帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
橋を越えた後、車列はしばらく何も言わなかった。
車列が言うわけではない。
人間が言わなかった。
エンジンは鳴っている。
タイヤは雪を噛んでいる。
古いバスの窓は曇っていて、負傷兵搬送車の中では誰かがうめいている。荷台の隅では弾薬箱の代わりに人間が座っていて、空いたはずの場所が少しも空いたように見えない。
それでも、誰も喋らなかった。
言葉が出ないというより、言葉を使う場所が体の中に残っていない感じだった。
寒さ。
眠気。
恐怖。
それから、置いてきたもの。
そういうものが喉のあたりに詰まっていて、声を出そうとすると全部一緒に出てしまいそうになる。
カナタは荷台の後ろに座っていた。
膝の上には小銃。
背中には冷たい鉄板。
頬に当たる雪は、さっきより細かい。
粉みたいだった。
口を少し開けると、雪が舌に乗ってすぐ消える。味はほとんどない。ほんの少しだけ、鉄の味がした。たぶん自分の唇が切れているのだと思った。
後ろを見る。
橋はもう見えない。
焼けた除雪車も、雪に沈んだ弾薬箱も、基地の灯りも見えない。
見えなくなると、少しだけ楽になる。
でも、消えたわけではない。
見えないだけだ。
「……当たったんですよ」
隣でユウトが言った。
カナタは少し遅れて、さっきのレイスのことだと分かった。
「見てました」
「俺、撃ったら当たって」
「はい」
「いや、訓練では当たるんですけど」
「はい」
「本物って、当たると倒れるんですね」
変な言い方だった。
でも、分かる気がした。
的は倒れない。
紙に穴が開くだけだ。
訓練用の標的は、命中しても血を出さない。
レイスは血を出さないけれど、倒れた。
撃ったものが、動かなくなった。
たぶんそれが、ユウトの中でまだ処理されていない。
「手、震えてます」
カナタが言うと、ユウトは自分の手を見た。
手袋の先が小刻みに揺れている。
「寒いだけです」
「そうですね」
「いや、寒いだけです」
「はい」
それきり、ユウトは黙った。
カナタも何も言わなかった。
嘘を守るための沈黙というものがある。
今はそれでよかった。
前方で車列が減速した。
またか、と思った。
思った瞬間、自分の中に小さな嫌悪が生まれた。
またか。
その言葉は、人間をものすごく早く鈍らせる。
恐怖にも、悲鳴にも、故障にも、死にも、人は“またか”と思えるようになる。
それが嫌だった。
慣れることが嫌だった。
でも慣れなければ、たぶん歩けない。
『全車、停止』
ガレスの通信。
声は低い。
『十分だけ休む』
十分。
たった十分。
でも、その言葉で荷台の人間たちが一斉に息を吐いた。
白い息が重なる。
車列の上に、白い雲ができる。
人間がまだ生きている証拠みたいだった。
そこは、小さな森の手前だった。
森といっても、背の低い針葉樹が雪をかぶって並んでいるだけの場所で、枝先から落ちる雪がときどき車体に当たり、ぱさ、と乾いた音を立てた。
道路の脇に、古い停留所があった。
屋根が傾いている。
時刻表は凍って読めない。
ベンチの上には雪が積もっている。
そこに誰かが腰を下ろそうとして、やめた。
ベンチはもう、座るためのものではなくなっていた。
雪を積もらせるための台になっていた。
カナタは荷台から降りた。
足が少しふらついた。
地面に立つと、体が自分のものではないみたいだった。車の振動がまだ膝の中に残っている。
ミナが三号車のボンネットを開けていた。
湯気が出る。
白い湯気。
それは、人間の息よりもずっと不機嫌そうに見えた。
「怒ってますね」
カナタが言うと、ミナは振り返らずに答えた。
「そりゃ怒るよ。あんな走らせ方して」
「ごめんなさい」
「私に謝られても」
「車に謝るべきですか」
「うん」
カナタは三号車を見た。
「すみません」
「軽い」
「難しいですね、車への謝罪」
ミナは小さく笑った。
でもすぐに黙った。
ボンネットの中を覗き込んだまま、声だけが少し低くなる。
「次止まったら、たぶん終わり」
「修理できませんか」
「部品がない」
「さっき降ろした工具は」
「工具で部品は生えない」
「ですよね」
ミナは手袋を外した。
素手で金属に触れる。
寒そうだった。
「手、平気ですか」
「平気じゃない」
「じゃあ」
「でも手袋越しだと分かんない」
彼女はそう言って、しばらくエンジンに触れていた。
医者が脈を見るみたいだった。
セナは道路脇で負傷兵を診ていた。
十分の休憩は、衛生兵にとっては休憩ではない。
彼女は毛布をめくり、包帯を替え、誰かに水を飲ませ、誰かに「寝るな」と言った。
怒っているように聞こえる。
でも、寝るなと言われるうちは生きている。
カナタはそれを見ていた。
セナが気づく。
「何」
「手伝います」
「じゃあその人の足、持って」
言われた通りにした。
負傷兵の足は重かった。
毛布越しでも熱があった。
熱があるということは、生きているということだ。
でも、熱すぎる命は危ない。
そういうことを、カナタはこの数時間で覚え始めていた。
「この人、搬送車に戻しますか」
「戻す」
「場所あります?」
「作る」
「どうやって」
「誰かを詰める」
「……」
「そういう顔しない」
セナは包帯を結びながら言った。
「こっちまで嫌になる」
「すみません」
「謝るのも禁止」
「はい」
少し離れた場所で、古いバスの扉が開いた。
中から子供が一人降りてきた。
小さな女の子だった。
毛布を肩からかけている。
手には、紙コップ。
湯気が立っている。
誰かに貰ったのだろう。
女の子は道路脇に立って、雪を見ていた。
不思議そうに。
まるで、こんなにたくさん雪を見たのは初めてだと言いたげだった。
カナタは思った。
この子にとって、今日のことは何になるのだろう。
戦争か。
旅行か。
怖い夢か。
それとも、あとになっても思い出せない白い日か。
女の子は紙コップに口をつけた。
熱かったのか、すぐに離した。
眉をしかめる。
その顔だけが、あまりにも普通だった。
普通で、危うかった。
カナタは目を逸らした。
普通のものを見ると、帰れなかった時に残る。
そういう気がした。
アイラが通信機を抱えて歩いてきた。
雪の中でも足音がほとんどしない。
「副長」
ガレスが停留所の影から顔を上げる。
「なんだ」
「北、静か」
「良い意味か」
「悪い意味」
「だろうな」
アイラは通信機を抱えたまま、南の方を見た。
「あと、西」
「西?」
「短い声がした」
「味方か」
「たぶん」
「内容は」
アイラは少しだけ黙った。
「……助けて、って」
その言葉で、休憩が終わった。
誰もそう言わなかった。
でも終わった。
ガレスが立ち上がる。
「位置は」
「西の旧学区。近くはない」
「近くはない、か」
ガレスは煙草を咥えた。
火はつかない。
もう火をつけようともしない。
「司令部経由は」
「無理」
「だろうな」
セナが顔を上げる。
「助けてって、誰が」
「分からない」
「人数は」
「分からない」
「状態は」
アイラは首を振った。
分からない。
分からないことばかりだった。
でも、声だけがあった。
助けて。
それだけ。
カナタは西を見た。
森の向こう。
雪で何も見えない。
何も見えない場所から、人の声だけが来る。
嫌だった。
見えないなら、なかったことにできるかもしれない。
聞こえなかったなら、知らなかったことにできるかもしれない。
でも聞いてしまった。
聞いたものは残る。
ガレスがカナタを見た。
「学生」
「はい」
「どう見る」
カナタはすぐ答えなかった。
南へ進めば、車列は助かる可能性が高い。
西へ寄れば、誰かを拾えるかもしれない。
でも、寄れば時間を失う。
時間を失えば、後ろが近づく。
後ろが近づけば、帰れなくなる。
簡単だった。
簡単だから、嫌だった。
「……今の車列では無理です」
セナの顔が動いた。
「じゃあ見捨てるの」
「そうじゃなくて」
「同じでしょ」
カナタは言葉を探した。
雪の上に落ちて、すぐ消えそうな言葉ばかりだった。
「全員で行くと、全員遅くなります」
「じゃあ」
「少数で確認します」
ガレスが目を細めた。
「誰が」
「俺が」
「却下」
「まだ最後まで言ってません」
「言わなくても却下」
ミナがボンネットを閉めた。
「車出せるの、一台だけならギリ」
「出せるのか」
「帰ってこれるかは知らない」
「最悪だな」
「でも動く」
ガレスは少しだけ空を見た。
雪雲。
灰色。
その下で、世界が音を失っている。
「……五分で決める」
休憩は終わっていた。
人が動き始める。
荷物を積み直す。
負傷兵を戻す。
バスの扉が閉まる。
女の子が窓の向こうからこちらを見ている。
紙コップはまだ両手で持っている。
カナタは西を見た。
助けて。
その声はもう聞こえない。
でも聞こえなくなった声ほど、耳の奥に残る。
南には帰る道がある。
西には、誰かの帰れない場所がある。
そして後ろからは、黒いものが来る。
雪は静かだった。
静かすぎて、世界が答えを待っているみたいだった。