帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十話 ハウンド七放棄決定

 ハウンド七へ戻った時、食堂の窓はまだ開いていた。

 誰も閉めていなかった。

 昨日の夏祭りの後、片付けの途中で警報が鳴り、前線へ出て、それから戻ってきて、また出て、泥と汗と火薬を持ち帰って、それでも窓は開いたままだった。

 開いた窓から、夏の風が入ってくる。

 ぬるい。

 湿っている。

 草の匂いがする。

 そこに、泥と油と焦げた金属と、誰かの濡れた靴下の匂いが混ざる。食堂の空気は、もう食堂だけのものではなかった。前線の匂いが混じっている。撤退路の匂いが混じっている。廃校の蝉の声さえ、まだ誰かの服の中に残っているような気がした。

 カナタは入口で足を止めた。

 食堂前の空き地には、祭りの跡がまだあった。

 射的の木片。

 缶詰くじの空き箱。

 水を張っていた桶。

 赤布が結ばれていた柱。

 半分剥がれた《祭り入口》の札。

 それらは、一日経っても片付いていなかった。

 一日。

 本当に一日だったのか、カナタには自信がなかった。

 祭りは昨日だった。

 そのはずだ。

 でも、前線の泥の匂いを嗅ぎ、白線が踏まれ、赤布を低く渡し、通信が死に、廃校の自販機を見て、戻ってきた人間を次に帰す側へ変えていると、昨日という言葉が少し遠くなる。

 昨日は、別の季節みたいだった。

 ユウトは食堂の前で、木片を拾っていた。

 射的の的だったもの。

 彼はそれを一つずつ箱に入れている。

「片付けてるんですか」

 カナタが訊くと、ユウトは顔を上げた。

「はい」

「珍しいですね」

「自分でも思いました」

「なぜ」

「置いたままだと、祭りがまだ終わってない感じがするので」

 ユウトは木片を箱に入れた。

 乾いた音。

「でも、終わったんですよね」

 カナタは答えられなかった。

 祭りは終わった。

 たぶん。

 でも、祭りの後片付けが終わる前に、前線が崩れ始めた。

 だから、どこで終わったのか分からない。

 ユウトはもう一つ木片を拾う。

「これ、来年も使えますかね」

「来年?」

「はい」

 彼は少しだけ笑った。

「言ってみただけです」

 言ってみただけ。

 そういう言葉の方が、時々重い。

 タクトは空き缶を箱に詰めていた。

 昨日の缶詰。

 祭りの缶。

 肉の缶。

 豆の缶。

 謎魚だったかもしれない缶。

 全部、布で巻かれている。

 鳴らない。

 祭りの残骸は、音を消されて箱に入っていく。

「それ、持っていくんですか」

 カナタが訊くと、タクトは少し考えた。

「持っていけるなら」

「空き缶ですよ」

「はい」

「必要ですか」

「分かりません」

 タクトは箱の中を見た。

「でも、捨てると昨日が軽くなりそうで」

 昨日が軽くなる。

 変な言い方だった。

 でも、少し分かった。

 昨日の祭りは軽かった。

 軽くて、くだらなくて、少し楽しかった。

 でも、軽いものほど、放っておくと本当に軽くなって消えてしまう。

 だから、何かに入れておきたくなる。

 空き缶でも。

 布でも。

 赤い跡でも。

 帰ってきたもの置き場でも。

 食堂の隅の古い学校机には、祭りのものが少し増えていた。

 肉の缶の蓋。

 射的の木片。

 ユウトが書いた《待機祭り》の札。

 ミナが勝手に置いた三号車展示札。

 リゼが赤布で結んでいた髪留めの余り紐。

 マコトはそれを見て、手順書に何かを書こうとしていた。

「記録するんですか」

 カナタが言うと、マコトは顔を上げた。

「すべきか迷っています」

「迷うなら」

「書かない?」

「いえ、迷ったことを書いてください」

 マコトは少し驚いた顔をした。

 それから頷いた。

 《祭りのもの。記録すべきか迷う》

 そう書いた。

 それでよかった。

 全部を記録できるわけではない。

 でも、迷ったことなら書ける。

 昼前、ハウンド七の空気が変わった。

 警報ではなかった。

 通信塔の短い音でもなかった。

 もっと静かだった。

 車両が止まる音。

 軍靴が揃って歩く音。

 誰かが階段を上がる音。

 そういう、きちんとした音だった。

 きちんとした音は、乱れた場所ではよく目立つ。

 司令部連絡班が来た。

 三人。

 泥が少ない軍服。

 紙筒。

 記章。

 夏の熱の中で、彼らだけが少し乾いて見えた。

 乾いている人間は、濡れた場所で目立つ。

 ガレスは格納庫前にいた。

 火のつかない煙草を咥えている。

 ただし、今日は咥えているだけではなかった。

 指で、何度も煙草の先を触っていた。

 火をつけるか迷っているように見えた。

 連絡班の男が紙を差し出す。

 ガレスは受け取らなかった。

「口で言え」

 男は一瞬だけ困った顔をした。

 それから、言った。

「帰還拠点ハウンド七は、第三方面全体後退に伴い、二十四時間以内に放棄されます」

 その言葉は、思ったより静かだった。

 静かすぎて、最初は意味が届かなかった。

 ハウンド七。

 放棄。

 二十四時間以内。

 言葉が三つ、地面に落ちる。

 どれも拾いたくなかった。

 誰もすぐに喋らなかった。

 蝉が鳴いていた。

 遠くの格納庫で、ミナの工具が床に落ちる音がした。

 かん、と。

 いつもなら怒鳴る。

 今日は怒鳴らなかった。

「理由は」

 ガレスが訊いた。

「前線第一、第二陣地の放棄。第三方面敵群南下。ハウラー群による通信妨害拡大。バスティオン複数体の進行。補給路維持困難」

 説明は正しかった。

 正しい説明ほど、腹が立つ。

 誰も間違っていない。

 前線は崩れている。

 敵は増えている。

 通信は死にかけている。

 補給路は泥に沈んでいる。

 ハウンド七は、帰還拠点として前に出すぎた。

 だから捨てる。

 正しい。

 とても正しい。

 正しいから、どうしようもない。

「撤収順は」

 カナタは自分が言ったことに少し遅れて気づいた。

 声は普通だった。

 嫌なくらい普通だった。

 連絡班の男がこちらを見る。

「人員優先。医療棟、通信塔、補給庫、整備庫の順で移動。重車両は選別。移送不能物資は焼却または破棄」

 焼却。

 破棄。

 選別。

 言葉が事務的だった。

 その事務性が、ひどく残酷だった。

 燃やすもの。

 捨てるもの。

 選ぶもの。

 それらには、全部名前がある。

 食堂の椀。

 赤布の予備。

 白線布。

 黒札。

 帰ってきたもの置き場。

 三号車の部品。

 医療棟の古い椅子。

 壊れた自販機。

 洗濯ロープ。

 ストーブ。

 祭りの札。

 全部、物資ではなく、場所の一部だった。

「三号車は?」

 ミナの声がした。

 格納庫の入口に立っている。

 頬に油。

 手には落とした工具。

 握りしめている。

 連絡班の男は書類を見る。

「稼働可能なら移動。不能なら破棄」

「不能じゃない」

 ミナは即答した。

「まだ誰も見てないでしょ」

「車両状態表では」

「表より車を見る」

 声は低かった。

 いつもの怒りではない。

 もっと硬い。

 ミナは三号車の方を見た。

「動く。動かす」

 連絡班の男は黙った。

 ガレスが言った。

「三号車は持っていく」

「しかし」

「持っていく」

 それで終わった。

 ミナは何も言わなかった。

 ただ、三号車へ戻った。

 肩が少しだけ震えているように見えた。

 暑さのせいかもしれない。

 怒りのせいかもしれない。

 両方かもしれない。

 リゼは食堂の入口にいた。

 赤布を手首に巻いている。

 今日は乾いていた。

 白い塩の跡が少し残っている。

「帰ってきたもの置き場は?」

 彼女が訊いた。

 連絡班の男は、意味が分からない顔をした。

「何ですか」

「帰ってきたもの置き場」

「備品ですか」

「違う」

「私物ですか」

「それも違う」

 男は困った顔をした。

 困らせるために言ったわけではない。

 でも、彼には分からない。

 分からなくて当然だった。

 帰ってきたもの置き場は、司令部の書類にはない。

 物資でもない。

 記念品でもない。

 戦果でもない。

 ただ、人が帰ってきた後に置いたものたちだ。

 赤い手袋。

 空き缶。

 優勝豆。

 黒札。

 焦げた端子。

 祭りの木片。

 それらが、ハウンド七という場所に根を生やしていた。

 それをどう運ぶのか。

 そもそも、運べるのか。

 リゼはカナタを見た。

「持っていくよね」

 問いではなかった。

 確認だった。

 カナタは頷いた。

「持てる分は」

「全部は?」

「……無理です」

 リゼは少しだけ目を伏せた。

 でも、怒らなかった。

 彼女はもう知っている。

 全部は無理。

 その言葉の中に、どれだけ顔が入っているかを知っている。

「じゃあ、選ぶ」

「はい」

「嫌だね」

「はい」

 セナが医療棟から出てきた。

 顔が疲れている。

 でも、声はいつも通り硬かった。

「医療棟は二時間でまとめる。動かせない患者はいない。動かしたら死ぬ患者はいる」

 誰もすぐには返事できなかった。

 セナは続ける。

「でも、ここに残しても死ぬ」

 短い。

 逃げ道のない言葉。

「だから動かす」

 ガレスが頷く。

「やれ」

「言われなくても」

 セナは戻っていった。

 その背中は小さくない。

 でも、この広い撤退の中では、ひどく小さく見えた。

 ハルクは盾を背負い直していた。

「右側、任せる」

 カナタが言うと、彼は頷いた。

「抜かせない」

「ハウンド七も?」

 リゼが少しだけ茶化すように言った。

 ハルクは答えなかった。

 沈黙した。

 それが答えだった。

 抜かせないものと、抜かれてしまうものがある。

 人は守れる。

 道も、少しなら守れる。

 でも、場所は背負えない。

 ハウンド七は、持ち上げられない。

 午後、撤収準備が始まった。

 祭りの片付けとは違った。

 似ているのに、違った。

 箱に詰める。

 紐で縛る。

 札を貼る。

 残すものを端へ寄せる。

 持っていくものを車へ積む。

 やっていることは同じだ。

 でも、祭りの片付けは、明日もここにある前提で行う。

 撤収は違う。

 明日ここに戻らない前提で行う。

 その差は、箱の重さよりずっと重かった。

 タクトは空き缶の箱を見ていた。

「全部は無理です」

 自分に言っているようだった。

「はい」

 カナタは答えた。

「でも、一つなら」

 タクトは自分の腰の缶に触れた。

「これは持ちます」

「はい」

「箱の方は」

 言葉が止まる。

 カナタは少し考えた。

「蓋だけ」

「蓋?」

「祭りの肉缶の蓋。帰ってきたもの置き場にあります」

 タクトは少しだけ笑った。

「軽いですね」

「軽いです」

「でも、昨日の音がします」

「鳴らないようにしてください」

「はい」

 ユウトは射的の木片を三つ選んだ。

「全部持っていくと、射的台になります」

「いりません」

「三つなら?」

「何になりますか」

「思い出の最小単位」

「記録します」

 マコトが言った。

「今のはいいです」

 ユウトが胸を張った。

「書かれると急に恥ずかしいですね」

「じゃあ消しますか」

「残してください」

「どっちですか」

 少しだけ笑いが起きた。

 笑いはすぐ消えた。

 でも、あった。

 リゼは帰ってきたもの置き場の前に座っていた。

 何を持っていくかを選んでいる。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 チョーク。

 祭り入口の札。

 全部は無理。

 カナタは隣に座った。

 古い学校机の天板に、《帰りたい》という落書きがある。

 この机は、たぶん持っていけない。

 重い。

 場所を取る。

 車両には人と医療品と水と工具を積む。

 机は歩けない。

 だから置いていく。

「机は?」

 リゼが訊いた。

「無理です」

「だよね」

 彼女は指で天板の落書きをなぞった。

「帰りたい、だって」

「はい」

「机も?」

「たぶん」

「机は歩けないね」

「はい」

「じゃあ、連れていけない」

 リゼはチョークを一本取った。

 短い。

 白い。

「これだけ」

「はい」

「黒札は?」

「必要です」

「なんか嫌、必要なんだ」

「かなり」

「じゃあ持つ」

 リゼは黒札を取った。

 それから、優勝豆を見た。

「これ」

「それは」

「持っていく?」

 小さな豆。

 乾いている。

 何が優勝だったのか、もう誰も正確には覚えていない。

 でも、優勝豆だ。

 リゼは少し笑った。

「豆は軽い」

「はい」

「じゃあ連れていける」

 優勝豆も、小さな布袋に入った。

 夕方前、ガレスが食堂に入ってきた。

 手には煙草。

 いつもの火のつかない煙草ではなかった。

 火打ち具を持っていた。

 食堂が少し静かになった。

 誰も、何か言うべきか分からなかった。

 ガレスは窓際に立った。

 開いた窓から夏の風が入る。

 蝉の声。

 遠い砲声。

 格納庫の工具音。

 医療棟の怒鳴り声。

 食堂の椀の音。

 ハウンド七の全部が、そこにあった。

 ガレスは煙草を咥えた。

 火をつけた。

 本当に。

 小さな火がついた。

 煙が上がる。

 夏の食堂に、煙草の匂いが広がる。

 カナタは、その匂いを初めて嗅いだ気がした。

 ガレスはいつも煙草を咥えていた。

 でも火はつけなかった。

 だから、それは煙草の形をした何かだった。

 今、初めて本物の煙草になった。

 一本分だけ。

「副長」

 ユウトが小さく言った。

「火、ついてます」

「見りゃ分かる」

「珍しいですね」

「今日くらいはな」

 ガレスは煙を吐いた。

 それは、湯気より薄く、砲煙より優しかった。

 でも、煙だった。

「ハウンド七は廃棄する」

 短く言った。

 もう知っている。

 でも、ガレスが言うと、本当に決まった気がした。

「人は持っていく。車も、動くやつは持っていく。物資も、持てる分は持っていく。持てねぇものは置く」

 誰も喋らない。

「ここで帰ってきたことは、置いていくな」

 それだけだった。

 命令としては不十分だ。

 でも、たぶん一番大事だった。

 カナタは食堂を見た。

 窓。

 椅子。

 ストーブ。

 椀。

 帰ってきたもの置き場。

 祭りの札。

 開いた窓から入る夏の風。

 持っていけない。

 でも、置いていかない。

 どういう意味なのか、まだ分からない。

 でも、分からないまま頷いた。

 夜までに、ハウンド七は半分だけ空になった。

 半分だけ。

 それが一番つらかった。

 人がいる。

 声がある。

 三号車もまだいる。

 食堂ではスープも出た。

 豆は二粒。

 市民。

 いつも通り。

 でも、いつも通りではなかった。

 椀を置く音が、少し大きく聞こえた。

 窓が開いている。

 夜の虫が鳴いている。

 誰かが「暑い」と言った。

 誰かが「明日にはここ、空になるんだな」と言いかけて、やめた。

 言わなくても分かることがある。

 言うと、本当にそうなることがある。

 カナタは手袋を見た。

 湿っている。

 汗と泥と、少しだけ煙草の匂い。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 夏だから。

「悪化した」

 小さく呟く。

 リゼが隣で言った。

「今日は仕方ない」

「はい」

「でも、持っていく?」

「手袋を?」

「うん」

「持っていきます」

「じゃあ大丈夫」

「何がですか」

「少しは」

 リゼはそれ以上言わなかった。

 食堂の隅には、持っていくものが小さな箱にまとめられていた。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 チョーク。

 肉缶の蓋。

 射的の木片。

 焦げた端子。

 祭り入口の札の切れ端。

 全部ではない。

 でも、ゼロではない。

 ハウンド七は廃棄される。

 その言葉は、夜になっても消えなかった。

 けれど、箱の中には小さなものがいくつか入っている。

 帰る場所は失う。

 だから、持てる分だけ持っていく。

 たぶん、明日はそれをしなければならない。

 カナタは開いた窓の外を見た。

 蝉はもう鳴いていない。

 代わりに、夜の虫が鳴いていた。

 遠くで砲声がした。

 近かった。

 ハウンド七の最後の夜が、始まっていた。

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