帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十八話 泥と蝉

 泥は、雪よりしつこい。

 雪は降る。

 積もる。

 隠す。

 踏めば沈むし、溶ければ水になるし、最後にはどこかへ行く。もちろん、その途中で人間を殺すこともある。道を消し、足を取らせ、車輪を止め、息を白くさせる。雪は十分にひどい。

 けれど、泥は違う。

 泥は残る。

 靴底に。

 車輪に。

 ズボンの裾に。

 手袋の縫い目に。

 担架の脚に。

 そして、気持ちの悪い重さで、人間が前へ進もうとするたびについてくる。

 泥は、帰りたがらない。

 真夏の撤退路は、泥の匂いがした。

 雨が降ったわけではない。

 いや、降ったのかもしれない。

 前線の向こうで。

 砲撃で掘り返された地面に、どこかの水路から漏れた水が入り、燃料が混ざり、油が浮き、誰かの血が混じり、それを車輪が何度も踏んで、真夏の日差しが上から温めた。

 そうしてできた泥は、ただの土ではなかった。

 少し甘い。

 少し腐っている。

 少し熱い。

 鼻の奥に貼りつく。

 カナタは三号車の荷台に座り、その匂いを吸い込んで、すぐに後悔した。

 後悔しても、もう遅い。

 匂いは体の中へ入ってしまう。

 祭りの肉の匂いもそうだった。

 夏祭り汁の薄い脂も。

 昨日の缶詰の金属の冷たさも。

 それらは全部、今の泥の匂いの下に沈んでいる。

 沈んでいるのに、なくならない。

 だから、よけい嫌だった。

「暑いですね」

 ユウトが言った。

 声は、いつもより少し低かった。

「はい」

「会話、終わりましたね」

「暑いので」

「泥も暑いんですかね」

「たぶん」

「嫌ですね、温かい泥」

「かなり」

 ユウトは小銃を膝に置いて、荷台の外を見ていた。

 軽口はある。

 でも、いつもの半分くらいだった。

 多すぎると疲れる。

 少なすぎると怖い。

 今のユウトは、そのちょうど間にいた。

 タクトは荷台の中央で、荷物の紐を結び直している。

 缶は鳴らない。

 水袋も鳴らない。

 工具箱だけが少し鳴った。

 ミナが運転席から怒鳴った。

「それ、私のじゃない!」

「誰のですか」

 タクトが訊く。

「マコトの記録用工具箱!」

「記録用工具箱とは」

 マコトが真面目に困る。

「今できた」

「困ります」

「困る前に布巻いて!」

 タクトは工具箱に布を巻いた。

 音が消える。

 マコトはそれを見て、少しだけ頷いた。

「記録します」

「しなくていいです」

 カナタは言った。

 マコトは一瞬だけ考え、メモ帳を閉じた。

 またひとつ、記録しないことを覚えた。

 撤退列は長くなっていた。

 前線兵。

 砲兵。

 負傷者。

 補給兵。

 避難民。

 全部が混ざっている。

 もう、きれいな列ではなかった。

 それでも列だった。

 旧整備路を抜けたあと、三号車は中継地点へ向かっていた。計画では、そこは予備休止点と呼ばれていた。けれど、誰もそんな呼び方はしなかった。

 地図の上では、旧第六学区補助校舎跡。

 現場では、ただの廃校だった。

 夏の廃校。

 それは冬の廃校よりずっと嫌だった。

 冬の廃校は、死んでいる。

 雪が積もり、窓が白くなり、校庭も鉄棒も同じ白に沈む。死んだ場所が死んだ顔をしている。それは怖い。でも分かりやすい。

 夏の廃校は、生きているふりをする。

 草が伸びる。

 蔦が窓枠を這う。

 校庭の端で虫が鳴く。

 割れた窓から湿った風が入り、カーテンの切れ端がゆっくり動く。

 人がいないのに、まだ放課後みたいな顔をしている。

 そこが怖かった。

 車列が校庭跡へ入ると、蝉の声が一気に大きくなった。

 砲声より近い。

 ハウラーより無遠慮。

 レイスよりこちらを気にしていない。

 蝉は、世界がどうなろうと鳴く。

 たぶん、今日死ぬからだ。

 そう思った瞬間、カナタは少しだけ蝉に腹が立った。

 そして、少し羨ましかった。

「休止、十五分!」

 ガレスの声が飛んだ。

「ただし、ばらけるな。水、足、熱。全部見ろ。食える奴は食え。倒れる奴は倒れる前に言え」

「倒れる前に分かるんですか」

 ユウトが言う。

 セナが即答した。

「分かれ」

「命令形」

「分かれ」

「はい」

 休止と言っても、休める人間は少なかった。

 セナはすぐ救護席を作る。

 ヒナセは通信機を開く。

 マコトは伝令経路を確認する。

 タクトは荷物を降ろす順番を見る。

 ミナは三号車の腹を覗き込む。

 ハルクは校門の近くに立つ。

 リゼは赤布を校舎入口の柱に結んだ。

 そこが帰る場所になる。

 十五分だけ。

 それでも、帰る場所だった。

 カナタは周囲を見た。

 校舎。

 体育館。

 水道。

 裏門。

 伸びすぎた草。

 壊れた遊具。

 校庭の端に、自動販売機があった。

 古い。

 日に焼けている。

 前面の透明パネルは白く曇り、中の商品見本は色が抜けていた。

 オレンジソーダ。

 スポーツ飲料。

 缶コーヒー。

 それらが、もう売られることのない顔で並んでいる。

 カナタはそれを見た。

 見てしまった。

 冬、ハウンド七の壊れた自販機の前にミナが座っていたことを思い出す。

 オレンジソーダ。

 今なら飲みたい。

 そう言っていた。

 あれから、ずいぶん経った気がする。

 実際には、そんなに経っていないのかもしれない。

 時間は、撤退中に信用できなくなる。

 数時間が一日みたいに伸び、一週間が一晩みたいに消える。

 人は、自分がどれくらい疲れているかを、日付ではなく靴下の湿り方で知る。

「飲めますかね」

 タクトが自販機の前で言った。

「電源、入ってませんよ」

 カナタが答える。

「ですよね」

 タクトは腰の缶に触れた。

 オレンジソーダの空き缶。

 その前に、もう買えないオレンジソーダの見本。

 変な対面だった。

「持ってるのに、飲めないんですね」

 カナタが言うと、タクトは少しだけ笑った。

「持ってるのは、飲んだ後なので」

「そうですね」

「でも、飲む前の顔してますね。あれ」

 自販機の中の缶見本。

 色あせている。

 それでも、確かに飲む前の顔をしている。

 まだ開いていない。

 まだ甘い。

 まだ冷たいかもしれない。

 実際には、ぬるくもない。

 ただの見本だ。

 でも、人間はそういうものに騙される。

 騙されたい時がある。

 ミナが後ろから来た。

「開ける?」

「自販機を?」

 カナタが訊く。

「うん」

「だめだと思います」

「誰の許可がいるの」

「常識ですかね」

「非常時に弱そうな権限だね」

 かなり正しかった。

 しかし、ミナは開けなかった。

 ただ、自販機の前にしゃがんで、中のオレンジソーダを見ていた。

「本物だったら、飲んでた」

「はい」

「ぬるくても」

「はい」

「炭酸抜けてても」

「それはどうですか」

「飲んでた」

 ミナは立ち上がった。

「三号車も、水飲ませたい」

「車は水でいいんですか」

「水だけじゃだめ。でも水もいる」

「人間みたいですね」

「車の方が正直」

 彼女はそう言って、三号車へ戻った。

 廃校の校庭に、束の間だけ静かな時間が落ちた。

 完全な静けさではない。

 蝉。

 遠い砲声。

 負傷者のうめき声。

 水を飲む音。

 布を絞る音。

 通信機の微かなノイズ。

 それでも、前線の泥の中よりはずっと静かだった。

 リゼは校舎入口の赤布の下に座っていた。

 靴を脱いで、泥を落としている。

 裸足ではない。

 靴下。

 泥。

 草の種。

 それらが足元に落ちる。

「学校ってさ」

 リゼが言った。

「夏の方が学校っぽいよね」

「そうですか」

「冬の学校は、閉まってる感じがする。夏の学校は、誰もいないだけって感じ」

 カナタは校舎を見た。

 割れた窓。

 黒ずんだ壁。

 入口の柱。

 そこに結ばれた赤布。

「誰もいないだけ、ですか」

「うん」

 リゼは靴にこびりついた泥を棒で落とす。

「だから、ちょっと待ってれば誰か来そう」

「来ますかね」

「来ないと思う」

「はい」

「でも、来そうな顔はしてる」

 その言い方が、妙に残った。

 来ない。

 でも、来そうな顔をしている。

 夏の廃校そのものだった。

 旧学校区も、もしかしたらそうだったのかもしれない。

 誰も戻らない。

 でも、戻ってきそうな顔だけは、ずっと残していた。

 だから、リゼは軍手を持ってきた。

 だから、帰ってきたもの置き場にチョークを置いた。

 人は場所を全部持って帰れない。

 だから、小さいものを持って帰る。

 リゼは泥を落とし終えると、赤布を見上げた。

「ここも、ちょっとだけ持って帰る?」

「何を」

「蝉」

「捕まえるんですか」

「嫌」

「じゃあ」

「音だけ」

 リゼは耳を澄ませるようにした。

 蝉の声。

 暑さ。

 泥の匂い。

 遠い砲声。

 全部が混じっている。

 持って帰りたい音ではない。

 でも、きっと残る。

 持ちたくなくても。

 十五分は、思ったより短かった。

 いや、短いことは分かっていた。

 でも、休止の十五分はいつも速い。

 走る十五分は永遠みたいなのに、座る十五分はすぐ消える。

 ガレスが立ち上がった。

「出るぞ」

 誰も文句を言わなかった。

 文句を言うには、疲れすぎていた。

 その時、ヒナセの通信機が小さく鳴った。

 短い。

 嫌な短さだった。

 彼女は耳を押さえる。

 顔が少し変わる。

「前方、接触」

 ガレスが振り向く。

「どこだ」

「第二中継路。小型多数。あと、ハウラー反応」

「数」

「分かりません。通信が……」

 通信が途切れる。

 ノイズ。

 そして、別の声。

 前線兵の声だ。

 荒い。

 近い。

『第六休止点、聞こえるか。前方路、塞がれた。白線誘導点に敵。繰り返す、誘導点に――』

 途切れる。

 白線誘導点。

 また。

 カナタは自販機を見た。

 オレンジソーダの見本。

 飲む前の顔。

 そのすぐ横で、赤布が風に揺れている。

 休止点が、休止点ではなくなる。

 学校だった場所が、また戦場になる。

 カナタは靴底の泥を踏み直した。

 乾いていない。

 重い。

「リゼさん」

「うん」

「赤布、低く」

「分かってる」

「ユウトさん」

「十人ずつ?」

「はい」

「もう標語ですね」

「便利なので」

「便利って大事」

 ユウトは笑った。

 さっきより、少しだけ軽口が戻っている。

 でも、すぐ銃を持った。

 タクトは缶を押さえ、荷物をまとめる。

 ミナは三号車のエンジンをかける。

 セナは救護席を畳む。

 ハルクは校門へ向かう。

 ヒナセは通信機を抱え、マコトは走る準備をする。

 赤布の下に作られた十五分だけの帰る場所は、終わった。

 でも、終わった場所には跡が残る。

 柱の布跡。

 踏み固められた泥。

 飲み干された水袋。

 自販機の前の足跡。

 蝉の声。

 カナタはそれを見た。

 見て、覚えた。

 休めたかどうかは分からない。

 でも、止まった。

 十五分だけ。

 その十五分が、次の泥道へ出るための何かになっている。

 そう思いたかった。

 三号車が動き出す。

 校庭跡を出る時、タクトが自販機を振り返った。

 カナタも振り返った。

 オレンジソーダの見本は、割れたパネルの向こうで、まだ飲む前の顔をしていた。

 もう誰も飲めないのに。

 それでも。

 夏は、そういう顔をする。

 前方から、ハウラーの低い音が届いた。

 蝉の声が、その下で少しだけ歪んだ。

 リゼが赤布を握る。

 ガレスが言った。

「休みは終わりだ」

 ユウトが小さく返す。

「夏休み、短いですね」

 誰も笑わなかった。

 でも、誰かがほんの少し息を吐いた。

 それで十分だった。

 車列はまた泥へ入る。

 学校は後ろへ遠ざかる。

 蝉の声だけが、しばらくついてきた。

 まるで、置いていかれた場所が、まだこちらを呼んでいるみたいに。

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