帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
最後の日の朝は、ちゃんと朝だった。
それが少し腹立たしかった。
もっと特別な顔をしてくれればよかった。
空が赤いとか、雲が低すぎるとか、蝉が鳴かないとか、食堂の窓が勝手に閉まっているとか、そういう分かりやすい異常があれば、まだ納得できたかもしれない。
でも、ハウンド七の最後の朝は、いつも通りに暑かった。
食堂の窓は開いていた。
草の匂いが入ってくる。
格納庫からは油の匂い。
医療棟からは消毒液の匂い。
洗濯ロープには、誰かの靴下が干しっぱなしになっている。もう乾いているのか、乾く前に持っていかれるのか、風に揺れている本人にも分からなさそうだった。
朝の光は、机の傷をちゃんと照らしていた。
床の泥も。
椅子の脚についた古い傷も。
窓に残った指の跡も。
昨日の煙草の匂いも、ほんの少し残っている。
ガレスが火をつけた煙草。
あの一本の匂いは、豆スープや靴下や油の匂いに混じって、食堂の隅に小さく座っていた。
カナタは椀を受け取った。
豆は二粒だった。
市民。
最後の朝でも、市民。
そのことに、少しだけ安心した。
最後だからといって、突然五粒にならなくてよかったと思った。そんなことをされたら、食堂が急に知らない場所になる。ハウンド七の最後の朝は、薄い豆スープであるべきだった。
薄い。
温かい。
湯気はすぐ消える。
豆は二粒。
それがいい。
「最後まで市民ですね」
ユウトが言った。
彼の椀にも二粒。
目の下には影がある。
でも、豆を数える速度は落ちていない。
「安定です」
タクトが答える。
「安定した薄さ」
「はい」
「誉めてないですよね」
「たぶん」
リゼは窓際で椀を持っていた。
赤布は手首に巻いている。
髪はほどいていた。
暑そうだった。
でも、今日はそのままだった。
「私も二粒」
「平等社会ですね」
ユウトが言う。
「最後の日に革命失敗」
「何の革命ですか」
「豆」
「小さい」
「小さいことは大事だよ」
リゼはスープを飲んだ。
顔をしかめる。
「薄い」
「最後でも薄いですね」
カナタが言うと、リゼは少し笑った。
「そこがいい」
それだけだった。
それだけで、食堂の空気が少し柔らかくなった。
でも、その柔らかさは長く続かない。
食堂の奥では、箱詰めが進んでいた。
椀。
鍋。
携行食。
布。
工具。
記録帳。
帰ってきたもの置き場の小さな箱。
箱が増えるたびに、食堂が少しずつ軽くなる。
軽くなるのに、胸の中は重くなる。
変な計算だった。
持っていくものを増やすほど、ここに残る空間が広くなる。その広さが、もう戻らないことを教えてくる。
マコトは手順書と記録帳をまとめていた。
表紙には、まだ《帰還誘導兵のだいたいのやつ》と書かれている。
その下に、《改訂予定》。
さらに今朝、小さく書き足されていた。
《移転後も使用》
硬い字だった。
でも、少しだけ震えていた。
「それ、持てますか」
カナタが訊くと、マコトは頷いた。
「はい。最優先ではありませんが、優先です」
「難しい分類ですね」
「はい」
「でも分かります」
マコトはほっとしたように息を吐いた。
手順書は人間ではない。
食料でもない。
医療品でもない。
でも、これからの誰かを帰すためには必要だ。
必要なものは、いつも分かりやすい顔をしているわけではない。
それも、この場所で覚えたことだった。
ミナは格納庫にいた。
三号車の腹の下。
今日だけは、誰も「食堂で工具を開くな」と言わなかった。
いや、食堂ではない。
格納庫だ。
でも、たぶん食堂で開いても誰も強く怒らなかったと思う。
最後の日は、少しだけ規則が緩む。
その緩さが、余計に寂しい。
「動きますか」
カナタが訊くと、三号車の下からミナの声がした。
「動く」
「状態は」
「怒ってる」
「車が?」
「私も」
「ですよね」
工具音。
かん。
きん。
少し間があって、ミナが出てきた。
頬に油。
額に汗。
目が赤い。
寝ていない顔だった。
「三号車は持っていく」
「はい」
「持っていくっていうか、走らせる」
「はい」
「置いていかない」
「はい」
「でも、格納庫は置いていく」
ミナは格納庫の天井を見た。
鉄骨。
修理跡。
吊り下げられた古いライト。
壁の油染み。
床に残ったタイヤ跡。
「格納庫は走れない」
「はい」
「不便」
「かなり」
ミナは笑わなかった。
かわりに、三号車の側面を軽く叩いた。
「こいつが少し持ってく」
「何を」
「格納庫の音」
変な言い方だった。
でも、三号車のエンジンを思い出す。
咳。
唸り。
泥を噛む音。
格納庫で聞いた工具音。
それらは確かに、少し似ている。
三号車が走れば、格納庫の何かも一緒に走るのかもしれない。
セナは医療棟で、最後の確認をしていた。
患者はもうほとんど移送車に乗せられている。
寝台は空だ。
空の寝台が並んでいる光景は、負傷者で埋まっている時より少し怖かった。
誰も寝ていない寝台。
使われた包帯の匂い。
消毒液。
水の減った瓶。
壁に貼られた簡易診療表。
その全部が、使われた後の顔をしている。
「医療棟、空ですね」
カナタが言うと、セナは包帯を箱へ入れながら答えた。
「空にした」
「はい」
「空っぽは、成功」
短い。
でも、少しだけ違った。
セナの声が、ほんの少しだけ柔らかかった。
「誰も置いていかない」
「はい」
「寝台は置いていく」
セナは寝台を見た。
「怒らないでしょ、たぶん」
「寝台がですか」
「うん」
「どうでしょう」
「怒っても運べない」
「現実的ですね」
「現実しかない」
セナは医療袋を肩にかけた。
その肩が少し沈む。
重い。
でも、彼女は持つ。
人を運ぶための重さは、たいてい目に見えない。
見えないものほど、肩に来る。
昼近く、帰ってきたもの置き場の机を動かすかどうかで、少しだけ揉めた。
揉めたと言っても、声は荒くなかった。
全員、最初から答えを知っているからだ。
机は持っていけない。
でも、誰も最初に言いたくなかった。
リゼは天板の落書きを指でなぞっている。
《帰りたい》
薄くなっている。
何度も触られたからだ。
「削る?」
ユウトが言った。
「天板を?」
マコトが驚く。
「この文字の部分だけ」
「持てますか」
「ちょっと重いですかね」
「かなり」
リゼは首を振った。
「いい」
「いいんですか」
ユウトが訊く。
「これは、ここにある方がいい」
「でも」
「机が帰りたいって言ってるなら、ここから誰かが帰った証拠もいるでしょ」
リゼは小さなチョークを取り出した。
旧学校区から持ってきたもの。
白くて短い。
それで、天板の端に一言だけ書いた。
《帰った》
チョークの粉が指につく。
白い。
夏の光の中で、少し眩しい。
誰もすぐには喋らなかった。
机には、二つの言葉が並んだ。
帰りたい。
帰った。
それだけで、少しだけ机の顔が変わった気がした。
「これで置いていける」
リゼが言った。
声は軽かった。
でも、目は少し赤かった。
カナタは頷いた。
「はい」
帰ってきたもの置き場から持っていく箱は、小さかった。
拍子抜けするほど小さい。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
チョーク。
肉缶の蓋。
射的の木片。
焦げた端子。
祭り入口の札の切れ端。
それだけ。
ハウンド七全部に比べると、あまりにも小さい。
でも、人間が持てるものはだいたい小さい。
大きいものを持とうとすると、歩けなくなる。
だから、小さくする。
小さくして、持つ。
午後、撤収列が組まれた。
今度はハウンド七から出る列だ。
不思議だった。
今までは、ハウンド七へ帰ってくる列を作っていた。
今日は、ハウンド七から出ていく列を作る。
帰る場所が、出発点になる。
そういうこともあるのだと、カナタは思った。
思いたくはなかった。
でも、そうだった。
「先頭、補給車」
カナタは言った。
「その後ろに医療車。三号車は中央。歩行組は三号車の左右。最後尾はガレス副長」
「お前は」
ガレスが訊く。
「中央を見ます」
「最後尾じゃねぇのか」
「今日は中央です」
ハウンド七を出る列は、最後尾より中央が怖い。
人が振り返る。
荷物が増える。
持っていきたいものを途中で思い出す。
戻ろうとする。
そこで列が折れる。
カナタには、それが見えた。
だから中央。
ガレスは少しだけ笑った。
「見えるようになったな」
「見えすぎるだけです」
「なら、使え」
「はい」
出発前、全員が一度だけ食堂を見た。
誰が言ったわけでもない。
自然にそうなった。
窓は開いている。
椀は片付けられている。
ストーブは隅にある。
帰ってきたもの置き場の机は残っている。
天板には《帰りたい》と《帰った》。
食堂は、もう食堂ではなくなりかけていた。
でも、まだ食堂だった。
その中間が、いちばんつらい。
「行きます」
カナタが言った。
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
人に。
食堂に。
ハウンド七に。
自分に。
全部かもしれない。
リゼが赤布を食堂の柱からほどいた。
昨日の祭りで結んだ場所。
冬から何度も結んだ場所。
布を外すと、柱に少しだけ赤い跡が残った。
「持ってくよ」
リゼが小さく言った。
柱は答えない。
でも、風が少し吹いた。
三号車のエンジンがかかった。
咳をする。
一度。
二度。
それから、低く続く。
ミナが運転席から叫んだ。
「出るよ!」
ユウトが言う。
「最後の三号車展示、終了ですね」
「うるさい!展示じゃなくて出撃!」
「撤収では」
「うるさい!」
少しだけ笑いが起きた。
笑いながら、列が動いた。
補給車。
医療車。
三号車。
歩行組。
帰ってきたものの箱。
赤布。
手順書。
湿った手袋。
ハウンド七の門を出る時、カナタは振り返った。
南門。
食堂の窓。
格納庫の屋根。
洗濯ロープ。
壊れた自販機。
防雪柵だったもの。
祭りの跡。
全部が見えた。
見えすぎた。
でも、今日は止まらなかった。
見えたものを、全部持つことはできない。
でも、見たことは置いていかない。
ガレスの言葉を思い出す。
ここで帰ってきたことは、置いていくな。
どうやって持っていくのかは、まだ分からない。
でも、列は進む。
夏の道へ。
泥と草と砲声の方へ。
食堂の窓は、最後まで開いていた。
誰も閉めなかった。
風が入る。
風が出ていく。
たぶん、それでよかった。
カナタは手袋を見た。
湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
でも、少しだけ煙草の匂いがした。
ハウンド七の最後の匂いだった。
「悪化した」
小さく言う。
隣でリゼが笑った。
「でも、持ってる」
「はい」
「じゃあ、帰ろう」
帰ろう。
どこへ。
まだ分からない。
それでも、列は進んだ。
帰る場所を失った人間たちが、帰る場所を作るために。
ハウンド七を後ろに残して。