帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
見えない方が、楽なことはある。
それは、わりと早い段階で覚えた。
雪の中では、遠くが見えない。
だから、怖い。
でも、遠くが見えないからこそ、足元だけを見ればよかった。白線を見て、前の背中を見て、赤い布を見て、止まるなと言えばよかった。怖さは白い壁の向こうにあって、向こうにあるものは、まだこちらに来ていないものとして扱えた。
夏は違う。
見える。
泥の上の足跡も。
熱で揺れる砲列も。
壊れた白線布も。
そこに伏せていた小型レイスの爪跡も。
遠くで止まらないバスティオンの黒い背も。
それが全部、見える。
見えすぎる。
そして、見えたものは、なかったことにできない。
第二後退路は、昼の光の中で壊れていた。
完全に壊れたわけではない。
そこが嫌だった。
完全に壊れていれば、捨てると決められる。通れない道。燃えた車両。落ちた橋。そういうものは残酷だが、分かりやすい。分かりやすいものは、決断を少しだけ助ける。
第二後退路は、まだ通れた。
だから、ひどかった。
泥に沈みかけた弾薬車がある。横転はしていない。牽引すれば動くかもしれない。車体の横には補給兵が二人、肩で息をしている。足元には水箱が三つ。水は必要だ。だが、水箱を積み直すには時間がいる。
旧整備路の入り口には担架が詰まりかけている。セナが怒鳴っている。怒鳴れているうちは大丈夫だと思いたい。でも彼女の声は、朝より少し掠れていた。
砲兵はまだ下がりきっていない。アイゼン砲撃群の第二砲列が、バスティオンを止めるために撃ち続けている。砲撃は必要だ。砲撃が止まれば、あの黒い壁はもっと早く来る。だが、砲兵が遅れれば、担架路が塞がる。
ヒナセの通信は死にかけている。
マコトは走って伝えている。
リゼは赤布を低く渡している。
ユウトは十人単位で人を動かしている。
タクトは中央の荷物を降ろしている。
ミナは三号車を泥に突っ込ませている。
ハルクは右側の流れを盾で曲げている。
全員が動いている。
なのに、足りない。
見れば見るほど、足りない。
「カナタ!」
ガレスの声が飛んだ。
火のつかない煙草は、もう口にない。
どこかで落としたのか、しまったのか、分からない。
それだけで、今が普通ではないと分かる。
「次はどこだ!」
どこ。
カナタは泥の上を見た。
旧整備路。
担架路。
弾薬車。
砲列。
補給兵。
白線をずらすピッカー。
泥を走るスリップ。
赤を待つ小型。
ハウラーの音。
バスティオン。
空の青。
蝉。
昨日の祭りの肉の匂いが、手袋のどこかにまだ残っている気がした。
そんなはずはない。
ここは前線だ。
油と泥と火薬の匂いしかしない。
でも、手袋の中が少し汗ばんでいて、その湿り方が昨日と同じだった。
肉の缶を持った手。
赤布の柱。
夏祭り汁。
笑い声。
それが一瞬だけよぎって、すぐ砲声で潰れた。
「カナタ!」
ガレスがもう一度呼んだ。
カナタは答えようとした。
でも、声が出なかった。
どこを先に通す。
どこを捨てる。
どこを見る。
全部見えている。
だから、どれも捨てられない。
弾薬車を捨てれば、砲兵が死ぬかもしれない。
水箱を捨てれば、後ろの避難列が止まるかもしれない。
担架路を優先すれば、弾薬が遅れる。
砲列を優先すれば、負傷者が詰まる。
赤布を増やせば、レイスが寄る。
赤布を減らせば、人が迷う。
見えている。
全部。
見えてしまう。
これは、昔の自分とは違う。
全部を一人で見ようとしているわけではない。
もう分けている。
ユウトに声を渡し、タクトに中央を渡し、リゼに戻る場所を渡し、ヒナセに通信を渡し、マコトに伝達を渡している。
それでも、最後に決める線が残る。
誰を通すか。
何を置くか。
どこを諦めるか。
それだけは、人に渡せなかった。
渡してはいけない気がした。
だから、止まった。
止まった瞬間に、列も少し止まった。
ほんの少し。
だが、ほんの少しで十分だった。
担架の間隔が詰まる。
弾薬車の後続が迷う。
旧整備路の入り口で前線兵が足を止める。
スリップがそこを抜ける。
誰かが転ぶ。
水箱が落ちる。
泥が跳ねる。
セナが怒鳴る。
「止まるな!」
それは、列に向けた声だった。
でも、カナタに刺さった。
止まるな。
自分が止まっている。
暑い。
空気が重い。
火薬の匂いが喉に貼りつく。
ハウラーの音が、頭の奥を押してくる。
蝉が鳴いている。
どうして蝉は鳴いているのだろう。
前線が壊れているのに。
人が転んでいるのに。
白線が嘘にされているのに。
蝉は、何も知らない。
それとも、知ったうえで鳴いているのか。
そんなことを考えている場合ではないのに、考えてしまう。
頭が、余計なところへ逃げている。
「カナタさん!」
リゼの声がした。
近かった。
彼女はいつの間にか、すぐそばまで来ていた。
赤布を手首に巻いたまま、泥で汚れた顔で、息を切らしている。
「顔」
「……顔?」
「セナさんの真似」
リゼは言った。
「止まってる顔」
カナタは何か言おうとした。
出てこなかった。
代わりに、リゼが続けた。
「全部、見えてる?」
「……はい」
「じゃあ、見すぎ」
「でも」
「見えてる全部、今すぐ帰せる?」
答えられなかった。
リゼは赤布を握り直した。
その赤は、泥で暗くなっている。
それでも赤だった。
「線って、引くものだよ」
短かった。
軽かった。
でも、胸の奥に落ちた。
線は、見つけるものではない。
引くもの。
白線もそうだった。
最初から道があったわけではない。
布を置いた。
そこを道にした。
帰る場所もそうだった。
最初からそこにあったわけではない。
赤布を結んだ。
火を起こした。
人を呼んだ。
そこを帰る場所にした。
今も同じだ。
見えている全部から正解を探すのではない。
線を引く。
その線を守る。
守れなかったものは、消えるのではない。
後で痛む。
たぶん、ずっと。
でも、今は引く。
「ガレス副長!」
カナタは叫んだ。
声が戻った。
喉が痛い。
それでも出た。
「旧整備路を主線にします!担架、砲兵、徒歩をそちらへ!弾薬車は二台だけ通す。残りは放棄準備!」
ガレスが一瞬こちらを見る。
目が細くなる。
「水は」
「持てる分だけ。箱ごとは捨てます」
「補給班が怒るぞ」
「後で怒られます」
「いい返事だ」
ガレスは振り返った。
「旧整備路を主線!担架、砲兵、徒歩、そっちだ!弾薬車二台、残りは捨てる準備!」
怒号が広がる。
反発が来る。
当然だった。
「弾薬を置けってのか!」
「水がいるんだぞ!」
「まだ牽ける!」
「この車は動く!」
どの声も正しい。
正しい声は重い。
重いものが、泥の上にどんどん積もる。
リゼが赤布を持ち上げず、低い位置で振った。
「怒る人、あとで!今は帰ろう!」
短い。
ひどく雑。
でも、届いた。
ユウトがすぐ繋ぐ。
「あとで怒ってください!苦情受付は生存後です!」
「何だそれ!」
「生きてれば聞きます!」
前線兵の一人が悪態をつきながら、水箱を一つ下ろした。
別の兵士が弾薬箱を蹴った。
泥の上に、必要だったものが置かれていく。
どさっ。
ごとっ。
重い音。
冬の雪より、夏の泥は音を消さなかった。
置いていくものの音が、はっきり聞こえた。
カナタはそれを聞いた。
聞いておくべきだと思った。
自分が引いた線の外側に落ちる音だから。
聞かないといけない。
「タクトさん、中央を旧整備路へ寄せてください!」
「はい」
「荷物は胸。水は小分け。箱は捨てる」
「はい」
タクトは表情を変えずに動いた。
小分け。
箱を捨てる。
水袋を渡す。
缶は鳴らない。
今はそれでいい。
「ヒナセさん、通信が戻ったら旧整備路主線を伝えてください。戻らなければ手信号」
「はい。通信、三秒ならいけます」
「三秒で」
「旧整備路、主線。繰り返し。旧整備路、主線」
ヒナセは通信機へ短く吹き込んだ。
ノイズ。
途切れる。
でも、どこかへ届いたかもしれない。
たぶん。
たぶんで十分な場面は、前より増えた。
「マコト、走って伝えてください。書かなくていい」
「はい!」
マコトはメモ帳を一瞬見た。
見ただけで閉じた。
走った。
それも成長だった。
「ミナさん、三号車を旧整備路入口へ固定できますか」
『固定?つまり車を杭にするってこと?』
「はい」
『嫌な使い方!』
「できますか」
『する!』
三号車が泥を噛む。
車体が斜めに沈む。
タイヤが空転しかける。
ミナが怒鳴る。
『今のは三号車が怒った音!でも止まらない!』
三号車が止まった。
止まったというより、踏ん張った。
旧整備路の入口に、斜めの壁ができる。
人がそこを目印に流れる。
白線ではない。
車線。
カナタは思った。
いや、今は名前をつける時間ではない。
ユウトならつけるかもしれない。
そのユウトは、もうつけていた。
「三号車線、こっち!」
「やめて!」
ミナが叫ぶ。
「正式名称じゃないです!」
ユウトが返す。
「非公式でも嫌!」
少しだけ笑いが起きた。
その笑いで、また足が動く。
砲兵が旧整備路へ入る。
担架が続く。
徒歩の前線兵が、赤布を低く持った若い兵士についていく。
十人。
十人。
また十人。
列は大きな一本ではなく、小さな束になって流れ始めた。
その方が、今は読まれにくい。
レイスは白線を狙う。
赤を待つ。
大きな流れを切る。
なら、小さく分ける。
人が人を連れていく。
布はその合図にすぎない。
カナタは見た。
守る線を決めた後も、見えるものは減らなかった。
弾薬箱が置かれる。
水箱が泥に沈む。
白線布がピッカーに引かれ、ぐしゃぐしゃになる。
スリップが一人の足元を抜ける。
ハルクが止める。
セナが怒鳴る。
バスティオンが進む。
ハウラーが鳴く。
見える。
全部、見える。
でも、今はその全部を同じ重さで持たなかった。
旧整備路。
主線。
そこを通す。
それ以外は、後で痛む。
今は痛む場所を決める。
それが、指示を出すということなのだと思った。
旧整備路の最初の束が抜けた。
続いて担架。
二台の弾薬車。
砲兵。
最後に、泥だらけの前線兵が数人。
その一人がカナタの横を通る時、短く言った。
「水、置いた」
「はい」
「あれ、必要だった」
「はい」
「でも、足が軽い」
「はい」
「腹立つな」
「……すみません」
「謝るな。余計腹立つ」
前線兵はそう言って、旧整備路へ入った。
カナタは返事ができなかった。
怒りが生きている。
その人がまだ怒れることに、少しだけ安心した。
でも、水箱は泥の上にある。
怒りだけは帰る。
箱は帰らない。
やがて、第二後退路の一部が完全に空いた。
空いたというより、剥がれた。
人がいなくなると、そこには置かれたものが残る。
弾薬。
水。
裂けた白線。
折れた杭。
落ちた布。
そして、そこへ小型レイスが寄ってくる。
白線を踏む。
水箱を爪で弾く。
まるで、こちらが置いていったものを確認しているみたいだった。
カナタはその光景を見た。
見て、覚えた。
覚えたくなくても。
「カナタさん」
リゼが言った。
彼女の顔も泥で汚れていた。
赤布は暗くなっている。
「今の線、通ったよ」
「はい」
「痛かった?」
カナタは少しだけ黙った。
「はい」
「じゃあ、まだ大丈夫」
「何がですか」
「痛くなかったら、たぶん危ない」
リゼは軽く言った。
軽いのに、重かった。
その時、遠くで大きな爆発があった。
第一陣地の方角。
黒煙が上がる。
夏の空に、黒い柱が立つ。
ヒナセの通信機が一瞬だけ戻った。
『第一陣地、完全放棄』
ノイズ。
『第三方面、全体後退へ移行』
また切れる。
全体後退。
計画では、もっと後だった。
半日どころではない。
全部が前倒しになる。
前線が壊れる速度に、計画が追いつかない。
カナタは空を見た。
青い。
雲が薄い。
蝉が鳴いている。
こんな日に、前線は崩れる。
こんな日に、人は水箱を置いて走る。
こんな日に、白線が嘘になる。
夏は明るい。
明るいまま、人を置いていく。
ガレスが隣に来た。
汗で髪が額に貼りついている。
煙草はない。
「決めたな」
「……はい」
「全部は見えたか」
「見えました」
「なら忘れるな」
「はい」
「でも、抱えるな」
ガレスは短く言った。
「抱えたら次で止まる」
カナタは頷いた。
忘れない。
抱えない。
簡単に言う。
たぶん、ものすごく難しい。
でも、それをしなければ次の線が引けない。
旧整備路の奥から、ユウトの声がした。
「次の束、来ます!」
タクトが答える。
「中央、空けます」
リゼが赤布を渡す。
「十人。帰ろう」
セナが怒鳴る。
「水飲め!倒れてから飲むな!」
ミナが叫ぶ。
『三号車、まだ杭やれる!でもあとで謝って!』
ハルクが盾を構える。
ヒナセが手信号を上げる。
マコトが走る。
列はまた動く。
カナタは泥の上に立った。
見えるものは多い。
多すぎる。
でも、線は引ける。
線は、見つけるものではない。
引くものだ。
その線の外側に残るものの音を、聞きながら。
真夏の空の下で。
前線が崩れていく音の中で。
カナタは次の線を見た。
そして、選んだ。