。
でも、夜が近づくと、その広がりの端が少し不安になる。
空が暗くなる。
採掘口の黒が深くなる。
虫の声が増える。
遠くで、前線の砲声が低く鳴った。
誰もすぐには喋らなかった。
火がぱち、と鳴る。
訓練だった。
キャンプだった。
でも、戦争は遠くでちゃんと鳴っている。
「怖い?」
リゼが言った。
誰にでもなく。
たぶん、全員に。
ユウトが少し考えて答える。
「少し」
タクトも言う。
「少し」
ヒナセが通信機を抱えたまま頷く。
「通信が届くうちは、少しだけ」
ハルクは火を見ていた。
「怖い時は、場所を決める」
短く言った。
「場所?」
リゼが訊く。
「戻る場所。立つ場所。下がる場所」
ハルクは中央の赤布を見る。
「決めれば、動ける」
リゼは少し笑った。
「支柱っぽい」
「支柱ではない」
「さっき自分で言った」
「撤回する」
火のそばで、また笑いが起きた。
その時、ヒナセの通信機が小さく鳴った。
警報ではない。
でも、全員の顔が上がる。
反射だった。
ヒナセが耳を澄ませる。
「前線第三方面、夜間砲撃。異常拡大なし」
カナタは息を吐いた。
異常拡大なし。
それは、異常があるという意味でもある。
でも、広がってはいない。
今夜、この火の周りまでは来ない。
たぶん。
たぶんで十分な夜もある。
夜間誘導訓練は、その後に行われた。
灯火を絞る。
赤布に小さな反射板をつける。
白線布は暗いと見えにくい。
代わりに、足元の短い杭と手信号を使う。
タクトの静音術が役に立った。
荷物が鳴らない。
缶も鳴らない。
ユウトだけが少し鳴る。
「俺、鳴ってます?」
「心が」
リゼが言う。
「心音?」
「焦りの音」
「消せますか」
「布では無理」
「精神にも防音材が必要ですね」
くだらない会話をしながら、暗い草地を歩く。
赤布へ戻る。
火へ戻る。
天幕へ戻る。
何度も繰り返す。
帰る場所は、作れる。
火。
赤布。
声。
人。
その四つがあれば、知らない場所でも少しだけ帰る場所になる。
カナタは、それを体で覚えていった。
深夜、見張りの交代で目が覚めた。
天幕の中は暑かった。
布の匂い。
汗の匂い。
乾いた草の匂い。
外へ出ると、火は小さくなっていた。
リゼが起きていた。
赤布のそばに座っている。
「寝てないんですか」
カナタが訊く。
「寝てた」
「起きてます」
「今は」
「屁理屈」
「帰還誘導兵の影響」
リゼは小さく笑った。
火の光で、赤布が暗い赤に見える。
旧学校区の放送室で見た赤とは違う。
真夏の夜の赤。
少し眠そうで、でも消えない色。
「ここ、帰る場所になったね」
リゼが言った。
「はい」
「昨日まで、ただの採掘場だったのに」
「赤布と火がありますから」
「人もいる」
「はい」
「じゃあ、大丈夫」
「何が」
リゼは夜の向こうを見た。
前線の方向。
「夏に、知らない場所へ行っても」
カナタは何も言えなかった。
真夏の虫の声が続いている。
遠くで砲声が鳴る。
火が小さく崩れる。
帰る場所は、作れる。
それは希望だった。
でも、作らなければならないほど、帰れない場所が増えるということでもあった。
カナタは手袋を見た。
今日は少し乾いている。
火のそばだからだ。
息を吹きかける必要はなかった。
それでも、癖で少しだけ息をかける。
温かくはならない。
もともと温かかった。
「悪化してない」
小さく呟く。
リゼが笑った。
「夏の勝利?」
「手袋の話です」
「文化だね」
「責任を文化にしないでください」
朝になると、野営地は少しだけ汚れていた。
灰。
足跡。
倒れかけた杭。
半分残った乾パン。
誰かの寝癖。
帰る場所を作ると、片付けが必要になる。
それもまた、帰ることの一部だった。
ハウンド七へ戻る前、リゼは中央の赤布をほどいた。
そこには、布が結ばれていた跡だけが残る。
杭の傷。
草の倒れた輪。
火の灰。
「持って帰る?」
ユウトが訊いた。
「布は」
リゼは答えた。
「場所は置いていく」
「場所を?」
「うん。また来た時、ここが帰る場所だったって分かるように」
カナタはその草の輪を見た。
何もない。
でも、何かがあった跡。
世界は、きれいに消えることが下手だ。
だから、人はそこへ戻れるのかもしれない。
ハウンド七へ戻ると、食堂の窓が全開だった。
湯気はほとんど見えない。
豆は二粒。
市民。
ユウトは椀を覗いて言った。
「キャンプ後の市民、沁みますね」
「温かいなら勝ち」
リゼが答える。
カナタは椀を持った。
薄い。
でも、ちゃんと味がした。
遠くで前線の砲声が鳴った。
食堂の誰かが一瞬だけ顔を上げる。
でも、すぐ椀へ戻った。
帰る場所は、ここにもある。
そして、作ることもできる。
夏はもう来ていた。
その夏の中で、帰還誘導兵は火の起こし方と、赤布の結び方と、くだらない乾パン制度を覚えた。
たぶん、全部必要になる。
嫌になるくらい。