帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十七話 見えすぎる

 見えない方が、楽なことはある。

 それは、わりと早い段階で覚えた。

 雪の中では、遠くが見えない。

 だから、怖い。

 でも、遠くが見えないからこそ、足元だけを見ればよかった。白線を見て、前の背中を見て、赤い布を見て、止まるなと言えばよかった。怖さは白い壁の向こうにあって、向こうにあるものは、まだこちらに来ていないものとして扱えた。

 夏は違う。

 見える。

 泥の上の足跡も。

 熱で揺れる砲列も。

 壊れた白線布も。

 そこに伏せていた小型レイスの爪跡も。

 遠くで止まらないバスティオンの黒い背も。

 それが全部、見える。

 見えすぎる。

 そして、見えたものは、なかったことにできない。

 第二後退路は、昼の光の中で壊れていた。

 完全に壊れたわけではない。

 そこが嫌だった。

 完全に壊れていれば、捨てると決められる。通れない道。燃えた車両。落ちた橋。そういうものは残酷だが、分かりやすい。分かりやすいものは、決断を少しだけ助ける。

 第二後退路は、まだ通れた。

 だから、ひどかった。

 泥に沈みかけた弾薬車がある。横転はしていない。牽引すれば動くかもしれない。車体の横には補給兵が二人、肩で息をしている。足元には水箱が三つ。水は必要だ。だが、水箱を積み直すには時間がいる。

 旧整備路の入り口には担架が詰まりかけている。セナが怒鳴っている。怒鳴れているうちは大丈夫だと思いたい。でも彼女の声は、朝より少し掠れていた。

 砲兵はまだ下がりきっていない。アイゼン砲撃群の第二砲列が、バスティオンを止めるために撃ち続けている。砲撃は必要だ。砲撃が止まれば、あの黒い壁はもっと早く来る。だが、砲兵が遅れれば、担架路が塞がる。

 ヒナセの通信は死にかけている。

 マコトは走って伝えている。

 リゼは赤布を低く渡している。

 ユウトは十人単位で人を動かしている。

 タクトは中央の荷物を降ろしている。

 ミナは三号車を泥に突っ込ませている。

 ハルクは右側の流れを盾で曲げている。

 全員が動いている。

 なのに、足りない。

 見れば見るほど、足りない。

「カナタ!」

 ガレスの声が飛んだ。

 火のつかない煙草は、もう口にない。

 どこかで落としたのか、しまったのか、分からない。

 それだけで、今が普通ではないと分かる。

「次はどこだ!」

 どこ。

 カナタは泥の上を見た。

 旧整備路。

 担架路。

 弾薬車。

 砲列。

 補給兵。

 白線をずらすピッカー。

 泥を走るスリップ。

 赤を待つ小型。

 ハウラーの音。

 バスティオン。

 空の青。

 蝉。

 昨日の祭りの肉の匂いが、手袋のどこかにまだ残っている気がした。

 そんなはずはない。

 ここは前線だ。

 油と泥と火薬の匂いしかしない。

 でも、手袋の中が少し汗ばんでいて、その湿り方が昨日と同じだった。

 肉の缶を持った手。

 赤布の柱。

 夏祭り汁。

 笑い声。

 それが一瞬だけよぎって、すぐ砲声で潰れた。

「カナタ!」

 ガレスがもう一度呼んだ。

 カナタは答えようとした。

 でも、声が出なかった。

 どこを先に通す。

 どこを捨てる。

 どこを見る。

 全部見えている。

 だから、どれも捨てられない。

 弾薬車を捨てれば、砲兵が死ぬかもしれない。

 水箱を捨てれば、後ろの避難列が止まるかもしれない。

 担架路を優先すれば、弾薬が遅れる。

 砲列を優先すれば、負傷者が詰まる。

 赤布を増やせば、レイスが寄る。

 赤布を減らせば、人が迷う。

 見えている。

 全部。

 見えてしまう。

 これは、昔の自分とは違う。

 全部を一人で見ようとしているわけではない。

 もう分けている。

 ユウトに声を渡し、タクトに中央を渡し、リゼに戻る場所を渡し、ヒナセに通信を渡し、マコトに伝達を渡している。

 それでも、最後に決める線が残る。

 誰を通すか。

 何を置くか。

 どこを諦めるか。

 それだけは、人に渡せなかった。

 渡してはいけない気がした。

 だから、止まった。

 止まった瞬間に、列も少し止まった。

 ほんの少し。

 だが、ほんの少しで十分だった。

 担架の間隔が詰まる。

 弾薬車の後続が迷う。

 旧整備路の入り口で前線兵が足を止める。

 スリップがそこを抜ける。

 誰かが転ぶ。

 水箱が落ちる。

 泥が跳ねる。

 セナが怒鳴る。

「止まるな!」

 それは、列に向けた声だった。

 でも、カナタに刺さった。

 止まるな。

 自分が止まっている。

 暑い。

 空気が重い。

 火薬の匂いが喉に貼りつく。

 ハウラーの音が、頭の奥を押してくる。

 蝉が鳴いている。

 どうして蝉は鳴いているのだろう。

 前線が壊れているのに。

 人が転んでいるのに。

 白線が嘘にされているのに。

 蝉は、何も知らない。

 それとも、知ったうえで鳴いているのか。

 そんなことを考えている場合ではないのに、考えてしまう。

 頭が、余計なところへ逃げている。

「カナタさん!」

 リゼの声がした。

 近かった。

 彼女はいつの間にか、すぐそばまで来ていた。

 赤布を手首に巻いたまま、泥で汚れた顔で、息を切らしている。

「顔」

「……顔?」

「セナさんの真似」

 リゼは言った。

「止まってる顔」

 カナタは何か言おうとした。

 出てこなかった。

 代わりに、リゼが続けた。

「全部、見えてる?」

「……はい」

「じゃあ、見すぎ」

「でも」

「見えてる全部、今すぐ帰せる?」

 答えられなかった。

 リゼは赤布を握り直した。

 その赤は、泥で暗くなっている。

 それでも赤だった。

「線って、引くものだよ」

 短かった。

 軽かった。

 でも、胸の奥に落ちた。

 線は、見つけるものではない。

 引くもの。

 白線もそうだった。

 最初から道があったわけではない。

 布を置いた。

 そこを道にした。

 帰る場所もそうだった。

 最初からそこにあったわけではない。

 赤布を結んだ。

 火を起こした。

 人を呼んだ。

 そこを帰る場所にした。

 今も同じだ。

 見えている全部から正解を探すのではない。

 線を引く。

 その線を守る。

 守れなかったものは、消えるのではない。

 後で痛む。

 たぶん、ずっと。

 でも、今は引く。

「ガレス副長!」

 カナタは叫んだ。

 声が戻った。

 喉が痛い。

 それでも出た。

「旧整備路を主線にします!担架、砲兵、徒歩をそちらへ!弾薬車は二台だけ通す。残りは放棄準備!」

 ガレスが一瞬こちらを見る。

 目が細くなる。

「水は」

「持てる分だけ。箱ごとは捨てます」

「補給班が怒るぞ」

「後で怒られます」

「いい返事だ」

 ガレスは振り返った。

「旧整備路を主線!担架、砲兵、徒歩、そっちだ!弾薬車二台、残りは捨てる準備!」

 怒号が広がる。

 反発が来る。

 当然だった。

「弾薬を置けってのか!」

「水がいるんだぞ!」

「まだ牽ける!」

「この車は動く!」

 どの声も正しい。

 正しい声は重い。

 重いものが、泥の上にどんどん積もる。

 リゼが赤布を持ち上げず、低い位置で振った。

「怒る人、あとで!今は帰ろう!」

 短い。

 ひどく雑。

 でも、届いた。

 ユウトがすぐ繋ぐ。

「あとで怒ってください!苦情受付は生存後です!」

「何だそれ!」

「生きてれば聞きます!」

 前線兵の一人が悪態をつきながら、水箱を一つ下ろした。

 別の兵士が弾薬箱を蹴った。

 泥の上に、必要だったものが置かれていく。

 どさっ。

 ごとっ。

 重い音。

 冬の雪より、夏の泥は音を消さなかった。

 置いていくものの音が、はっきり聞こえた。

 カナタはそれを聞いた。

 聞いておくべきだと思った。

 自分が引いた線の外側に落ちる音だから。

 聞かないといけない。

「タクトさん、中央を旧整備路へ寄せてください!」

「はい」

「荷物は胸。水は小分け。箱は捨てる」

「はい」

 タクトは表情を変えずに動いた。

 小分け。

 箱を捨てる。

 水袋を渡す。

 缶は鳴らない。

 今はそれでいい。

「ヒナセさん、通信が戻ったら旧整備路主線を伝えてください。戻らなければ手信号」

「はい。通信、三秒ならいけます」

「三秒で」

「旧整備路、主線。繰り返し。旧整備路、主線」

 ヒナセは通信機へ短く吹き込んだ。

 ノイズ。

 途切れる。

 でも、どこかへ届いたかもしれない。

 たぶん。

 たぶんで十分な場面は、前より増えた。

「マコト、走って伝えてください。書かなくていい」

「はい!」

 マコトはメモ帳を一瞬見た。

 見ただけで閉じた。

 走った。

 それも成長だった。

「ミナさん、三号車を旧整備路入口へ固定できますか」

『固定?つまり車を杭にするってこと?』

「はい」

『嫌な使い方!』

「できますか」

『する!』

 三号車が泥を噛む。

 車体が斜めに沈む。

 タイヤが空転しかける。

 ミナが怒鳴る。

『今のは三号車が怒った音!でも止まらない!』

 三号車が止まった。

 止まったというより、踏ん張った。

 旧整備路の入口に、斜めの壁ができる。

 人がそこを目印に流れる。

 白線ではない。

 車線。

 カナタは思った。

 いや、今は名前をつける時間ではない。

 ユウトならつけるかもしれない。

 そのユウトは、もうつけていた。

「三号車線、こっち!」

「やめて!」

 ミナが叫ぶ。

「正式名称じゃないです!」

 ユウトが返す。

「非公式でも嫌!」

 少しだけ笑いが起きた。

 その笑いで、また足が動く。

 砲兵が旧整備路へ入る。

 担架が続く。

 徒歩の前線兵が、赤布を低く持った若い兵士についていく。

 十人。

 十人。

 また十人。

 列は大きな一本ではなく、小さな束になって流れ始めた。

 その方が、今は読まれにくい。

 レイスは白線を狙う。

 赤を待つ。

 大きな流れを切る。

 なら、小さく分ける。

 人が人を連れていく。

 布はその合図にすぎない。

 カナタは見た。

 守る線を決めた後も、見えるものは減らなかった。

 弾薬箱が置かれる。

 水箱が泥に沈む。

 白線布がピッカーに引かれ、ぐしゃぐしゃになる。

 スリップが一人の足元を抜ける。

 ハルクが止める。

 セナが怒鳴る。

 バスティオンが進む。

 ハウラーが鳴く。

 見える。

 全部、見える。

 でも、今はその全部を同じ重さで持たなかった。

 旧整備路。

 主線。

 そこを通す。

 それ以外は、後で痛む。

 今は痛む場所を決める。

 それが、指示を出すということなのだと思った。

 旧整備路の最初の束が抜けた。

 続いて担架。

 二台の弾薬車。

 砲兵。

 最後に、泥だらけの前線兵が数人。

 その一人がカナタの横を通る時、短く言った。

「水、置いた」

「はい」

「あれ、必要だった」

「はい」

「でも、足が軽い」

「はい」

「腹立つな」

「……すみません」

「謝るな。余計腹立つ」

 前線兵はそう言って、旧整備路へ入った。

 カナタは返事ができなかった。

 怒りが生きている。

 その人がまだ怒れることに、少しだけ安心した。

 でも、水箱は泥の上にある。

 怒りだけは帰る。

 箱は帰らない。

 やがて、第二後退路の一部が完全に空いた。

 空いたというより、剥がれた。

 人がいなくなると、そこには置かれたものが残る。

 弾薬。

 水。

 裂けた白線。

 折れた杭。

 落ちた布。

 そして、そこへ小型レイスが寄ってくる。

 白線を踏む。

 水箱を爪で弾く。

 まるで、こちらが置いていったものを確認しているみたいだった。

 カナタはその光景を見た。

 見て、覚えた。

 覚えたくなくても。

「カナタさん」

 リゼが言った。

 彼女の顔も泥で汚れていた。

 赤布は暗くなっている。

「今の線、通ったよ」

「はい」

「痛かった?」

 カナタは少しだけ黙った。

「はい」

「じゃあ、まだ大丈夫」

「何がですか」

「痛くなかったら、たぶん危ない」

 リゼは軽く言った。

 軽いのに、重かった。

 その時、遠くで大きな爆発があった。

 第一陣地の方角。

 黒煙が上がる。

 夏の空に、黒い柱が立つ。

 ヒナセの通信機が一瞬だけ戻った。

『第一陣地、完全放棄』

 ノイズ。

『第三方面、全体後退へ移行』

 また切れる。

 全体後退。

 計画では、もっと後だった。

 半日どころではない。

 全部が前倒しになる。

 前線が壊れる速度に、計画が追いつかない。

 カナタは空を見た。

 青い。

 雲が薄い。

 蝉が鳴いている。

 こんな日に、前線は崩れる。

 こんな日に、人は水箱を置いて走る。

 こんな日に、白線が嘘になる。

 夏は明るい。

 明るいまま、人を置いていく。

 ガレスが隣に来た。

 汗で髪が額に貼りついている。

 煙草はない。

「決めたな」

「……はい」

「全部は見えたか」

「見えました」

「なら忘れるな」

「はい」

「でも、抱えるな」

 ガレスは短く言った。

「抱えたら次で止まる」

 カナタは頷いた。

 忘れない。

 抱えない。

 簡単に言う。

 たぶん、ものすごく難しい。

 でも、それをしなければ次の線が引けない。

 旧整備路の奥から、ユウトの声がした。

「次の束、来ます!」

 タクトが答える。

「中央、空けます」

 リゼが赤布を渡す。

「十人。帰ろう」

 セナが怒鳴る。

「水飲め!倒れてから飲むな!」

 ミナが叫ぶ。

『三号車、まだ杭やれる!でもあとで謝って!』

 ハルクが盾を構える。

 ヒナセが手信号を上げる。

 マコトが走る。

 列はまた動く。

 カナタは泥の上に立った。

 見えるものは多い。

 多すぎる。

 でも、線は引ける。

 線は、見つけるものではない。

 引くものだ。

 その線の外側に残るものの音を、聞きながら。

 真夏の空の下で。

 前線が崩れていく音の中で。

 カナタは次の線を見た。

 そして、選んだ。

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