帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十三話夏 祭りの準備

 夏の匂いは、朝からずるかった。

 まだ一日は始まったばかりなのに、もう終わった後みたいな顔をしている。

 食堂の窓は全開だった。

 冬なら考えられないことだった。春でも、まだ少し勇気が必要だった。けれど今は違う。窓を開けなければ、食堂の中が湯気と汗と濡れた布と豆スープの匂いでいっぱいになる。

 湯気は、もう白く立たない。

 椀の上で少しだけ揺れて、すぐ見えなくなる。

 冬の湯気はよかった。

 白くて、いかにも温かそうで、味が薄いことを少しだけごまかしてくれた。あれは食堂にいる全員を、わずかに騙していたのだと思う。温かいものを食べている。まだここは人間の場所だ。まだ大丈夫だ。そういう、小さい嘘。

 夏の豆スープは正直だった。

 薄いものは薄い。

 温かいものは暑い。

 椀の中の豆は二粒だった。

「市民ですね」

 ユウトが言った。

 彼は自分の椀を覗き込んで、少しだけ眉を寄せていた。朝からすでに前髪が額に張りついている。汗なのか、窓から入った湿気なのか、たぶん両方だった。

「二粒なら市民ですか」

 マコトが真面目に訊いた。

「そうです。三粒から貴族、四粒で王権、五粒は神話」

「記録します」

「しないでください」

 ユウトは即答した。

 タクトが隣で笑った。

 腰のオレンジソーダ缶は鳴らない。布が巻かれている。夏用の布だと本人は言っていた。誰かの古いシャツを切ったもので、冬の布より少し明るい色をしている。缶に季節感が必要なのかは分からない。でも、タクトがそうしたいなら必要なのだろう。

 カナタは自分の椀を見た。

 二粒。

 市民。

 市民の朝は薄かった。

 食堂の隅では、帰ってきたもの置き場が朝の光を受けていた。

 古い学校机。

 天板の《帰りたい》という落書き。

 赤い手袋。

 白線布の切れ端。

 黒札《なんか嫌》。

 折れた確認棒。

 焦げた端子。

 紙片《かえる》。

 優勝豆。

 優勝豆は、いつ見ても意味が分からない。

 けれど、そこに置かれているものは、だいたいそういうものだった。意味が分からない。役に立たない。捨てても誰も困らない。でも、なくなると少しだけ何かが欠ける。

 そういうものばかりが帰ってきた。

 そして、そういうものばかりが残った。

「今日、祭りやるって」

 リゼが言った。

 彼女は窓際に座っていた。赤布で髪をまとめている。手首に巻いていた時より、赤が高い場所にある。それだけで、食堂の中が少しだけ明るく見えた。

「祭りではなく、慰労と備品整理を兼ねた夕食会です」

 マコトが言った。

「長い。祭りでいいよ」

「正式には」

「正式は暑いから休み」

「正式にも休みがあるんですか」

「夏だから」

 リゼはそう言って、椀の底を覗いた。

「二粒。市民」

「リゼさんも市民ですか」

 ユウトが言う。

「今日は平等社会」

「平等に薄いですね」

「革命が必要だね」

「まず豆を増やしましょう」

 くだらない会話だった。

 でも、そのくだらなさが朝の食堂を少しだけ涼しくした。

 外では蝉が鳴いていた。

 このあたりの蝉は、鳴き方が少し遠慮がない。春の虫は草の中で控えめに鳴く。夏の蝉は違う。ここは俺の季節だ、と言わんばかりに鳴く。砲声よりは小さい。でも、ずっと続く。だから、少しずつ頭の裏に入り込んでくる。

 カナタは窓の外を見た。

 格納庫の屋根が朝から熱そうだった。

 三号車は半分だけ日陰に入っている。ミナが車体の下に潜っていて、足だけ見えていた。油と草と熱を持った鉄の匂いが、風に混じって食堂まで来る。

 夏のハウンド七は、冬より広く見える。

 雪がないからだ。

 隠してくれるものが減ったからだ。

 地面のひび割れも、古い轍も、壊れた防雪柵も、全部見える。見えるものが増えると、少し安心する。けれど、見えすぎるものは時々よくない。

 カナタは無意識に、食堂の出口を数えていた。

 正面。

 格納庫側。

 厨房裏。

 窓。

 祭りをやるなら、外への導線は二本。子供が集まるなら、赤布は食堂前と水場。火を使うなら医療棟から離す。車両の出入りを考えるなら、三号車の前は空ける。

「仕事してる顔」

 リゼが言った。

「してません」

「じゃあ顔が勝手に働いてる」

「迷惑ですね」

「休ませてあげなよ」

 リゼは窓の外を見た。

「今日は祭りだから」

「訓練では」

「祭り」

「備品整理では」

「祭り」

「……はい」

「勝った」

 リゼは少し笑った。

 その笑い方は、旧学校区へ行く前とは違っていた。

 軽いのに、逃げていない。

 笑っているのに、何かをちゃんと見ている。

 カナタはそれを見るたびに、少しだけ不思議な気持ちになる。

 人は帰ってきても、元の場所には戻らない。

 でも、戻らなかったからといって、壊れたままでもない。

 別の形で立つ。

 リゼはそういう人になった。

 昼前から、ハウンド七は少しずつ祭りになった。

 もちろん、本物の祭りではない。

 提灯はない。

 浴衣もない。

 屋台もない。

 焼きそばもない。

 ユウトはそこにかなり不満があるらしかった。

「祭りに焼きそばがないのは、制度上の欠陥だと思います」

「制度ではありません」

 マコトが答える。

「じゃあ文明上の欠陥」

「大きくなりましたね」

「焼きそばは大きい問題です」

 代わりにあったのは、缶詰くじだった。

 補給班が余った缶詰を木箱に入れ、布で隠し、引いた缶詰をその日の夕食に追加できるという、かなり雑な催しだった。

 当たりは肉。

 普通は豆。

 外れは謎の魚。

 謎の魚は本当に謎だった。誰も産地を知らない。ラベルも剥がれている。開けるまで魚かどうかも分からない。それでも一応、魚と呼ばれていた。

「外れが怖すぎる」

 ユウトが木箱を見ながら言った。

「運試しです」

 タクトが答える。

「戦場で十分試されてるんですけど」

「追加試験」

 リゼが言う。

「補習みたいに言わないで」

 その隣では、ミナが三号車の前に札を立てていた。

 《三号車展示中》

 誰も頼んでいない。

「触っていいの?」

 避難民の子供が訊いた。

「だめ」

 ミナは即答した。

「見るだけ」

「見るだけ?」

「感じてもいい」

「何を?」

「頑張り」

 子供は困った顔をした。

 カナタも困った。

 けれど、三号車は確かに頑張っていた。

 傷。

 泥。

 へこんだ装甲。

 何度も直された配線。

 それらは、見るだけで少し分かる。車両にも、帰ってきたもの特有の顔がある。

 ハルクは射的の台を作っていた。

 空薬莢を並べ、木片を的にする。

 彼が並べると、ただの遊びなのに、やけに堅牢な防衛陣地に見えた。

「壁が屋台作ってる」

 リゼが言う。

「人だ」

 ハルクが答える。

「今日は屋台」

「人だ」

「譲らないね」

「事実だ」

 ヒナセは拡声器の調整をしていた。

 夏の拡声器は、冬より頼りない音がした。湿気のせいかもしれない。あるいは、周りがうるさいせいかもしれない。蝉。人の声。鍋を洗う音。三号車の工具音。遠くの砲声。

 遠くの砲声。

 それは、祭りの準備の中に、最初から混じっていた。

 誰も話題にしない。

 でも、全員が知っている。

 前線はそこにある。

 夏祭りの向こう側に。

 夕方、食堂前に赤布が結ばれた。

 リゼが結んだ。

 ただの目印ではない。

 屋台の入口。

 子供の集合場所。

 迷った人の戻る場所。

 そして、もし警報が鳴った時に、最初に見る場所。

 全部を兼ねている。

 祭りと戦争は、本当は並べてはいけないものだと思う。

 けれど、ハウンド七ではよく並んだ。

 豆スープと火薬。

 靴下と砲声。

 赤布と缶詰くじ。

 そういうものが同じ机に置かれている。

 カナタはそれを見て、少しだけ息苦しくなった。

 苦しいのに、嫌ではなかった。

 たぶん、全部ここにあるからだ。

 帰ってきたもの。

 これから出ていくもの。

 置いていくかもしれないもの。

 まだ何も知らない子供の笑い声。

 全部。

「カナタさん」

 ユウトが呼んだ。

「缶詰くじ、引きましょう」

「俺もですか」

「班長代理なので」

「理由になってません」

「責任ある缶を」

「嫌な責任ですね」

 木箱の前に立つ。

 布の下へ手を入れる。

 金属の冷たさ。

 夏なのに、缶詰は少し冷たい。

 カナタは一つ掴んだ。

 出す。

 ラベルなし。

 食堂が少し静かになる。

「謎ですね」

 タクトが言った。

「謎です」

 ヒナセが確認する。

 ユウトが両手を合わせた。

「魚じゃありませんように」

 ミナが缶を振った。

「音は悪くない」

「音で分かるんですか」

「分かんない」

「なぜ振ったんですか」

「雰囲気」

 開ける。

 豆だった。

 歓声が上がった。

 豆で歓声が上がる場所。

 それがハウンド七だった。

 カナタは笑った。

 少しだけ。

 その時、通信塔のスピーカーが鳴った。

 警報ではない。

 短い通知音。

 でも、食堂前の空気は一瞬で変わった。

 笑い声が止まる。

 缶を持つ手が止まる。

 蝉の声だけが急に大きく聞こえる。

 アイラの声。

『第三方面前線、接触増大』

 ノイズ。

『夏季広域後退計画、準備段階を維持。各部隊、待機』

 待機。

 また、その言葉だった。

 第一話の雪の日にも、似た言葉を聞いた気がする。

 動くな。

 まだ大丈夫だ。

 誰かが決めるまで、そこにいろ。

 その全部が混じった言葉。

 誰もすぐには動かなかった。

 動かないのは、命令を聞いたからではない。

 夏祭りの途中だったからだ。

 手の中には豆の缶がある。

 赤布は風に揺れている。

 子供は射的の木片を握っている。

 ミナは三号車の前で工具を持ったまま止まっている。

 リゼは拡声器の方を見ている。

 カナタは、木箱の中の缶詰を見た。

 まだたくさんある。

 まだ夜ではない。

 まだ祭りは始まったばかりだ。

 なのに、夏の向こうから、何かがこちらを見ている気がした。

 レイスではない。

 前線でもない。

 もっと大きくて、名前のないもの。

 終わりの気配。

 ガレスが食堂の入口に立っていた。

 いつからいたのか分からない。

 火のつかない煙草。

 くたびれたコート。

 夏なのに、まだそのコートを着ている。

「続けろ」

 短く言った。

 誰も返事をしなかった。

 でも、ユウトが少し遅れて言った。

「豆、当たりです」

 ガレスは缶を見た。

「なら食え」

「祭り、続行ですね」

「待機だ」

「待機祭り」

「変な名前をつけるな」

 少しだけ笑いが戻った。

 弱い笑い。

 でも、戻った。

 リゼが赤布の結び目を直した。

 さっきより強く。

 風でほどけないように。

 カナタはそれを見た。

 今日は祭りだ。

 たぶん。

 でも、赤布は祭りの飾りではない。

 帰る場所だった。

 今夜、誰かが迷ったら、ここへ戻る。

 警報が鳴ったら、ここを見る。

 前線が崩れたら、ここから動く。

 そういう場所が、祭りの真ん中にある。

 夏の夕方は、まだ明るかった。

 空は青と橙の間で迷っている。

 蝉はうるさい。

 豆の缶は開いている。

 遠くの砲声は、少しだけ近い。

 カナタは手袋を見た。

 今日は乾いている。

 乾いているのに、掌だけ少し汗ばんでいた。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 もともと、夏だった。

「悪化してない」

 小さく呟いた。

 リゼが聞いていた。

「夏の勝利?」

「手袋の話です」

「文化だね」

「責任を文化にしないでください」

 リゼは笑った。

 赤布が揺れた。

 その向こうで、祭りの準備が再開する。

 木片の的。

 缶詰の山。

 ぬるい風。

 蝉。

 遠い砲声。

 ハウンド七の夏祭りは、まだ始まっていなかった。

 でも、もう終わりの匂いがした。

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