帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
夏の匂いは、朝からずるかった。
まだ一日は始まったばかりなのに、もう終わった後みたいな顔をしている。
食堂の窓は全開だった。
冬なら考えられないことだった。春でも、まだ少し勇気が必要だった。けれど今は違う。窓を開けなければ、食堂の中が湯気と汗と濡れた布と豆スープの匂いでいっぱいになる。
湯気は、もう白く立たない。
椀の上で少しだけ揺れて、すぐ見えなくなる。
冬の湯気はよかった。
白くて、いかにも温かそうで、味が薄いことを少しだけごまかしてくれた。あれは食堂にいる全員を、わずかに騙していたのだと思う。温かいものを食べている。まだここは人間の場所だ。まだ大丈夫だ。そういう、小さい嘘。
夏の豆スープは正直だった。
薄いものは薄い。
温かいものは暑い。
椀の中の豆は二粒だった。
「市民ですね」
ユウトが言った。
彼は自分の椀を覗き込んで、少しだけ眉を寄せていた。朝からすでに前髪が額に張りついている。汗なのか、窓から入った湿気なのか、たぶん両方だった。
「二粒なら市民ですか」
マコトが真面目に訊いた。
「そうです。三粒から貴族、四粒で王権、五粒は神話」
「記録します」
「しないでください」
ユウトは即答した。
タクトが隣で笑った。
腰のオレンジソーダ缶は鳴らない。布が巻かれている。夏用の布だと本人は言っていた。誰かの古いシャツを切ったもので、冬の布より少し明るい色をしている。缶に季節感が必要なのかは分からない。でも、タクトがそうしたいなら必要なのだろう。
カナタは自分の椀を見た。
二粒。
市民。
市民の朝は薄かった。
食堂の隅では、帰ってきたもの置き場が朝の光を受けていた。
古い学校机。
天板の《帰りたい》という落書き。
赤い手袋。
白線布の切れ端。
黒札《なんか嫌》。
折れた確認棒。
焦げた端子。
紙片《かえる》。
優勝豆。
優勝豆は、いつ見ても意味が分からない。
けれど、そこに置かれているものは、だいたいそういうものだった。意味が分からない。役に立たない。捨てても誰も困らない。でも、なくなると少しだけ何かが欠ける。
そういうものばかりが帰ってきた。
そして、そういうものばかりが残った。
「今日、祭りやるって」
リゼが言った。
彼女は窓際に座っていた。赤布で髪をまとめている。手首に巻いていた時より、赤が高い場所にある。それだけで、食堂の中が少しだけ明るく見えた。
「祭りではなく、慰労と備品整理を兼ねた夕食会です」
マコトが言った。
「長い。祭りでいいよ」
「正式には」
「正式は暑いから休み」
「正式にも休みがあるんですか」
「夏だから」
リゼはそう言って、椀の底を覗いた。
「二粒。市民」
「リゼさんも市民ですか」
ユウトが言う。
「今日は平等社会」
「平等に薄いですね」
「革命が必要だね」
「まず豆を増やしましょう」
くだらない会話だった。
でも、そのくだらなさが朝の食堂を少しだけ涼しくした。
外では蝉が鳴いていた。
このあたりの蝉は、鳴き方が少し遠慮がない。春の虫は草の中で控えめに鳴く。夏の蝉は違う。ここは俺の季節だ、と言わんばかりに鳴く。砲声よりは小さい。でも、ずっと続く。だから、少しずつ頭の裏に入り込んでくる。
カナタは窓の外を見た。
格納庫の屋根が朝から熱そうだった。
三号車は半分だけ日陰に入っている。ミナが車体の下に潜っていて、足だけ見えていた。油と草と熱を持った鉄の匂いが、風に混じって食堂まで来る。
夏のハウンド七は、冬より広く見える。
雪がないからだ。
隠してくれるものが減ったからだ。
地面のひび割れも、古い轍も、壊れた防雪柵も、全部見える。見えるものが増えると、少し安心する。けれど、見えすぎるものは時々よくない。
カナタは無意識に、食堂の出口を数えていた。
正面。
格納庫側。
厨房裏。
窓。
祭りをやるなら、外への導線は二本。子供が集まるなら、赤布は食堂前と水場。火を使うなら医療棟から離す。車両の出入りを考えるなら、三号車の前は空ける。
「仕事してる顔」
リゼが言った。
「してません」
「じゃあ顔が勝手に働いてる」
「迷惑ですね」
「休ませてあげなよ」
リゼは窓の外を見た。
「今日は祭りだから」
「訓練では」
「祭り」
「備品整理では」
「祭り」
「……はい」
「勝った」
リゼは少し笑った。
その笑い方は、旧学校区へ行く前とは違っていた。
軽いのに、逃げていない。
笑っているのに、何かをちゃんと見ている。
カナタはそれを見るたびに、少しだけ不思議な気持ちになる。
人は帰ってきても、元の場所には戻らない。
でも、戻らなかったからといって、壊れたままでもない。
別の形で立つ。
リゼはそういう人になった。
昼前から、ハウンド七は少しずつ祭りになった。
もちろん、本物の祭りではない。
提灯はない。
浴衣もない。
屋台もない。
焼きそばもない。
ユウトはそこにかなり不満があるらしかった。
「祭りに焼きそばがないのは、制度上の欠陥だと思います」
「制度ではありません」
マコトが答える。
「じゃあ文明上の欠陥」
「大きくなりましたね」
「焼きそばは大きい問題です」
代わりにあったのは、缶詰くじだった。
補給班が余った缶詰を木箱に入れ、布で隠し、引いた缶詰をその日の夕食に追加できるという、かなり雑な催しだった。
当たりは肉。
普通は豆。
外れは謎の魚。
謎の魚は本当に謎だった。誰も産地を知らない。ラベルも剥がれている。開けるまで魚かどうかも分からない。それでも一応、魚と呼ばれていた。
「外れが怖すぎる」
ユウトが木箱を見ながら言った。
「運試しです」
タクトが答える。
「戦場で十分試されてるんですけど」
「追加試験」
リゼが言う。
「補習みたいに言わないで」
その隣では、ミナが三号車の前に札を立てていた。
《三号車展示中》
誰も頼んでいない。
「触っていいの?」
避難民の子供が訊いた。
「だめ」
ミナは即答した。
「見るだけ」
「見るだけ?」
「感じてもいい」
「何を?」
「頑張り」
子供は困った顔をした。
カナタも困った。
けれど、三号車は確かに頑張っていた。
傷。
泥。
へこんだ装甲。
何度も直された配線。
それらは、見るだけで少し分かる。車両にも、帰ってきたもの特有の顔がある。
ハルクは射的の台を作っていた。
空薬莢を並べ、木片を的にする。
彼が並べると、ただの遊びなのに、やけに堅牢な防衛陣地に見えた。
「壁が屋台作ってる」
リゼが言う。
「人だ」
ハルクが答える。
「今日は屋台」
「人だ」
「譲らないね」
「事実だ」
ヒナセは拡声器の調整をしていた。
夏の拡声器は、冬より頼りない音がした。湿気のせいかもしれない。あるいは、周りがうるさいせいかもしれない。蝉。人の声。鍋を洗う音。三号車の工具音。遠くの砲声。
遠くの砲声。
それは、祭りの準備の中に、最初から混じっていた。
誰も話題にしない。
でも、全員が知っている。
前線はそこにある。
夏祭りの向こう側に。
夕方、食堂前に赤布が結ばれた。
リゼが結んだ。
ただの目印ではない。
屋台の入口。
子供の集合場所。
迷った人の戻る場所。
そして、もし警報が鳴った時に、最初に見る場所。
全部を兼ねている。
祭りと戦争は、本当は並べてはいけないものだと思う。
けれど、ハウンド七ではよく並んだ。
豆スープと火薬。
靴下と砲声。
赤布と缶詰くじ。
そういうものが同じ机に置かれている。
カナタはそれを見て、少しだけ息苦しくなった。
苦しいのに、嫌ではなかった。
たぶん、全部ここにあるからだ。
帰ってきたもの。
これから出ていくもの。
置いていくかもしれないもの。
まだ何も知らない子供の笑い声。
全部。
「カナタさん」
ユウトが呼んだ。
「缶詰くじ、引きましょう」
「俺もですか」
「班長代理なので」
「理由になってません」
「責任ある缶を」
「嫌な責任ですね」
木箱の前に立つ。
布の下へ手を入れる。
金属の冷たさ。
夏なのに、缶詰は少し冷たい。
カナタは一つ掴んだ。
出す。
ラベルなし。
食堂が少し静かになる。
「謎ですね」
タクトが言った。
「謎です」
ヒナセが確認する。
ユウトが両手を合わせた。
「魚じゃありませんように」
ミナが缶を振った。
「音は悪くない」
「音で分かるんですか」
「分かんない」
「なぜ振ったんですか」
「雰囲気」
開ける。
豆だった。
歓声が上がった。
豆で歓声が上がる場所。
それがハウンド七だった。
カナタは笑った。
少しだけ。
その時、通信塔のスピーカーが鳴った。
警報ではない。
短い通知音。
でも、食堂前の空気は一瞬で変わった。
笑い声が止まる。
缶を持つ手が止まる。
蝉の声だけが急に大きく聞こえる。
アイラの声。
『第三方面前線、接触増大』
ノイズ。
『夏季広域後退計画、準備段階を維持。各部隊、待機』
待機。
また、その言葉だった。
第一話の雪の日にも、似た言葉を聞いた気がする。
動くな。
まだ大丈夫だ。
誰かが決めるまで、そこにいろ。
その全部が混じった言葉。
誰もすぐには動かなかった。
動かないのは、命令を聞いたからではない。
夏祭りの途中だったからだ。
手の中には豆の缶がある。
赤布は風に揺れている。
子供は射的の木片を握っている。
ミナは三号車の前で工具を持ったまま止まっている。
リゼは拡声器の方を見ている。
カナタは、木箱の中の缶詰を見た。
まだたくさんある。
まだ夜ではない。
まだ祭りは始まったばかりだ。
なのに、夏の向こうから、何かがこちらを見ている気がした。
レイスではない。
前線でもない。
もっと大きくて、名前のないもの。
終わりの気配。
ガレスが食堂の入口に立っていた。
いつからいたのか分からない。
火のつかない煙草。
くたびれたコート。
夏なのに、まだそのコートを着ている。
「続けろ」
短く言った。
誰も返事をしなかった。
でも、ユウトが少し遅れて言った。
「豆、当たりです」
ガレスは缶を見た。
「なら食え」
「祭り、続行ですね」
「待機だ」
「待機祭り」
「変な名前をつけるな」
少しだけ笑いが戻った。
弱い笑い。
でも、戻った。
リゼが赤布の結び目を直した。
さっきより強く。
風でほどけないように。
カナタはそれを見た。
今日は祭りだ。
たぶん。
でも、赤布は祭りの飾りではない。
帰る場所だった。
今夜、誰かが迷ったら、ここへ戻る。
警報が鳴ったら、ここを見る。
前線が崩れたら、ここから動く。
そういう場所が、祭りの真ん中にある。
夏の夕方は、まだ明るかった。
空は青と橙の間で迷っている。
蝉はうるさい。
豆の缶は開いている。
遠くの砲声は、少しだけ近い。
カナタは手袋を見た。
今日は乾いている。
乾いているのに、掌だけ少し汗ばんでいた。
息を吹きかける。
温かくはならない。
もともと、夏だった。
「悪化してない」
小さく呟いた。
リゼが聞いていた。
「夏の勝利?」
「手袋の話です」
「文化だね」
「責任を文化にしないでください」
リゼは笑った。
赤布が揺れた。
その向こうで、祭りの準備が再開する。
木片の的。
缶詰の山。
ぬるい風。
蝉。
遠い砲声。
ハウンド七の夏祭りは、まだ始まっていなかった。
でも、もう終わりの匂いがした。