帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十話 橋

 橋は、渡る時だけ橋になる。

 普段はただの構造物だ。

 鉄と木とコンクリート。

 錆びた欄干。

 古いボルト。

 下を流れる水。

 それだけなら、誰もありがたがらない。むしろ、揺れるとか、狭いとか、欄干が低いとか、橋のくせに文句を言われることの方が多い。

 けれど、渡らなければ帰れない時。

 後ろから何かが来ている時。

 担架があり、補給車があり、子供がいて、荷物があり、誰かの水筒が半分しか残っていない時。

 その時、橋は急に偉くなる。

 偉いというより、怖くなる。

 落ちるな。

 壊れるな。

 泣くな。

 そう祈られるものになる。

 真夏の朝、ハウンド七の食堂では橋の話が出ていた。

 食堂で橋の話が出ると、だいたい良くない。

 少なくとも豆の話よりは良くない。

「今日の豆、二粒」

 ユウトが言った。

「市民」

 タクトが答える。

「橋の話の日に市民」

「どういう意味ですか」

「分かりません。でも不安です」

「豆に責任を負わせすぎ」

 リゼが笑った。

 今日は赤布を手首に巻き、髪は普通に結んでいる。

 真夏の日差しが食堂の窓から入り、赤布だけがやけに鮮やかに見えた。窓は開いている。風は入らない。入らないくせに、外の虫の声だけは遠慮なく入ってくる。

 ハウンド七の夏は、音が多い。

 冬は雪が音を飲み込んだ。

 夏は逆だ。

 虫。

 水場。

 エンジン。

 誰かの文句。

 金属のきしみ。

 全部が空気に貼りついている。

 その中で、ガレスが火のつかない煙草を咥えたまま言った。

「東六号橋の仮設補強に出る」

 食堂の音が、少しだけ低くなった。

 東六号橋。

 補給線の首。

 前に、補給車を通した橋。

 水の音がうるさくて、工兵が釘を咥えていて、橋の胃という概念が生まれた場所。

「また橋ですか」

 ユウトが言う。

「橋も忙しいですね」

「忙しいから補強する」

 ガレスは短い。

「グリッドと合同だ。夏季広域後退計画の事前工事だとよ」

 夏季広域後退計画。

 その言葉は、もう何度か聞いている。

 だが、聞くたびに少し重くなる。

 最初は遠い雷みたいだった。

 今は、雲の色が変わってきた感じがする。

 リゼが椀を置いた。

「広域って、広い?」

「広いから広域だろ」

 ガレスが答える。

「雑」

「詳しい地図は向こうで見る」

「もっと嫌」

 ミナが格納庫側から顔を出した。

「橋って、車両通すの?」

「通す」

「何台」

「たくさん」

「最悪の単位」

 ミナは眉を寄せた。

「橋に謝る準備して行く」

「まだ何もしてません」

 マコトが言う。

「未来への謝罪」

「概念が重いです」

 東六号橋へ向かう道は、前より夏だった。

 それ以外の言い方が難しい。

 草が伸びている。

 虫が多い。

 水路の匂いが強い。

 泥は表面だけ乾いて、踏むと下から湿ったものが出る。道端の防雪柵は、もう完全に季節外れの置物になっていた。あれが冬には命綱だったことを、夏の草はまったく気にしていない。

 三号車は暑そうだった。

 車が暑そうという表現が正しいのかは分からない。

 でも、ミナがそう言った。

「三号車、暑がってる」

「車は暑がりますか」

 タクトが訊く。

「暑がる。冷却水の機嫌が悪い」

「機嫌なんですね」

「機械はだいたい機嫌」

 ユウトが窓から顔を出してすぐ引っ込めた。

「外、熱いです」

「見れば分かる」

 リゼが言う。

「見たら熱かった」

「賢い」

「褒められてない」

 

 東六号橋は、前に見た時より疲れていた。

 橋が疲れて見えることがあるのだと、カナタはこの日知った。

 欄干の錆。

 板材の浮き。

 仮設補強の跡。

 タイヤの黒い線。

 川の水位は少し下がっている。

 だが、流れは速い。

 夏の水は細くなっても文句を言う。

 橋のたもとでは、グリッド工兵群が作業を始めていた。

 板材。

 鉄杭。

 補強梁。

 滑車。

 仮設レール。

 人が多い。

 暑い。

 誰も機嫌が良くなさそうだった。

 年配の工兵が、やはり釘を咥えていた。

 この人は、もしかすると釘がないと落ち着かないのかもしれない。

「来たか、帰す連中」

「橋の胃の人」

 リゼが返した。

 工兵は釘を咥えたまま目を細める。

「誰が胃だ」

「橋」

「それならいい」

「いいんだ」

 ユウトが小声で言った。

 工兵は地図を広げた。

 橋の図面。

 周辺道路。

 前線第三方面。

 補給線。

 避難列予定経路。

 そして、赤い線。

 たくさんの赤い線。

 カナタは一瞬、息を忘れた。

 地図の上に、夏があった。

 東から一列。

 北東から二列。

 前線側から車両列。

 医療搬送路。

 補給撤収路。

 民間避難路。

 それぞれが、この橋の周辺へ集まっている。

 全部が同時に来るわけではない。

 そう思いたかった。

 だが、地図の赤線はそういう甘い希望をあまり信用していない顔をしていた。

「これ、全部通すんですか」

 カナタは訊いた。

「通せたらな」

 工兵が言う。

「通せなかったら?」

「川を渡る別の方法を考える」

「ありますか」

「作る」

 短い。

 強い。

 だが、簡単ではない。

 橋を作る、という言葉の裏には、板と鉄と汗と失敗と、たぶん何人かの怪我がある。

 工兵は図面を指で叩いた。

「今日は仮設側道を一本足す。車両は本橋。徒歩と担架は側道。弾薬箱は状況次第で手渡し。お前らには流れを見るのを手伝ってもらう」

「流れ」

「人と車と荷物と、水だ」

 ミナが橋を見て言った。

「側道、細くない?」

「細い」

「落ちない?」

「落とすな」

「橋側からの圧が強い」

 作業が始まった。

 グリッドが橋の横へ仮設梁を渡す。

 ハルクが鉄板を運ぶ。

 ベンが水筒を配る。

 オルガが作業列の声を出す。

 ニコが黒札を置く位置を確認する。

 帰還誘導兵の隊員たちも、もう新米ではなかった。

 ただし、暑さでかなり疲れている。

 それは全員そうだった。

「水、回します!」

 ベンが声を張る。

「一人一口!二口飲んだ人は自己申告!」

「自己申告する人います?」

 ユウトが訊く。

「いると信じる」

 ベンは真顔だった。

「信仰ですね」

「水は信仰に近い」

 リゼが頷く。

「真夏だとね」

 カナタは作業の流れを見ていた。

 鉄板が来る。

 梁が来る。

 杭が来る。

 水が回る。

 作業員が戻る。

 空の荷車が戻る。

 また鉄板が来る。

 これも列だった。

 建てる列。

 渡るための前に、作るための列。

 ここで詰まれば、橋は完成しない。

 橋が完成しなければ、夏の赤線はここで止まる。

 カナタは未来の詰まりを探した。

 鉄板の置き場。

 水筒の戻り。

 工具箱の位置。

 休憩する人の影。

 そして、橋の中央。

 そこが狭い。

 作業員がすれ違う時、毎回少し肩がぶつかる。

 まだ大きな問題ではない。

 だが、疲れるとそこで止まる。

 止まれば、鉄板が止まる。

 鉄板が止まれば、後ろが止まる。

「中央、片側通行にしてください」

 カナタは言った。

 工兵が顔を上げる。

「まだ通れてる」

「今は。でも、十分後に止まります」

「見えるのか」

「見たくはないです」

「そういう奴、多いなこの隊」

 工兵は釘を吐き出して指示を飛ばした。

「中央、片側!戻りは下流側!鉄板は上流側!水係、邪魔になるな!」

 ベンが慌てて水筒箱を移動する。

「水、邪魔者扱いです!」

「必要な邪魔者だ!」

 工兵が怒鳴る。

「格上げですか?」

 ユウトが訊く。

「たぶん違う!」

 作業は続いた。

 昼前には、仮設側道の半分が形になった。

 かなり細い。

 かなり不安。

 でも、人は通れる。

 担架も、ぎりぎり通れる。

 セナが担架幅を測り、低い声で言った。

「ぎりぎりは嫌い」

「俺もです」

 カナタは答える。

「でも通る」

「はい」

「通すなら、途中で止めない」

「止まる場所を作ります」

「二か所」

 セナはすぐ言った。

「一か所だと、そこで詰まる」

「はい」

 話が早い。

 怖いくらい早い。

 帰還誘導兵は、そういう話が早くなっている。

 リゼが赤布を二か所に結ぶ。

「一番、二番。どっちも帰れる」

 オルガがそれを真似て、作業員へ声を出す。

「赤一、待機!赤二、通過!止まるなら赤一!迷うなら声!」

 リゼが満足そうに頷いた。

「いい声」

「声だけは昔からでかいです」

「褒めてる」

「では受け取ります」

 その時、橋の向こうから車両音がした。

 予定外だった。

 全員がそちらを見る。

 前線側から、小型の装甲車が一台、泥を巻き上げて近づいてくる。

 車体には砲撃痕。

 後部扉が歪んでいる。

 前線兵が飛び降りた。

「負傷者搬送!橋を通す!」

 空気が一気に変わった。

 訓練でも工事でもなくなる。

 現場が本当の顔を出す。

 工兵が叫ぶ。

「本橋は作業中だ!」

「迂回できない!」

「何人だ!」

「三人!一人重い!」

 セナがもう走っていた。

 カナタは橋を見る。

 本橋は鉄板が半分外れている。

 車両は無理。

 仮設側道は人と担架なら通れる。

 だが、完成していない。

 赤一、赤二。

 止まる場所はある。

 足元は悪い。

 暑い。

 作業員も疲れている。

「車両は止めてください!」

 カナタは叫んだ。

「担架で側道!作業員、鉄板を置いたまま退避!赤一で受け、赤二で渡す!」

 前線兵が怒鳴る。

「急げ!」

「急ぐために止めます!」

 リゼが赤布を上げる。

「こっち!担架こっち!赤一、待つ!赤二、進む!」

 オルガも声を重ねる。

「作業員、下流側!担架、上流側!水係、道開け!」

 ベンが水筒箱を抱えて飛び退く。

「水、退避!」

「水は偉いけど今は退け!」

 ユウトが叫ぶ。

「何それ!」

「分かりません!」

 タクトが静音布で担架の金具を押さえる。

「鳴らさない方がいいですか」

「今は鳴ってもいい!」

 セナが言う。

「でも引っかかるな!」

 ハルクが仮設側道の中央に立つ。

 壁ではない。

 支柱でもない。

 今は手すりだった。

 片手で盾を橋側に立て、もう片方で担架の外側を支える。

 仮設側道が揺れた。

 川の音が下から来る。

 真夏なのに、そこだけ冷える。

 担架が赤一に入る。

 止まる。

 次に赤二へ。

 もう一つの担架が赤一へ。

 流れができる。

 細い。

 怖い。

 でも流れる。

 工兵が下から支柱を押さえる。

 釘の人が叫ぶ。

「渡せ!橋が泣く前に渡せ!」

「泣かせない!」

 ミナが叫ぶ。

「橋も人も泣かせない!」

「強欲だな!」

「整備兵なので!」

 三人目の負傷者は、自力で歩こうとした。

 足が震えている。

 大丈夫、と言いかけた。

 セナが即座に言う。

「大丈夫禁止」

 負傷兵は黙った。

 ユウトが肩を貸す。

「歩けるなら歩く。でも一人で歩かない。これは制度です」

「何の制度だ」

「ハウンド七式」

「不安だな」

「でも効きます」

 負傷兵が少し笑った。

 笑うと、足が一歩出た。

 リゼが赤布を振る。

「帰ろう!」

 声が橋の上を通った。

 川の音と、虫の声と、金属の軋みに負けずに。

 最後の負傷兵が橋を渡りきった時、誰も歓声を上げなかった。

 ただ、全員が息を吐いた。

 真夏の橋の上に、白い息は出ない。

 でも、吐いた息の形は見えた気がした。

 作業が再開されたのは、その少し後だった。

 前線兵は負傷者を医療車へ乗せる前に、短く言った。

「助かった」

 それだけ。

 それだけで十分だった。

 夕方、仮設側道は完成した。

 細い。

 頼りない。

 だが、人が通れる。

 担架も通れる。

 カナタは完成した橋を見た。

 本橋。

 仮設側道。

 赤一。

 赤二。

 黒札。

 水係の置き場。

 工兵の板材置き場。

 全部が、ひとつの流れになっている。

 グリッド工兵が地図を畳みながら言った。

「これで、夏は少しだけ持つ」

「少しだけ」

「橋は、だいたい少しだけ持つものだ」

「怖いこと言いますね」

「だから補強する」

 工兵はカナタへ紙を一枚渡した。

「夏季広域後退計画の概略だ。お前らにも必要になる」

 カナタは受け取った。

 開く。

 赤線。

 青線。

 黒い丸。

 避難列予定数。

 車両予測。

 補給撤収。

 前線後退。

 医療搬送。

 多すぎた。

 地図が、重い。

 紙なのに。

「カナタさん」

 リゼが隣に来る。

「噛まれてる?」

「丸呑みされそうです」

「それは大変」

「はい」

「でも、全部一人で見ない」

「はい」

「橋も一人じゃ立たないし」

 リゼは仮設側道を見る。

「梁があって、板があって、杭があって、赤布があって、人がいて、やっと橋になる」

 カナタは地図を畳んだ。

 少しだけ、軽くなった気がした。

 ハウンド七に戻る頃、空は真夏の夕方になっていた。

 赤い。

 重い。

 風がぬるい。

 食堂では豆スープが配られていた。

 豆は二粒。

 市民。

 ユウトが椀を見て言った。

「橋工事後の市民、味が違う」

「水のせい?」

 タクトが訊く。

「気分のせい」

 リゼが答える。

「気分は調味料」

「名言っぽい」

「暑いから適当」

 帰ってきたもの置き場には、工兵がくれた小さな曲がった釘が置かれた。

 釘の人が吐き捨てたものではない。

 予備の釘らしい。

 たぶん。

 ミナが言った。

「橋の歯みたい」

「怖いです」

 マコトが言う。

「記録名は?」

 ユウトが訊く。

「橋の歯」

 リゼが即答した。

「嫌すぎる」

 でも、結局その名前になった。

 カナタは食堂の隅で、夏季広域後退計画の地図をもう一度開いた。

 赤線が多い。

 あまりにも多い。

 だが、今日の橋のように、一つずつなら見られる。

 全部を同時に飲み込まなくていい。

 線には、橋がある。

 止まる場所がある。

 人がいる。

 カナタは手袋を外した。

 今日は乾いていた。

 乾いているが、橋の錆の匂いがする。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 真夏だから、すでに温かい。

「夏ですね」

 リゼが隣で言った。

「はい」

「橋、できたね」

「はい」

「じゃあ、少し帰れる」

 少し。

 その言葉が、今日はやけに正しかった。

 大きな撤退の前に、細い橋が一本増えた。

 それだけで、世界は少しだけ帰れる形になった。

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