帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
ハウンド七を出たあと、夕方が来た。
当たり前のことだった。
どこにいても夕方は来る。
基地にいても、撤退路にいても、泥の上にいても、誰かが置いていった水箱の横にいても、三号車の荷台に揺られていても、太陽は勝手に傾く。世界がどれだけ忙しくても、空だけは自分の時間で色を変える。
それが少し、腹立たしかった。
ハウンド七の最後の食堂は、まだ昼の匂いがしていた。
薄い豆スープ。
開いた窓。
煙草。
油。
湿った手袋。
全部を後ろに置いてきたのに、夕方は普通に来る。
しかも、きれいだった。
夏の終わりに近い夕方は、やけに青い。
赤くなる前に、一度だけ空が薄い水色を思い出す。昼の青より弱く、夜の青より頼りない。そこへ雲の影が伸びて、遠くの煙が少し混じる。きれいなのに、どこか汚れている。
カナタは三号車の荷台から、その空を見ていた。
手袋は湿っている。
汗。
泥。
金属の匂い。
それから、ほんの少しだけ煙草の匂い。
ガレスが最後に火をつけた煙草の匂いが、まだ縫い目の奥に残っている気がした。
そんなはずはない。
でも、ある気がした。
人間の鼻は、たぶん記憶に弱い。
「暑いですね」
ユウトが言った。
荷台の端に座り、膝に小銃を置いている。顔は泥で汚れている。額には汗。いつもならすぐ豆の話をするところだが、今日はまだしていない。
「はい」
カナタは答えた。
「会話、終わりましたね」
「暑いので」
「前にも聞いた気がします」
「暑さは繰り返します」
「嫌な季節感」
ユウトは少しだけ笑った。
その笑いは、三号車の振動に混ざってすぐ消えた。
列は長かった。
補給車。
医療車。
三号車。
徒歩組。
前線兵。
避難民。
誰かの荷物。
誰かの怒り。
誰かの沈黙。
ハウンド七を出た時より、列は少し重くなっていた。人が増えたからではない。物が増えたからでもない。むしろ、置いてきたものの方が多い。
重くなったのは、場所を失ったからだと思う。
帰る場所を背中に載せると、人間は重くなる。
持っていけない場所ほど、重い。
「次の休止点、まだですか」
タクトが訊いた。
腰の缶は鳴らない。だが今日は、それが少し不自然に見えた。静かすぎる。まるで缶の中に、ハウンド七で鳴っていた音を全部閉じ込めたみたいだった。
ヒナセが通信機を見て答える。
「予定では、旧搬送集積所」
「予定では」
ユウトが繰り返す。
「その言い方、だいたい嫌なことになりますよね」
「通信が不安定なので」
「さらに嫌」
ヒナセは困った顔をした。
でも、否定しなかった。
夏の撤退では、予定という言葉が少しずつ薄くなる。
予定の休止点。
予定の補給。
予定の経路。
予定の合流。
それらは、紙の上ではまだ存在している。でも現場では、泥に沈んだり、レイスに待たれたり、ハウラーに通信を潰されたりする。
それでも、予定がなければ人は動けない。
嘘だと分かっていても、地図は必要だった。
旧搬送集積所に着いた時、そこは休止点ではなかった。
ただの空き地だった。
屋根の壊れた倉庫。
鉄骨だけになった積み込み場。
草に埋まったレール。
傾いた給水塔。
使われなくなったベンチ。
割れた照明。
どれも、昔は何かの役に立っていた顔をしていた。今はもう、役に立つかどうかを人間に勝手に判定される側になっている。
風が吹いた。
ぬるい。
湿っている。
川が近いのかもしれない。
水の匂いが少しだけした。
でも、冷たくはなかった。
「ここ?」
リゼが言った。
彼女は三号車から降りて、周囲を見回していた。赤布は手首に巻いている。ハウンド七の食堂の柱からほどいた時の赤い跡が、まだ布の端に残っているように見えた。
「予定では」
カナタが答える。
「予定って、便利な言葉だね」
「はい」
「実物、全然違うけど」
「かなり」
リゼは少し笑った。
でも、すぐに黙った。
空き地には、帰る場所の匂いがなかった。
ハウンド七にはあった。
食堂の湯気。
格納庫の油。
医療棟の消毒液。
洗濯物。
濡れた靴下。
薄いスープ。
そういう匂いが重なって、ここに戻ってきた、と体が勝手に思う場所になっていた。
旧搬送集積所には、そういうものがない。
草。
錆。
湿った鉄。
ぬるい風。
遠い砲声。
知らない匂いばかりだった。
「帰る場所がない」
カナタは言った。
言うつもりはなかった。
口から落ちた。
リゼがこちらを見る。
ユウトも。
タクトも。
カナタは少しだけ後悔した。
今言うべき言葉ではない。
帰還誘導班長代理が、帰る場所がないなんて言ってはいけない。
でも、言ってしまった。
事実だったからだ。
ここには食堂がない。
窓もない。
帰ってきたもの置き場もない。
誰も「豆二粒」と言って椀を覗く場所もない。
赤布を結ぶ柱も、まだない。
だから、帰る場所がない。
リゼはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ肩をすくめた。
「じゃあ、作るんだよ」
軽かった。
あまりにも軽かった。
でも、その軽さは逃げではなかった。
キャンプの夜、採掘場跡で火を囲んだ時のことを、カナタは思い出した。
赤布。
火。
人。
そこが帰る場所になった。
昨日まで何でもなかった草地が、火と赤布で少しだけ戻れる場所になった。
リゼはそれを覚えている。
たぶん、カナタより先に。
「火、使える?」
リゼが訊いた。
ミナが工具箱を抱えて言う。
「火起こし器ならある」
「普通の火で」
「文明を拒否された」
「今日は雰囲気もいる」
「雰囲気、強い権限だね」
ミナは文句を言いながら、乾いた木片を探し始めた。
ハルクが壊れたベンチを持ち上げる。
「使うか」
「ベンチを?」
ユウトが訊く。
「燃える」
「座るものでは」
「今は燃えるものだ」
「判断が前線」
結局、ベンチの一部を使った。
座るためだったものが、火になる。
少しだけ胸が痛んだ。
でも、燃やさなければ火は作れない。
火を作らなければ、人は集まらない。
人が集まらなければ、ここはただの空き地のままだ。
セナは医療車の横に小さな救護場所を作った。
布を敷く。
水を置く。
座る場所を決める。
決めただけで、そこが救護場所になる。
ヒナセは給水塔の近くに通信機を置いた。
少しでも高い場所。
マコトは手順書を開き、でもすぐ閉じた。
「書くより先に動きます」
「成長」
ユウトが言った。
「記録します」
「結局書くんですね」
「後で」
タクトは荷物の音を確かめた。
箱を並べる。
鳴るものを布で巻く。
子供が近くに寄ってきて、その手つきを見ていた。
「それ、何してるの」
「音を小さくしています」
「なんで」
「音がすると、見つかることがあるので」
「じゃあ、私の水筒も?」
「できます」
タクトは布を巻いた。
子供が水筒を振る。
鳴らない。
少しだけ笑った。
それを見て、周囲の大人の顔が少しゆるむ。
小さい技術が、小さい安心になる。
そういうものが必要だった。
火は、なかなかつかなかった。
木が湿っていた。
夏なのに。
いや、夏だから湿っているのかもしれない。
汗も乾かない。
草も湿っている。
空気そのものが、水を含んでいる。
ユウトが火打ち具を持って言った。
「これ、文明の敗北では」
「文明に頼りすぎ」
リゼが言う。
「火、昔の人はどうやってつけてたんですか」
「頑張って」
「雑」
「じゃあ、かなり頑張って」
「増えたの副詞だけ」
火花が散る。
つかない。
もう一度。
つかない。
ミナが横でうずうずしている。
「点火器」
「だめ」
「一瞬だけ」
「だめ」
「雰囲気より生存では?」
「今は両方」
リゼは頑固だった。
なぜそこまで火起こしにこだわるのか、カナタには少し分かった。
点火器でつけた火は便利だ。
でも、便利すぎる。
便利な火は、ただの道具になる。
今必要なのは、道具の火だけではない。
人が集まり、誰かが息を吹きかけ、誰かが文句を言い、誰かが少し笑い、やっとつく火。
そういう手間が、場所を作る。
やがて、火がついた。
小さかった。
本当に小さい。
火と呼ぶには頼りない。
赤い点。
湿った木片の端に、少しだけ光が生まれる。
ユウトが息を止める。
リゼがそっと手をかざす。
ミナが「今なら点火器で」と言いかけて、タクトに止められる。
火は消えなかった。
少しずつ大きくなる。
煙が上がる。
湿った木の匂い。
草の匂い。
少しだけ焦げた夏の匂い。
人が集まる。
自然に。
誰かが座る。
誰かが水を飲む。
誰かが荷物を下ろす。
誰かが泣きそうな顔で火を見る。
火は、命令しない。
でも、人を呼ぶ。
リゼは赤布をほどいた。
そして、火の近くの鉄骨に結んだ。
高くない。
低すぎもしない。
火の光を受けて、赤布が少しだけ揺れる。
夕方の風。
湿った夜風の前触れ。
「ここ」
リゼが言った。
「戻る場所」
誰に向けたわけでもない。
でも、近くの人たちがその赤を見た。
子供も。
前線兵も。
医療車の中の負傷者も。
カナタも。
火。
赤布。
人。
旧搬送集積所は、ただの空き地ではなくなった。
名前のない休止点でもない。
そこに戻れば、火がある。
赤がある。
誰かがいる。
それだけで、場所は変わる。
「作れましたね」
カナタは言った。
「まだ仮設」
リゼが答える。
「厳しい」
「補習あり」
「言いますね」
「文化だから」
カナタは少し笑った。
笑ってから、火を見た。
ハウンド七ではない。
食堂でもない。
薄い豆スープもない。
窓もない。
でも、ここには火がある。
赤布がある。
人がいる。
なら、少しの間だけ帰る場所になる。
そのことが、嬉しいのか悲しいのか、分からなかった。
たぶん両方だった。
夜が近づいた。
空の青が深くなる。
遠い砲声が、昼より近く聞こえる。
虫の声が変わる。
蝉ではない。
もっと細い声。
火の周りに、小さな虫が飛び始める。
麦茶の入った容器が回ってきた。
冷えていない。
ぬるい。
完全にぬるい。
ユウトが一口飲んで言った。
「冷えない麦茶、夏って感じですね」
「褒めてます?」
タクトが訊く。
「半分」
「もう半分は」
「絶望」
リゼが笑った。
「でも飲む」
「飲みます」
ユウトはまた飲んだ。
カナタにも容器が回ってくる。
ぬるい麦茶。
少し金属の味がする。
でも、喉を通る。
生きている味だった。
その時、ヒナセの通信機が鳴った。
全員が顔を上げる。
火の周りの空気が、一瞬で変わる。
作ったばかりの帰る場所が、戦場の入口になる。
ヒナセは耳を押さえた。
「後続列、遅延。第三後退群の一部、進路逸脱」
ノイズ。
「ハウラー反応あり。小型群、接近中」
火がぱち、と鳴った。
赤布が揺れた。
リゼが立つ。
カナタも立つ。
疲れはある。
喉も痛い。
足も重い。
でも、もうここには戻る場所がある。
それだけで、動き出す時の足元が少し違った。
「リゼさん」
「うん」
「ここ、お願いします」
「任された」
「ユウトさん、十人じゃなくて三人ずつ」
「今日の正解ですね」
「今のところ」
「すぐ変わりそう」
「変えます」
タクトが布を持つ。
ヒナセが通信を短くまとめる。
マコトが走る準備をする。
セナが救護場所を整える。
ハルクが暗い方へ立つ。
ミナが三号車に戻る。
火の周りの人々が、赤布を見る。
さっきまで座っていた前線兵が立ち上がる。
避難民の青年が水筒を置き、荷物を寄せる。
子供が鳴らない水筒を胸に抱える。
帰る場所は、作った瞬間から使われる。
休ませてはくれない。
でも、使えるから場所になる。
カナタは火を見た。
小さい。
頼りない。
風が強くなれば消えそうだ。
それでも、赤く燃えている。
ハウンド七ではない。
でも、火がある。
赤がある。
人がいる。
帰る場所がないなら、作る。
その言葉は、さっきより少しだけ重くなっていた。
カナタは手袋を見た。
湿っている。
火のそばなのに。
息を吹きかける。
温かくはならない。
でも、煙の匂いがついた。
新しい場所の匂いだった。
「悪化した」
小さく呟く。
リゼが聞いていた。
「更新されたんだよ」
「手袋が?」
「帰る場所が」
カナタは何も言えなかった。
遠くで、ハウラーの低い音がした。
火が揺れる。
赤布が揺れる。
夜が来る。
知らない空き地は、もう知らない場所ではなかった。
少なくとも、今夜だけは。