帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十六話 線を狙うもの

 白線は、最初から白かったわけではない。

 布だった。

 ただの布。

 どこかの倉庫に積まれていた、用途の決まっていない白い布だった。何かを包むためのものだったのかもしれないし、天幕の補修用だったのかもしれないし、もしかすると誰も用途を知らないまま保管されていたのかもしれない。

 それを雪の上に置いた。

 人が見た。

 歩いた。

 戻った。

 それで、白線になった。

 布が線になるには、人が必要だった。

 人が帰るには、線が必要だった。

 カナタは、その順番をずっと覚えている。

 冬の吹雪。

 赤い布。

 白い道。

 ハウラーの音。

 消えかけた最後尾。

 帰ってきた人間の白い息。

 あの時、白線は頼りなかった。頼りなかったけれど、確かにそこにあった。誰かが見て、誰かが踏み、誰かがそれを信じた。

 今、その白線の上にレイスがいた。

 真夏の泥の上で。

 白線布は茶色く汚れていた。昨日までなら、汚れてもまだ線だった。雪の上でなくても、泥の上でも、草の上でも、白い布は白い布として人の目を引いた。

 でも今は違う。

 白線の先に、小型レイスが伏せている。

 布の上に爪を置き、細い前肢を折りたたみ、まるでそこが自分の巣であるかのように待っている。黒い体。低い姿勢。熱で揺れる空気。その向こうには、煙と砲声と、下がってくる前線兵の影。

 白線が、罠に見えた。

 そう見えてしまった。

「白線使用停止!」

 カナタは叫んだ。

 自分の声が変だった。

 夏の空気の中で、声だけが冬から来たみたいに硬い。

「白線を見ないでください!人を見てください!」

 人を見て。

 自分で言って、少し遅れて意味が追いついた。

 いつもは線を見ろと言っていた。

 足元を見ろ。

 赤を見ろ。

 白を見ろ。

 黒札を見ろ。

 それが帰還誘導兵の仕事だった。見れば帰れるものを置く。迷っても戻れる印を作る。人が人を見なくても、最低限、布や札や灯りが連れていく。

 でも、今は違う。

 見れば狙われる。

 見れば読まれる。

 レイスが待っている。

 小型レイスが白線の上で動いた。

 前線兵の一人が反射的に銃を向ける。撃つ。外れる。白線の布が裂ける。泥が跳ねる。レイスは後ろへ下がり、すぐ別の黒い影が横から出る。

 待っている。

 誘っている。

 撃たせている。

「嫌な動きしますね!」

 ユウトが叫んだ。

 彼の声はまだ軽さを残していた。でも、その軽さは薄かった。水で何倍にも薄めた豆スープみたいに、声の底が透けて見える。

「見えてから撃つな!撃つ前に見る場所を変えてください!」

「注文が難しい!」

「簡単に言うと、釣られないでください!」

「それなら分かります!」

 ユウトは前線兵たちの間を走った。

「白いの見るな!人を見る!白は今、敵の席です!」

「敵の席って何だ!」

「俺も今わかりません!」

 怒鳴り返す前線兵が、一瞬だけ笑った。

 その一瞬で肩の力が抜けた。

 銃口が少し下がる。

 人が動く。

 その程度のことでも、列は少しだけ生き返る。

 カナタは泥の上を見た。

 第二後退路。

 砲兵。

 担架。

 弾薬車。

 補給兵。

 旧整備路。

 その奥には、バスティオンが二体。

 巨大な黒い壁が、煙の向こうを進んでいる。

 砲撃が当たる。

 前面外殻で爆発が咲く。

 止まらない。

 爆発を花だと思えるなら、世界はもう少し楽だったかもしれない。だが、あれは花ではない。土と鉄と破片をまき散らす、地面の病気みたいなものだった。

 バスティオンは、傷ついている。

 たぶん。

 でも止まらない。

 止まらないものは、人間の都合を聞かない。

 その下を、小型レイスが走る。

 その横を、スリップが泥に紛れて抜ける。

 足元。

 細い影。

 誰かが転ぶ。

 担架が傾く。

 セナの声が飛ぶ。

「担架、止めない!足元じゃなくて持ち手!」

 短い。

 強い。

 迷う余地がない。

 担架を持つ兵士が持ち手を握り直す。転んだ兵士を別の者が引き上げる。スリップはその隙間を抜けようとして、ハルクの盾に弾かれた。

 がん、と音が鳴る。

 夏の音ではなかった。

 鉄の音。

 前線の音。

「抜かせない」

 ハルクが言った。

 それだけ。

 だが、近くの兵士たちの足が少し戻った。

 壁がある。

 人だが。

 壁がある。

「右側、壁の内側!」

 ユウトが叫ぶ。

「本人は人だって言ってますけど!」

「うるさい」

 ハルクが言った。

 その声さえ、少しだけ列を支える。

 タクトは中央にいた。

 彼は目立たない。

 目立たないことが仕事みたいな人間だった。

 でも、こういう時に中央へ入ると、彼の動きはよく見えた。荷物の紐を締める。余計な箱を降ろす。落ちた缶を拾わないように指示する。泣きそうな補給兵に、短く言う。

「今は人です」

「でも、これは水で」

「持てるなら持ってください。持てないなら置いてください」

「でも」

「水は戻れません。人は戻れます」

 補給兵は泣きそうな顔のまま、箱を一つ置いた。

 どさっ。

 泥が跳ねる。

 タクトはその箱を見た。

 一瞬だけ。

 それから、歩く人を見た。

 カナタはそれを見ていた。

 そうだ。

 人を見る。

 今は布ではなく、人を見る。

 でも、人だけを見ると道が消える。

 道だけを見ると人が消える。

 この仕事は、いつもそうだった。

 どちらかだけでは足りない。

 どちらも見ようとすると、多すぎる。

 ヒナセの通信が割れた。

『三号観測点、応答あり。ノイズ強。四号は依然不通』

 ハウラーの低い圧が、通信の上に覆いかぶさる。

 声が水の底から聞こえるようだった。

『白線地点、複数で待機。赤布上昇に反応』

 リゼが顔を上げた。

「赤、見られてるね」

「はい」

 カナタは頷く。

「高く上げると寄ってきます」

「じゃあ、低くする」

「低いと遠くへ届きません」

「遠くへは人が行く」

 リゼは言った。

 軽い。

 でも、軽いだけではない。

 もう彼女は、赤布をただ振る人ではなかった。

 赤布をどう見せるか、誰に見せるか、どこまで届かせるか。それを考えている。

 リゼは近くにいた若い前線兵へ赤布の端を渡した。

「十人だけ連れてって」

「俺が?」

「そう。赤を高く上げない。腰の高さ。見える人だけ」

「でも俺は誘導兵じゃ」

「今から」

 若い兵士は困った顔をした。

 それから赤布を握った。

「十人だけ?」

「十人だけ。欲張ると食われる」

「言い方」

「分かりやすいでしょ」

 彼は少し笑った。

 そして、十人を連れて動いた。

 カナタはその背中を見た。

 リゼはもう、帰ろうと言える人だった。

 それだけではない。

 帰ろうと言える人を、増やしている。

 赤布は一つでは足りない。

 なら、渡す。

 声は一人では足りない。

 なら、渡す。

 帰還誘導兵は、部隊名だけではなくなりつつあった。

 方法になっている。

 それをレイスが壊しに来ている。

 カナタは泥の上の裂けた白線を見た。

 白布の端が泥に沈んでいる。

 そこにピッカーがいた。

 小さい。

 細い。

 目立たない。

 前肢で布の端をつまみ、少しずつ引いている。

 白線を持っていこうとしている。

 いや。

 ずらそうとしている。

 わずかに。

 ほんの数十センチ。

 でも、その数十センチが、人を違う道へ連れていく。

 白線を壊すのではない。

 白線を嘘にする。

 カナタの背中が冷えた。

 夏なのに。

「ピッカー、白線をずらしてます!」

 カナタは叫んだ。

 マコトが走る。

「白線、確認!そのまま信じない!繰り返します、白線は確認してから使用!」

 言っていることがひどかった。

 白線を信じるな。

 帰るための線を信じるな。

 そんな指示を出す日が来るとは思わなかった。

 でも、必要だった。

 ミナの声が通信に入る。

『三号車、旧整備路へ入れる。けど泥深い』

「通れますか」

『通す』

「出ましたね」

『出た』

 三号車が泥に入った。

 タイヤが沈む。

 エンジンが唸る。

 車体が傾く。

 ミナが怒鳴る。

『今の音、嫌!でも進む!車に後で謝って!』

「後で全員で謝ります!」

 ユウトが叫んだ。

『全員は重い!代表者でいい!』

「制度化しましょう!」

『するな!』

 会話はくだらない。

 でも、三号車は進んだ。

 泥をかき分け、旧整備路の入口に斜めにつける。

 その車体が、自然に壁になる。

 白線の代わりではない。

 けれど、通るべき場所が見えた。

「三号車の内側!」

 カナタは叫ぶ。

「車体沿いに進んでください!白線ではなく、車を見る!」

 車を見る。

 人を見る。

 布を見ない。

 布が狙われるなら、狙われていないものを使う。

 でも、いずれ三号車も狙われる。

 レイスは見ている。

 覚える。

 待つ。

 だから、同じやり方を続けられない。

 帰還誘導兵の技術は、昨日の正解を今日の罠に変えられる。

 そのことを、カナタは今、目の前で知っている。

 前線の奥で、バスティオンがまた一歩進んだ。

 地面が震える。

 遠いはずなのに、足の裏へ来る。

 砲兵長の声が飛ぶ。

「第二砲列、下げろ!弾薬は捨てるな、でも死ぬな!」

 矛盾している。

 でも、戦場の指示はだいたいそうだ。

 捨てるな。

 死ぬな。

 止まるな。

 急ぐな。

 全部同時に言われる。

 カナタたちは、その矛盾の中に線を引く。

 今、守る線を。

「担架路、あと二十!」

 セナが叫ぶ。

「二十抜ければ、次は砲兵!」

「砲兵、聞こえたら準備!」

 ユウトが繋ぐ。

「二十人じゃなくて二十歩かもしれません!」

「人です!」

 セナが怒る。

「ですよね!」

 小さな笑い。

 すぐ砲声。

 笑いは消える。

 でも、その一瞬で足が出る。

 リゼが赤布を渡した若い兵士が戻ってきた。

 十人を連れて。

 顔が真っ青だった。

「戻った」

 彼は言った。

「じゃあ、もう十人」

 リゼが言う。

「え」

「できたから」

「できたら次もあるのか」

「そういう仕事」

 若い兵士は少しだけ笑った。

 今度は自分で十人を呼んだ。

 カナタはその光景を見た。

 帰還誘導兵が増えていく。

 正式な所属ではない。

 辞令もない。

 記録にも残らないかもしれない。

 でも、赤布を腰の高さで持ち、十人だけを連れて戻る前線兵は、今この瞬間、帰還誘導兵だった。

 その時、白線の上にいた小型レイスが一斉に動いた。

 低い姿勢。

 狙いは赤布ではない。

 担架路。

 レイスが学習している。

 こちらが白線を捨て、赤を低くし、人伝いに変えたことを見て、次の線を読んだ。

 担架路。

 今、最も守っている線。

「担架路!」

 カナタが叫ぶ。

 ハルクが動いた。

 盾を地面へ打ち込むように構える。

 一体がぶつかる。

 がん。

 もう一体。

 セナが担架を押し込む。

「止めるな!」

 ユウトが撃つ。

 タクトが荷物を捨てる。

 ミナが三号車を少しだけ前へ出す。

 白線の布が泥で完全に見えなくなる。

 赤布は低い位置で、人から人へ渡る。

 声は短く、近くでだけ生きている。

 カナタはその全部を見た。

 見えすぎる。

 見えるものが多すぎる。

 でも、今見るべきものは一つだった。

 担架路。

 守ると決めた線。

「担架路を通します!」

 カナタはもう一度叫んだ。

「それ以外は後!」

 それ以外。

 そう言った瞬間、胸の中で何かが少し折れた。

 弾薬車。

 白線。

 置いた水箱。

 壊れた確認棒。

 まだ動けるかもしれない兵士。

 全部が、それ以外になる。

 でも、線を決めなければ全部が折れる。

 担架の最後が通った。

 セナが確認する。

「担架、抜けた!」

 その声が、泥の上に落ちた。

 大きな勝利ではない。

 ただ、二十人が通った。

 それだけ。

 でも、その二十人が通ったことで、次の砲兵が動ける。

 砲兵が動けば、弾薬車が動ける。

 弾薬車が動けば、旧整備路が空く。

 空いた道を、また誰かが通る。

 帰還は、そういう順番で増える。

 バスティオンが砲撃を受け、足を一瞬だけ止めた。

 本当に一瞬。

 だが、その一瞬で前線兵が動いた。

 ハウラーの音がさらに強くなる。

 通信がほとんど死ぬ。

 ヒナセが叫ぶ。

「通信、落ちます!」

 次の瞬間、通信機がただの箱になった。

 音が消える。

 ノイズも消える。

 それは静かではなかった。

 むしろ、世界が急に耳の中へ直接入ってきた。

 砲声。

 悲鳴。

 エンジン。

 蝉。

 ハウラー。

 全部。

 カナタはヒナセを見た。

 ヒナセは通信機を抱えたまま、少しだけ口を開けていた。

 通信補助が、通信を失った顔だった。

 でも、すぐに彼女は拡声器を取った。

 電源を入れる。

 鳴らない。

 湿気か。

 故障か。

 ハウラーか。

 ヒナセは一瞬だけ目を閉じた。

 それから、拡声器を捨てた。

 声で叫ぶ。

「手信号に切り替え!」

 届く範囲だけ。

 短く。

 近くへ。

 帰還誘導兵は、また一つ道具を捨てた。

 でも、仕事は捨てない。

 カナタは泥の上に立った。

 手袋が汗で湿っている。

 息を吹きかける余裕はなかった。

 白線は使えない。

 赤布は狙われる。

 通信は死んだ。

 拡声器も死んだ。

 それでも、人がいる。

 声がある。

 手がある。

 目がある。

 帰る線は、まだ作れる。

 たぶん。

 たぶんで十分な時もある。

 遠くの空で、前線の黒煙が少し濃くなった。

 夏の青に、汚れた墨を垂らしたみたいだった。

 その下で、バスティオンがもう一歩進む。

 ハウラーが鳴く。

 小型レイスが待つ。

 ピッカーが布を引く。

 スリップが泥を走る。

 レイスは、新しく賢くなったのではない。

 ずっと見ていた。

 ずっと待っていた。

 そして今日、こちらの帰る技術を、まとめて壊しに来た。

 カナタはそれを理解した。

 理解した上で、叫んだ。

「次、砲兵を通します!」

 ユウトが返す。

「十人ずつ!」

 リゼが赤布を渡す。

「低く。近く。帰ろう」

 タクトが中央で頷く。

 セナが次の負傷者を見る。

 ミナが三号車を前へ出す。

 ハルクが盾を構える。

 ヒナセが手信号を上げる。

 マコトが走って伝える。

 線は見えない。

 でも、人が動いた。

 泥の上で。

 夏の熱の中で。

 前線が崩れていく音の中で。

 帰る線は、布ではなく、人の間に残っていた。

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