帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六話 西へ

 五分で決める、とガレスは言った。

 五分は短い。

 缶スープを飲むには少し短くて、煙草を一本吸うにはたぶん十分で、人間の生死を決めるには、長すぎるくらいだった。

 雪の中で、五分は伸びる。

 時計の針はちゃんと進んでいるはずなのに、吐いた息が白く残るたびに、時間だけがその場に置いていかれる。誰もが急いでいて、誰もが待っていた。車列のエンジンはかかったままで、古いバスの窓には子供の手の跡が残っている。三号車のボンネットからは、まだ少しだけ湯気が出ていた。

 西からの声は、もう聞こえない。

 聞こえないのに、そこにある。

 助けて。

 たった四文字の声は、雪の上に落ちた血より消えにくい。

「少数で行く」

 ガレスが言った。

 停留所の屋根から落ちた雪が、どさっと足元で崩れた。

「車両一台。確認して、拾えるなら拾う。無理なら戻る」

「無理なら、ですか」

 セナが聞いた。

「そうだ」

「無理って、誰が決めるの」

 その声は静かだった。

 怒鳴るよりも、静かな方が怖いことがある。

 ガレスは答えなかった。

 代わりに、火のつかない煙草を噛んだ。

「俺が行く」

 カナタは言った。

 自分の声が、思ったより普通で嫌だった。

 もっと震えていればよかった。

 そうすれば、誰かが止めてくれたかもしれない。

「却下って言っただろ」

「帰り道を見ます」

「他にも見れる奴はいる」

「いません」

 少しだけ沈黙した。

 強く言いすぎたと思った。

 でも、言ってしまった。

 カナタには分かっていた。

 自分が特別に勇敢なわけではない。

 指揮が上手いわけでもない。

 銃が上手いわけでも、声が大きいわけでもない。

 ただ、帰れなくなる感じだけが、嫌なほど分かる。

 それは才能というより、体質に近かった。

 寒いと指先が痛むみたいに。

 灯油の匂いで基地を思い出すみたいに。

 出口のない場所を見ると、胸の奥が冷える。

「俺も行く」

 ユウトが言った。

 全員が見た。

 本人が一番驚いた顔をした。

「いや、あの」

「言ったな」

 ガレスが言う。

「言いましたね」

「取り消すか」

 ユウトは少しだけ口を開けて、閉じた。

 それから首を振った。

「行きます」

「理由は」

「……さっき当てたので」

 変な理由だった。

 でも、誰も笑わなかった。

 レイスを撃った手は、まだ震えているはずだった。

 その震えた手で、今度は自分から西へ行くと言っている。

 それが勇気なのか、混乱なのか、本人にも分かっていないのだろう。

 たぶん、どちらでもいい。

 人間の行動に、いつも正しい名前がつくとは限らない。

「私も行く」

 セナが言った。

「ダメです」

 カナタは即答した。

 セナがこちらを見る。

「なんで」

「医療班は本隊に必要です」

「西にいる人にも必要」

「車両一台です。負傷者が多かったら」

「多かったら?」

 セナの声が少しだけ低くなる。

「選ぶんでしょ」

 カナタは答えなかった。

 セナは小さく息を吐いた。

 白い息がすぐ雪に紛れる。

「だったら、私が行く」

 ガレスが横から言った。

「行かせろ」

「副長」

「衛生兵なしで回収もない」

「でも」

「それに」

 ガレスはセナを見た。

「置いていくかどうか、自分で見たいんだろ」

 セナは答えなかった。

 答えないことが答えだった。

 結局、行くのは四人になった。

 カナタ。

 ユウト。

 セナ。

 運転はミナ。

「なんで私まで」

 ミナは文句を言った。

「車が一台しか信用できないからです」

「その信用できる車を運転できるのが私しかいないから?」

「はい」

「もっと褒めて」

「すごいです」

「雑」

 ミナは文句を言いながら、三号車よりはまだ機嫌の良さそうな小型輸送車に乗り込んだ。車体は雪と泥で汚れていて、側面の部隊番号は半分剥がれている。後部座席には医療箱と毛布と、少しの弾薬。

 少し。

 何もかも、少しずつしか持っていけない。

 本隊は南へ進む。

 少数班は西へ向かう。

 二つの道が分かれる時、そこには大げさな別れはなかった。

 誰も手を振らない。

 誰も祈らない。

 ただ、ガレスが車窓を叩いた。

「十分」

「短いです」

「じゃあ九分」

「減らさないでください」

「戻れ」

 短い言葉だった。

 命令みたいで、願いみたいだった。

 カナタは頷いた。

 車は西へ動き出した。

 南へ進む車列から離れると、世界は急に広くなった。

 広くて、怖かった。

 さっきまで周りには車両があり、人がいて、エンジン音が重なっていた。今は一台分のエンジン音しかない。雪原は白く、森は黒く、空は灰色で、その三色だけで世界ができているようだった。

 窓ガラスの内側が曇る。

 ミナが袖で拭いた。

「見えない」

「前見て運転してください」

「前が見えないって話」

「それは困ります」

「困ってる」

 車内は狭かった。

 医療箱の消毒液の匂いがする。

 ユウトの濡れた手袋の匂いもする。

 ミナの工具箱からは、金属と油の匂いがする。

 セナは黙っていた。

 膝の上に小さな医療袋を置いて、ずっとそれを押さえている。

 揺れるたびに中の瓶が鳴った。

 かちゃ、と小さく。

 その音が、妙に耳に残る。

「セナさん」

「なに」

「さっきの」

「選ぶって話?」

「……はい」

 セナは窓の外を見たまま言った。

「嫌い」

「はい」

「あなたも嫌い」

「はい」

「でも、来た」

「はい」

「だから余計嫌」

 カナタは何も言えなかった。

 嫌われることより、その言葉の正しさが痛かった。

 西へ向かう道は、道というより雪のくぼみだった。

 古い舗装路があるはずだが、ほとんど見えない。時々、道路脇の標識が雪の中から顔を出す。行き先は読めない。矢印だけが残っている。

 矢印。

 前を指すもの。

 カナタはそれを見るたびに少し嫌な気分になった。

 前へ進む標識は、帰り道のことを知らない。

「信号、近い」

 ユウトが通信機を覗き込む。

「旧学区まで、もう少しです」

「声は?」

 セナが訊く。

「今はないです」

 車内が少しだけ静かになる。

 今はない。

 その言葉の意味を、誰も言わなかった。

 しばらく走ると、雪の向こうに校舎が見えた。

 最初はただの影だった。

 白い世界の中に、黒く四角いものがある。

 近づくにつれて、それが学校だと分かった。

 校門。

 体育館。

 窓が割れた校舎。

 グラウンドには、雪に半分埋まった鉄棒があった。

 鉄棒。

 カナタはそれを見て、なぜか胸が痛くなった。

 鉄棒は戦争のためのものではない。

 ぶら下がったり、逆上がりを練習したり、昼休みに誰かが占領したりするためのものだ。

 それが今、雪と黒煙の中に立っている。

 何も言わずに。

「旧学区防衛学校」

 ミナが言った。

「ここ、学校だったんだ」

「今も学校ですよ」

 カナタは言った。

 言ってから、少し違うと思った。

 今はもう、学校ではないのかもしれない。

 でも、学校だったものではある。

 その差は、たぶん大きい。

 校門の前で車を止める。

 静かだった。

 静かすぎる。

 風で校門の看板が揺れている。

 ぎい。

 ぎい。

 音がする。

 それ以外、何もない。

「……誰もいない?」

 ユウトが小声で言った。

 その時。

 校舎の二階の窓が、少しだけ開いた。

 黒い隙間。

 そこから声が落ちてきた。

「人間?」

 若い声だった。

 女の子の声。

 ひどくかすれていた。

 ミナが顔を上げる。

「人間です」

「ほんとに?」

「たぶん」

「たぶん?」

 窓の向こうで、誰かが小さく笑った。

 その笑い声は、今にも割れそうなガラスみたいだった。

 数秒後、校舎の玄関が開いた。

 出てきたのは、少女だった。

 黒い髪。

 片腕を布で吊っている。

 制服の上に軍用コートを着ている。

 サイズが合っていない。

 靴も軍靴ではなく、学生靴だった。

 雪で濡れて、黒く光っている。

 彼女はカナタたちを見て、それから車を見て、最後に後部座席の医療箱を見た。

「救援?」

「はい」

 カナタが答える。

「四人だけ?」

「確認班です」

「確認して、だめなら帰る?」

 セナが少しだけ反応した。

 カナタは少女を見る。

 その目は、疲れていた。

 でも眠そうではない。

 眠ることをやめた人間の目だった。

「帰れるだけ、連れて帰ります」

 少女はしばらく黙った。

 それから、少しだけ笑った。

「それ、すごく嫌な言い方」

「よく言われます」

「名前は?」

「カナタ・レイヴン」

「リゼ」

 少女は短く言った。

「ここで一番偉い人?」

 ミナが訊く。

 リゼは首を横に振った。

「偉い人は、もういない」

 静かだった。

 雪が降っている。

 校舎の中から、誰かの咳が聞こえる。

 それから、小さな泣き声も。

 リゼは玄関を少し開けた。

「入って」

 カナタたちは校舎へ入った。

 中は寒かった。

 外より寒い気がした。

 廊下には机が積まれ、窓には板が打ちつけられている。黒板には途中まで書かれた数式が残っていた。その下に、弾痕があった。

 授業と戦闘が同じ壁に貼りついている。

 それが、ひどく気持ち悪かった。

「生存者は」

 セナが訊く。

「三十二」

「負傷者」

「十四」

「歩ける人は」

 リゼは少しだけ目を伏せた。

「嘘つく人も入れて?」

 セナは一瞬黙った。

「入れないで」

「十七」

 ユウトが小さく息を呑んだ。

 カナタは何も言わなかった。

 車一台。

 四人。

 医療品少量。

 生存者三十二。

 負傷者十四。

 数字が、胸の中で冷たく重なる。

 数字にすると人間は重くなる。

 でも、数えないと失う。

 校舎の奥で、誰かが言った。

「ほんとに来たの?」

 別の声。

「帰れる?」

 それは、質問ではなかった。

 祈りだった。

 カナタは返事をしようとした。

 その瞬間。

 外で音がした。

 ぎい。

 校門の看板。

 風ではない。

 次に、金属を引っかく音。

 校舎の空気が変わった。

 リゼが窓の隙間へ走る。

 カナタも続いた。

 雪の向こう。

 校門の外。

 黒い影が並んでいた。

 レイス。

 追ってきたのではない。

 待っていた。

 校門の外に。

 帰る車の前に。

 リゼが小さく言った。

「夜じゃなくても、待つようになった」

 その声は、諦めに似ていた。

 カナタは窓の外を見た。

 白い校庭。

 黒い影。

 雪に埋まった鉄棒。

 帰り道。

 全部が一枚の絵みたいに静かだった。

 そしてその静けさの中で、ようやく分かった。

 ここはもう、助けを待っていた場所ではない。

 帰る人間を待ち伏せする場所になっていた。

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