帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五話 白い呼吸

 橋を越えた後、車列はしばらく何も言わなかった。

 車列が言うわけではない。

 人間が言わなかった。

 エンジンは鳴っている。

 タイヤは雪を噛んでいる。

 古いバスの窓は曇っていて、負傷兵搬送車の中では誰かがうめいている。荷台の隅では弾薬箱の代わりに人間が座っていて、空いたはずの場所が少しも空いたように見えない。

 それでも、誰も喋らなかった。

 言葉が出ないというより、言葉を使う場所が体の中に残っていない感じだった。

 寒さ。

 眠気。

 恐怖。

 それから、置いてきたもの。

 そういうものが喉のあたりに詰まっていて、声を出そうとすると全部一緒に出てしまいそうになる。

 カナタは荷台の後ろに座っていた。

 膝の上には小銃。

 背中には冷たい鉄板。

 頬に当たる雪は、さっきより細かい。

 粉みたいだった。

 口を少し開けると、雪が舌に乗ってすぐ消える。味はほとんどない。ほんの少しだけ、鉄の味がした。たぶん自分の唇が切れているのだと思った。

 後ろを見る。

 橋はもう見えない。

 焼けた除雪車も、雪に沈んだ弾薬箱も、基地の灯りも見えない。

 見えなくなると、少しだけ楽になる。

 でも、消えたわけではない。

 見えないだけだ。

「……当たったんですよ」

 隣でユウトが言った。

 カナタは少し遅れて、さっきのレイスのことだと分かった。

「見てました」

「俺、撃ったら当たって」

「はい」

「いや、訓練では当たるんですけど」

「はい」

「本物って、当たると倒れるんですね」

 変な言い方だった。

 でも、分かる気がした。

 的は倒れない。

 紙に穴が開くだけだ。

 訓練用の標的は、命中しても血を出さない。

 レイスは血を出さないけれど、倒れた。

 撃ったものが、動かなくなった。

 たぶんそれが、ユウトの中でまだ処理されていない。

「手、震えてます」

 カナタが言うと、ユウトは自分の手を見た。

 手袋の先が小刻みに揺れている。

「寒いだけです」

「そうですね」

「いや、寒いだけです」

「はい」

 それきり、ユウトは黙った。

 カナタも何も言わなかった。

 嘘を守るための沈黙というものがある。

 今はそれでよかった。

 前方で車列が減速した。

 またか、と思った。

 思った瞬間、自分の中に小さな嫌悪が生まれた。

 またか。

 その言葉は、人間をものすごく早く鈍らせる。

 恐怖にも、悲鳴にも、故障にも、死にも、人は“またか”と思えるようになる。

 それが嫌だった。

 慣れることが嫌だった。

 でも慣れなければ、たぶん歩けない。

『全車、停止』

 ガレスの通信。

 声は低い。

『十分だけ休む』

 十分。

 たった十分。

 でも、その言葉で荷台の人間たちが一斉に息を吐いた。

 白い息が重なる。

 車列の上に、白い雲ができる。

 人間がまだ生きている証拠みたいだった。

 そこは、小さな森の手前だった。

 森といっても、背の低い針葉樹が雪をかぶって並んでいるだけの場所で、枝先から落ちる雪がときどき車体に当たり、ぱさ、と乾いた音を立てた。

 道路の脇に、古い停留所があった。

 屋根が傾いている。

 時刻表は凍って読めない。

 ベンチの上には雪が積もっている。

 そこに誰かが腰を下ろそうとして、やめた。

 ベンチはもう、座るためのものではなくなっていた。

 雪を積もらせるための台になっていた。

 カナタは荷台から降りた。

 足が少しふらついた。

 地面に立つと、体が自分のものではないみたいだった。車の振動がまだ膝の中に残っている。

 ミナが三号車のボンネットを開けていた。

 湯気が出る。

 白い湯気。

 それは、人間の息よりもずっと不機嫌そうに見えた。

「怒ってますね」

 カナタが言うと、ミナは振り返らずに答えた。

「そりゃ怒るよ。あんな走らせ方して」

「ごめんなさい」

「私に謝られても」

「車に謝るべきですか」

「うん」

 カナタは三号車を見た。

「すみません」

「軽い」

「難しいですね、車への謝罪」

 ミナは小さく笑った。

 でもすぐに黙った。

 ボンネットの中を覗き込んだまま、声だけが少し低くなる。

「次止まったら、たぶん終わり」

「修理できませんか」

「部品がない」

「さっき降ろした工具は」

「工具で部品は生えない」

「ですよね」

 ミナは手袋を外した。

 素手で金属に触れる。

 寒そうだった。

「手、平気ですか」

「平気じゃない」

「じゃあ」

「でも手袋越しだと分かんない」

 彼女はそう言って、しばらくエンジンに触れていた。

 医者が脈を見るみたいだった。

 セナは道路脇で負傷兵を診ていた。

 十分の休憩は、衛生兵にとっては休憩ではない。

 彼女は毛布をめくり、包帯を替え、誰かに水を飲ませ、誰かに「寝るな」と言った。

 怒っているように聞こえる。

 でも、寝るなと言われるうちは生きている。

 カナタはそれを見ていた。

 セナが気づく。

「何」

「手伝います」

「じゃあその人の足、持って」

 言われた通りにした。

 負傷兵の足は重かった。

 毛布越しでも熱があった。

 熱があるということは、生きているということだ。

 でも、熱すぎる命は危ない。

 そういうことを、カナタはこの数時間で覚え始めていた。

「この人、搬送車に戻しますか」

「戻す」

「場所あります?」

「作る」

「どうやって」

「誰かを詰める」

「……」

「そういう顔しない」

 セナは包帯を結びながら言った。

「こっちまで嫌になる」

「すみません」

「謝るのも禁止」

「はい」

 少し離れた場所で、古いバスの扉が開いた。

 中から子供が一人降りてきた。

 小さな女の子だった。

 毛布を肩からかけている。

 手には、紙コップ。

 湯気が立っている。

 誰かに貰ったのだろう。

 女の子は道路脇に立って、雪を見ていた。

 不思議そうに。

 まるで、こんなにたくさん雪を見たのは初めてだと言いたげだった。

 カナタは思った。

 この子にとって、今日のことは何になるのだろう。

 戦争か。

 旅行か。

 怖い夢か。

 それとも、あとになっても思い出せない白い日か。

 女の子は紙コップに口をつけた。

 熱かったのか、すぐに離した。

 眉をしかめる。

 その顔だけが、あまりにも普通だった。

 普通で、危うかった。

 カナタは目を逸らした。

 普通のものを見ると、帰れなかった時に残る。

 そういう気がした。

 アイラが通信機を抱えて歩いてきた。

 雪の中でも足音がほとんどしない。

「副長」

 ガレスが停留所の影から顔を上げる。

「なんだ」

「北、静か」

「良い意味か」

「悪い意味」

「だろうな」

 アイラは通信機を抱えたまま、南の方を見た。

「あと、西」

「西?」

「短い声がした」

「味方か」

「たぶん」

「内容は」

 アイラは少しだけ黙った。

「……助けて、って」

 その言葉で、休憩が終わった。

 誰もそう言わなかった。

 でも終わった。

 ガレスが立ち上がる。

「位置は」

「西の旧学区。近くはない」

「近くはない、か」

 ガレスは煙草を咥えた。

 火はつかない。

 もう火をつけようともしない。

「司令部経由は」

「無理」

「だろうな」

 セナが顔を上げる。

「助けてって、誰が」

「分からない」

「人数は」

「分からない」

「状態は」

 アイラは首を振った。

 分からない。

 分からないことばかりだった。

 でも、声だけがあった。

 助けて。

 それだけ。

 カナタは西を見た。

 森の向こう。

 雪で何も見えない。

 何も見えない場所から、人の声だけが来る。

 嫌だった。

 見えないなら、なかったことにできるかもしれない。

 聞こえなかったなら、知らなかったことにできるかもしれない。

 でも聞いてしまった。

 聞いたものは残る。

 ガレスがカナタを見た。

「学生」

「はい」

「どう見る」

 カナタはすぐ答えなかった。

 南へ進めば、車列は助かる可能性が高い。

 西へ寄れば、誰かを拾えるかもしれない。

 でも、寄れば時間を失う。

 時間を失えば、後ろが近づく。

 後ろが近づけば、帰れなくなる。

 簡単だった。

 簡単だから、嫌だった。

「……今の車列では無理です」

 セナの顔が動いた。

「じゃあ見捨てるの」

「そうじゃなくて」

「同じでしょ」

 カナタは言葉を探した。

 雪の上に落ちて、すぐ消えそうな言葉ばかりだった。

「全員で行くと、全員遅くなります」

「じゃあ」

「少数で確認します」

 ガレスが目を細めた。

「誰が」

「俺が」

「却下」

「まだ最後まで言ってません」

「言わなくても却下」

 ミナがボンネットを閉めた。

「車出せるの、一台だけならギリ」

「出せるのか」

「帰ってこれるかは知らない」

「最悪だな」

「でも動く」

 ガレスは少しだけ空を見た。

 雪雲。

 灰色。

 その下で、世界が音を失っている。

「……五分で決める」

 休憩は終わっていた。

 人が動き始める。

 荷物を積み直す。

 負傷兵を戻す。

 バスの扉が閉まる。

 女の子が窓の向こうからこちらを見ている。

 紙コップはまだ両手で持っている。

 カナタは西を見た。

 助けて。

 その声はもう聞こえない。

 でも聞こえなくなった声ほど、耳の奥に残る。

 南には帰る道がある。

 西には、誰かの帰れない場所がある。

 そして後ろからは、黒いものが来る。

 雪は静かだった。

 静かすぎて、世界が答えを待っているみたいだった。

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