帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
五分で決める、とガレスは言った。
五分は短い。
缶スープを飲むには少し短くて、煙草を一本吸うにはたぶん十分で、人間の生死を決めるには、長すぎるくらいだった。
雪の中で、五分は伸びる。
時計の針はちゃんと進んでいるはずなのに、吐いた息が白く残るたびに、時間だけがその場に置いていかれる。誰もが急いでいて、誰もが待っていた。車列のエンジンはかかったままで、古いバスの窓には子供の手の跡が残っている。三号車のボンネットからは、まだ少しだけ湯気が出ていた。
西からの声は、もう聞こえない。
聞こえないのに、そこにある。
助けて。
たった四文字の声は、雪の上に落ちた血より消えにくい。
「少数で行く」
ガレスが言った。
停留所の屋根から落ちた雪が、どさっと足元で崩れた。
「車両一台。確認して、拾えるなら拾う。無理なら戻る」
「無理なら、ですか」
セナが聞いた。
「そうだ」
「無理って、誰が決めるの」
その声は静かだった。
怒鳴るよりも、静かな方が怖いことがある。
ガレスは答えなかった。
代わりに、火のつかない煙草を噛んだ。
「俺が行く」
カナタは言った。
自分の声が、思ったより普通で嫌だった。
もっと震えていればよかった。
そうすれば、誰かが止めてくれたかもしれない。
「却下って言っただろ」
「帰り道を見ます」
「他にも見れる奴はいる」
「いません」
少しだけ沈黙した。
強く言いすぎたと思った。
でも、言ってしまった。
カナタには分かっていた。
自分が特別に勇敢なわけではない。
指揮が上手いわけでもない。
銃が上手いわけでも、声が大きいわけでもない。
ただ、帰れなくなる感じだけが、嫌なほど分かる。
それは才能というより、体質に近かった。
寒いと指先が痛むみたいに。
灯油の匂いで基地を思い出すみたいに。
出口のない場所を見ると、胸の奥が冷える。
「俺も行く」
ユウトが言った。
全員が見た。
本人が一番驚いた顔をした。
「いや、あの」
「言ったな」
ガレスが言う。
「言いましたね」
「取り消すか」
ユウトは少しだけ口を開けて、閉じた。
それから首を振った。
「行きます」
「理由は」
「……さっき当てたので」
変な理由だった。
でも、誰も笑わなかった。
レイスを撃った手は、まだ震えているはずだった。
その震えた手で、今度は自分から西へ行くと言っている。
それが勇気なのか、混乱なのか、本人にも分かっていないのだろう。
たぶん、どちらでもいい。
人間の行動に、いつも正しい名前がつくとは限らない。
「私も行く」
セナが言った。
「ダメです」
カナタは即答した。
セナがこちらを見る。
「なんで」
「医療班は本隊に必要です」
「西にいる人にも必要」
「車両一台です。負傷者が多かったら」
「多かったら?」
セナの声が少しだけ低くなる。
「選ぶんでしょ」
カナタは答えなかった。
セナは小さく息を吐いた。
白い息がすぐ雪に紛れる。
「だったら、私が行く」
ガレスが横から言った。
「行かせろ」
「副長」
「衛生兵なしで回収もない」
「でも」
「それに」
ガレスはセナを見た。
「置いていくかどうか、自分で見たいんだろ」
セナは答えなかった。
答えないことが答えだった。
結局、行くのは四人になった。
カナタ。
ユウト。
セナ。
運転はミナ。
「なんで私まで」
ミナは文句を言った。
「車が一台しか信用できないからです」
「その信用できる車を運転できるのが私しかいないから?」
「はい」
「もっと褒めて」
「すごいです」
「雑」
ミナは文句を言いながら、三号車よりはまだ機嫌の良さそうな小型輸送車に乗り込んだ。車体は雪と泥で汚れていて、側面の部隊番号は半分剥がれている。後部座席には医療箱と毛布と、少しの弾薬。
少し。
何もかも、少しずつしか持っていけない。
本隊は南へ進む。
少数班は西へ向かう。
二つの道が分かれる時、そこには大げさな別れはなかった。
誰も手を振らない。
誰も祈らない。
ただ、ガレスが車窓を叩いた。
「十分」
「短いです」
「じゃあ九分」
「減らさないでください」
「戻れ」
短い言葉だった。
命令みたいで、願いみたいだった。
カナタは頷いた。
車は西へ動き出した。
南へ進む車列から離れると、世界は急に広くなった。
広くて、怖かった。
さっきまで周りには車両があり、人がいて、エンジン音が重なっていた。今は一台分のエンジン音しかない。雪原は白く、森は黒く、空は灰色で、その三色だけで世界ができているようだった。
窓ガラスの内側が曇る。
ミナが袖で拭いた。
「見えない」
「前見て運転してください」
「前が見えないって話」
「それは困ります」
「困ってる」
車内は狭かった。
医療箱の消毒液の匂いがする。
ユウトの濡れた手袋の匂いもする。
ミナの工具箱からは、金属と油の匂いがする。
セナは黙っていた。
膝の上に小さな医療袋を置いて、ずっとそれを押さえている。
揺れるたびに中の瓶が鳴った。
かちゃ、と小さく。
その音が、妙に耳に残る。
「セナさん」
「なに」
「さっきの」
「選ぶって話?」
「……はい」
セナは窓の外を見たまま言った。
「嫌い」
「はい」
「あなたも嫌い」
「はい」
「でも、来た」
「はい」
「だから余計嫌」
カナタは何も言えなかった。
嫌われることより、その言葉の正しさが痛かった。
西へ向かう道は、道というより雪のくぼみだった。
古い舗装路があるはずだが、ほとんど見えない。時々、道路脇の標識が雪の中から顔を出す。行き先は読めない。矢印だけが残っている。
矢印。
前を指すもの。
カナタはそれを見るたびに少し嫌な気分になった。
前へ進む標識は、帰り道のことを知らない。
「信号、近い」
ユウトが通信機を覗き込む。
「旧学区まで、もう少しです」
「声は?」
セナが訊く。
「今はないです」
車内が少しだけ静かになる。
今はない。
その言葉の意味を、誰も言わなかった。
しばらく走ると、雪の向こうに校舎が見えた。
最初はただの影だった。
白い世界の中に、黒く四角いものがある。
近づくにつれて、それが学校だと分かった。
校門。
体育館。
窓が割れた校舎。
グラウンドには、雪に半分埋まった鉄棒があった。
鉄棒。
カナタはそれを見て、なぜか胸が痛くなった。
鉄棒は戦争のためのものではない。
ぶら下がったり、逆上がりを練習したり、昼休みに誰かが占領したりするためのものだ。
それが今、雪と黒煙の中に立っている。
何も言わずに。
「旧学区防衛学校」
ミナが言った。
「ここ、学校だったんだ」
「今も学校ですよ」
カナタは言った。
言ってから、少し違うと思った。
今はもう、学校ではないのかもしれない。
でも、学校だったものではある。
その差は、たぶん大きい。
校門の前で車を止める。
静かだった。
静かすぎる。
風で校門の看板が揺れている。
ぎい。
ぎい。
音がする。
それ以外、何もない。
「……誰もいない?」
ユウトが小声で言った。
その時。
校舎の二階の窓が、少しだけ開いた。
黒い隙間。
そこから声が落ちてきた。
「人間?」
若い声だった。
女の子の声。
ひどくかすれていた。
ミナが顔を上げる。
「人間です」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん?」
窓の向こうで、誰かが小さく笑った。
その笑い声は、今にも割れそうなガラスみたいだった。
数秒後、校舎の玄関が開いた。
出てきたのは、少女だった。
黒い髪。
片腕を布で吊っている。
制服の上に軍用コートを着ている。
サイズが合っていない。
靴も軍靴ではなく、学生靴だった。
雪で濡れて、黒く光っている。
彼女はカナタたちを見て、それから車を見て、最後に後部座席の医療箱を見た。
「救援?」
「はい」
カナタが答える。
「四人だけ?」
「確認班です」
「確認して、だめなら帰る?」
セナが少しだけ反応した。
カナタは少女を見る。
その目は、疲れていた。
でも眠そうではない。
眠ることをやめた人間の目だった。
「帰れるだけ、連れて帰ります」
少女はしばらく黙った。
それから、少しだけ笑った。
「それ、すごく嫌な言い方」
「よく言われます」
「名前は?」
「カナタ・レイヴン」
「リゼ」
少女は短く言った。
「ここで一番偉い人?」
ミナが訊く。
リゼは首を横に振った。
「偉い人は、もういない」
静かだった。
雪が降っている。
校舎の中から、誰かの咳が聞こえる。
それから、小さな泣き声も。
リゼは玄関を少し開けた。
「入って」
カナタたちは校舎へ入った。
中は寒かった。
外より寒い気がした。
廊下には机が積まれ、窓には板が打ちつけられている。黒板には途中まで書かれた数式が残っていた。その下に、弾痕があった。
授業と戦闘が同じ壁に貼りついている。
それが、ひどく気持ち悪かった。
「生存者は」
セナが訊く。
「三十二」
「負傷者」
「十四」
「歩ける人は」
リゼは少しだけ目を伏せた。
「嘘つく人も入れて?」
セナは一瞬黙った。
「入れないで」
「十七」
ユウトが小さく息を呑んだ。
カナタは何も言わなかった。
車一台。
四人。
医療品少量。
生存者三十二。
負傷者十四。
数字が、胸の中で冷たく重なる。
数字にすると人間は重くなる。
でも、数えないと失う。
校舎の奥で、誰かが言った。
「ほんとに来たの?」
別の声。
「帰れる?」
それは、質問ではなかった。
祈りだった。
カナタは返事をしようとした。
その瞬間。
外で音がした。
ぎい。
校門の看板。
風ではない。
次に、金属を引っかく音。
校舎の空気が変わった。
リゼが窓の隙間へ走る。
カナタも続いた。
雪の向こう。
校門の外。
黒い影が並んでいた。
レイス。
追ってきたのではない。
待っていた。
校門の外に。
帰る車の前に。
リゼが小さく言った。
「夜じゃなくても、待つようになった」
その声は、諦めに似ていた。
カナタは窓の外を見た。
白い校庭。
黒い影。
雪に埋まった鉄棒。
帰り道。
全部が一枚の絵みたいに静かだった。
そしてその静けさの中で、ようやく分かった。
ここはもう、助けを待っていた場所ではない。
帰る人間を待ち伏せする場所になっていた。