帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
赤い布は、乾くのが早い。
夏だからだ。
冬は違った。
雪に濡れた赤布は、絞ってもすぐ冷たくなり、風に当てると固くなり、手袋越しに触れても指先が痛かった。赤い色だけは強かったが、布そのものはいつも重かった。
夏の赤布は軽い。
汗を吸う。
泥を吸う。
水を吸う。
それでも、しばらく振っていれば乾く。熱を持った風が勝手に水分を奪っていく。乾いた後には、少しだけ塩の跡が残る。白く、細く、布の端に粉みたいにつく。
リゼは、その白い跡を見るのがあまり好きではなかった。
自分がどれだけ声を出したか。
どれだけ走ったか。
どれだけ怖かったか。
布にばれている気がするからだ。
けれど今日は、赤布を見る暇があまりなかった。
旧第六学区補助校舎跡を出て、第二中継路へ向かう途中、空はずっと明るかった。
明るすぎた。
夏の昼は、ものを隠す気がない。
泥に沈んだタイヤ跡も、道端に捨てられた水箱も、踏み潰された草も、遠くで上がる黒煙も、全部はっきり見える。空は青く、雲は薄く、蝉は鳴き、草は青い。世界が壊れているのに、色だけは元気だった。
リゼはそれが少し腹立たしかった。
世界は、もう少し申し訳なさそうに壊れるべきだと思う。
せめて空くらい曇ればいい。
でも、空は晴れていた。
かなり無神経に。
「暑い」
ユウトが言った。
「知ってる」
リゼは答えた。
「返事、雑じゃないですか」
「暑いから」
「暑いと許されるんですか」
「たぶん」
「じゃあ俺も雑に生きます」
「もうだいぶ雑」
「ひどい」
ユウトは一瞬だけ笑った。
笑ったけれど、すぐに前を見た。
彼の軽口は戻ってきている。
でも、戻った軽口は前と同じではない。言葉の後ろに、ちゃんと戦場がある。冗談を言って、次の瞬間には銃を持ち直す。笑って、すぐに人の流れを見る。
そういうところが、帰還誘導兵らしくなってきたと思う。
本人に言うと調子に乗るので言わない。
タクトは中央を見ていた。
腰の缶は鳴らない。
荷物もあまり鳴らない。
でも、人の息は鳴る。
疲れた人間の息は、布では消せない。
リゼはそれを聞いていた。
息。
靴が泥を剥がす音。
水筒の中身が揺れる音。
遠い砲声。
ハウラーの低い音は、まだ遠い。
でも、いる。
低い場所に。
耳ではなく、胸の下の方に。
セナが歩きながら言った。
「水、飲んだ?」
「飲んだ」
リゼは答える。
「いつ」
「さっき」
「さっきは時間じゃない」
「廃校で」
「少ない。次で飲む」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
セナはそれで満足しなかった顔をしたが、次の負傷者へ目を移した。
リゼは赤布を握った。
湿っている。
また乾くだろう。
たぶん。
第二中継路は、道ではなくなりかけていた。
泥。
草。
崩れた路肩。
壊れた標識。
そこに、前線から下がってきた人間たちが溜まっていた。
列ではない。
群れだった。
前線兵。
補給兵。
避難民。
担架。
子供。
砲兵。
何かを抱えた人。
何も持っていない人。
怒っている人。
黙っている人。
帰ってきた人たち。
でも、帰ってきただけで止まっている人たち。
リゼはその顔を見て、少し分かった。
帰るというのは、終わりではない。
たぶん。
帰った後に、また動かなければならないことがある。
でも、人は一度「帰れた」と思うと、その場で膝が抜ける。体が、もう終わったことにしてしまう。まだ終わっていないのに。まだ後ろに人がいるのに。まだ前線が崩れているのに。
責められない。
自分もそうだったからだ。
旧学校区からハウンド七へ戻った朝、医療棟の前で立ち止まった。
学校は燃えたのか、と訊いた。
軍手を握った。
何かを持ってこられたから、全部失ったわけではないと思った。
でも、その後すぐに、また誰かを帰す側へ回った。
怒った。
嫌だった。
でも、動いた。
今、目の前の人たちにも、それが必要だった。
優しい言葉だけでは足りない。
休んでいい、と言ってあげたい。
でも、休み続ければここが詰まる。
詰まれば、後ろが死ぬ。
リゼは赤布を握り直した。
「カナタさん」
彼は少し離れた場所で、泥の流れと車両の位置を見ていた。
顔が硬い。
見えすぎる人の顔。
でも、止まってはいない。
「はい」
「ここ、私やる」
カナタは一瞬こちらを見た。
「休止点化しますか」
「違う」
「違う?」
「通過点にする」
言ってから、自分で少し驚いた。
でも、そうだと思った。
ここは帰る場所ではない。
戻ってきた人を止める場所ではない。
受けて、整えて、次へ流す場所。
赤布を結ぶだけでは足りない。
赤布を渡す場所だ。
カナタは少し黙った。
それから頷いた。
「お願いします」
「はい」
「声、使いすぎないでください」
「そこはセナさんが言うところ」
「先に言っておきます」
「成長したね」
「誰がですか」
「カナタさん」
リゼは笑った。
カナタは少しだけ困った顔をした。
その顔を見て、少し楽になった。
困らせられるうちは、まだ大丈夫だと思える。
リゼは赤布をほどいた。
髪が少し落ちる。
首筋に汗が張りつく。
暑い。
でも、布は軽い。
彼女は赤布を高く掲げなかった。
もう、それは狙われると分かっている。
だから、自分の胸の高さで広げた。
近くの人にだけ見える高さ。
「こっち」
短く言う。
近くの前線兵が顔を上げる。
「怪我してない人、十人」
「何?」
「十人。立って。後ろの人を通す」
「俺たちは今戻ったばかりだぞ」
「うん」
「休めないのか」
「三分だけ働いたら、休める」
「本当か」
「たぶん」
「たぶん?」
「戦場なので」
前線兵は嫌そうな顔をした。
でも立った。
一人立つと、隣が立つ。
隣が立つと、そのまた隣が立つ。
リゼは赤布の端を一人に渡した。
「これ持って」
「俺が?」
「そう」
「何をすればいい」
「そこに立って、来る人に言う。帰ってきた人は右。まだ動ける人は中央。倒れそうな人はセナさんへ」
「多い」
「じゃあ、短く」
リゼは少し考えた。
「帰れたら、次を帰す」
その言葉は、思ったより自然に出た。
前線兵が黙った。
リゼ自身も少し黙った。
そうか。
これか。
自分は今、これを言いたかったのだと思った。
帰ってこい、ではない。
帰ろう、でもない。
帰れたなら、次を帰す。
それは優しい言葉ではない。
休ませてくれない言葉だ。
でも、次の誰かを生かす言葉だった。
前線兵は赤布を見た。
泥で暗くなった赤。
それから、後ろを見る。
まだ人が来ている。
担架。
補給兵。
避難民。
ハウラーの音の向こうから、まだ人が流れてくる。
彼は赤布の端を握った。
「帰れたら、次を帰す」
呟いた。
うまく言えていない。
でも、それでよかった。
「はい」
リゼは頷く。
「それで、ここに立って」
赤布が二つになった。
本当は一枚だ。
片方をリゼが持ち、片方を前線兵が持つ。
その間に、短い赤い線ができる。
白線ではない。
目立たない。
でも、人がそこを見る。
戻ってきた人が、そこで分かれる。
右。
中央。
セナ。
簡単。
簡単なことしか、人は疲れた時にできない。
だから、簡単にする。
ユウトが駆けてきた。
「リゼさん、ここ何ですか」
「通過点」
「祭りの入口みたいですね」
「出口も兼ねてる」
「便利」
「便利にしないと死ぬ」
「ミナさん化してません?」
「してない」
ユウトは少し笑った。
それから、すぐに声を張った。
「帰ってきた人、右!まだ歩ける人、中央!倒れそうな人、セナさん!苦情は生存後!」
前線兵の赤布係が同じように言う。
「帰ってきた人、右!まだ歩ける人、中央!」
「倒れそうな人、セナ!」
セナが遠くから怒鳴った。
「さんをつけろ!」
少し笑いが起きた。
笑いながら、人が動く。
リゼは息を吸った。
喉が少し痛い。
でも、叫び続ける必要はない。
言葉が渡ったからだ。
赤布が一枚だけではない。
声も一つだけではない。
帰還誘導兵は、ここで増えている。
正式な辞令も、班長代理の確認も、マコトの記録もない。
でも増えている。
タクトが中央から来た。
「荷物を持ちすぎている人が止まります」
「どれくらい」
「多いです」
「便利な報告」
「便利にしないと」
「死ぬ?」
「はい」
リゼは少し笑った。
「じゃあ、荷物係も作ろう」
彼女は近くにいた避難民の青年を見た。
手に何も持っていない。
持てないのではなく、全部置いてきた顔だった。
その顔を見て、リゼは少しだけ言葉に詰まった。
何も持っていない人に、荷物を見ろと言う。
ひどい。
でも、言う。
「手、空いてる?」
青年は自分の手を見た。
「……空いてる」
「じゃあ、荷物を見る係」
「俺が?」
「うん。大きい荷物は一つ。小さいものはポケット。手が塞がってたら誰かを持てない」
青年は口を開けた。
閉じた。
それから頷いた。
「分かった」
「言える?」
「大きい荷物は一つ」
「小さいものは?」
「ポケット」
「手が塞がってたら?」
「誰かを持てない」
「合格」
青年は少しだけ笑った。
泣きそうな笑いだった。
彼は人の流れへ入っていった。
すぐに怒鳴り声がする。
「荷物、一つです!」
「これは必要なんだ!」
「手が塞がると誰かを持てません!」
誰かが文句を言う。
誰かが荷物を置く。
泥の上に、また生活が落ちる。
リゼはその音を聞いた。
どさっ。
ごとっ。
冬より大きく聞こえる。
夏の泥は、置いていく音を隠さない。
タクトが小さく言った。
「言い方、覚えましたね」
「誰が?」
「あの人が」
「うん」
「リゼさんが言ったことを、そのまま」
「いいじゃん。使い回し」
「便利ですね」
「便利にしないと」
二人で同時に言った。
「死ぬ」
少しだけ笑った。
その時、ハウラーの音が強くなった。
胸の下が押される。
世界の音が少し遠くなる。
リゼの視界の端で、人の流れが歪んだ。
何人かが耳を押さえる。
赤布係の前線兵が一瞬止まる。
小型レイスが、泥の向こうから姿を見せた。
待っていたのだ。
人が集まり、役割ができ、通過点が生まれるのを。
レイスは、こちらの混乱だけではなく、こちらの回復も見ている。
リゼは赤布を低く握った。
「ユウト!」
「はい!」
「ここ、狙われる!」
「ですよね!」
「言い方!」
「予想通りすぎて!」
ユウトが銃を構える。
ハルクが右側から寄る。
タクトが中央を下げる。
赤布係の前線兵が逃げようとした。
リゼはその腕を掴んだ。
「逃げるなら、布を置いてから」
「怖いこと言うな!」
「じゃあ持って立って」
「どっちも怖い!」
「でも、立てる」
前線兵は歯を食いしばった。
赤布を握る。
「帰れたら、次を帰す」
彼は言った。
声が震えていた。
でも言った。
周囲の数人が顔を上げる。
赤布を見る。
小型レイスが走る。
ハルクが一体を止める。
ユウトが撃つ。
外れる。
もう一発。
当たる。
泥が跳ねる。
セナが怒鳴る。
「止まるな!」
その声を、赤布係が繰り返した。
「止まるな!」
青年の荷物係も繰り返す。
「止まるな、荷物は一つ!」
雑だった。
でも、届いた。
役割をもらった人間は、もうただの避難民ではなくなる。
少しだけ、誰かを帰す側になる。
それは重い。
でも、その重さが足を動かすこともある。
リゼは初めて、それをはっきり見た。
自分が赤布を振っていた時、誰かはこう見ていたのかもしれない。
危なっかしい。
無茶をしている。
でも、そこに戻る場所がある。
今、自分の目の前で、戻る場所が増えている。
小型レイスの群れは、通過点へ突っ込もうとした。
だが、そこにはもう人の流れができていた。
止まっている群れではない。
右へ流れる人。
中央へ戻る人。
セナの救護へ入る人。
荷物を置く人。
赤布を持つ人。
声を渡す人。
レイスは、止まった人間を狙う。
動いている線は、少しだけ掴みにくい。
ガレスの車両が横から入る。
機銃音。
小型レイスが散る。
ハウラーの音が一段低くなり、胸の奥が重くなる。
それでも、通過点は壊れなかった。
リゼは息を吐いた。
喉が痛い。
でも、まだ声は出る。
いや。
出さなくてもいい。
声は増えている。
赤布係が言う。
「帰れたら、次を帰す!」
荷物係が言う。
「手を空けろ!」
ユウトが言う。
「苦情は生存後!」
セナが言う。
「水飲め!」
タクトが言う。
「音は今いいです、落とさないで!」
全部、少しずつ違う。
でも、同じ方向を向いている。
帰す。
通す。
止めない。
その時、カナタが来た。
泥だらけだった。
顔に疲れが出ている。
でも、止まっていなかった。
「ここ、持ちますか」
「持つ」
リゼは答えた。
「十人じゃなくて、三人ずつにしてください。敵が寄ります」
「三人?」
「小さくします」
「なるほど」
リゼは赤布係へ言った。
「三人ずつ」
「十人じゃなかったのか」
「今日の正解、さっき終わった」
「早すぎる」
「戦場なので」
前線兵は笑いそうになり、笑えず、頷いた。
「三人ずつ!」
声が変わる。
流れが細くなる。
細くなることで、レイスが狙う大きな塊が消える。
時間はかかる。
でも、壊れにくい。
帰還誘導は、速さだけではない。
形を変えることだ。
リゼはそれを、この泥の上で覚えた。
夕方に近づいていた。
空の色が少し濃くなる。
夏の夕方は、また終わらない顔をし始める。
通過点の泥は踏み固められていた。
赤布は何度も人の手を渡り、泥と汗で暗い色になった。
でも、まだ赤だった。
最後の束が通った時、リゼは少しだけ膝に手をついた。
倒れたわけではない。
ただ、立っていた足が急に自分のものではないみたいになった。
セナがすぐ来る。
「水」
「はい」
「今」
「はい」
リゼは水を飲んだ。
ぬるい。
でも、喉に落ちると痛かった。
生きている痛みだった。
赤布係だった前線兵が近づいてきた。
手には赤布の端。
「返す」
「うん」
彼は少し迷ってから言った。
「もう一枚、ないか」
リゼは顔を上げた。
「何に使うの」
「次の場所で」
「帰せたら、次を帰す?」
「……そういうこと」
リゼは少し笑った。
笑うと喉が痛い。
でも笑った。
予備の赤布を渡す。
前線兵はそれを受け取った。
辞令もない。
部隊名もない。
でも、彼はもう次の戻る場所へ行く。
リゼはそれを見送った。
自分が赤布を持って待つだけではない。
赤布を渡す。
帰る言葉を渡す。
それが、次の自分の仕事なのだと思った。
カナタが隣に立った。
「増えましたね」
「何が?」
「帰還誘導兵」
リゼは少し考えた。
それから言った。
「まだ仮免」
「厳しい」
「補習あり」
「リゼさんも言いますね、それ」
「文化だから」
「責任を文化にしないでください」
カナタが少し笑った。
それが見られたので、リゼは少し満足した。
その時、遠くでまた砲声が鳴った。
前線はまだ崩れている。
夏はまだ終わらない。
でも、泥の上には小さな通過点が残った。
赤布が結ばれていた跡。
踏み固められた三本の細い流れ。
置かれた荷物。
空になった水袋。
そして、誰かが覚えた言葉。
帰れたら、次を帰す。
リゼは赤布を握った。
布は重かった。
汗と泥と水を吸っている。
でも、乾くだろう。
夏だから。
たぶん。
そして乾いたら、また誰かに渡せる。
そのことが、少しだけ怖くて、少しだけ嬉しかった。