帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
祭りの翌朝は、少しだけ汚い。
これは、たぶんどこの祭りでも同じだと思う。
紙くずが落ちている。
倒れた椅子がある。
水の入った桶に、正体の分からない葉っぱが浮いている。
誰かが片付け忘れた木片が、朝の光の中で急にただの木片に戻っている。夜には射的の的だったもの。子供が笑い、ユウトが外し、ハルクが無言で直したもの。それが朝になると、ただの木片になる。
祭りは、終わったあとがいちばん正直だった。
ハウンド七の食堂前には、昨夜の匂いがまだ残っていた。
肉。
油。
汗。
草。
火薬。
夏祭り汁の鍋は洗われていたが、完全には消えない。鍋の縁に、乾パンが溶けたものが少しこびりついている。水場には缶詰の空き缶が積まれていて、タクトがそれを一つずつ布で包んでいた。
「全部、鳴らないようにするんですか」
カナタが訊くと、タクトは少し考えた。
「鳴ると、昨日が終わった感じがするので」
「……そうですか」
「はい」
タクトはまた缶を包んだ。
きゅ、と布を結ぶ。
空き缶は鳴らない。
昨夜、そこに肉が入っていた。豆が入っていた。誰かが笑いながら椀を覗き込んだ。その証拠が、音もなく箱へ戻されていく。
カナタはそれを見て、少しだけ胸の奥が冷えた。
夏なのに。
朝から暑いのに。
冷える場所は、季節に関係ない。
ユウトは食堂の窓の下で、紙片を剥がしていた。
昨日、誰かが貼った《祭り入口》という札。
今見ると、かなり雑な字だった。
「これ、取るのもったいなくないですか」
ユウトが言った。
「入口はもうありません」
マコトが答える。
「祭りの入口は消えたけど、思い出の入口は残るかもしれない」
「詩的ですね」
「今の記録していいですよ」
「しません」
「なぜ」
「少し嫌だったので」
「正直」
リゼは赤布を洗っていた。
桶の水に浸して、指で軽く押す。昨夜の汗と夜露と、少しの土が水へ広がる。赤い布は、水の中でも赤かった。
色が強い。
カナタはそう思った。
雪の中でも、泥の中でも、夏の水の中でも、赤は赤のままだった。
「それ、乾きますか」
「夏だから」
リゼが言った。
「夏は偉いね」
「偉いですか」
「勝手に来るし、勝手に乾かす」
「かなり迷惑な偉さですね」
「うん」
リゼは布を絞った。
水が落ちる。
赤い水ではない。
透明だった。
少しほっとした。
何にほっとしたのか、カナタには分からなかった。
その時、遠くで砲声が鳴った。
昨日の夜から何度も聞いている音だった。
だが、朝に聞くと少し違う。
夜の砲声は、遠い花火に似ていた。
朝の砲声は、仕事の音に似ている。
誰かが起きて、道具を持ち、汗をかき、命令を受け、撃っている。
そういう人間の動きが音の奥に見える。
カナタは東の空を見た。
青かった。
あまりにも普通に青かった。
雲は薄く、空気は湿って、蝉は朝からうるさい。
世界は、前線が崩れそうな顔をしていなかった。
だから嫌だった。
崩れるものは、崩れる前にもっと分かりやすくしてほしい。
警報を鳴らしてほしい。
空の色を変えてほしい。
蝉を黙らせてほしい。
でも、たぶん世界はそんなに親切ではない。
朝食の豆は二粒だった。
市民。
ユウトは椀を覗いて言った。
「祭り翌日の市民、落差ありますね」
「昨日が異常だったんです」
タクトが答える。
「肉の夢を見ました」
「幸せですね」
「起きたら豆でした」
「現実ですね」
「現実、きつい」
食堂に小さな笑いが起きた。
昨日より弱い。
でも、まだ笑いだった。
ガレスは入口近くに立っていた。
椀を持っていない。
火のつかない煙草を咥えている。
祭りの翌朝なのに、顔だけは昨日の夜から帰ってきていないように見えた。
「副長、食べないんですか」
ユウトが訊く。
「あとで食う」
「あとで食う人は、だいたい食わないってセナさんが」
「セナに言うな」
「言われる前提なんですね」
ガレスは答えなかった。
煙草を咥え直す。
火はついていない。
カナタは、その煙草を見た。
昨日の夜、ガレスは祭りを続けろと言った。
今朝は何も言わない。
何も言わないことが、何かを言っているようだった。
通信塔のスピーカーが鳴ったのは、その少し後だった。
短い警告音。
いつもの音。
でも、食堂の空気は変わらなかった。
いや、変わるのが遅れた。
祭りの翌朝だったからだ。
誰かが椀を置く。
誰かが箸を止める。
蝉は止まらない。
アイラの声が流れた。
『第三方面前線、敵接触増大』
ノイズ。
『アイゼン砲撃群、第二陣地へ後退準備』
誰もすぐには立たなかった。
後退準備。
昨日も似たような言葉を聞いた。
準備。
待機。
接触増大。
そういう言葉は、危機を薄めるためにあるのだと思う。
誰かが血を流している時でも、通信では接触と言う。
誰かが逃げる時でも、後退準備と言う。
その方が、聞いている人間が椀を落とさずに済むからだ。
しかし、次の通信で薄まりきらなかった。
『ブルーグラス観測班、四号観測点との通信途絶』
食堂が静かになった。
今度は早かった。
通信途絶。
それは、戻ってこない言葉だった。
アイラの声が少しだけ乱れる。
『繰り返す。四号観測点、通信途絶。三号観測点、応答遅延』
ガレスが椀のない手で通信機を取った。
「状況」
アイラの声。
『ハウラー反応、多数』
ハウラー。
リゼの手が、赤布の上で止まった。
タクトが腰の缶を押さえる。
ユウトが顔を上げる。
セナが医療袋を持つ。
ミナが格納庫の方を見た。
ハルクは立っていた。
いつ立ったのか分からない。
カナタは椀の中を見た。
豆が一粒残っていた。
食べるべきか、立つべきか。
こんな時にそんなことを考える自分が、少し嫌だった。
でも、豆はそこにある。
残したら冷める。
冷めた豆は、たぶんもっと硬い。
「食べて」
セナが言った。
誰にでもなく。
「今から動く人は食べて」
その声で、何人かが椀へ戻った。
カナタも豆を飲み込んだ。
味はほとんどしなかった。
でも、体の中へ入った。
それで十分だった。
次の通信は、食堂ではなく格納庫で聞いた。
全員が動いていた。
三号車の周りに人が集まる。
ミナが工具箱を開ける。
ユウトが弾薬箱を確認する。
タクトが静音布を配る。
ヒナセが通信機材を背負う。
マコトが記録帳を出して、すぐ閉じる。
リゼが赤布を髪から外し、手首へ巻き直す。
祭りの赤から、帰還の赤へ。
同じ布なのに、結び方だけで意味が変わる。
そのことが、少し怖かった。
アイラの声。
『第三方面、敵影増大。小型群、複数。バスティオン二、確認』
ノイズ。
『ハウラー群、通信帯域へ干渉』
途切れる。
戻る。
『……白線誘導地点に敵接近』
カナタは顔を上げた。
「白線誘導地点?」
ガレスが低く言う。
「狙ってるな」
狙っている。
その言葉が、格納庫の鉄板より熱く聞こえた。
レイスはこちらを見ていた。
前からだ。
待つことを覚えた。
回り込むことを覚えた。
赤を見ることを覚えた。
白線の先に人が来ることも、たぶん覚えた。
今、前線で起きているのは、新しい知性の誕生ではない。
積み上げられた観察が、いっせいに形になっただけだ。
その方が、ずっと嫌だった。
昨日の祭りも。
赤布も。
白線も。
帰る場所も。
全部、見られていたような気がした。
「カナタ」
ガレスが言った。
「前線支援に出る。帰還誘導班、第一出動」
「はい」
「前線部隊が下がる。計画より早い」
「どれくらい」
「半日」
半日。
短い。
あまりにも短い。
撤退計画における半日は、椀の中の豆一粒とは違う。
車両の順番が変わる。
水の量が変わる。
道の乾き方が変わる。
負傷者の状態が変わる。
そして、人の覚悟が間に合わない。
覚悟にも、準備時間がいる。
たぶん。
「三号車、出せる?」
ガレスが訊く。
ミナは三号車の側面を叩いた。
「出す」
「出せるかじゃなくて?」
「出す」
それ以上、誰も聞かなかった。
三号車のエンジンがかかる。
咳をした。
一度。
二度。
それから、低く続いた。
車も昨日の祭りで少し疲れているのかもしれない。
そんなことを考える自分が嫌だった。
でも、三号車は動いた。
なら、行ける。
ハウンド七を出る時、食堂前の祭りの跡が見えた。
木片。
空き缶。
赤布が結ばれていた柱。
水の入った桶。
半分剥がれた《祭り入口》の札。
全部、朝の光の中で少し恥ずかしそうに残っている。
昨日はあんなに賑やかだったのに。
今は、置いていかれるものの顔をしていた。
カナタはそれを見た。
見てしまった。
見なければよかったかもしれない。
でも、見る仕事だった。
三号車は東へ走った。
夏の道。
草。
熱。
湿気。
防雪柵だったもの。
道端の水溜まり。
遠くの煙。
前線が近づくにつれ、蝉の声に別の音が混じった。
砲声。
機銃。
金属が裂ける音。
それから、低い音。
ハウラーだ。
まだ遠いのに、頭の奥に触れてくる。
声が出しにくくなる。
ユウトが喉を押さえた。
「これ、前より嫌ですね」
「数が多い」
ハルクが言った。
「群れてる」
短い。
でも十分だった。
ヒナセが通信機を押さえる。
「帯域、潰されてます。単体じゃないです。重なってます」
「つながる?」
リゼが訊く。
「短くなら」
「短く言うの得意な人、多いよね」
「誰のことですか」
「セナとハルク」
セナは医療袋を確認しながら言った。
「黙れ」
「ほら」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いは、ハウラーの音にすぐ削られた。
前線第三方面の第二後退路へ着いた時、そこはもう後退路ではなくなりかけていた。
砲兵がいる。
担架がいる。
弾薬車がいる。
泥に足を取られた補給兵がいる。
白線布が一本、道の脇に引かれている。
その先に、小型レイスがいた。
白線の上に。
待っていた。
白線を踏むように。
帰る人間がそこを見ることを、知っているみたいに。
リゼが息を呑んだ。
カナタも、少し遅れて息を止めた。
白線は、帰るための線だった。
そこに敵がいる。
それだけで、世界のどこかがひどく曲がったような気がした。
前線兵が叫ぶ。
「白線が使えない!」
別の声。
「赤布はどこだ!」
その声の方へ、小型レイスが数体、同時に向いた。
赤を待っている。
カナタは理解した。
理解したくなかった。
レイスは、ただこちらを襲っているのではない。
帰る仕組みを壊しに来ている。
帰還誘導兵が作ったものを、覚えている。
覚えたうえで、潰している。
バスティオンの砲撃音が響いた。
いや、砲撃ではない。
バスティオンが撃たれた音だった。
遠くで黒い巨体が煙の中を進む。
一体。
その奥に、もう一体。
壁が二つ、歩いている。
アイゼン砲撃群が撃つ。
土が跳ねる。
巨体は止まらない。
止まらないものが二つあると、世界の方が後ろへ下がっているように見える。
ガレスが怒鳴った。
「帰還誘導班、白線を捨てろ!」
カナタは一瞬だけ動けなかった。
白線を捨てる。
冬から使ってきたもの。
吹雪の中で人を帰したもの。
中央を繋いだもの。
最後尾を戻したもの。
それを、捨てる。
リゼが赤布を握る。
「赤も見られてる」
「はい」
「じゃあ、見せ方を変える」
リゼは赤布を高く掲げなかった。
手首に巻いたまま、低く振った。
足元に近い位置。
人の目線ではなく、近くの人だけが分かる高さ。
「近い人だけ、こっち」
声も小さかった。
ハウラーに削られないほど短く、近くへ。
カナタは理解した。
大きな目印が狙われるなら、小さくする。
遠くへ届かせるものが潰されるなら、近くへ渡す。
線ではなく、人から人へ。
「ユウトさん、声を分けてください!」
「はい!」
「遠くへ叫ばない。十人ずつ。近くへ」
「近所迷惑方式ですね!」
「違います!」
ユウトは走った。
「こっち十人!次、あっち十人!赤を探さない!人を見て!」
タクトが中央へ入る。
「荷物、胸の前。音は気にしない。今は落とさない」
ヒナセが通信を短く切る。
『赤、高く上げない。白線、使用停止。人伝い誘導』
マコトが復唱する。
「人伝い誘導!近距離!十人単位!」
セナが担架を捌く。
「歩ける人は担架の横。歩けない人から乗せる。大丈夫って言う人は後で怒る」
ハルクが右側に立つ。
盾。
壁。
いや、人。
人が流れる。
白線は使えない。
赤布は高く上げられない。
通信は死にかけている。
それでも、列は少しずつ動き始めた。
小さく。
分かれて。
つながって。
カナタは前を見る。
見えすぎる。
バスティオン。
ハウラー。
小型。
泥。
弾薬車。
担架。
白線の上にいる敵。
赤を待つ敵。
これから詰まる場所。
もう間に合わない場所。
見えるものが、多すぎた。
でも、今は止まれない。
ガレスの声が低く飛ぶ。
「カナタ」
「はい」
「守る線を決めろ」
その言葉は、ハウラーの音の中でも届いた。
全部ではない。
守る線。
カナタは泥の上を見た。
弾薬車を捨てれば、担架が通る。
白線を捨てれば、人伝いが使える。
赤を隠せば、近くの人だけ帰せる。
全部は無理だ。
なら、今帰せる線を決める。
「担架路を守ります!」
カナタは叫んだ。
「弾薬車は旧整備路へ!動かない車は置く!担架と徒歩を先に!」
前線兵が怒鳴る。
「弾薬を置けってのか!」
「動かない弾薬は撃てません!」
自分の声が冷たい。
嫌だった。
でも、夏の熱の中で、その冷たさが必要だった。
砲声。
ハウラー。
蝉。
全部が混ざる。
蝉がまだ鳴いていることに、カナタは気づいた。
こんな場所でも。
前線が崩れても。
白線が踏まれても。
夏は鳴く。
かなり図々しい。
そして、少しだけ救いだった。
列が動く。
遅い。
歪んでいる。
でも動く。
その時、後方の空が赤く光った。
花火ではなかった。
誰も、もう間違えなかった。
ヒナセの通信機が叫ぶように鳴る。
『第三方面第一陣地、放棄』
ノイズ。
『繰り返す。第一陣地、放棄。夏季広域後退計画、前倒し――』
そこで切れた。
完全に。
ハウラーの低い音だけが残る。
夏の空は青かった。
地面は熱かった。
汗が目に入った。
カナタは手袋を見る余裕もなかった。
前線は崩れ始めていた。
計画より早く。
祭りの翌朝に。
豆二粒の朝に。
まだ片付け終わっていない空き缶の音が、頭のどこかで鳴っていた。
鳴らないはずなのに。
タクトが全部、布で巻いたはずなのに。
それでも。
昨日の祭りが、どこかでまだ鳴っていた。