帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
ハウンド七へ戻った時、食堂の窓はまだ開いていた。
誰も閉めていなかった。
昨日の夏祭りの後、片付けの途中で警報が鳴り、前線へ出て、それから戻ってきて、また出て、泥と汗と火薬を持ち帰って、それでも窓は開いたままだった。
開いた窓から、夏の風が入ってくる。
ぬるい。
湿っている。
草の匂いがする。
そこに、泥と油と焦げた金属と、誰かの濡れた靴下の匂いが混ざる。食堂の空気は、もう食堂だけのものではなかった。前線の匂いが混じっている。撤退路の匂いが混じっている。廃校の蝉の声さえ、まだ誰かの服の中に残っているような気がした。
カナタは入口で足を止めた。
食堂前の空き地には、祭りの跡がまだあった。
射的の木片。
缶詰くじの空き箱。
水を張っていた桶。
赤布が結ばれていた柱。
半分剥がれた《祭り入口》の札。
それらは、一日経っても片付いていなかった。
一日。
本当に一日だったのか、カナタには自信がなかった。
祭りは昨日だった。
そのはずだ。
でも、前線の泥の匂いを嗅ぎ、白線が踏まれ、赤布を低く渡し、通信が死に、廃校の自販機を見て、戻ってきた人間を次に帰す側へ変えていると、昨日という言葉が少し遠くなる。
昨日は、別の季節みたいだった。
ユウトは食堂の前で、木片を拾っていた。
射的の的だったもの。
彼はそれを一つずつ箱に入れている。
「片付けてるんですか」
カナタが訊くと、ユウトは顔を上げた。
「はい」
「珍しいですね」
「自分でも思いました」
「なぜ」
「置いたままだと、祭りがまだ終わってない感じがするので」
ユウトは木片を箱に入れた。
乾いた音。
「でも、終わったんですよね」
カナタは答えられなかった。
祭りは終わった。
たぶん。
でも、祭りの後片付けが終わる前に、前線が崩れ始めた。
だから、どこで終わったのか分からない。
ユウトはもう一つ木片を拾う。
「これ、来年も使えますかね」
「来年?」
「はい」
彼は少しだけ笑った。
「言ってみただけです」
言ってみただけ。
そういう言葉の方が、時々重い。
タクトは空き缶を箱に詰めていた。
昨日の缶詰。
祭りの缶。
肉の缶。
豆の缶。
謎魚だったかもしれない缶。
全部、布で巻かれている。
鳴らない。
祭りの残骸は、音を消されて箱に入っていく。
「それ、持っていくんですか」
カナタが訊くと、タクトは少し考えた。
「持っていけるなら」
「空き缶ですよ」
「はい」
「必要ですか」
「分かりません」
タクトは箱の中を見た。
「でも、捨てると昨日が軽くなりそうで」
昨日が軽くなる。
変な言い方だった。
でも、少し分かった。
昨日の祭りは軽かった。
軽くて、くだらなくて、少し楽しかった。
でも、軽いものほど、放っておくと本当に軽くなって消えてしまう。
だから、何かに入れておきたくなる。
空き缶でも。
布でも。
赤い跡でも。
帰ってきたもの置き場でも。
食堂の隅の古い学校机には、祭りのものが少し増えていた。
肉の缶の蓋。
射的の木片。
ユウトが書いた《待機祭り》の札。
ミナが勝手に置いた三号車展示札。
リゼが赤布で結んでいた髪留めの余り紐。
マコトはそれを見て、手順書に何かを書こうとしていた。
「記録するんですか」
カナタが言うと、マコトは顔を上げた。
「すべきか迷っています」
「迷うなら」
「書かない?」
「いえ、迷ったことを書いてください」
マコトは少し驚いた顔をした。
それから頷いた。
《祭りのもの。記録すべきか迷う》
そう書いた。
それでよかった。
全部を記録できるわけではない。
でも、迷ったことなら書ける。
昼前、ハウンド七の空気が変わった。
警報ではなかった。
通信塔の短い音でもなかった。
もっと静かだった。
車両が止まる音。
軍靴が揃って歩く音。
誰かが階段を上がる音。
そういう、きちんとした音だった。
きちんとした音は、乱れた場所ではよく目立つ。
司令部連絡班が来た。
三人。
泥が少ない軍服。
紙筒。
記章。
夏の熱の中で、彼らだけが少し乾いて見えた。
乾いている人間は、濡れた場所で目立つ。
ガレスは格納庫前にいた。
火のつかない煙草を咥えている。
ただし、今日は咥えているだけではなかった。
指で、何度も煙草の先を触っていた。
火をつけるか迷っているように見えた。
連絡班の男が紙を差し出す。
ガレスは受け取らなかった。
「口で言え」
男は一瞬だけ困った顔をした。
それから、言った。
「帰還拠点ハウンド七は、第三方面全体後退に伴い、二十四時間以内に放棄されます」
その言葉は、思ったより静かだった。
静かすぎて、最初は意味が届かなかった。
ハウンド七。
放棄。
二十四時間以内。
言葉が三つ、地面に落ちる。
どれも拾いたくなかった。
誰もすぐに喋らなかった。
蝉が鳴いていた。
遠くの格納庫で、ミナの工具が床に落ちる音がした。
かん、と。
いつもなら怒鳴る。
今日は怒鳴らなかった。
「理由は」
ガレスが訊いた。
「前線第一、第二陣地の放棄。第三方面敵群南下。ハウラー群による通信妨害拡大。バスティオン複数体の進行。補給路維持困難」
説明は正しかった。
正しい説明ほど、腹が立つ。
誰も間違っていない。
前線は崩れている。
敵は増えている。
通信は死にかけている。
補給路は泥に沈んでいる。
ハウンド七は、帰還拠点として前に出すぎた。
だから捨てる。
正しい。
とても正しい。
正しいから、どうしようもない。
「撤収順は」
カナタは自分が言ったことに少し遅れて気づいた。
声は普通だった。
嫌なくらい普通だった。
連絡班の男がこちらを見る。
「人員優先。医療棟、通信塔、補給庫、整備庫の順で移動。重車両は選別。移送不能物資は焼却または破棄」
焼却。
破棄。
選別。
言葉が事務的だった。
その事務性が、ひどく残酷だった。
燃やすもの。
捨てるもの。
選ぶもの。
それらには、全部名前がある。
食堂の椀。
赤布の予備。
白線布。
黒札。
帰ってきたもの置き場。
三号車の部品。
医療棟の古い椅子。
壊れた自販機。
洗濯ロープ。
ストーブ。
祭りの札。
全部、物資ではなく、場所の一部だった。
「三号車は?」
ミナの声がした。
格納庫の入口に立っている。
頬に油。
手には落とした工具。
握りしめている。
連絡班の男は書類を見る。
「稼働可能なら移動。不能なら破棄」
「不能じゃない」
ミナは即答した。
「まだ誰も見てないでしょ」
「車両状態表では」
「表より車を見る」
声は低かった。
いつもの怒りではない。
もっと硬い。
ミナは三号車の方を見た。
「動く。動かす」
連絡班の男は黙った。
ガレスが言った。
「三号車は持っていく」
「しかし」
「持っていく」
それで終わった。
ミナは何も言わなかった。
ただ、三号車へ戻った。
肩が少しだけ震えているように見えた。
暑さのせいかもしれない。
怒りのせいかもしれない。
両方かもしれない。
リゼは食堂の入口にいた。
赤布を手首に巻いている。
今日は乾いていた。
白い塩の跡が少し残っている。
「帰ってきたもの置き場は?」
彼女が訊いた。
連絡班の男は、意味が分からない顔をした。
「何ですか」
「帰ってきたもの置き場」
「備品ですか」
「違う」
「私物ですか」
「それも違う」
男は困った顔をした。
困らせるために言ったわけではない。
でも、彼には分からない。
分からなくて当然だった。
帰ってきたもの置き場は、司令部の書類にはない。
物資でもない。
記念品でもない。
戦果でもない。
ただ、人が帰ってきた後に置いたものたちだ。
赤い手袋。
空き缶。
優勝豆。
黒札。
焦げた端子。
祭りの木片。
それらが、ハウンド七という場所に根を生やしていた。
それをどう運ぶのか。
そもそも、運べるのか。
リゼはカナタを見た。
「持っていくよね」
問いではなかった。
確認だった。
カナタは頷いた。
「持てる分は」
「全部は?」
「……無理です」
リゼは少しだけ目を伏せた。
でも、怒らなかった。
彼女はもう知っている。
全部は無理。
その言葉の中に、どれだけ顔が入っているかを知っている。
「じゃあ、選ぶ」
「はい」
「嫌だね」
「はい」
セナが医療棟から出てきた。
顔が疲れている。
でも、声はいつも通り硬かった。
「医療棟は二時間でまとめる。動かせない患者はいない。動かしたら死ぬ患者はいる」
誰もすぐには返事できなかった。
セナは続ける。
「でも、ここに残しても死ぬ」
短い。
逃げ道のない言葉。
「だから動かす」
ガレスが頷く。
「やれ」
「言われなくても」
セナは戻っていった。
その背中は小さくない。
でも、この広い撤退の中では、ひどく小さく見えた。
ハルクは盾を背負い直していた。
「右側、任せる」
カナタが言うと、彼は頷いた。
「抜かせない」
「ハウンド七も?」
リゼが少しだけ茶化すように言った。
ハルクは答えなかった。
沈黙した。
それが答えだった。
抜かせないものと、抜かれてしまうものがある。
人は守れる。
道も、少しなら守れる。
でも、場所は背負えない。
ハウンド七は、持ち上げられない。
午後、撤収準備が始まった。
祭りの片付けとは違った。
似ているのに、違った。
箱に詰める。
紐で縛る。
札を貼る。
残すものを端へ寄せる。
持っていくものを車へ積む。
やっていることは同じだ。
でも、祭りの片付けは、明日もここにある前提で行う。
撤収は違う。
明日ここに戻らない前提で行う。
その差は、箱の重さよりずっと重かった。
タクトは空き缶の箱を見ていた。
「全部は無理です」
自分に言っているようだった。
「はい」
カナタは答えた。
「でも、一つなら」
タクトは自分の腰の缶に触れた。
「これは持ちます」
「はい」
「箱の方は」
言葉が止まる。
カナタは少し考えた。
「蓋だけ」
「蓋?」
「祭りの肉缶の蓋。帰ってきたもの置き場にあります」
タクトは少しだけ笑った。
「軽いですね」
「軽いです」
「でも、昨日の音がします」
「鳴らないようにしてください」
「はい」
ユウトは射的の木片を三つ選んだ。
「全部持っていくと、射的台になります」
「いりません」
「三つなら?」
「何になりますか」
「思い出の最小単位」
「記録します」
マコトが言った。
「今のはいいです」
ユウトが胸を張った。
「書かれると急に恥ずかしいですね」
「じゃあ消しますか」
「残してください」
「どっちですか」
少しだけ笑いが起きた。
笑いはすぐ消えた。
でも、あった。
リゼは帰ってきたもの置き場の前に座っていた。
何を持っていくかを選んでいる。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
チョーク。
祭り入口の札。
全部は無理。
カナタは隣に座った。
古い学校机の天板に、《帰りたい》という落書きがある。
この机は、たぶん持っていけない。
重い。
場所を取る。
車両には人と医療品と水と工具を積む。
机は歩けない。
だから置いていく。
「机は?」
リゼが訊いた。
「無理です」
「だよね」
彼女は指で天板の落書きをなぞった。
「帰りたい、だって」
「はい」
「机も?」
「たぶん」
「机は歩けないね」
「はい」
「じゃあ、連れていけない」
リゼはチョークを一本取った。
短い。
白い。
「これだけ」
「はい」
「黒札は?」
「必要です」
「なんか嫌、必要なんだ」
「かなり」
「じゃあ持つ」
リゼは黒札を取った。
それから、優勝豆を見た。
「これ」
「それは」
「持っていく?」
小さな豆。
乾いている。
何が優勝だったのか、もう誰も正確には覚えていない。
でも、優勝豆だ。
リゼは少し笑った。
「豆は軽い」
「はい」
「じゃあ連れていける」
優勝豆も、小さな布袋に入った。
夕方前、ガレスが食堂に入ってきた。
手には煙草。
いつもの火のつかない煙草ではなかった。
火打ち具を持っていた。
食堂が少し静かになった。
誰も、何か言うべきか分からなかった。
ガレスは窓際に立った。
開いた窓から夏の風が入る。
蝉の声。
遠い砲声。
格納庫の工具音。
医療棟の怒鳴り声。
食堂の椀の音。
ハウンド七の全部が、そこにあった。
ガレスは煙草を咥えた。
火をつけた。
本当に。
小さな火がついた。
煙が上がる。
夏の食堂に、煙草の匂いが広がる。
カナタは、その匂いを初めて嗅いだ気がした。
ガレスはいつも煙草を咥えていた。
でも火はつけなかった。
だから、それは煙草の形をした何かだった。
今、初めて本物の煙草になった。
一本分だけ。
「副長」
ユウトが小さく言った。
「火、ついてます」
「見りゃ分かる」
「珍しいですね」
「今日くらいはな」
ガレスは煙を吐いた。
それは、湯気より薄く、砲煙より優しかった。
でも、煙だった。
「ハウンド七は廃棄する」
短く言った。
もう知っている。
でも、ガレスが言うと、本当に決まった気がした。
「人は持っていく。車も、動くやつは持っていく。物資も、持てる分は持っていく。持てねぇものは置く」
誰も喋らない。
「ここで帰ってきたことは、置いていくな」
それだけだった。
命令としては不十分だ。
でも、たぶん一番大事だった。
カナタは食堂を見た。
窓。
椅子。
ストーブ。
椀。
帰ってきたもの置き場。
祭りの札。
開いた窓から入る夏の風。
持っていけない。
でも、置いていかない。
どういう意味なのか、まだ分からない。
でも、分からないまま頷いた。
夜までに、ハウンド七は半分だけ空になった。
半分だけ。
それが一番つらかった。
人がいる。
声がある。
三号車もまだいる。
食堂ではスープも出た。
豆は二粒。
市民。
いつも通り。
でも、いつも通りではなかった。
椀を置く音が、少し大きく聞こえた。
窓が開いている。
夜の虫が鳴いている。
誰かが「暑い」と言った。
誰かが「明日にはここ、空になるんだな」と言いかけて、やめた。
言わなくても分かることがある。
言うと、本当にそうなることがある。
カナタは手袋を見た。
湿っている。
汗と泥と、少しだけ煙草の匂い。
息を吹きかける。
温かくはならない。
夏だから。
「悪化した」
小さく呟く。
リゼが隣で言った。
「今日は仕方ない」
「はい」
「でも、持っていく?」
「手袋を?」
「うん」
「持っていきます」
「じゃあ大丈夫」
「何がですか」
「少しは」
リゼはそれ以上言わなかった。
食堂の隅には、持っていくものが小さな箱にまとめられていた。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
チョーク。
肉缶の蓋。
射的の木片。
焦げた端子。
祭り入口の札の切れ端。
全部ではない。
でも、ゼロではない。
ハウンド七は廃棄される。
その言葉は、夜になっても消えなかった。
けれど、箱の中には小さなものがいくつか入っている。
帰る場所は失う。
だから、持てる分だけ持っていく。
たぶん、明日はそれをしなければならない。
カナタは開いた窓の外を見た。
蝉はもう鳴いていない。
代わりに、夜の虫が鳴いていた。
遠くで砲声がした。
近かった。
ハウンド七の最後の夜が、始まっていた。