帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十一話 人数

 人が増えると、部屋は狭くなる。

 当たり前のことだった。

 椅子が足りなくなる。

 椀が足りなくなる。

 壁際に立つ人が増える。

 誰かの肘が誰かの肩に当たり、誰かの水筒が机から落ち、誰かがそれを拾おうとして、さらに誰かの足を踏む。

 食堂というものは、人間が増えるとすぐ人間らしく壊れる。

 だが、部隊も同じだとは思っていなかった。

 人が増えれば強くなる。

 単純にそう思っていた。

 けれど実際には、そうではない。

 人が増えると、声が増える。

 声が増えると、指示が薄まる。

 目が増えると、見えるものも増える。

 でも、誰が何を見ているのか分からなければ、結局何も見えていないのと同じになる。

 真夏のハウンド七で、帰還誘導兵は増えていた。

 正式な増員。

 臨時ではない。

 なんとなく手伝いに来たわけでもない。

 名簿があり、配置があり、役割がある。

 それはとても立派なことだった。

 そして、とても面倒なことだった。

「人数が多い」

 ユウトが言った。

 食堂の入口に立って、混み合う席を見ている。

「いいことでは」

 タクトが答える。

「いいことです。でも座れない」

「現実的な不満」

「部隊拡大の最初の問題が椅子」

 リゼが笑った。

 今日は赤布を手首に巻き、もう一本を肩にかけている。

 まるで赤布の人だった。

 本人にそう言うとたぶん怒られるので、カナタは言わない。

「椅子が足りないなら、立って食べればいい」

 セナが言った。

「軍ですね」

 ユウトが言う。

「軍だよ」

「忘れてました」

「忘れるな」

 食堂には新しく配属された隊員たちがいた。

 オルガ。

 声が大きい女性兵。

 赤布担当に向いている。

 本人も自覚しているらしく、朝からよく通る声で「水、そっちです」「椀、右です」「そこ詰まってます」と食堂の整理まで始めていた。

 ベン。

 水筒を二本持っている男。

 給水、残量、休憩位置を見るのが得意らしい。

 夏の部隊では、かなり重要だった。

 ニコ。

 若い新人。

 黒札を持つ手がまだ少し硬い。

 だが、前より目が泳がなくなっている。

 他にもいる。

 灯火班の二人。

 白線補助の三人。

 荷物整理の二人。

 医療補助が一人。

 名前を全員覚えるには、少し時間がいる。

 だが、覚えないといけない。

 名前を知らない人間は、列の中で遅れやすい。

 カナタはそう思った。

「今日の豆、二粒」

 ユウトが椀を覗き込む。

「市民」

 タクトが答える。

 すると、近くにいたニコが真顔で訊いた。

「市民とは」

 食堂が少しだけ静かになった。

 ユウトが椀を持ったまま固まる。

「そこからですか」

「新人だからね」

 リゼが言う。

「教育が必要」

「豆制度を?」

 マコトが眉を寄せる。

「正式手順には入れません」

「なぜですか」

 ユウトが不満そうに言う。

「なぜ入ると思ったんですか」

 ニコは困っている。

 オルガが笑った。

「二粒が普通、三粒が当たり、四粒が伝説。そういうこと?」

「かなり合ってます」

 タクトが言った。

「一粒は?」

 ベンが訊く。

「敗北です」

 ユウトが即答する。

「ゼロは?」

「制度崩壊」

「じゃあ今日は市民」

 ニコが椀を見て言った。

「二粒なので」

「理解が早い」

 リゼが満足そうに頷く。

 くだらない。

 本当にくだらない。

 でも、こういうくだらないものが、部隊の入口になることがある。

 いきなり命令系統や撤退手順を渡されても、人は部隊にはならない。

 豆の数を笑い合えるようになって、初めて同じ食堂にいる気がする。

 午前の訓練は、役割分担だった。

 大きな地図が格納庫の壁に貼られている。

 夏季広域後退計画の一部。

 全部ではない。

 全部を貼ると、たぶん壁が負ける。

 それくらい赤線が多い。

 今日使うのは、ハウンド七周辺と東六号橋、旧採掘場跡、前線第三方面の一部だけだった。

 それでも多い。

 赤線。

 青線。

 黒い丸。

 仮設橋。

 補給撤収路。

 避難列予定地点。

 水場。

 医療受け入れ。

 車両待機。

 カナタはそれを見て、少しだけ喉が乾いた。

 地図に噛まれる、では足りない。

 今日は地図に囲まれている感じだった。

「顔」

 リゼが言った。

「またですか」

「今日は、地図に包囲されてる顔」

「的確ですね」

「褒めてない」

 彼女は赤布を持ち、格納庫の中央へ立った。

「じゃあ、分けよう」

 短い言葉だった。

 でも、全員が少しだけ彼女を見る。

 春の頃のリゼなら、たぶんこういう場で前へ立たなかった。

 いや、立てたかもしれない。

 だが、その立ち方は少し違ったはずだ。

 今のリゼは、待つために立っていない。

 誰かが見る場所を見失わないように、中央に立っている。

「カナタさんは、全部を見ない」

 リゼが言う。

「本人に言うんですね」

 ユウトが小声で言う。

「大事だから」

 リゼは続ける。

「カナタさんは、詰まりそうな未来を見る。今起きてることは、班で見る。だから班を作る」

 マコトが手順書を開く。

「帰還誘導兵、班編成案」

 声が真面目になる。

「第一、誘導班。赤布、声、移動方向の提示。リゼさん、オルガさん、ユウトさん」

「俺、誘導班ですか」

 ユウトが少し驚く。

「声が出るので」

 マコトが答える。

「褒められてる?」

「機能です」

「機能扱い」

 リゼが笑う。

「声の機能」

「嫌ではないです」

 マコトは続ける。

「第二、線管理班。白線布、黒札、灯火。タクトさん、ニコさん、灯火班二名」

 タクトが少し背筋を伸ばす。

「自分が」

「静音処理と手元確認ができます」

「缶のおかげですね」

 ユウトが言う。

「缶の話に戻さないでください」

 ニコは黒札を握り直した。

 緊張している。

 でも、頷いた。

「第三、補給・水管理班。ベンさん、荷物整理班。水、荷物、休憩位置、重量確認」

 ベンが水筒を二本持ち上げる。

「水は任せてください」

「頼もしい」

 リゼが言う。

「ただし二口飲みは自己申告で」

「まだ信じてるんですね」

 ユウトが感心した顔をする。

「信じるところから始めます」

「水の宗教」

「やめてください」

 マコトはさらに続ける。

「第四、防護・接触班。ハルクさん、セナさん、医療補助。小型レイス接近時の遮断、負傷者処置、担架線確保」

 ハルクが短く頷く。

「壁」

 リゼが言う。

「防護だ」

「支柱?」

「防護だ」

「今日は譲らない」

 セナは医療袋を抱えたまま言った。

「防護より、まず倒れないこと。夏は倒れる。倒れたら列が三人分遅れる」

 新人たちの顔が少し引き締まる。

 セナの言葉はいつも、包帯より直接効く。

「第五、記録・伝達班。マコトさん、ヒナセさん。通信、記録、変更手順」

 ヒナセが通信機を少し持ち上げる。

「通信が死んだ時の伝達も含みます」

「死ぬ前提なのが嫌ですね」

 ユウトが言う。

「死ぬので」

 ヒナセは淡々としている。

「淡々と怖い」

 そして、全員がカナタを見た。

 マコトが言う。

「全体予測。カナタさん」

 全体。

 その言葉が、少し重かった。

「全体を見る、ではありません」

 リゼがすぐ言った。

「詰まりそうな未来を見る。今の全体は、みんなで見る」

 カナタは息を吐いた。

 その違いが、かなり大事だった。

 全部を見るのではない。

 全部を繋ぐ。

 そして、その繋ぎはリゼが支える。

 カナタは先を見る。

 リゼは今の人間を繋ぐ。

 役割が、少しずつ形になる。

「訓練だ」

 ガレスが入口から言った。

「今から?」

 ユウトが訊く。

「今からだ」

「暑いです」

「夏だからな」

「正論が雑」

 格納庫外の広場に、仮想避難列が作られた。

 今回は人数が多い。

 三十人近い。

 荷物役。

 負傷者役。

 子供役。

 暑くて不機嫌な役。

 通信不良役。

 水切れ役。

 ユウトはまた不機嫌役をやろうとして、リゼに誘導班へ戻された。

「俺、不機嫌の才能ありますよ」

「声の才能があるからそっち」

「才能の選択が厳しい」

 訓練が始まった。

 オルガの声が飛ぶ。

「右へ!赤布見て!詰めない!」

 ユウトが別方向で声を足す。

「暑くても走らない!走ると次に止まります!」

 タクトが白線を張る。

 ニコが黒札を置く。

 最初は少し早すぎた。

 人が止まりすぎる。

 ニコが自分で気づき、半歩ずらす。

 列が流れる。

 ベンが水筒を回す。

「一口!一口です!二口目は命に関わる顔の人だけ!」

「基準が難しい!」

「自己申告!」

「信仰だ!」

 ヒナセが通信不良を想定し、赤灯を点滅させる。

 一回。

 二回。

 ユウトが余計なことを言う。

「七回は俺警告ですよね」

「今は黙って」

 リゼが即座に切る。

「はい」

 ハルクが右の境界に立つ。

 人が流れそうになると、そこに壁がある。

 押し返さない。

 ただ、流れを曲げる。

 セナは列の中央を見ている。

 顔色。

 息。

 手。

 返事。

「大丈夫即答、三人」

 セナが言う。

「中央、速度落として」

 リゼが受ける。

「中央、ゆっくり!大丈夫な人は疑われてます!」

「ひどい!」

 誰かが叫ぶ。

「ひどくても歩ける!」

 笑いが起きる。

 その笑いで、列が少し整う。

 カナタは一歩引いた場所から見ていた。

 すぐに口を出したくなる。

 黒札が少しずれている。

 白線の張りが弱い。

 水筒の戻りが遅い。

 赤灯の位置が低い。

 全部見える。

 だが、全部は言わない。

 自分が言えば早い。

 でも、言い続ければ、全員がカナタを見る。

 それでは部隊にならない。

 だから、未来を見る。

 今ではなく。

 三十秒後。

 一分後。

 このまま進むと、旧車両跡の横で中央が膨らむ。

 水筒を待つ人と、黒札で止まる人が重なる。

 そこが詰まる。

「リゼさん」

 カナタは言った。

「三十秒後、中央が膨らみます。水と黒札が重なる」

 リゼが頷く。

「ベン、水を後ろへずらして!ニコ、黒札は赤二の先!」

「はい!」

「了解!」

 列が少し変わる。

 詰まりは起きなかった。

 カナタは息を吐いた。

 自分が直接直したのではない。

 リゼが繋いだ。

 ベンが動いた。

 ニコが変えた。

 それで列が動いた。

 これでいい。

 いや。

 これがいい。

 訓練の最後に、ガレスが突然言った。

「レイス想定」

 ハルクがすぐ盾を持つ。

 ユウトが声を張る。

 オルガが赤布を上げる。

 タクトが白線を短く畳む。

 ヒナセが赤灯を三回点滅。

 撤退。

 全員が動く。

 完全ではない。

 ニコが一度、黒札を落とした。

 ベンが水筒箱を置き忘れそうになった。

 ユウトが「俺警告」と余計なことを言った。

 セナが怒った。

 でも、列は戻った。

 広場の端から、中央の赤布へ。

 細く。

 少し曲がりながら。

 それでも、一本に戻った。

 ガレスは煙草を咥えたまま言った。

「形にはなってきた」

「褒めてますか」

 ユウトが訊く。

「前線式なら」

「豆四粒ですね」

「二粒半だ」

「刻まれた」

 笑いが起きた。

 新人たちも笑った。

 その笑いが、少しだけ部隊の音になっていた。

 夕方、食堂はさらに狭くなった。

 人が増えたからだ。

 椅子は足りない。

 机も足りない。

 でも、誰かが自然に立つ場所を作り、誰かが椀を回し、誰かが水筒を置き、誰かが窓を開けた。

 部隊が増えるとは、椅子が足りなくなることでもある。

 そして、椅子を譲る人が増えることでもある。

 豆は二粒。

 市民。

 ニコが椀を見て言った。

「今日は市民です」

 ユウトが真顔で頷いた。

「ようこそ」

「何にですか」

「豆社会へ」

「入りたくなかったです」

 リゼが笑う。

「でも、もう隊員だから」

 その言葉に、ニコが少しだけ顔を上げた。

 隊員。

 それは、任命書よりも食堂で言われた方が効くことがある。

 通信塔から定時連絡が流れた。

『各避難列、異常なし。夏季広域後退計画、各隊人員配置更新』

 人員配置更新。

 その言葉は、今日の食堂に少し似合っていた。

 人が増えた。

 役割が増えた。

 見る場所が増えた。

 そして、カナタ一人で見なくてもいい場所が増えた。

 リゼが隣に座る。

「どう?」

「何がですか」

「人数」

「狭いです」

「そこ?」

「でも、少し安心します」

 リゼは椀を持ち上げた。

「人が増えると、帰れる数も増える」

「はい」

「でも、迷子も増える」

「はい」

「だから、繋ぐ」

 彼女は赤布を指で軽く叩いた。

「カナタさんは先を見て。こっちは繋ぐから」

 カナタは頷いた。

 真夏の食堂は暑い。

 人が多くて、椀が足りなくて、豆は二粒で、窓の外では虫が鳴いている。

 それでも、今日は少しだけ部隊になった気がした。

 手袋は乾いていた。

 乾きすぎて、少し硬い。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 もう、誰かに湿っていると言われる季節ではない。

 でも、たぶん、湿った手袋のままでもよかった。

 それを笑う人がいる。

 覚えている人がいる。

 繋いでくれる人がいる。

 人数が増える。

 それは、やることが増えるということだ。

 そして、任せられる場所が増えるということでもあった。

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