帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十五話 崩壊開始

 祭りの翌朝は、少しだけ汚い。

 これは、たぶんどこの祭りでも同じだと思う。

 紙くずが落ちている。

 倒れた椅子がある。

 水の入った桶に、正体の分からない葉っぱが浮いている。

 誰かが片付け忘れた木片が、朝の光の中で急にただの木片に戻っている。夜には射的の的だったもの。子供が笑い、ユウトが外し、ハルクが無言で直したもの。それが朝になると、ただの木片になる。

 祭りは、終わったあとがいちばん正直だった。

 ハウンド七の食堂前には、昨夜の匂いがまだ残っていた。

 肉。

 油。

 汗。

 草。

 火薬。

 夏祭り汁の鍋は洗われていたが、完全には消えない。鍋の縁に、乾パンが溶けたものが少しこびりついている。水場には缶詰の空き缶が積まれていて、タクトがそれを一つずつ布で包んでいた。

「全部、鳴らないようにするんですか」

 カナタが訊くと、タクトは少し考えた。

「鳴ると、昨日が終わった感じがするので」

「……そうですか」

「はい」

 タクトはまた缶を包んだ。

 きゅ、と布を結ぶ。

 空き缶は鳴らない。

 昨夜、そこに肉が入っていた。豆が入っていた。誰かが笑いながら椀を覗き込んだ。その証拠が、音もなく箱へ戻されていく。

 カナタはそれを見て、少しだけ胸の奥が冷えた。

 夏なのに。

 朝から暑いのに。

 冷える場所は、季節に関係ない。

 ユウトは食堂の窓の下で、紙片を剥がしていた。

 昨日、誰かが貼った《祭り入口》という札。

 今見ると、かなり雑な字だった。

「これ、取るのもったいなくないですか」

 ユウトが言った。

「入口はもうありません」

 マコトが答える。

「祭りの入口は消えたけど、思い出の入口は残るかもしれない」

「詩的ですね」

「今の記録していいですよ」

「しません」

「なぜ」

「少し嫌だったので」

「正直」

 リゼは赤布を洗っていた。

 桶の水に浸して、指で軽く押す。昨夜の汗と夜露と、少しの土が水へ広がる。赤い布は、水の中でも赤かった。

 色が強い。

 カナタはそう思った。

 雪の中でも、泥の中でも、夏の水の中でも、赤は赤のままだった。

「それ、乾きますか」

「夏だから」

 リゼが言った。

「夏は偉いね」

「偉いですか」

「勝手に来るし、勝手に乾かす」

「かなり迷惑な偉さですね」

「うん」

 リゼは布を絞った。

 水が落ちる。

 赤い水ではない。

 透明だった。

 少しほっとした。

 何にほっとしたのか、カナタには分からなかった。

 その時、遠くで砲声が鳴った。

 昨日の夜から何度も聞いている音だった。

 だが、朝に聞くと少し違う。

 夜の砲声は、遠い花火に似ていた。

 朝の砲声は、仕事の音に似ている。

 誰かが起きて、道具を持ち、汗をかき、命令を受け、撃っている。

 そういう人間の動きが音の奥に見える。

 カナタは東の空を見た。

 青かった。

 あまりにも普通に青かった。

 雲は薄く、空気は湿って、蝉は朝からうるさい。

 世界は、前線が崩れそうな顔をしていなかった。

 だから嫌だった。

 崩れるものは、崩れる前にもっと分かりやすくしてほしい。

 警報を鳴らしてほしい。

 空の色を変えてほしい。

 蝉を黙らせてほしい。

 でも、たぶん世界はそんなに親切ではない。

 朝食の豆は二粒だった。

 市民。

 ユウトは椀を覗いて言った。

「祭り翌日の市民、落差ありますね」

「昨日が異常だったんです」

 タクトが答える。

「肉の夢を見ました」

「幸せですね」

「起きたら豆でした」

「現実ですね」

「現実、きつい」

 食堂に小さな笑いが起きた。

 昨日より弱い。

 でも、まだ笑いだった。

 ガレスは入口近くに立っていた。

 椀を持っていない。

 火のつかない煙草を咥えている。

 祭りの翌朝なのに、顔だけは昨日の夜から帰ってきていないように見えた。

「副長、食べないんですか」

 ユウトが訊く。

「あとで食う」

「あとで食う人は、だいたい食わないってセナさんが」

「セナに言うな」

「言われる前提なんですね」

 ガレスは答えなかった。

 煙草を咥え直す。

 火はついていない。

 カナタは、その煙草を見た。

 昨日の夜、ガレスは祭りを続けろと言った。

 今朝は何も言わない。

 何も言わないことが、何かを言っているようだった。

 通信塔のスピーカーが鳴ったのは、その少し後だった。

 短い警告音。

 いつもの音。

 でも、食堂の空気は変わらなかった。

 いや、変わるのが遅れた。

 祭りの翌朝だったからだ。

 誰かが椀を置く。

 誰かが箸を止める。

 蝉は止まらない。

 アイラの声が流れた。

『第三方面前線、敵接触増大』

 ノイズ。

『アイゼン砲撃群、第二陣地へ後退準備』

 誰もすぐには立たなかった。

 後退準備。

 昨日も似たような言葉を聞いた。

 準備。

 待機。

 接触増大。

 そういう言葉は、危機を薄めるためにあるのだと思う。

 誰かが血を流している時でも、通信では接触と言う。

 誰かが逃げる時でも、後退準備と言う。

 その方が、聞いている人間が椀を落とさずに済むからだ。

 しかし、次の通信で薄まりきらなかった。

『ブルーグラス観測班、四号観測点との通信途絶』

 食堂が静かになった。

 今度は早かった。

 通信途絶。

 それは、戻ってこない言葉だった。

 アイラの声が少しだけ乱れる。

『繰り返す。四号観測点、通信途絶。三号観測点、応答遅延』

 ガレスが椀のない手で通信機を取った。

「状況」

 アイラの声。

『ハウラー反応、多数』

 ハウラー。

 リゼの手が、赤布の上で止まった。

 タクトが腰の缶を押さえる。

 ユウトが顔を上げる。

 セナが医療袋を持つ。

 ミナが格納庫の方を見た。

 ハルクは立っていた。

 いつ立ったのか分からない。

 カナタは椀の中を見た。

 豆が一粒残っていた。

 食べるべきか、立つべきか。

 こんな時にそんなことを考える自分が、少し嫌だった。

 でも、豆はそこにある。

 残したら冷める。

 冷めた豆は、たぶんもっと硬い。

「食べて」

 セナが言った。

 誰にでもなく。

「今から動く人は食べて」

 その声で、何人かが椀へ戻った。

 カナタも豆を飲み込んだ。

 味はほとんどしなかった。

 でも、体の中へ入った。

 それで十分だった。

 次の通信は、食堂ではなく格納庫で聞いた。

 全員が動いていた。

 三号車の周りに人が集まる。

 ミナが工具箱を開ける。

 ユウトが弾薬箱を確認する。

 タクトが静音布を配る。

 ヒナセが通信機材を背負う。

 マコトが記録帳を出して、すぐ閉じる。

 リゼが赤布を髪から外し、手首へ巻き直す。

 祭りの赤から、帰還の赤へ。

 同じ布なのに、結び方だけで意味が変わる。

 そのことが、少し怖かった。

 アイラの声。

『第三方面、敵影増大。小型群、複数。バスティオン二、確認』

 ノイズ。

『ハウラー群、通信帯域へ干渉』

 途切れる。

 戻る。

『……白線誘導地点に敵接近』

 カナタは顔を上げた。

「白線誘導地点?」

 ガレスが低く言う。

「狙ってるな」

 狙っている。

 その言葉が、格納庫の鉄板より熱く聞こえた。

 レイスはこちらを見ていた。

 前からだ。

 待つことを覚えた。

 回り込むことを覚えた。

 赤を見ることを覚えた。

 白線の先に人が来ることも、たぶん覚えた。

 今、前線で起きているのは、新しい知性の誕生ではない。

 積み上げられた観察が、いっせいに形になっただけだ。

 その方が、ずっと嫌だった。

 昨日の祭りも。

 赤布も。

 白線も。

 帰る場所も。

 全部、見られていたような気がした。

「カナタ」

 ガレスが言った。

「前線支援に出る。帰還誘導班、第一出動」

「はい」

「前線部隊が下がる。計画より早い」

「どれくらい」

「半日」

 半日。

 短い。

 あまりにも短い。

 撤退計画における半日は、椀の中の豆一粒とは違う。

 車両の順番が変わる。

 水の量が変わる。

 道の乾き方が変わる。

 負傷者の状態が変わる。

 そして、人の覚悟が間に合わない。

 覚悟にも、準備時間がいる。

 たぶん。

「三号車、出せる?」

 ガレスが訊く。

 ミナは三号車の側面を叩いた。

「出す」

「出せるかじゃなくて?」

「出す」

 それ以上、誰も聞かなかった。

 三号車のエンジンがかかる。

 咳をした。

 一度。

 二度。

 それから、低く続いた。

 車も昨日の祭りで少し疲れているのかもしれない。

 そんなことを考える自分が嫌だった。

 でも、三号車は動いた。

 なら、行ける。

 ハウンド七を出る時、食堂前の祭りの跡が見えた。

 木片。

 空き缶。

 赤布が結ばれていた柱。

 水の入った桶。

 半分剥がれた《祭り入口》の札。

 全部、朝の光の中で少し恥ずかしそうに残っている。

 昨日はあんなに賑やかだったのに。

 今は、置いていかれるものの顔をしていた。

 カナタはそれを見た。

 見てしまった。

 見なければよかったかもしれない。

 でも、見る仕事だった。

 三号車は東へ走った。

 夏の道。

 草。

 熱。

 湿気。

 防雪柵だったもの。

 道端の水溜まり。

 遠くの煙。

 前線が近づくにつれ、蝉の声に別の音が混じった。

 砲声。

 機銃。

 金属が裂ける音。

 それから、低い音。

 ハウラーだ。

 まだ遠いのに、頭の奥に触れてくる。

 声が出しにくくなる。

 ユウトが喉を押さえた。

「これ、前より嫌ですね」

「数が多い」

 ハルクが言った。

「群れてる」

 短い。

 でも十分だった。

 ヒナセが通信機を押さえる。

「帯域、潰されてます。単体じゃないです。重なってます」

「つながる?」

 リゼが訊く。

「短くなら」

「短く言うの得意な人、多いよね」

「誰のことですか」

「セナとハルク」

 セナは医療袋を確認しながら言った。

「黙れ」

「ほら」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いは、ハウラーの音にすぐ削られた。

 前線第三方面の第二後退路へ着いた時、そこはもう後退路ではなくなりかけていた。

 砲兵がいる。

 担架がいる。

 弾薬車がいる。

 泥に足を取られた補給兵がいる。

 白線布が一本、道の脇に引かれている。

 その先に、小型レイスがいた。

 白線の上に。

 待っていた。

 白線を踏むように。

 帰る人間がそこを見ることを、知っているみたいに。

 リゼが息を呑んだ。

 カナタも、少し遅れて息を止めた。

 白線は、帰るための線だった。

 そこに敵がいる。

 それだけで、世界のどこかがひどく曲がったような気がした。

 前線兵が叫ぶ。

「白線が使えない!」

 別の声。

「赤布はどこだ!」

 その声の方へ、小型レイスが数体、同時に向いた。

 赤を待っている。

 カナタは理解した。

 理解したくなかった。

 レイスは、ただこちらを襲っているのではない。

 帰る仕組みを壊しに来ている。

 帰還誘導兵が作ったものを、覚えている。

 覚えたうえで、潰している。

 バスティオンの砲撃音が響いた。

 いや、砲撃ではない。

 バスティオンが撃たれた音だった。

 遠くで黒い巨体が煙の中を進む。

 一体。

 その奥に、もう一体。

 壁が二つ、歩いている。

 アイゼン砲撃群が撃つ。

 土が跳ねる。

 巨体は止まらない。

 止まらないものが二つあると、世界の方が後ろへ下がっているように見える。

 ガレスが怒鳴った。

「帰還誘導班、白線を捨てろ!」

 カナタは一瞬だけ動けなかった。

 白線を捨てる。

 冬から使ってきたもの。

 吹雪の中で人を帰したもの。

 中央を繋いだもの。

 最後尾を戻したもの。

 それを、捨てる。

 リゼが赤布を握る。

「赤も見られてる」

「はい」

「じゃあ、見せ方を変える」

 リゼは赤布を高く掲げなかった。

 手首に巻いたまま、低く振った。

 足元に近い位置。

 人の目線ではなく、近くの人だけが分かる高さ。

「近い人だけ、こっち」

 声も小さかった。

 ハウラーに削られないほど短く、近くへ。

 カナタは理解した。

 大きな目印が狙われるなら、小さくする。

 遠くへ届かせるものが潰されるなら、近くへ渡す。

 線ではなく、人から人へ。

「ユウトさん、声を分けてください!」

「はい!」

「遠くへ叫ばない。十人ずつ。近くへ」

「近所迷惑方式ですね!」

「違います!」

 ユウトは走った。

「こっち十人!次、あっち十人!赤を探さない!人を見て!」

 タクトが中央へ入る。

「荷物、胸の前。音は気にしない。今は落とさない」

 ヒナセが通信を短く切る。

『赤、高く上げない。白線、使用停止。人伝い誘導』

 マコトが復唱する。

「人伝い誘導!近距離!十人単位!」

 セナが担架を捌く。

「歩ける人は担架の横。歩けない人から乗せる。大丈夫って言う人は後で怒る」

 ハルクが右側に立つ。

 盾。

 壁。

 いや、人。

 人が流れる。

 白線は使えない。

 赤布は高く上げられない。

 通信は死にかけている。

 それでも、列は少しずつ動き始めた。

 小さく。

 分かれて。

 つながって。

 カナタは前を見る。

 見えすぎる。

 バスティオン。

 ハウラー。

 小型。

 泥。

 弾薬車。

 担架。

 白線の上にいる敵。

 赤を待つ敵。

 これから詰まる場所。

 もう間に合わない場所。

 見えるものが、多すぎた。

 でも、今は止まれない。

 ガレスの声が低く飛ぶ。

「カナタ」

「はい」

「守る線を決めろ」

 その言葉は、ハウラーの音の中でも届いた。

 全部ではない。

 守る線。

 カナタは泥の上を見た。

 弾薬車を捨てれば、担架が通る。

 白線を捨てれば、人伝いが使える。

 赤を隠せば、近くの人だけ帰せる。

 全部は無理だ。

 なら、今帰せる線を決める。

「担架路を守ります!」

 カナタは叫んだ。

「弾薬車は旧整備路へ!動かない車は置く!担架と徒歩を先に!」

 前線兵が怒鳴る。

「弾薬を置けってのか!」

「動かない弾薬は撃てません!」

 自分の声が冷たい。

 嫌だった。

 でも、夏の熱の中で、その冷たさが必要だった。

 砲声。

 ハウラー。

 蝉。

 全部が混ざる。

 蝉がまだ鳴いていることに、カナタは気づいた。

 こんな場所でも。

 前線が崩れても。

 白線が踏まれても。

 夏は鳴く。

 かなり図々しい。

 そして、少しだけ救いだった。

 列が動く。

 遅い。

 歪んでいる。

 でも動く。

 その時、後方の空が赤く光った。

 花火ではなかった。

 誰も、もう間違えなかった。

 ヒナセの通信機が叫ぶように鳴る。

『第三方面第一陣地、放棄』

 ノイズ。

『繰り返す。第一陣地、放棄。夏季広域後退計画、前倒し――』

 そこで切れた。

 完全に。

 ハウラーの低い音だけが残る。

 夏の空は青かった。

 地面は熱かった。

 汗が目に入った。

 カナタは手袋を見る余裕もなかった。

 前線は崩れ始めていた。

 計画より早く。

 祭りの翌朝に。

 豆二粒の朝に。

 まだ片付け終わっていない空き缶の音が、頭のどこかで鳴っていた。

 鳴らないはずなのに。

 タクトが全部、布で巻いたはずなのに。

 それでも。

 昨日の祭りが、どこかでまだ鳴っていた。

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