帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十二話 火と赤

 ハウンド七を出たあと、夕方が来た。

 当たり前のことだった。

 どこにいても夕方は来る。

 基地にいても、撤退路にいても、泥の上にいても、誰かが置いていった水箱の横にいても、三号車の荷台に揺られていても、太陽は勝手に傾く。世界がどれだけ忙しくても、空だけは自分の時間で色を変える。

 それが少し、腹立たしかった。

 ハウンド七の最後の食堂は、まだ昼の匂いがしていた。

 薄い豆スープ。

 開いた窓。

 煙草。

 油。

 湿った手袋。

 全部を後ろに置いてきたのに、夕方は普通に来る。

 しかも、きれいだった。

 夏の終わりに近い夕方は、やけに青い。

 赤くなる前に、一度だけ空が薄い水色を思い出す。昼の青より弱く、夜の青より頼りない。そこへ雲の影が伸びて、遠くの煙が少し混じる。きれいなのに、どこか汚れている。

 カナタは三号車の荷台から、その空を見ていた。

 手袋は湿っている。

 汗。

 泥。

 金属の匂い。

 それから、ほんの少しだけ煙草の匂い。

 ガレスが最後に火をつけた煙草の匂いが、まだ縫い目の奥に残っている気がした。

 そんなはずはない。

 でも、ある気がした。

 人間の鼻は、たぶん記憶に弱い。

「暑いですね」

 ユウトが言った。

 荷台の端に座り、膝に小銃を置いている。顔は泥で汚れている。額には汗。いつもならすぐ豆の話をするところだが、今日はまだしていない。

「はい」

 カナタは答えた。

「会話、終わりましたね」

「暑いので」

「前にも聞いた気がします」

「暑さは繰り返します」

「嫌な季節感」

 ユウトは少しだけ笑った。

 その笑いは、三号車の振動に混ざってすぐ消えた。

 列は長かった。

 補給車。

 医療車。

 三号車。

 徒歩組。

 前線兵。

 避難民。

 誰かの荷物。

 誰かの怒り。

 誰かの沈黙。

 ハウンド七を出た時より、列は少し重くなっていた。人が増えたからではない。物が増えたからでもない。むしろ、置いてきたものの方が多い。

 重くなったのは、場所を失ったからだと思う。

 帰る場所を背中に載せると、人間は重くなる。

 持っていけない場所ほど、重い。

「次の休止点、まだですか」

 タクトが訊いた。

 腰の缶は鳴らない。だが今日は、それが少し不自然に見えた。静かすぎる。まるで缶の中に、ハウンド七で鳴っていた音を全部閉じ込めたみたいだった。

 ヒナセが通信機を見て答える。

「予定では、旧搬送集積所」

「予定では」

 ユウトが繰り返す。

「その言い方、だいたい嫌なことになりますよね」

「通信が不安定なので」

「さらに嫌」

 ヒナセは困った顔をした。

 でも、否定しなかった。

 夏の撤退では、予定という言葉が少しずつ薄くなる。

 予定の休止点。

 予定の補給。

 予定の経路。

 予定の合流。

 それらは、紙の上ではまだ存在している。でも現場では、泥に沈んだり、レイスに待たれたり、ハウラーに通信を潰されたりする。

 それでも、予定がなければ人は動けない。

 嘘だと分かっていても、地図は必要だった。

 旧搬送集積所に着いた時、そこは休止点ではなかった。

 ただの空き地だった。

 屋根の壊れた倉庫。

 鉄骨だけになった積み込み場。

 草に埋まったレール。

 傾いた給水塔。

 使われなくなったベンチ。

 割れた照明。

 どれも、昔は何かの役に立っていた顔をしていた。今はもう、役に立つかどうかを人間に勝手に判定される側になっている。

 風が吹いた。

 ぬるい。

 湿っている。

 川が近いのかもしれない。

 水の匂いが少しだけした。

 でも、冷たくはなかった。

「ここ?」

 リゼが言った。

 彼女は三号車から降りて、周囲を見回していた。赤布は手首に巻いている。ハウンド七の食堂の柱からほどいた時の赤い跡が、まだ布の端に残っているように見えた。

「予定では」

 カナタが答える。

「予定って、便利な言葉だね」

「はい」

「実物、全然違うけど」

「かなり」

 リゼは少し笑った。

 でも、すぐに黙った。

 空き地には、帰る場所の匂いがなかった。

 ハウンド七にはあった。

 食堂の湯気。

 格納庫の油。

 医療棟の消毒液。

 洗濯物。

 濡れた靴下。

 薄いスープ。

 そういう匂いが重なって、ここに戻ってきた、と体が勝手に思う場所になっていた。

 旧搬送集積所には、そういうものがない。

 草。

 錆。

 湿った鉄。

 ぬるい風。

 遠い砲声。

 知らない匂いばかりだった。

「帰る場所がない」

 カナタは言った。

 言うつもりはなかった。

 口から落ちた。

 リゼがこちらを見る。

 ユウトも。

 タクトも。

 カナタは少しだけ後悔した。

 今言うべき言葉ではない。

 帰還誘導班長代理が、帰る場所がないなんて言ってはいけない。

 でも、言ってしまった。

 事実だったからだ。

 ここには食堂がない。

 窓もない。

 帰ってきたもの置き場もない。

 誰も「豆二粒」と言って椀を覗く場所もない。

 赤布を結ぶ柱も、まだない。

 だから、帰る場所がない。

 リゼはしばらく黙っていた。

 それから、少しだけ肩をすくめた。

「じゃあ、作るんだよ」

 軽かった。

 あまりにも軽かった。

 でも、その軽さは逃げではなかった。

 キャンプの夜、採掘場跡で火を囲んだ時のことを、カナタは思い出した。

 赤布。

 火。

 人。

 そこが帰る場所になった。

 昨日まで何でもなかった草地が、火と赤布で少しだけ戻れる場所になった。

 リゼはそれを覚えている。

 たぶん、カナタより先に。

「火、使える?」

 リゼが訊いた。

 ミナが工具箱を抱えて言う。

「火起こし器ならある」

「普通の火で」

「文明を拒否された」

「今日は雰囲気もいる」

「雰囲気、強い権限だね」

 ミナは文句を言いながら、乾いた木片を探し始めた。

 ハルクが壊れたベンチを持ち上げる。

「使うか」

「ベンチを?」

 ユウトが訊く。

「燃える」

「座るものでは」

「今は燃えるものだ」

「判断が前線」

 結局、ベンチの一部を使った。

 座るためだったものが、火になる。

 少しだけ胸が痛んだ。

 でも、燃やさなければ火は作れない。

 火を作らなければ、人は集まらない。

 人が集まらなければ、ここはただの空き地のままだ。

 セナは医療車の横に小さな救護場所を作った。

 布を敷く。

 水を置く。

 座る場所を決める。

 決めただけで、そこが救護場所になる。

 ヒナセは給水塔の近くに通信機を置いた。

 少しでも高い場所。

 マコトは手順書を開き、でもすぐ閉じた。

「書くより先に動きます」

「成長」

 ユウトが言った。

「記録します」

「結局書くんですね」

「後で」

 タクトは荷物の音を確かめた。

 箱を並べる。

 鳴るものを布で巻く。

 子供が近くに寄ってきて、その手つきを見ていた。

「それ、何してるの」

「音を小さくしています」

「なんで」

「音がすると、見つかることがあるので」

「じゃあ、私の水筒も?」

「できます」

 タクトは布を巻いた。

 子供が水筒を振る。

 鳴らない。

 少しだけ笑った。

 それを見て、周囲の大人の顔が少しゆるむ。

 小さい技術が、小さい安心になる。

 そういうものが必要だった。

 火は、なかなかつかなかった。

 木が湿っていた。

 夏なのに。

 いや、夏だから湿っているのかもしれない。

 汗も乾かない。

 草も湿っている。

 空気そのものが、水を含んでいる。

 ユウトが火打ち具を持って言った。

「これ、文明の敗北では」

「文明に頼りすぎ」

 リゼが言う。

「火、昔の人はどうやってつけてたんですか」

「頑張って」

「雑」

「じゃあ、かなり頑張って」

「増えたの副詞だけ」

 火花が散る。

 つかない。

 もう一度。

 つかない。

 ミナが横でうずうずしている。

「点火器」

「だめ」

「一瞬だけ」

「だめ」

「雰囲気より生存では?」

「今は両方」

 リゼは頑固だった。

 なぜそこまで火起こしにこだわるのか、カナタには少し分かった。

 点火器でつけた火は便利だ。

 でも、便利すぎる。

 便利な火は、ただの道具になる。

 今必要なのは、道具の火だけではない。

 人が集まり、誰かが息を吹きかけ、誰かが文句を言い、誰かが少し笑い、やっとつく火。

 そういう手間が、場所を作る。

 やがて、火がついた。

 小さかった。

 本当に小さい。

 火と呼ぶには頼りない。

 赤い点。

 湿った木片の端に、少しだけ光が生まれる。

 ユウトが息を止める。

 リゼがそっと手をかざす。

 ミナが「今なら点火器で」と言いかけて、タクトに止められる。

 火は消えなかった。

 少しずつ大きくなる。

 煙が上がる。

 湿った木の匂い。

 草の匂い。

 少しだけ焦げた夏の匂い。

 人が集まる。

 自然に。

 誰かが座る。

 誰かが水を飲む。

 誰かが荷物を下ろす。

 誰かが泣きそうな顔で火を見る。

 火は、命令しない。

 でも、人を呼ぶ。

 リゼは赤布をほどいた。

 そして、火の近くの鉄骨に結んだ。

 高くない。

 低すぎもしない。

 火の光を受けて、赤布が少しだけ揺れる。

 夕方の風。

 湿った夜風の前触れ。

「ここ」

 リゼが言った。

「戻る場所」

 誰に向けたわけでもない。

 でも、近くの人たちがその赤を見た。

 子供も。

 前線兵も。

 医療車の中の負傷者も。

 カナタも。

 火。

 赤布。

 人。

 旧搬送集積所は、ただの空き地ではなくなった。

 名前のない休止点でもない。

 そこに戻れば、火がある。

 赤がある。

 誰かがいる。

 それだけで、場所は変わる。

「作れましたね」

 カナタは言った。

「まだ仮設」

 リゼが答える。

「厳しい」

「補習あり」

「言いますね」

「文化だから」

 カナタは少し笑った。

 笑ってから、火を見た。

 ハウンド七ではない。

 食堂でもない。

 薄い豆スープもない。

 窓もない。

 でも、ここには火がある。

 赤布がある。

 人がいる。

 なら、少しの間だけ帰る場所になる。

 そのことが、嬉しいのか悲しいのか、分からなかった。

 たぶん両方だった。

 夜が近づいた。

 空の青が深くなる。

 遠い砲声が、昼より近く聞こえる。

 虫の声が変わる。

 蝉ではない。

 もっと細い声。

 火の周りに、小さな虫が飛び始める。

 麦茶の入った容器が回ってきた。

 冷えていない。

 ぬるい。

 完全にぬるい。

 ユウトが一口飲んで言った。

「冷えない麦茶、夏って感じですね」

「褒めてます?」

 タクトが訊く。

「半分」

「もう半分は」

「絶望」

 リゼが笑った。

「でも飲む」

「飲みます」

 ユウトはまた飲んだ。

 カナタにも容器が回ってくる。

 ぬるい麦茶。

 少し金属の味がする。

 でも、喉を通る。

 生きている味だった。

 その時、ヒナセの通信機が鳴った。

 全員が顔を上げる。

 火の周りの空気が、一瞬で変わる。

 作ったばかりの帰る場所が、戦場の入口になる。

 ヒナセは耳を押さえた。

「後続列、遅延。第三後退群の一部、進路逸脱」

 ノイズ。

「ハウラー反応あり。小型群、接近中」

 火がぱち、と鳴った。

 赤布が揺れた。

 リゼが立つ。

 カナタも立つ。

 疲れはある。

 喉も痛い。

 足も重い。

 でも、もうここには戻る場所がある。

 それだけで、動き出す時の足元が少し違った。

「リゼさん」

「うん」

「ここ、お願いします」

「任された」

「ユウトさん、十人じゃなくて三人ずつ」

「今日の正解ですね」

「今のところ」

「すぐ変わりそう」

「変えます」

 タクトが布を持つ。

 ヒナセが通信を短くまとめる。

 マコトが走る準備をする。

 セナが救護場所を整える。

 ハルクが暗い方へ立つ。

 ミナが三号車に戻る。

 火の周りの人々が、赤布を見る。

 さっきまで座っていた前線兵が立ち上がる。

 避難民の青年が水筒を置き、荷物を寄せる。

 子供が鳴らない水筒を胸に抱える。

 帰る場所は、作った瞬間から使われる。

 休ませてはくれない。

 でも、使えるから場所になる。

 カナタは火を見た。

 小さい。

 頼りない。

 風が強くなれば消えそうだ。

 それでも、赤く燃えている。

 ハウンド七ではない。

 でも、火がある。

 赤がある。

 人がいる。

 帰る場所がないなら、作る。

 その言葉は、さっきより少しだけ重くなっていた。

 カナタは手袋を見た。

 湿っている。

 火のそばなのに。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 でも、煙の匂いがついた。

 新しい場所の匂いだった。

「悪化した」

 小さく呟く。

 リゼが聞いていた。

「更新されたんだよ」

「手袋が?」

「帰る場所が」

 カナタは何も言えなかった。

 遠くで、ハウラーの低い音がした。

 火が揺れる。

 赤布が揺れる。

 夜が来る。

 知らない空き地は、もう知らない場所ではなかった。

 少なくとも、今夜だけは。

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