帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
真夏にも、終わりかけの顔がある。
まだ暑い。
朝から暑い。
食堂の窓は全開で、開けたところでぬるい風しか入ってこない。洗濯物は昼前には乾く。乾きすぎて、靴下は少し怒ったみたいに硬くなる。格納庫の鉄板は相変わらず熱を持ち、三号車の屋根に手を置いたユウトが「目玉焼きいけますかね」と言って、ミナに真顔で怒られていた。
だから、夏はまだ終わっていない。
終わっていないのに、どこかが少し違う。
夕方の光が前より短い。
虫の声が、昼の厚みから夜の細さへ変わるのが少し早い。
水場のぬるさに、ほんのわずか冷たいものが混じる。
空の端に、低くて重い雲が増える。
夏は、去る時も勝手だった。
来る時と同じように。
「今日の豆、二粒」
ユウトが椀を覗き込んで言った。
「市民」
タクトが答える。
「夏の終わりの市民」
「詩的ですね」
「豆二粒で詩をやると、かなり薄い」
「スープと同じです」
「自分で言って傷ついた」
リゼが笑った。
手首の赤布は、もうすっかり見慣れたものになっていた。
最初は目印だった。
次に、戻る場所だった。
今は、彼女の声に近い。
赤布が揺れると、誰かが振り返る。赤布が結ばれると、そこに人が集まる。赤布が高く上がると、帰ろう、という意味になる。
同じ布なのに、意味が増えている。
人も同じかもしれない。
カナタは食堂を見た。
人が増えた。
椅子は相変わらず足りない。それでも、誰が立つか、誰が先に椀を受け取るか、誰が窓際を譲るか、前より自然に決まるようになっていた。
オルガが水場から戻ってきた隊員に声をかける。ベンが水筒を数えている。ニコが黒札の紐を直している。ヒナセは通信機を抱えたまま、椀の豆を数え忘れている。マコトは手順書に何かを書き足している。たぶん今日も「暑い」と書いている。
人が増えた。
声も増えた。
けれど、少しだけ部隊になってきた。
「カナタさん」
リゼが言った。
「はい」
「また数えてる?」
「豆ですか」
「人」
カナタは少し黙った。
「数えています」
「癖?」
「仕事です」
「便利な言い方」
「はい」
リゼは椀を両手で持った。
湯気はほとんど見えない。
でも、ある。
「でも、前より顔が怖くない」
「そうですか」
「うん。前は、全部逃げそうな顔で見てた」
「今は?」
「任せる場所を探してる顔」
カナタは食堂をもう一度見た。
任せる場所。
そうかもしれない。
オルガには声。
ベンには水。
ニコには止まる場所。
タクトには音。
ユウトには、場を少しだけ壊さない軽口。
ハルクには境界。
セナには人の限界。
ヒナセには遠くの声。
マコトには残す言葉。
ミナには車。
ガレスには決めること。
リゼには、繋ぐこと。
カナタは、先を見る。
全部を見るのではない。
そう思えるようになるまで、思ったより時間がかかった。
午前の任務は、装備の再配置だった。
夏季広域後退計画に備えて、ハウンド七の倉庫がまた少し変わる。
白線布は入口側。
赤布は三か所に分散。
黒札は小箱に分ける。
灯火器は充電順を決める。
水筒はベンの管理棚へ。
静音布はタクトの箱へ。
医療袋はセナが勝手に、誰も触らない位置へ移動した。
誰かが触ると怒られる位置、というのは軍においてかなり強い防犯だった。
「この棚、また増えましたね」
ユウトが言った。
帰ってきたもの置き場の横に、道具棚が増えている。
ミナの作った棚だ。
相変わらず少し斜め。
「斜めですね」
マコトが言う。
「味」
ミナが即答する。
「歪みです」
「味のある歪み」
「前にも聞きました」
棚には、いろいろなものが並んでいる。
帰ってきたもの。
帰る道具。
その境目は、もうかなり曖昧だった。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
紙片《かえる》。
短いチョーク。
焦げた端子。
前線の金具。
砲兵の識別布。
橋の歯。
壊れた赤灯。
そして、キャンプの火で焦げた小さな杭。
誰かが《帰った杭》と書いた札を置いている。
たぶんユウトだ。
「杭も帰るんですね」
ニコが言った。
「帰ります」
タクトが答える。
「道具も帰すので」
「覚えました」
「いい傾向」
リゼが満足そうに頷く。
「帰還誘導兵っぽい」
ユウトが棚を眺める。
「そのうち棚が避難列になりますね」
「棚の撤退計画が必要です」
マコトが真面目に言った。
「冗談です」
「でも、火災時は」
「真面目にしないで」
午後、訓練はなかった。
正確には、訓練扱いではなかった。
各自、休養と準備。
つまり、みんな何かをしていた。
オルガは新人たちに赤布の振り方を教えている。ベンは水筒の蓋に番号を振っている。ニコは黒札の置き方を広場で一人練習している。ユウトはそれを見て「黒札自主練、強そう」と言い、セナに「邪魔するな」と怒られた。
タクトは静音布を折っている。
ヒナセは赤灯の点滅を試している。
一回。
二回。
三回。
ユウトが近づこうとすると、ヒナセが無言で七回点滅させた。
「俺警告、使われた」
「正式化しました」
ヒナセが言う。
「不名誉な正式化」
カナタは格納庫の外に出た。
真夏の午後の空は高い。
高いのに、どこか重い。
日差しはまだ強い。しかし、風の端に少しだけ違うものが混じっている。
乾いた草の匂い。
ぬるい水路の匂い。
鉄板の熱。
そして、遠くの雨の匂い。
まだ降っていない。
でも、どこかで降っている。
夏の終わりが、遠くで少しずつ準備をしているみたいだった。
「いた」
リゼが後ろから来た。
手には赤布ではなく、短いチョーク。
旧学校区から持ってきたもの。
「チョーク」
「今日は日光浴」
「チョークに必要ですか」
「たぶん不要」
「ならなぜ」
「私が見たかったから」
リゼは防雪柵の残骸に腰を下ろした。
真夏なのに防雪柵。
季節外れの骨。
その横で、彼女はチョークを指先で転がす。
「夏の学校ってさ」
彼女が言った。
「暑かったんだよね」
「前にも言っていました」
「言った」
「はい」
「でも、今日は違う暑さだった」
リゼは空を見る。
「学校の暑さは、終わる暑さだった。夏休み前とか、体育祭前とか、試験前とか。嫌でも、その先に何かあった」
カナタは黙って聞いた。
「ここの暑さは、続く暑さ」
「続く」
「うん。終わりが見えない暑さ。でも最近、ちょっとだけ先が見える。夏季広域後退計画って、嫌な先だけど」
「はい」
「それでも、先がある」
リゼはチョークを握った。
「私は、学校に戻りたいんじゃなくて、あの暑さがあったことを忘れたくないんだと思う」
「はい」
「でも、今はこっちで呼ぶ」
彼女は格納庫の方を見る。
赤布。
白線。
黒札。
人。
ごちゃごちゃした帰還誘導兵の拠点。
「帰ってこいって。帰ろうって」
声は静かだった。
けれど、もう弱くはなかった。
カナタは頷いた。
その時、通信塔のスピーカーが鳴った。
短い通知音。
警報ではない。
だが、昼の暑さが一瞬だけ別のものになる。
アイラの声。
『前線第三方面より定時外通達』
ノイズ。
全員が顔を上げる。
格納庫の中から、ユウトの声が止まる。
赤灯の点滅も止まる。
『第三方面防衛線、接触増大』
風が止まったように感じた。
『夏季広域後退計画、発令待機段階へ移行。各隊、即応準備』
発令ではない。
まだ、動けという命令ではない。
けれど、もう動かないでいいという意味でもなかった。
待機。
準備。
即応。
その三つの言葉は、暑い空気の中で薄い刃物みたいに並んだ。
カナタはリゼを見た。
リゼもこちらを見ていた。
その目に驚きはある。
怖さもある。
でも、逃げる色ではなかった。
格納庫の中で、ガレスが言った。
「配置確認。だが、出るな」
怒鳴らなかった。
だから余計に重かった。
「全員、今日中に装備を一度まとめろ。水、赤布、黒札、灯火、医療、車両。祭りの準備も止めるな」
「祭りもですか」
ユウトが訊いた。
「待機だからな」
ガレスは火のつかない煙草を咥え直した。
「まだ、祭りはできる」
その言葉で、誰かが小さく息を吐いた。
安心ではない。
猶予だった。
けれど、猶予はいつも何かに似ている。
休み時間。
夕方。
祭りの準備。
終業式の前日。
明日があるふりをして、今日を少しだけ普通にする時間。
リゼがチョークをポケットへ入れた。
「カナタさん」
「はい」
「先、見える?」
カナタは格納庫の壁に貼られた地図を思い出した。
赤線。
青線。
橋。
水。
前線。
避難列。
多すぎる線。
見える。
全部ではない。
でも、詰まりそうな場所はいくつか見える。
まだ起きていない混乱の輪郭が、暑い空気の向こうにある。
「少しだけ」
カナタは言った。
「じゃあ、それで行こう」
リゼは赤布を手首に巻き直した。
「こっちは繋ぐ」
短い言葉。
それだけで、足が前へ出た。
格納庫では、夏季広域後退計画の地図が広げられていた。
ガレスが指示を出す。
「第一避難列の予定線を再確認。前線補給車両は東六号橋を使う。医療搬送は第二路。ハウンド七は受け入れ準備を維持。第一班は南門、第二班は橋、第三班は食堂前。まだ動かすな。だが、動けるようにしろ」
声が重い。
でも、流れている。
「カナタ」
「はい」
「見る場所を決めろ」
全部見ろ、ではなかった。
見る場所を決めろ。
それだけで、少し息ができた。
カナタは地図を見る。
東六号橋。
ハウンド七南門。
給水路。
前線補給車両。
避難列第一。
最初に詰まるのは、橋ではない。
橋の手前。
水場の横。
暑さで止まる人と、補給車両の待機が重なる。
「南門前に水を置かないでください」
カナタは言った。
ベンが顔を上げる。
「水、必要です」
「必要です。でも南門の正面だと詰まります。水は右側、防雪柵の影へ。動線から外す。飲みに来る人と進む人を分けます」
ベンは一瞬だけ考えた。
そして頷く。
「水、右側へ」
リゼがすぐ声をつなぐ。
「オルガ、赤布は水じゃなくて進路に!水はベンが見る!」
「了解!」
「ニコ、黒札は南門正面じゃない。右へ誘導する手前!」
「はい!」
動く。
全員が。
しかし、それは出撃ではなかった。
祭りの前に、椅子の位置を変えるような動きだった。
でも、椅子の位置で人は詰まる。
水筒の場所で列は曲がる。
赤布の結び目で、誰かが帰れる。
カナタはそれを知っている。
だから動く。
夕方には、空の端が少しだけ涼しい色になっていた。
夏の終わりが近づいている。
その前に、まだできることがある。
カナタは手袋をはめ直した。
乾いている。
硬い。
息を吹きかける。
温かくはならない。
もう十分、温かい。
「明日」
リゼが言った。
「祭りの準備、やるよね」
カナタは少しだけ黙った。
前線は接触増大。
計画は発令待機。
各隊は即応準備。
状況は悪くなっている。
でも、まだ発令はされていない。
まだ、今日と明日の間には細い線がある。
「やります」
カナタは言った。
「たぶん」
「たぶんで十分」
リゼは笑った。
その笑い方は、夏の終わりの光に少し似ていた。
明るいのに、どこか短い。
真夏の終わりの風が、格納庫の入口を抜けた。
暑い。
でも、少しだけ違う。
夏の大撤退は、まだ始まっていなかった。
けれど、始まっていないものの影だけが、もうハウンド七の足元まで来ていた。
その影の上で、彼らは明日の祭りの準備を続けた。