帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
祭りは、夕方から始まるものだと思っていた。
昼間の祭りは、どこか準備の途中みたいに見える。
明るすぎるからだ。
提灯の明かりは空に負けるし、屋台の影は短いし、誰かが笑っていても、その笑い声が逃げる場所がない。祭りには少し暗さがいる。顔が全部見えないくらいの暗さ。知らない人とすれ違っても、知っている人だったような気がするくらいの暗さ。夏の夕方の、青と橙が混ざって、どちらにも決めきれない時間。
ハウンド七の夏祭りも、たぶんそうだった。
昼間のうちは、ただの備品整理だった。
缶詰の箱。
空薬莢。
木片。
壊れた布。
余った紐。
曲がった杭。
誰かがそれを並べ、誰かが札を書き、誰かが「これ本当に祭りか」と言い、誰かが「祭りって言えば祭りになる」と言った。
言葉は便利だった。
正式名称をつけると面倒になるものも、祭りと言えば少し許される。
缶詰くじも、射的も、三号車展示も、豆数当て大会も、全部そうだった。よく見ると軍用物資と廃材と余り物だけでできている。でも、少し離れて見ると、なんとなく祭りに見えた。
たぶん、誰かがそう見たがっていたからだ。
「祭りですね」
ユウトが言った。
食堂前の空き地で、空薬莢を的に並べている。本人は射的係を名乗っていたが、的の配置が雑だった。縦に並んだ薬莢が、ちょっとした墓標みたいに見える。
「もう少し楽しそうに置けませんか」
カナタが言うと、ユウトは薬莢を一本横に倒した。
「どうです?」
「倒れた墓標です」
「評価が怖い」
「的にしましょう」
「はい」
ユウトは真面目な顔で薬莢を並べ直した。
その横でハルクが木の台を押さえている。押さえているだけなのに、そこだけ前線の仮設防壁みたいだった。
「壁が射的を守ってる」
リゼが言った。
「人だ」
ハルクが答える。
「今日は屋台番」
「人だ」
「頑固」
「事実だ」
リゼは笑った。
今日は赤布を髪に結んでいる。夕方の光を受けて、その赤が少し柔らかく見えた。吹雪の中の赤は生き残るための色だった。旧学校区の赤は戻るための色だった。今日の赤は、祭りの色に見えた。
でも、風が吹くと、やっぱり目印だった。
迷った子供が、まずリゼを見る。
水場を探す兵士が、赤布を探す。
ミナが三号車展示の位置を変えようとして、リゼの赤を見て「そこは人が通る」と言い、車両の向きを少しずらす。
祭りになっても、赤布は仕事をしている。
働き者だった。
「休ませてあげたいですね」
カナタが言うと、リゼは自分の髪の結び目に触れた。
「赤布?」
「はい」
「今日、楽しそうだよ」
「布の感情が分かるんですか」
「カナタさんだって手袋の調子分かるじゃん」
「それは」
「同じ」
同じではないと思った。
でも、少しだけ同じかもしれなかった。
ミナは本当に三号車展示を始めた。
格納庫前に三号車を出し、車体の傷を拭き、側面に札を貼る。
《さわるな》
その下に小さく、
《見るのは可》
さらにその下。
《感じるのも可》
「感じるって何をですか」
マコトが訊いた。
「歴史」
ミナは言った。
「記録します」
「しなくていい」
「しかし歴史と」
「今のは雰囲気」
「雰囲気の記録は」
「難しいからやめときな」
マコトは少し悩んで、結局メモ帳を閉じた。
成長だった。
たぶん。
タクトは静音チャレンジの係になっていた。
木箱の中に金属片や缶や小石を入れ、布で巻いて、振って音がしなければ成功。意味があるのかないのか分からない催しだったが、子供には人気だった。
「鳴った」
「もう一回」
「鳴らない」
「合格です」
タクトは真面目に判定している。
腰のオレンジソーダ缶は当然のように鳴らない。
それを見た子供が言った。
「お兄ちゃんの缶、すごい」
タクトは少しだけ困った顔をした。
「缶がすごいわけじゃないです」
「じゃあ布?」
「たぶん」
「布すごい」
「はい」
タクトは頷いた。
それでいいのだと思った。
缶がすごい。
布がすごい。
どちらでもいい。
そこにあるものを、少し大事に扱えるなら。
夕方が近づくにつれて、ハウンド七は本当に祭りになっていった。
窓に紙片が貼られる。
水を張った桶に缶が沈められる。
冷えるというほどではない。
ただ、ぬるさが少しだけ遅くなる。
それを冷えたと呼ぶのが、ハウンド七の夏だった。
食堂裏では、セナが救護席を作っていた。
祭りに救護席があるのは普通だ。
でも、その中身は普通ではなかった。
包帯。
水。
塩。
熱中症用の布。
担架。
止血帯。
かなり本気だった。
「祭りですよね」
ユウトが言った。
「祭りでも倒れる」
セナは短く答えた。
「正論が強い」
「水飲め」
「飲みます」
「今」
「はい」
セナの前では、冗談もあまり長生きしない。
日が傾いた。
空が赤くなった。
真夏の夕方は、いつまでも終わらないふりをする。冬の夕方はすぐ夜になる。春の夕方は少し迷う。夏の夕方は違う。光が地面に張りついて、草の先や車体の傷や人の頬に、しつこく残る。
そのしつこさが、少しだけ悲しい。
終わるくせに。
終わらない顔をしている。
缶詰くじの列ができた。
避難民。
兵士。
整備兵。
通信兵。
子供。
誰もが少しだけ浮ついていた。
木箱に手を入れる時、人はなぜか真剣になる。
当たりが肉だとしても、外れが謎の魚だとしても、未来が缶詰一個分しか変わらないとしても。
カナタは列を見た。
自然に。
入口。
出口。
子供が詰まりやすい場所。
木箱の前。
水桶の横。
でも今日は、リゼが先に動いた。
「こっち出口。引いた人は右。外れた人も右。泣く人も右」
「外れ前提ですか」
ユウトが言う。
「謎魚があるから」
「確かに」
列が少し流れた。
カナタは何も言わなかった。
言わなくても動いた。
それが少し嬉しかった。
少し寂しくもあった。
自分がいなくても回るものが増える。
それは正しい。
正しいことは、時々小さく寂しい。
カナタの番が来た。
箱に手を入れる。
昨日と同じ冷たい金属。
違うのは、周りに夜の匂いが混じっていることだった。
蝉の声が少し弱くなり、代わりに草むらから別の虫の声が出てきている。食堂の中から鍋の音がする。三号車のエンジンが一度だけ咳をした。遠くで砲声が鳴った。
遠く。
でも、昨日より近い。
カナタは缶を掴んだ。
出す。
ラベルあり。
肉だった。
ユウトが叫んだ。
「王権!」
「豆じゃないです」
「肉は王権を越えます!」
「制度が壊れましたね」
「革命です」
笑い声が上がった。
今度はちゃんと広がった。
空へ。
夜へ。
その笑い声の上に、砲声が重なった。
ずん、と。
空の遠くが赤く光った。
一瞬だけ、誰かが花火と言いそうになった。
誰も言わなかった。
赤い光は、花火より低かった。
花火は上へ開く。
あれは、地面で咲く。
地面に叩きつけられて、土と火と鉄を少しだけ空へ押し上げる。
祭りの明かりではない。
前線の明かりだった。
子供が空を見た。
誰かがその肩に手を置いた。
セナが救護席から顔を上げる。
ミナが三号車を見る。
ハルクが何も言わず、音のした方を見た。
ヒナセは通信機を抱えた。
リゼは赤布に触れた。
カナタは肉の缶を持ったまま、動けなかった。
肉は重かった。
缶詰一つが、こんなに重いわけがない。
でも重かった。
遠くでもう一度、光った。
遅れて音。
蝉が一瞬、鳴き止んだような気がした。
気のせいかもしれない。
ヒナセの通信機が鳴った。
短い。
祭りの音の中では、頼りない音だった。
でも全員が聞いた。
ヒナセが耳を押さえる。
「第三方面、夜間砲撃継続。異常拡大なし」
異常拡大なし。
便利な言葉だった。
異常はある。
でも、まだこちらへは来ていない。
だから祭りは続けていい。
そういう意味に聞こえた。
ガレスが食堂の入口に立っていた。
火のつかない煙草。
夏の夕方。
くたびれたコート。
「続けろ」
昨日と同じことを言った。
たぶん、昨日より少しだけ重かった。
ユウトが缶詰を見た。
「肉、開けます?」
「開けろ」
ガレスが言う。
「祭りだ」
その言葉で、何かが戻った。
完全には戻らない。
砲声はある。
赤い光もある。
通信もある。
でも、鍋の火が強くなった。
誰かが木箱へ手を入れた。
子供が射的へ戻った。
リゼが赤布を少し高い位置に結び直した。
カナタは肉の缶を調理台へ運んだ。
肉は、少し脂の匂いがした。
夏の油の匂いとは違う。
食べ物の油。
それだけで、食堂の周りに人が集まった。
人間は、こういう匂いに弱い。
戦争より弱いのかもしれない。
鍋に肉が入る。
豆も入る。
乾パンの砕いたものも入る。
謎の祭り汁ができた。
ユウトが覗き込む。
「これは」
「名前をつけないでください」
カナタは先に言った。
「夏祭り汁」
「遅かった」
「正式名称です」
「やめてください」
リゼが笑う。
「でも、ちょっと好き」
「味は保証しません」
「祭りっぽいから勝ち」
祭りっぽい。
それでいいのかもしれなかった。
完全な祭りではない。
安全でもない。
明日も続く保証はない。
でも、今この場所には鍋があり、赤布があり、缶詰くじがあり、射的があり、三号車展示があり、静音チャレンジがあり、夏の虫が鳴いている。
だから、祭りだった。
夜が来た。
提灯の代わりに、携行灯が吊られた。
黄色い光。
少し頼りない。
でも、頼りない光ほど、人は近づく。
食堂前の空き地に、小さな円ができた。
その真ん中で、リゼが赤布を持って立った。
「迷子案内しまーす」
声は軽い。
でも、よく通った。
「迷った人、赤いの見てくださーい。迷ってない人も、たまに見てくださーい」
「それ案内ですか」
ユウトが言う。
「確認」
「何の」
「帰る場所」
リゼはそう言って、赤布を振った。
子供が真似をした。
タクトが小さく笑った。
ハルクが射的台を直した。
ミナが三号車の傷を撫でた。
セナが水を配った。
ガレスが煙草を咥えていた。
カナタは、祭りの外側に立っていた。
外側から見ると、よく分かる。
ハウンド七は小さい。
本当に小さい。
前線の光に比べれば、携行灯の円など、すぐ消える。
レイスの大攻勢が来れば、こんな祭りは簡単に踏み潰される。
食堂も、格納庫も、帰ってきたもの置き場も、三号車展示も、缶詰くじも、全部。
そう思った。
思ってしまった。
でも、だから意味がないとは思わなかった。
小さいから、意味があるのかもしれない。
すぐ消えるから、今見ておく必要があるのかもしれない。
リゼがこちらを見た。
「カナタさん」
「はい」
「そこ、祭りの外」
「見てました」
「中から見て」
カナタは少し迷った。
迷ってから、歩いた。
携行灯の黄色い円の中へ入る。
暑い。
人の熱。
鍋の熱。
夏の夜の熱。
そして、少しだけ肉の匂い。
リゼが椀を渡した。
「夏祭り汁」
「その名前、定着したんですか」
「した」
「してないと思います」
「今した」
椀を受け取る。
湯気はほとんど見えない。
でも、温かかった。
飲む。
薄い。
豆。
乾パン。
肉。
よく分からない味。
でも、ちゃんと味がした。
遠くで、また赤い光。
今度は誰も立ち止まらなかった。
完全に無視したわけではない。
全員、少しだけそれを見た。
見てから、椀へ戻った。
それでよかった。
たぶん。
祭りは、夜の半分くらいまで続いた。
射的の景品は尽きた。
缶詰くじの木箱は空になった。
三号車展示は、ミナが「もう寝る」と言って終了した。
静音チャレンジは、最後にユウトが自分の装備を鳴らして失格した。
リゼの赤布は、少し汗と夜露を吸って重くなっていた。
終わりの時間になっても、誰もはっきり終わりと言わなかった。
祭りは、そういうものかもしれない。
始まりは雑で、終わりはもっと雑。
気づいたら人が減り、火が小さくなり、片付けるものだけが残る。
カナタは空き地の端で、最後の携行灯を外した。
暗くなる。
星は見えなかった。
雲が薄くかかっている。
その向こうで、前線の赤い光が一度だけ滲んだ。
花火には見えなかった。
もう。
リゼが隣に来た。
「終わったね」
「はい」
「祭り、ちゃんと祭りだった?」
「たぶん」
「たぶんで十分」
リゼは赤布をほどいた。
結ばれていた柱には、布の跡が残っている。
少しだけ赤い粉のようなものがついていた。
「明日もやる?」
カナタは答えなかった。
答えられなかった。
明日。
その言葉が、今日は少し遠い。
リゼは別に返事を待っていなかった。
赤布を畳む。
「じゃあ、また今度」
軽く言った。
また今度。
便利な言葉だった。
次があるか分からない時ほど、人はそう言う。
カナタは手袋を見た。
汗で少し湿っている。
息を吹きかけた。
温かくはならない。
夏だからだ。
「悪化した」
小さく言う。
リゼが笑った。
「祭りのせい?」
「夏のせいです」
「じゃあ夏が悪い」
「はい」
遠くで砲声が鳴った。
夏の夜に、低く。
ハウンド七の夏祭りは終わった。
でも、終わった後の匂いはしばらく残った。
肉。
油。
汗。
草。
火薬。
赤布。
それらが混ざった匂いを、カナタは覚えてしまう。
たぶん、ずっと。
夏の終わりに思い出す匂いは、きっとこういう匂いなのだと思った。