帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十一話 最後の食堂

 最後の日の朝は、ちゃんと朝だった。

 それが少し腹立たしかった。

 もっと特別な顔をしてくれればよかった。

 空が赤いとか、雲が低すぎるとか、蝉が鳴かないとか、食堂の窓が勝手に閉まっているとか、そういう分かりやすい異常があれば、まだ納得できたかもしれない。

 でも、ハウンド七の最後の朝は、いつも通りに暑かった。

 食堂の窓は開いていた。

 草の匂いが入ってくる。

 格納庫からは油の匂い。

 医療棟からは消毒液の匂い。

 洗濯ロープには、誰かの靴下が干しっぱなしになっている。もう乾いているのか、乾く前に持っていかれるのか、風に揺れている本人にも分からなさそうだった。

 朝の光は、机の傷をちゃんと照らしていた。

 床の泥も。

 椅子の脚についた古い傷も。

 窓に残った指の跡も。

 昨日の煙草の匂いも、ほんの少し残っている。

 ガレスが火をつけた煙草。

 あの一本の匂いは、豆スープや靴下や油の匂いに混じって、食堂の隅に小さく座っていた。

 カナタは椀を受け取った。

 豆は二粒だった。

 市民。

 最後の朝でも、市民。

 そのことに、少しだけ安心した。

 最後だからといって、突然五粒にならなくてよかったと思った。そんなことをされたら、食堂が急に知らない場所になる。ハウンド七の最後の朝は、薄い豆スープであるべきだった。

 薄い。

 温かい。

 湯気はすぐ消える。

 豆は二粒。

 それがいい。

「最後まで市民ですね」

 ユウトが言った。

 彼の椀にも二粒。

 目の下には影がある。

 でも、豆を数える速度は落ちていない。

「安定です」

 タクトが答える。

「安定した薄さ」

「はい」

「誉めてないですよね」

「たぶん」

 リゼは窓際で椀を持っていた。

 赤布は手首に巻いている。

 髪はほどいていた。

 暑そうだった。

 でも、今日はそのままだった。

「私も二粒」

「平等社会ですね」

 ユウトが言う。

「最後の日に革命失敗」

「何の革命ですか」

「豆」

「小さい」

「小さいことは大事だよ」

 リゼはスープを飲んだ。

 顔をしかめる。

「薄い」

「最後でも薄いですね」

 カナタが言うと、リゼは少し笑った。

「そこがいい」

 それだけだった。

 それだけで、食堂の空気が少し柔らかくなった。

 でも、その柔らかさは長く続かない。

 食堂の奥では、箱詰めが進んでいた。

 椀。

 鍋。

 携行食。

 布。

 工具。

 記録帳。

 帰ってきたもの置き場の小さな箱。

 箱が増えるたびに、食堂が少しずつ軽くなる。

 軽くなるのに、胸の中は重くなる。

 変な計算だった。

 持っていくものを増やすほど、ここに残る空間が広くなる。その広さが、もう戻らないことを教えてくる。

 マコトは手順書と記録帳をまとめていた。

 表紙には、まだ《帰還誘導兵のだいたいのやつ》と書かれている。

 その下に、《改訂予定》。

 さらに今朝、小さく書き足されていた。

 《移転後も使用》

 硬い字だった。

 でも、少しだけ震えていた。

「それ、持てますか」

 カナタが訊くと、マコトは頷いた。

「はい。最優先ではありませんが、優先です」

「難しい分類ですね」

「はい」

「でも分かります」

 マコトはほっとしたように息を吐いた。

 手順書は人間ではない。

 食料でもない。

 医療品でもない。

 でも、これからの誰かを帰すためには必要だ。

 必要なものは、いつも分かりやすい顔をしているわけではない。

 それも、この場所で覚えたことだった。

 ミナは格納庫にいた。

 三号車の腹の下。

 今日だけは、誰も「食堂で工具を開くな」と言わなかった。

 いや、食堂ではない。

 格納庫だ。

 でも、たぶん食堂で開いても誰も強く怒らなかったと思う。

 最後の日は、少しだけ規則が緩む。

 その緩さが、余計に寂しい。

「動きますか」

 カナタが訊くと、三号車の下からミナの声がした。

「動く」

「状態は」

「怒ってる」

「車が?」

「私も」

「ですよね」

 工具音。

 かん。

 きん。

 少し間があって、ミナが出てきた。

 頬に油。

 額に汗。

 目が赤い。

 寝ていない顔だった。

「三号車は持っていく」

「はい」

「持っていくっていうか、走らせる」

「はい」

「置いていかない」

「はい」

「でも、格納庫は置いていく」

 ミナは格納庫の天井を見た。

 鉄骨。

 修理跡。

 吊り下げられた古いライト。

 壁の油染み。

 床に残ったタイヤ跡。

「格納庫は走れない」

「はい」

「不便」

「かなり」

 ミナは笑わなかった。

 かわりに、三号車の側面を軽く叩いた。

「こいつが少し持ってく」

「何を」

「格納庫の音」

 変な言い方だった。

 でも、三号車のエンジンを思い出す。

 咳。

 唸り。

 泥を噛む音。

 格納庫で聞いた工具音。

 それらは確かに、少し似ている。

 三号車が走れば、格納庫の何かも一緒に走るのかもしれない。

 セナは医療棟で、最後の確認をしていた。

 患者はもうほとんど移送車に乗せられている。

 寝台は空だ。

 空の寝台が並んでいる光景は、負傷者で埋まっている時より少し怖かった。

 誰も寝ていない寝台。

 使われた包帯の匂い。

 消毒液。

 水の減った瓶。

 壁に貼られた簡易診療表。

 その全部が、使われた後の顔をしている。

「医療棟、空ですね」

 カナタが言うと、セナは包帯を箱へ入れながら答えた。

「空にした」

「はい」

「空っぽは、成功」

 短い。

 でも、少しだけ違った。

 セナの声が、ほんの少しだけ柔らかかった。

「誰も置いていかない」

「はい」

「寝台は置いていく」

 セナは寝台を見た。

「怒らないでしょ、たぶん」

「寝台がですか」

「うん」

「どうでしょう」

「怒っても運べない」

「現実的ですね」

「現実しかない」

 セナは医療袋を肩にかけた。

 その肩が少し沈む。

 重い。

 でも、彼女は持つ。

 人を運ぶための重さは、たいてい目に見えない。

 見えないものほど、肩に来る。

 昼近く、帰ってきたもの置き場の机を動かすかどうかで、少しだけ揉めた。

 揉めたと言っても、声は荒くなかった。

 全員、最初から答えを知っているからだ。

 机は持っていけない。

 でも、誰も最初に言いたくなかった。

 リゼは天板の落書きを指でなぞっている。

 《帰りたい》

 薄くなっている。

 何度も触られたからだ。

「削る?」

 ユウトが言った。

「天板を?」

 マコトが驚く。

「この文字の部分だけ」

「持てますか」

「ちょっと重いですかね」

「かなり」

 リゼは首を振った。

「いい」

「いいんですか」

 ユウトが訊く。

「これは、ここにある方がいい」

「でも」

「机が帰りたいって言ってるなら、ここから誰かが帰った証拠もいるでしょ」

 リゼは小さなチョークを取り出した。

 旧学校区から持ってきたもの。

 白くて短い。

 それで、天板の端に一言だけ書いた。

 《帰った》

 チョークの粉が指につく。

 白い。

 夏の光の中で、少し眩しい。

 誰もすぐには喋らなかった。

 机には、二つの言葉が並んだ。

 帰りたい。

 帰った。

 それだけで、少しだけ机の顔が変わった気がした。

「これで置いていける」

 リゼが言った。

 声は軽かった。

 でも、目は少し赤かった。

 カナタは頷いた。

「はい」

 帰ってきたもの置き場から持っていく箱は、小さかった。

 拍子抜けするほど小さい。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 チョーク。

 肉缶の蓋。

 射的の木片。

 焦げた端子。

 祭り入口の札の切れ端。

 それだけ。

 ハウンド七全部に比べると、あまりにも小さい。

 でも、人間が持てるものはだいたい小さい。

 大きいものを持とうとすると、歩けなくなる。

 だから、小さくする。

 小さくして、持つ。

 午後、撤収列が組まれた。

 今度はハウンド七から出る列だ。

 不思議だった。

 今までは、ハウンド七へ帰ってくる列を作っていた。

 今日は、ハウンド七から出ていく列を作る。

 帰る場所が、出発点になる。

 そういうこともあるのだと、カナタは思った。

 思いたくはなかった。

 でも、そうだった。

「先頭、補給車」

 カナタは言った。

「その後ろに医療車。三号車は中央。歩行組は三号車の左右。最後尾はガレス副長」

「お前は」

 ガレスが訊く。

「中央を見ます」

「最後尾じゃねぇのか」

「今日は中央です」

 ハウンド七を出る列は、最後尾より中央が怖い。

 人が振り返る。

 荷物が増える。

 持っていきたいものを途中で思い出す。

 戻ろうとする。

 そこで列が折れる。

 カナタには、それが見えた。

 だから中央。

 ガレスは少しだけ笑った。

「見えるようになったな」

「見えすぎるだけです」

「なら、使え」

「はい」

 出発前、全員が一度だけ食堂を見た。

 誰が言ったわけでもない。

 自然にそうなった。

 窓は開いている。

 椀は片付けられている。

 ストーブは隅にある。

 帰ってきたもの置き場の机は残っている。

 天板には《帰りたい》と《帰った》。

 食堂は、もう食堂ではなくなりかけていた。

 でも、まだ食堂だった。

 その中間が、いちばんつらい。

「行きます」

 カナタが言った。

 誰に向けた言葉なのか分からなかった。

 人に。

 食堂に。

 ハウンド七に。

 自分に。

 全部かもしれない。

 リゼが赤布を食堂の柱からほどいた。

 昨日の祭りで結んだ場所。

 冬から何度も結んだ場所。

 布を外すと、柱に少しだけ赤い跡が残った。

「持ってくよ」

 リゼが小さく言った。

 柱は答えない。

 でも、風が少し吹いた。

 三号車のエンジンがかかった。

 咳をする。

 一度。

 二度。

 それから、低く続く。

 ミナが運転席から叫んだ。

「出るよ!」

 ユウトが言う。

「最後の三号車展示、終了ですね」

「うるさい!展示じゃなくて出撃!」

「撤収では」

「うるさい!」

 少しだけ笑いが起きた。

 笑いながら、列が動いた。

 補給車。

 医療車。

 三号車。

 歩行組。

 帰ってきたものの箱。

 赤布。

 手順書。

 湿った手袋。

 ハウンド七の門を出る時、カナタは振り返った。

 南門。

 食堂の窓。

 格納庫の屋根。

 洗濯ロープ。

 壊れた自販機。

 防雪柵だったもの。

 祭りの跡。

 全部が見えた。

 見えすぎた。

 でも、今日は止まらなかった。

 見えたものを、全部持つことはできない。

 でも、見たことは置いていかない。

 ガレスの言葉を思い出す。

 ここで帰ってきたことは、置いていくな。

 どうやって持っていくのかは、まだ分からない。

 でも、列は進む。

 夏の道へ。

 泥と草と砲声の方へ。

 食堂の窓は、最後まで開いていた。

 誰も閉めなかった。

 風が入る。

 風が出ていく。

 たぶん、それでよかった。

 カナタは手袋を見た。

 湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 でも、少しだけ煙草の匂いがした。

 ハウンド七の最後の匂いだった。

「悪化した」

 小さく言う。

 隣でリゼが笑った。

「でも、持ってる」

「はい」

「じゃあ、帰ろう」

 帰ろう。

 どこへ。

 まだ分からない。

 それでも、列は進んだ。

 帰る場所を失った人間たちが、帰る場所を作るために。

 ハウンド七を後ろに残して。

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