帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
暑い日は、音が遅れる。
そう感じた。
実際には、音の速さが変わるわけではない。たぶん。士官学校の物理でそんな話を聞いた気もするが、今のカナタにはどうでもよかった。
ただ、ハウンド七の真夏の朝には、何もかもが少し遅れて届く。
食堂の椀が机に置かれる音。
格納庫でミナが三号車に怒る声。
ユウトが豆を数える声。
外の水場で誰かがバケツを倒す音。
全部が、暑さの中を泳いでくる。
空気が重い。
湿っている。
窓は全開なのに、風は入ってこない。開いた窓の向こうでは、洗濯物が干されている。冬には凍って板になった靴下が、今日はだらりと垂れている。乾くのは早い。でも、乾き方が少し信用できない。乾いているのに、どこか汗をかいているみたいだった。
夏は、布にも人間にも厳しい。
「暑い」
ユウトが言った。
「はい」
カナタは答えた。
「会話、終わりましたね」
「暑いので」
「これ、冬にも言いましたよね」
「冬は寒いので」
「春は?」
「花粉で」
「秋に期待します」
「秋もたぶん、何かあります」
「一年が敵」
タクトが椀を持ってやってきた。
腰のオレンジソーダ缶には、薄い布が巻かれている。真夏仕様らしい。布の色は少し明るい。音は鳴らない。
「今日の豆、二粒でした」
「市民」
ユウトが言う。
「もう市民が安定ですね」
「安定した市民社会」
「スープは不安定です」
「薄いからね」
リゼが隣の席に座った。
赤布で髪をまとめている。
手首には別の赤布。
赤が二つ。
真夏の光の中で、少し派手だった。
「赤、暑くないですか」
カナタが訊く。
「気分は暑い」
「なら外せば」
「でも、見える」
リゼは手首の赤布を軽く振った。
「暑くても、見える方がいい」
その言い方は軽かった。
けれど、カナタは少しだけ旧学校区を思い出した。
吹雪ではなく、煙ではなく、真夏の食堂で。
赤い布。
帰ってこい。
帰ろう。
リゼはもう、待つために赤を持っているのではない。
呼ぶために持っている。
そのことが、暑さの中でやけにはっきり見えた。
「今日は大きな任務なし」
ガレスが食堂の入口で言った。
火のつかない煙草を咥えている。
真夏なのに、なぜかその姿だけ季節から外れていた。
「装備乾燥、車両点検、給水路確認。午後は休養扱いだ」
「休養扱い」
ユウトが繰り返す。
「休養ではなく?」
「扱いだ」
「嫌な予感しかしない」
リゼが言う。
「扱いってつくと、だいたい働くよね」
「自主的にな」
ガレスは短く言った。
「自主的強制」
「日本語が壊れてる」
マコトが真面目に呟いた。
「記録しますか」
「しなくていい」
セナが即答した。
午前中、ハウンド七は乾燥場になった。
白線布を広げる。
赤布を干す。
黒札を拭く。
確認棒についた泥を落とす。
静音布を洗って干す。
医療袋の布包みを替える。
灯火器の金具を拭く。
帰還誘導兵の道具は、戦う武器よりずっと布が多い。
布は汗を吸う。
泥を吸う。
血を吸う。
油を吸う。
そして、夏になると、匂いも吸う。
「これ、洗っても前線の匂いがします」
タクトが静音布を鼻から少し離して言った。
「嗅がない方がいい」
セナが言う。
「でも確認しないと」
「確認項目に匂いはない」
「あります」
ミナが横から言った。
「車は匂いで分かる」
「人間は?」
「だいたい疲れの匂いがする」
ユウトが自分の袖を嗅いだ。
「俺、何の匂いします?」
「暑苦しい」
リゼが即答する。
「匂いですか、それ」
「概念」
「概念臭」
少し笑いが起きた。
暑い日の笑いは、長く続かない。
すぐ汗になる。
それでも、ないよりはいい。
カナタは白線布を広げながら、指先で布の傷を確認した。
細かい裂け目。
煤の跡。
泥の染み。
真夏の日差しの下で見ると、それらは冬や春の戦場よりも生々しく見えた。
白いはずの布に、いろいろな場所が染みている。
ハウンド七。
旧学校区。
前線第三方面。
橋。
野営地。
布は、地図より正確ではない。
でも、地図より覚えているものがある。
「カナタさん」
リゼが隣へ来た。
手には短いチョーク。
旧学校区から持ってきたものだった。
「それ、持ち歩いてるんですか」
「たまに」
「溶けませんか」
「チョークは溶けない」
「汗で」
「それは嫌」
リゼはチョークを見て、少し笑った。
前なら、そこに痛みがあった。
今も、ないわけではない。
でも、痛みだけではなかった。
「学校、暑かったなって思い出した」
「夏の学校ですか」
「うん。教室、窓開けても暑くて。黒板の下で先生がプリント配って、紙が腕に貼りつくの」
「嫌ですね」
「嫌だった。でも今思うと、かなり平和」
リゼは乾いていく赤布を見た。
「戻りたい?」
カナタは訊いてから、少し踏み込みすぎたと思った。
だが、リゼは怒らなかった。
少し考えて、首を横に振った。
「戻りたいとは、ちょっと違う」
「違う」
「戻れないのは分かってる。放送室で帰ったから」
彼女はそう言った。
帰った。
あの場所へ戻ったのではなく、あの場所から帰った。
それは、たぶん大きく違う。
「でも、なくしたくはない」
リゼはチョークをポケットにしまった。
「だから、持ってる」
カナタは頷いた。
持って帰るもの。
置いていくもの。
その間に、人は立っている。
真夏の太陽の下でも、その境目はまだ少し冷たかった。
昼になると、食堂はさらに暑くなった。
厨房の火が加わるからだ。
豆スープは温かい。
暑いのに温かい。
これは理不尽だった。
「冷たいスープってないんですか」
ユウトが言った。
「贅沢」
セナが言う。
「せめて常温」
「常温も贅沢」
「温度に階級が」
タクトが言う。
「冷たいが貴族、常温が市民、熱いが労働者?」
「熱い方が労働者なんですか」
マコトが訊く。
「汗をかくので」
「なるほど」
「納得しないでください」
ミナは食堂の入口で水筒を振っていた。
空だった。
「給水路、見に行く人」
誰も手を上げなかった。
全員、目を逸らした。
ミナが細い目をする。
「自主的強制」
ガレスの言葉が、さっそく使われた。
結局、カナタ、ユウト、タクト、リゼ、ミナで給水路へ向かった。
ハウンド七の給水路は、採掘基地時代の古い水管を使っている。
山側の貯水槽から引かれ、途中で二回折れ、地下を通り、拠点の水場へ出る。冬には凍結し、春には泥が詰まり、夏には藻と虫と熱で機嫌が悪くなる。
かなり人間くさい設備だった。
「水管も泣きます?」
ユウトが訊く。
ミナが即答する。
「詰まる」
「泣くより嫌ですね」
「泣く前に詰まる」
「橋と同じ系統」
給水路沿いの小道は、草が伸びていた。
真夏の草は強い。
踏んでもすぐ戻る。
靴にまとわりつく。
虫が飛ぶ。
水の匂いがぬるい。
ユウトが腕を振る。
「虫、多くないですか」
「夏なので」
カナタは答える。
「レイスより嫌かもしれない」
「それは言いすぎです」
「レイスは少なくとも豆スープには入らない」
「虫も入れないでください」
タクトが水管の継ぎ目に静音布を巻いていた。
振動で金具が鳴るのを抑えるためだ。
前なら、そんなことは誰も気にしなかった。
今は気にする。
音は、列を崩す。
音は、敵を呼ぶ。
音は、人を焦らせる。
だから、缶から始まった技術が、水管にも使われる。
「オレンジ流、拡大してますね」
ユウトが言う。
「正式名称にしないでください」
タクトが困る。
「水管まで静かになった」
リゼが言った。
「世界がタクト化してる」
「嫌な世界みたいに言わないでください」
水管の第三継ぎ目で、詰まりが見つかった。
泥と藻。
それから、小さな石。
水量が落ちている理由はそれだった。
ミナが工具を出す。
「暑い時に水が減るの、性格悪いよね」
「水の性格ですか」
「設備の」
「設備も性格」
「あるよ」
カナタは水管から水場への流れを考えた。
食堂。
医療棟。
洗濯。
車両冷却。
給水。
水も列だ。
目に見えない列。
止まれば、全員が少しずつ遅くなる。
暑い日の苛立ちも、水が減ると増える。
人は喉が渇くと、優しくなくなる。
それは戦術の話ではなく、人間の話だった。
「カナタさん」
リゼが訊く。
「また見えてる?」
「はい」
「何が」
「水が止まると、食堂が先に怒ります」
「食堂が?」
「次に医療棟。それから格納庫。最後に全員」
「全員は広いね」
「はい」
「じゃあ、ここも帰る道?」
カナタは水管を見た。
泥だらけの金属。
ぬるい水。
藻。
虫。
「たぶん」
「水が帰る道」
「変な言い方です」
「でも、そうでしょ」
リゼは赤布を枝に結んだ。
作業場所の目印。
「水も、帰ってこい」
ミナが詰まりを抜いた。
水が一瞬、強く流れた。
泥が押し出される。
ぬるい水が地面にこぼれる。
ユウトが拍手しようとして、やめた。
「拍手する相手が水管なの、ちょっと悔しい」
「拍手してもいいよ」
ミナが言う。
「水管、喜ぶ?」
「たぶん流量で返事する」
「無口なタイプですね」
水量は戻った。
大事件ではない。
レイスも出ない。
銃も撃たない。
ただ、水が流れた。
それだけで、拠点全体が少しだけ助かる。
帰り道、リゼは旧学校区の方角を一度だけ見た。
遠くて、見えない。
でも、彼女は見た。
「行きたいですか」
カナタが訊く。
「今は、いい」
「今は」
「うん。今は、こっち」
リゼはハウンド七の方を見た。
水場。
食堂。
格納庫。
帰ってきたもの置き場。
赤布を干しているロープ。
「こっちで呼ぶ」
その声は、暑い日の空気の中でも、ちゃんと届いた。
夕方、修理された給水路のおかげで、水場には少しだけ余裕ができた。
余裕と言っても、顔を洗う順番が一人分増えた程度だ。
だが、その一人分で、ユウトが大騒ぎした。
「冷たい!」
「ぬるいです」
タクトが言う。
「でも顔には冷たい!」
「基準が壊れてます」
リゼも手を濡らした。
赤布を外し、水で軽く洗う。
赤が水に揺れる。
旧学校区のチョークの粉は、もうついていない。
前線の煤も少し落ちた。
でも、完全には落ちない。
それでいいのだと思った。
全部落ちたら、どこから帰ってきたのか分からなくなる。
食堂の豆スープは二粒だった。
市民。
湯気はほとんど見えない。
けれど、水量が戻ったせいか、少しだけ味がした。
「水の勝利」
ユウトが言う。
「水にも階級制度?」
リゼが訊く。
「冷水が王族、ぬるい水が貴族、熱い水が市民」
「スープは?」
「労働者」
「ひどい」
笑いが起きる。
暑い日の笑い。
短くて、汗になる笑い。
通信塔のスピーカーが鳴った。
全員が一瞬顔を上げる。
反射。
だが警報ではなかった。
アイラの声。
『定時連絡。各避難列、異常なし。前線第三方面、砲撃小規模。補給線維持』
食堂に、ゆるい息が広がった。
異常なし。
補給線維持。
水も流れている。
今日は、それでよかった。
カナタは椀を持ったまま、窓の外を見た。
夕方の空が赤い。
夏の夕方は濃い。
草が黒く見える。
遠くで、三号車のエンジンが咳をした。
ミナが怒鳴る。
「今の音、暑さのせいだからね!根性じゃないから!」
誰に言っているのか分からない。
でも、たぶん三号車には届いている。
カナタは手袋を見た。
今日は乾いている。
乾きすぎて、少し硬い。
息を吹きかける。
温かくはならない。
すでに温かい。
「悪化してないけど、良くもない」
小さく呟く。
リゼが隣で笑った。
「夏っぽい」
「手袋の話です」
「文化だよ」
「責任を文化にしないでください」
戻りたい場所がある。
持ってきたものがある。
でも、今いる場所で呼ぶ声もある。
真夏のハウンド七は暑くて、薄くて、ぬるくて、少しだけ味がした。
今日は、そういう日だった。