帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第五十九話 戻る場所

 赤い布は、乾くのが早い。

 夏だからだ。

 冬は違った。

 雪に濡れた赤布は、絞ってもすぐ冷たくなり、風に当てると固くなり、手袋越しに触れても指先が痛かった。赤い色だけは強かったが、布そのものはいつも重かった。

 夏の赤布は軽い。

 汗を吸う。

 泥を吸う。

 水を吸う。

 それでも、しばらく振っていれば乾く。熱を持った風が勝手に水分を奪っていく。乾いた後には、少しだけ塩の跡が残る。白く、細く、布の端に粉みたいにつく。

 リゼは、その白い跡を見るのがあまり好きではなかった。

 自分がどれだけ声を出したか。

 どれだけ走ったか。

 どれだけ怖かったか。

 布にばれている気がするからだ。

 けれど今日は、赤布を見る暇があまりなかった。

 旧第六学区補助校舎跡を出て、第二中継路へ向かう途中、空はずっと明るかった。

 明るすぎた。

 夏の昼は、ものを隠す気がない。

 泥に沈んだタイヤ跡も、道端に捨てられた水箱も、踏み潰された草も、遠くで上がる黒煙も、全部はっきり見える。空は青く、雲は薄く、蝉は鳴き、草は青い。世界が壊れているのに、色だけは元気だった。

 リゼはそれが少し腹立たしかった。

 世界は、もう少し申し訳なさそうに壊れるべきだと思う。

 せめて空くらい曇ればいい。

 でも、空は晴れていた。

 かなり無神経に。

「暑い」

 ユウトが言った。

「知ってる」

 リゼは答えた。

「返事、雑じゃないですか」

「暑いから」

「暑いと許されるんですか」

「たぶん」

「じゃあ俺も雑に生きます」

「もうだいぶ雑」

「ひどい」

 ユウトは一瞬だけ笑った。

 笑ったけれど、すぐに前を見た。

 彼の軽口は戻ってきている。

 でも、戻った軽口は前と同じではない。言葉の後ろに、ちゃんと戦場がある。冗談を言って、次の瞬間には銃を持ち直す。笑って、すぐに人の流れを見る。

 そういうところが、帰還誘導兵らしくなってきたと思う。

 本人に言うと調子に乗るので言わない。

 タクトは中央を見ていた。

 腰の缶は鳴らない。

 荷物もあまり鳴らない。

 でも、人の息は鳴る。

 疲れた人間の息は、布では消せない。

 リゼはそれを聞いていた。

 息。

 靴が泥を剥がす音。

 水筒の中身が揺れる音。

 遠い砲声。

 ハウラーの低い音は、まだ遠い。

 でも、いる。

 低い場所に。

 耳ではなく、胸の下の方に。

 セナが歩きながら言った。

「水、飲んだ?」

「飲んだ」

 リゼは答える。

「いつ」

「さっき」

「さっきは時間じゃない」

「廃校で」

「少ない。次で飲む」

「はいはい」

「はいは一回」

「はい」

 セナはそれで満足しなかった顔をしたが、次の負傷者へ目を移した。

 リゼは赤布を握った。

 湿っている。

 また乾くだろう。

 たぶん。

 第二中継路は、道ではなくなりかけていた。

 泥。

 草。

 崩れた路肩。

 壊れた標識。

 そこに、前線から下がってきた人間たちが溜まっていた。

 列ではない。

 群れだった。

 前線兵。

 補給兵。

 避難民。

 担架。

 子供。

 砲兵。

 何かを抱えた人。

 何も持っていない人。

 怒っている人。

 黙っている人。

 帰ってきた人たち。

 でも、帰ってきただけで止まっている人たち。

 リゼはその顔を見て、少し分かった。

 帰るというのは、終わりではない。

 たぶん。

 帰った後に、また動かなければならないことがある。

 でも、人は一度「帰れた」と思うと、その場で膝が抜ける。体が、もう終わったことにしてしまう。まだ終わっていないのに。まだ後ろに人がいるのに。まだ前線が崩れているのに。

 責められない。

 自分もそうだったからだ。

 旧学校区からハウンド七へ戻った朝、医療棟の前で立ち止まった。

 学校は燃えたのか、と訊いた。

 軍手を握った。

 何かを持ってこられたから、全部失ったわけではないと思った。

 でも、その後すぐに、また誰かを帰す側へ回った。

 怒った。

 嫌だった。

 でも、動いた。

 今、目の前の人たちにも、それが必要だった。

 優しい言葉だけでは足りない。

 休んでいい、と言ってあげたい。

 でも、休み続ければここが詰まる。

 詰まれば、後ろが死ぬ。

 リゼは赤布を握り直した。

「カナタさん」

 彼は少し離れた場所で、泥の流れと車両の位置を見ていた。

 顔が硬い。

 見えすぎる人の顔。

 でも、止まってはいない。

「はい」

「ここ、私やる」

 カナタは一瞬こちらを見た。

「休止点化しますか」

「違う」

「違う?」

「通過点にする」

 言ってから、自分で少し驚いた。

 でも、そうだと思った。

 ここは帰る場所ではない。

 戻ってきた人を止める場所ではない。

 受けて、整えて、次へ流す場所。

 赤布を結ぶだけでは足りない。

 赤布を渡す場所だ。

 カナタは少し黙った。

 それから頷いた。

「お願いします」

「はい」

「声、使いすぎないでください」

「そこはセナさんが言うところ」

「先に言っておきます」

「成長したね」

「誰がですか」

「カナタさん」

 リゼは笑った。

 カナタは少しだけ困った顔をした。

 その顔を見て、少し楽になった。

 困らせられるうちは、まだ大丈夫だと思える。

 リゼは赤布をほどいた。

 髪が少し落ちる。

 首筋に汗が張りつく。

 暑い。

 でも、布は軽い。

 彼女は赤布を高く掲げなかった。

 もう、それは狙われると分かっている。

 だから、自分の胸の高さで広げた。

 近くの人にだけ見える高さ。

「こっち」

 短く言う。

 近くの前線兵が顔を上げる。

「怪我してない人、十人」

「何?」

「十人。立って。後ろの人を通す」

「俺たちは今戻ったばかりだぞ」

「うん」

「休めないのか」

「三分だけ働いたら、休める」

「本当か」

「たぶん」

「たぶん?」

「戦場なので」

 前線兵は嫌そうな顔をした。

 でも立った。

 一人立つと、隣が立つ。

 隣が立つと、そのまた隣が立つ。

 リゼは赤布の端を一人に渡した。

「これ持って」

「俺が?」

「そう」

「何をすればいい」

「そこに立って、来る人に言う。帰ってきた人は右。まだ動ける人は中央。倒れそうな人はセナさんへ」

「多い」

「じゃあ、短く」

 リゼは少し考えた。

「帰れたら、次を帰す」

 その言葉は、思ったより自然に出た。

 前線兵が黙った。

 リゼ自身も少し黙った。

 そうか。

 これか。

 自分は今、これを言いたかったのだと思った。

 帰ってこい、ではない。

 帰ろう、でもない。

 帰れたなら、次を帰す。

 それは優しい言葉ではない。

 休ませてくれない言葉だ。

 でも、次の誰かを生かす言葉だった。

 前線兵は赤布を見た。

 泥で暗くなった赤。

 それから、後ろを見る。

 まだ人が来ている。

 担架。

 補給兵。

 避難民。

 ハウラーの音の向こうから、まだ人が流れてくる。

 彼は赤布の端を握った。

「帰れたら、次を帰す」

 呟いた。

 うまく言えていない。

 でも、それでよかった。

「はい」

 リゼは頷く。

「それで、ここに立って」

 赤布が二つになった。

 本当は一枚だ。

 片方をリゼが持ち、片方を前線兵が持つ。

 その間に、短い赤い線ができる。

 白線ではない。

 目立たない。

 でも、人がそこを見る。

 戻ってきた人が、そこで分かれる。

 右。

 中央。

 セナ。

 簡単。

 簡単なことしか、人は疲れた時にできない。

 だから、簡単にする。

 ユウトが駆けてきた。

「リゼさん、ここ何ですか」

「通過点」

「祭りの入口みたいですね」

「出口も兼ねてる」

「便利」

「便利にしないと死ぬ」

「ミナさん化してません?」

「してない」

 ユウトは少し笑った。

 それから、すぐに声を張った。

「帰ってきた人、右!まだ歩ける人、中央!倒れそうな人、セナさん!苦情は生存後!」

 前線兵の赤布係が同じように言う。

「帰ってきた人、右!まだ歩ける人、中央!」

「倒れそうな人、セナ!」

 セナが遠くから怒鳴った。

「さんをつけろ!」

 少し笑いが起きた。

 笑いながら、人が動く。

 リゼは息を吸った。

 喉が少し痛い。

 でも、叫び続ける必要はない。

 言葉が渡ったからだ。

 赤布が一枚だけではない。

 声も一つだけではない。

 帰還誘導兵は、ここで増えている。

 正式な辞令も、班長代理の確認も、マコトの記録もない。

 でも増えている。

 タクトが中央から来た。

「荷物を持ちすぎている人が止まります」

「どれくらい」

「多いです」

「便利な報告」

「便利にしないと」

「死ぬ?」

「はい」

 リゼは少し笑った。

「じゃあ、荷物係も作ろう」

 彼女は近くにいた避難民の青年を見た。

 手に何も持っていない。

 持てないのではなく、全部置いてきた顔だった。

 その顔を見て、リゼは少しだけ言葉に詰まった。

 何も持っていない人に、荷物を見ろと言う。

 ひどい。

 でも、言う。

「手、空いてる?」

 青年は自分の手を見た。

「……空いてる」

「じゃあ、荷物を見る係」

「俺が?」

「うん。大きい荷物は一つ。小さいものはポケット。手が塞がってたら誰かを持てない」

 青年は口を開けた。

 閉じた。

 それから頷いた。

「分かった」

「言える?」

「大きい荷物は一つ」

「小さいものは?」

「ポケット」

「手が塞がってたら?」

「誰かを持てない」

「合格」

 青年は少しだけ笑った。

 泣きそうな笑いだった。

 彼は人の流れへ入っていった。

 すぐに怒鳴り声がする。

「荷物、一つです!」

「これは必要なんだ!」

「手が塞がると誰かを持てません!」

 誰かが文句を言う。

 誰かが荷物を置く。

 泥の上に、また生活が落ちる。

 リゼはその音を聞いた。

 どさっ。

 ごとっ。

 冬より大きく聞こえる。

 夏の泥は、置いていく音を隠さない。

 タクトが小さく言った。

「言い方、覚えましたね」

「誰が?」

「あの人が」

「うん」

「リゼさんが言ったことを、そのまま」

「いいじゃん。使い回し」

「便利ですね」

「便利にしないと」

 二人で同時に言った。

「死ぬ」

 少しだけ笑った。

 その時、ハウラーの音が強くなった。

 胸の下が押される。

 世界の音が少し遠くなる。

 リゼの視界の端で、人の流れが歪んだ。

 何人かが耳を押さえる。

 赤布係の前線兵が一瞬止まる。

 小型レイスが、泥の向こうから姿を見せた。

 待っていたのだ。

 人が集まり、役割ができ、通過点が生まれるのを。

 レイスは、こちらの混乱だけではなく、こちらの回復も見ている。

 リゼは赤布を低く握った。

「ユウト!」

「はい!」

「ここ、狙われる!」

「ですよね!」

「言い方!」

「予想通りすぎて!」

 ユウトが銃を構える。

 ハルクが右側から寄る。

 タクトが中央を下げる。

 赤布係の前線兵が逃げようとした。

 リゼはその腕を掴んだ。

「逃げるなら、布を置いてから」

「怖いこと言うな!」

「じゃあ持って立って」

「どっちも怖い!」

「でも、立てる」

 前線兵は歯を食いしばった。

 赤布を握る。

「帰れたら、次を帰す」

 彼は言った。

 声が震えていた。

 でも言った。

 周囲の数人が顔を上げる。

 赤布を見る。

 小型レイスが走る。

 ハルクが一体を止める。

 ユウトが撃つ。

 外れる。

 もう一発。

 当たる。

 泥が跳ねる。

 セナが怒鳴る。

「止まるな!」

 その声を、赤布係が繰り返した。

「止まるな!」

 青年の荷物係も繰り返す。

「止まるな、荷物は一つ!」

 雑だった。

 でも、届いた。

 役割をもらった人間は、もうただの避難民ではなくなる。

 少しだけ、誰かを帰す側になる。

 それは重い。

 でも、その重さが足を動かすこともある。

 リゼは初めて、それをはっきり見た。

 自分が赤布を振っていた時、誰かはこう見ていたのかもしれない。

 危なっかしい。

 無茶をしている。

 でも、そこに戻る場所がある。

 今、自分の目の前で、戻る場所が増えている。

 小型レイスの群れは、通過点へ突っ込もうとした。

 だが、そこにはもう人の流れができていた。

 止まっている群れではない。

 右へ流れる人。

 中央へ戻る人。

 セナの救護へ入る人。

 荷物を置く人。

 赤布を持つ人。

 声を渡す人。

 レイスは、止まった人間を狙う。

 動いている線は、少しだけ掴みにくい。

 ガレスの車両が横から入る。

 機銃音。

 小型レイスが散る。

 ハウラーの音が一段低くなり、胸の奥が重くなる。

 それでも、通過点は壊れなかった。

 リゼは息を吐いた。

 喉が痛い。

 でも、まだ声は出る。

 いや。

 出さなくてもいい。

 声は増えている。

 赤布係が言う。

「帰れたら、次を帰す!」

 荷物係が言う。

「手を空けろ!」

 ユウトが言う。

「苦情は生存後!」

 セナが言う。

「水飲め!」

 タクトが言う。

「音は今いいです、落とさないで!」

 全部、少しずつ違う。

 でも、同じ方向を向いている。

 帰す。

 通す。

 止めない。

 その時、カナタが来た。

 泥だらけだった。

 顔に疲れが出ている。

 でも、止まっていなかった。

「ここ、持ちますか」

「持つ」

 リゼは答えた。

「十人じゃなくて、三人ずつにしてください。敵が寄ります」

「三人?」

「小さくします」

「なるほど」

 リゼは赤布係へ言った。

「三人ずつ」

「十人じゃなかったのか」

「今日の正解、さっき終わった」

「早すぎる」

「戦場なので」

 前線兵は笑いそうになり、笑えず、頷いた。

「三人ずつ!」

 声が変わる。

 流れが細くなる。

 細くなることで、レイスが狙う大きな塊が消える。

 時間はかかる。

 でも、壊れにくい。

 帰還誘導は、速さだけではない。

 形を変えることだ。

 リゼはそれを、この泥の上で覚えた。

 夕方に近づいていた。

 空の色が少し濃くなる。

 夏の夕方は、また終わらない顔をし始める。

 通過点の泥は踏み固められていた。

 赤布は何度も人の手を渡り、泥と汗で暗い色になった。

 でも、まだ赤だった。

 最後の束が通った時、リゼは少しだけ膝に手をついた。

 倒れたわけではない。

 ただ、立っていた足が急に自分のものではないみたいになった。

 セナがすぐ来る。

「水」

「はい」

「今」

「はい」

 リゼは水を飲んだ。

 ぬるい。

 でも、喉に落ちると痛かった。

 生きている痛みだった。

 赤布係だった前線兵が近づいてきた。

 手には赤布の端。

「返す」

「うん」

 彼は少し迷ってから言った。

「もう一枚、ないか」

 リゼは顔を上げた。

「何に使うの」

「次の場所で」

「帰せたら、次を帰す?」

「……そういうこと」

 リゼは少し笑った。

 笑うと喉が痛い。

 でも笑った。

 予備の赤布を渡す。

 前線兵はそれを受け取った。

 辞令もない。

 部隊名もない。

 でも、彼はもう次の戻る場所へ行く。

 リゼはそれを見送った。

 自分が赤布を持って待つだけではない。

 赤布を渡す。

 帰る言葉を渡す。

 それが、次の自分の仕事なのだと思った。

 カナタが隣に立った。

「増えましたね」

「何が?」

「帰還誘導兵」

 リゼは少し考えた。

 それから言った。

「まだ仮免」

「厳しい」

「補習あり」

「リゼさんも言いますね、それ」

「文化だから」

「責任を文化にしないでください」

 カナタが少し笑った。

 それが見られたので、リゼは少し満足した。

 その時、遠くでまた砲声が鳴った。

 前線はまだ崩れている。

 夏はまだ終わらない。

 でも、泥の上には小さな通過点が残った。

 赤布が結ばれていた跡。

 踏み固められた三本の細い流れ。

 置かれた荷物。

 空になった水袋。

 そして、誰かが覚えた言葉。

 帰れたら、次を帰す。

 リゼは赤布を握った。

 布は重かった。

 汗と泥と水を吸っている。

 でも、乾くだろう。

 夏だから。

 たぶん。

 そして乾いたら、また誰かに渡せる。

 そのことが、少しだけ怖くて、少しだけ嬉しかった。

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