帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第四十九話 暑い日

 暑い日は、音が遅れる。

 そう感じた。

 実際には、音の速さが変わるわけではない。たぶん。士官学校の物理でそんな話を聞いた気もするが、今のカナタにはどうでもよかった。

 ただ、ハウンド七の真夏の朝には、何もかもが少し遅れて届く。

 食堂の椀が机に置かれる音。

 格納庫でミナが三号車に怒る声。

 ユウトが豆を数える声。

 外の水場で誰かがバケツを倒す音。

 全部が、暑さの中を泳いでくる。

 空気が重い。

 湿っている。

 窓は全開なのに、風は入ってこない。開いた窓の向こうでは、洗濯物が干されている。冬には凍って板になった靴下が、今日はだらりと垂れている。乾くのは早い。でも、乾き方が少し信用できない。乾いているのに、どこか汗をかいているみたいだった。

 夏は、布にも人間にも厳しい。

「暑い」

 ユウトが言った。

「はい」

 カナタは答えた。

「会話、終わりましたね」

「暑いので」

「これ、冬にも言いましたよね」

「冬は寒いので」

「春は?」

「花粉で」

「秋に期待します」

「秋もたぶん、何かあります」

「一年が敵」

 タクトが椀を持ってやってきた。

 腰のオレンジソーダ缶には、薄い布が巻かれている。真夏仕様らしい。布の色は少し明るい。音は鳴らない。

「今日の豆、二粒でした」

「市民」

 ユウトが言う。

「もう市民が安定ですね」

「安定した市民社会」

「スープは不安定です」

「薄いからね」

 リゼが隣の席に座った。

 赤布で髪をまとめている。

 手首には別の赤布。

 赤が二つ。

 真夏の光の中で、少し派手だった。

「赤、暑くないですか」

 カナタが訊く。

「気分は暑い」

「なら外せば」

「でも、見える」

 リゼは手首の赤布を軽く振った。

「暑くても、見える方がいい」

 その言い方は軽かった。

 けれど、カナタは少しだけ旧学校区を思い出した。

 吹雪ではなく、煙ではなく、真夏の食堂で。

 赤い布。

 帰ってこい。

 帰ろう。

 リゼはもう、待つために赤を持っているのではない。

 呼ぶために持っている。

 そのことが、暑さの中でやけにはっきり見えた。

「今日は大きな任務なし」

 ガレスが食堂の入口で言った。

 火のつかない煙草を咥えている。

 真夏なのに、なぜかその姿だけ季節から外れていた。

「装備乾燥、車両点検、給水路確認。午後は休養扱いだ」

「休養扱い」

 ユウトが繰り返す。

「休養ではなく?」

「扱いだ」

「嫌な予感しかしない」

 リゼが言う。

「扱いってつくと、だいたい働くよね」

「自主的にな」

 ガレスは短く言った。

「自主的強制」

「日本語が壊れてる」

 マコトが真面目に呟いた。

「記録しますか」

「しなくていい」

 セナが即答した。

 午前中、ハウンド七は乾燥場になった。

 白線布を広げる。

 赤布を干す。

 黒札を拭く。

 確認棒についた泥を落とす。

 静音布を洗って干す。

 医療袋の布包みを替える。

 灯火器の金具を拭く。

 帰還誘導兵の道具は、戦う武器よりずっと布が多い。

 布は汗を吸う。

 泥を吸う。

 血を吸う。

 油を吸う。

 そして、夏になると、匂いも吸う。

「これ、洗っても前線の匂いがします」

 タクトが静音布を鼻から少し離して言った。

「嗅がない方がいい」

 セナが言う。

「でも確認しないと」

「確認項目に匂いはない」

「あります」

 ミナが横から言った。

「車は匂いで分かる」

「人間は?」

「だいたい疲れの匂いがする」

 ユウトが自分の袖を嗅いだ。

「俺、何の匂いします?」

「暑苦しい」

 リゼが即答する。

「匂いですか、それ」

「概念」

「概念臭」

 少し笑いが起きた。

 暑い日の笑いは、長く続かない。

 すぐ汗になる。

 それでも、ないよりはいい。

 カナタは白線布を広げながら、指先で布の傷を確認した。

 細かい裂け目。

 煤の跡。

 泥の染み。

 真夏の日差しの下で見ると、それらは冬や春の戦場よりも生々しく見えた。

 白いはずの布に、いろいろな場所が染みている。

 ハウンド七。

 旧学校区。

 前線第三方面。

 橋。

 野営地。

 布は、地図より正確ではない。

 でも、地図より覚えているものがある。

「カナタさん」

 リゼが隣へ来た。

 手には短いチョーク。

 旧学校区から持ってきたものだった。

「それ、持ち歩いてるんですか」

「たまに」

「溶けませんか」

「チョークは溶けない」

「汗で」

「それは嫌」

 リゼはチョークを見て、少し笑った。

 前なら、そこに痛みがあった。

 今も、ないわけではない。

 でも、痛みだけではなかった。

「学校、暑かったなって思い出した」

「夏の学校ですか」

「うん。教室、窓開けても暑くて。黒板の下で先生がプリント配って、紙が腕に貼りつくの」

「嫌ですね」

「嫌だった。でも今思うと、かなり平和」

 リゼは乾いていく赤布を見た。

「戻りたい?」

 カナタは訊いてから、少し踏み込みすぎたと思った。

 だが、リゼは怒らなかった。

 少し考えて、首を横に振った。

「戻りたいとは、ちょっと違う」

「違う」

「戻れないのは分かってる。放送室で帰ったから」

 彼女はそう言った。

 帰った。

 あの場所へ戻ったのではなく、あの場所から帰った。

 それは、たぶん大きく違う。

「でも、なくしたくはない」

 リゼはチョークをポケットにしまった。

「だから、持ってる」

 カナタは頷いた。

 持って帰るもの。

 置いていくもの。

 その間に、人は立っている。

 真夏の太陽の下でも、その境目はまだ少し冷たかった。

 昼になると、食堂はさらに暑くなった。

 厨房の火が加わるからだ。

 豆スープは温かい。

 暑いのに温かい。

 これは理不尽だった。

「冷たいスープってないんですか」

 ユウトが言った。

「贅沢」

 セナが言う。

「せめて常温」

「常温も贅沢」

「温度に階級が」

 タクトが言う。

「冷たいが貴族、常温が市民、熱いが労働者?」

「熱い方が労働者なんですか」

 マコトが訊く。

「汗をかくので」

「なるほど」

「納得しないでください」

 ミナは食堂の入口で水筒を振っていた。

 空だった。

「給水路、見に行く人」

 誰も手を上げなかった。

 全員、目を逸らした。

 ミナが細い目をする。

「自主的強制」

 ガレスの言葉が、さっそく使われた。

 結局、カナタ、ユウト、タクト、リゼ、ミナで給水路へ向かった。

 ハウンド七の給水路は、採掘基地時代の古い水管を使っている。

 山側の貯水槽から引かれ、途中で二回折れ、地下を通り、拠点の水場へ出る。冬には凍結し、春には泥が詰まり、夏には藻と虫と熱で機嫌が悪くなる。

 かなり人間くさい設備だった。

「水管も泣きます?」

 ユウトが訊く。

 ミナが即答する。

「詰まる」

「泣くより嫌ですね」

「泣く前に詰まる」

「橋と同じ系統」

 給水路沿いの小道は、草が伸びていた。

 真夏の草は強い。

 踏んでもすぐ戻る。

 靴にまとわりつく。

 虫が飛ぶ。

 水の匂いがぬるい。

 ユウトが腕を振る。

「虫、多くないですか」

「夏なので」

 カナタは答える。

「レイスより嫌かもしれない」

「それは言いすぎです」

「レイスは少なくとも豆スープには入らない」

「虫も入れないでください」

 タクトが水管の継ぎ目に静音布を巻いていた。

 振動で金具が鳴るのを抑えるためだ。

 前なら、そんなことは誰も気にしなかった。

 今は気にする。

 音は、列を崩す。

 音は、敵を呼ぶ。

 音は、人を焦らせる。

 だから、缶から始まった技術が、水管にも使われる。

「オレンジ流、拡大してますね」

 ユウトが言う。

「正式名称にしないでください」

 タクトが困る。

「水管まで静かになった」

 リゼが言った。

「世界がタクト化してる」

「嫌な世界みたいに言わないでください」

 水管の第三継ぎ目で、詰まりが見つかった。

 泥と藻。

 それから、小さな石。

 水量が落ちている理由はそれだった。

 ミナが工具を出す。

「暑い時に水が減るの、性格悪いよね」

「水の性格ですか」

「設備の」

「設備も性格」

「あるよ」

 カナタは水管から水場への流れを考えた。

 食堂。

 医療棟。

 洗濯。

 車両冷却。

 給水。

 水も列だ。

 目に見えない列。

 止まれば、全員が少しずつ遅くなる。

 暑い日の苛立ちも、水が減ると増える。

 人は喉が渇くと、優しくなくなる。

 それは戦術の話ではなく、人間の話だった。

「カナタさん」

 リゼが訊く。

「また見えてる?」

「はい」

「何が」

「水が止まると、食堂が先に怒ります」

「食堂が?」

「次に医療棟。それから格納庫。最後に全員」

「全員は広いね」

「はい」

「じゃあ、ここも帰る道?」

 カナタは水管を見た。

 泥だらけの金属。

 ぬるい水。

 藻。

 虫。

「たぶん」

「水が帰る道」

「変な言い方です」

「でも、そうでしょ」

 リゼは赤布を枝に結んだ。

 作業場所の目印。

「水も、帰ってこい」

 ミナが詰まりを抜いた。

 水が一瞬、強く流れた。

 泥が押し出される。

 ぬるい水が地面にこぼれる。

 ユウトが拍手しようとして、やめた。

「拍手する相手が水管なの、ちょっと悔しい」

「拍手してもいいよ」

 ミナが言う。

「水管、喜ぶ?」

「たぶん流量で返事する」

「無口なタイプですね」

 水量は戻った。

 大事件ではない。

 レイスも出ない。

 銃も撃たない。

 ただ、水が流れた。

 それだけで、拠点全体が少しだけ助かる。

 帰り道、リゼは旧学校区の方角を一度だけ見た。

 遠くて、見えない。

 でも、彼女は見た。

「行きたいですか」

 カナタが訊く。

「今は、いい」

「今は」

「うん。今は、こっち」

 リゼはハウンド七の方を見た。

 水場。

 食堂。

 格納庫。

 帰ってきたもの置き場。

 赤布を干しているロープ。

「こっちで呼ぶ」

 その声は、暑い日の空気の中でも、ちゃんと届いた。

 夕方、修理された給水路のおかげで、水場には少しだけ余裕ができた。

 余裕と言っても、顔を洗う順番が一人分増えた程度だ。

 だが、その一人分で、ユウトが大騒ぎした。

「冷たい!」

「ぬるいです」

 タクトが言う。

「でも顔には冷たい!」

「基準が壊れてます」

 リゼも手を濡らした。

 赤布を外し、水で軽く洗う。

 赤が水に揺れる。

 旧学校区のチョークの粉は、もうついていない。

 前線の煤も少し落ちた。

 でも、完全には落ちない。

 それでいいのだと思った。

 全部落ちたら、どこから帰ってきたのか分からなくなる。

 食堂の豆スープは二粒だった。

 市民。

 湯気はほとんど見えない。

 けれど、水量が戻ったせいか、少しだけ味がした。

「水の勝利」

 ユウトが言う。

「水にも階級制度?」

 リゼが訊く。

「冷水が王族、ぬるい水が貴族、熱い水が市民」

「スープは?」

「労働者」

「ひどい」

 笑いが起きる。

 暑い日の笑い。

 短くて、汗になる笑い。

 通信塔のスピーカーが鳴った。

 全員が一瞬顔を上げる。

 反射。

 だが警報ではなかった。

 アイラの声。

『定時連絡。各避難列、異常なし。前線第三方面、砲撃小規模。補給線維持』

 食堂に、ゆるい息が広がった。

 異常なし。

 補給線維持。

 水も流れている。

 今日は、それでよかった。

 カナタは椀を持ったまま、窓の外を見た。

 夕方の空が赤い。

 夏の夕方は濃い。

 草が黒く見える。

 遠くで、三号車のエンジンが咳をした。

 ミナが怒鳴る。

「今の音、暑さのせいだからね!根性じゃないから!」

 誰に言っているのか分からない。

 でも、たぶん三号車には届いている。

 カナタは手袋を見た。

 今日は乾いている。

 乾きすぎて、少し硬い。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 すでに温かい。

「悪化してないけど、良くもない」

 小さく呟く。

 リゼが隣で笑った。

「夏っぽい」

「手袋の話です」

「文化だよ」

「責任を文化にしないでください」

 戻りたい場所がある。

 持ってきたものがある。

 でも、今いる場所で呼ぶ声もある。

 真夏のハウンド七は暑くて、薄くて、ぬるくて、少しだけ味がした。

 今日は、そういう日だった。

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