帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
白線は、夜になると見えにくい。
当たり前だった。
白は、明るい場所で白い。
昼の泥の上ならまだ見える。夏の強い光が布の端を照らし、泥で汚れていても、そこに線があることくらいは分かる。雪の上では、逆に白すぎて見失うこともあった。それでも、足元にあると思って見れば、見えた。
夜は違う。
白い布は、暗がりの中で灰色になる。
泥と同じ色になり、草の影と同じ色になり、濡れた靴の先と同じ色になる。灯火を当てれば見えるが、灯火はレイスにも見える。見えれば使える。見えれば狙われる。
それが、今の帰還誘導兵の問題だった。
旧搬送集積所の火は、まだ燃えていた。
小さい。
頼りない。
でも、消えてはいなかった。
火の周りには人がいる。座っている人。立っている人。水を飲む人。靴の泥を落とす人。赤布を見る人。火を見る人。何も見ないで、ただ膝に手を置いている人。
ここは、もうただの空き地ではない。
火と赤で作った、仮の帰る場所だった。
仮。
その言葉は、少し寂しい。
でも、今は仮で十分だった。
仮設の火。
仮設の救護所。
仮設の通信点。
仮設の帰る場所。
夏の夜は、何もかもを少しだけ仮にする。
夜風は湿っている。
虫は火に近づきすぎて、時々ぱち、と小さく鳴る。
遠くでは砲声が続いている。
昼より少し遠く聞こえる。
夜だからだろうか。
それとも、前線が少し下がったからだろうか。
どちらにしても、音は消えていない。
消えない音があると、人は安心できない。
でも、完全に無音でも安心できない。
だから、虫と砲声と火の音が混ざったこの夜は、かなり中途半端で、かなり夏だった。
「白線、使えませんね」
ヒナセが言った。
通信機の横に座り、白布の切れ端を膝に乗せている。夜目に慣れた目でも、その布はほとんど灰色だった。
「使えないわけではありません」
カナタは答えた。
「使うと見える。見えると狙われる」
「ほぼ使えないです」
「はい」
認めるしかなかった。
ヒナセは少しだけ困った顔をした。
「通信も長くは使えません」
「はい」
「拡声器も、長く使うと寄ります」
「はい」
「赤布も、高く出すと待たれます」
「はい」
「全部だめですね」
「全部、少しずつ使います」
カナタが言うと、ヒナセは顔を上げた。
「少しずつ」
「はい」
白線だけではだめだ。
赤布だけでもだめだ。
通信だけでも、声だけでも、手信号だけでもだめだ。
だが、全部が完全に死んだわけではない。
少しなら使える。
一瞬なら通信できる。
近くなら声が届く。
低くなら赤布を見せられる。
足元だけなら白線を使える。
手信号は見える範囲だけ。
静音は常に役に立つ。
火は、戻る場所を示す。
全部、少しずつ。
帰還誘導は、一本の線ではなくなる。
小さな合図の束になる。
タクトはその話を聞いて、腰の缶に触れた。
「音も、少しですか」
「はい」
「全部消す必要は」
「ないです。必要な音もあります」
タクトは少し考えた。
「合図の音」
「はい」
「鳴らないことと、鳴らすこと」
「両方です」
タクトは缶を見た。
布で巻かれたオレンジソーダの空き缶。
彼の缶は鳴らない。
ずっと鳴らないことが正解だった。
でも、今は違う。
鳴らすべき音もある。
ただし、鳴らす場所と回数を決める。
タクトは缶を少し持ち上げた。
「一回だけ鳴らすなら、できます」
「できますか」
「布を半分だけ外せば」
ユウトが近くで反応した。
「ついにオレンジソーダ缶が正式信号に」
「正式ではありません」
マコトが即答した。
「まだ言ってませんよ」
「言いそうだったので」
「顔で判断される側になった」
リゼが笑った。
彼女は火の近くで赤布を乾かしている。直接火に当てるのではなく、少し離して、湿気だけを抜く。赤布は泥と汗で暗い色になっていたが、火の光を受けるとまた赤く見えた。
「缶の音、いいかも」
リゼが言った。
「どう使いますか」
カナタが訊く。
「見えない時。一回鳴ったら止まるんじゃなくて、こっち見る」
「止まらない」
「うん。見るだけ」
それは大事だった。
今、止まる音は危険だ。
笛。
警報。
銃声。
それらは人を止める。
止まると列が折れる。
必要なのは、止める音ではない。
見る音。
確認する音。
缶が一回だけ鳴る。
人はそちらを見る。
そこに低い赤布がある。
足元に短い白線がある。
手信号がある。
それで進む。
カナタは頭の中で、線ではなく点を置いていった。
火。
赤。
缶の音。
手。
短い白布。
三号車のライト。
ハルクの盾。
セナの救護布。
ヒナセの三秒通信。
マコトの伝令。
点。
点。
点。
それが、人の動きで線になる。
「白線の先ですね」
マコトが言った。
手順書を開いている。
「白線の先?」
ユウトが訊く。
「白線が使えない後の誘導です」
「かっこいい」
「仮称です」
「正式名称にしましょう」
「正式にするには」
「やめましょう」
マコトは少しだけ口元を緩めた。
そして手順書に書いた。
《白線の先》
字はまだ硬い。
でも、前より少しだけ速い。
ヒナセが通信機に耳を当てた。
「後続列、近づいてます。三つに割れてる。ひとつはかなり遅いです」
「敵は」
「小型群。ハウラー一。白線誘導点に反応あり」
「白線誘導点は使いません」
「伝えます」
ヒナセは通信機を握った。
三秒。
それ以上は潰される。
彼女は息を吸い、短く言った。
「白線使うな。火を見ろ。赤は低い。三人ずつ」
ノイズ。
切れる。
それだけ。
説明はない。
でも、届けば十分だった。
届かなければ、こちらから迎える。
リゼが立ち上がった。
「戻る場所、増やす?」
「はい」
カナタは頷く。
「火を中心に、三方向。赤布は低く。白布は足元だけ。缶音は一回。声は近くへ。手信号は止まらない合図だけ」
「注文、多い」
「多いですね」
「でも、分ければいい」
「はい」
リゼは赤布を三つに分けた。
正確には、長い布を切った。
少し躊躇した。
赤布は彼女のものだった。
旧学校区からずっと持ってきたものではない。
だが、帰還誘導兵の中で、赤布はリゼの身体の一部みたいになっていた。
それを切る。
ちき、と布が裂ける音。
小さかった。
でも、火のそばではよく聞こえた。
ユウトが少しだけ顔を引きつらせた。
「切るんですか」
「増やすの」
リゼは言った。
「一本だと足りない」
「でも」
「切っても赤いよ」
リゼは切った布を二人の前線兵へ渡した。
一人はさっき帰ってきたばかりの若い兵士。
もう一人は避難民の青年。
「高く上げない」
リゼが言う。
「腰の高さ」
「三人ずつ」
「止めない」
「迷ったら火を見る」
二人は復唱した。
赤布が三つになった。
火の光の中で、三つとも少し違う赤に見えた。
それでいい。
同じでなくていい。
同じものを増やすのではなく、役割を増やす。
タクトは缶の布を半分だけ外した。
試しに一回鳴らす。
かん。
思ったより小さい。
でも、火の周りにいた人が数人、そちらを見た。
「ちょうどいい」
セナが言った。
「止まらない程度」
「医療評価出ました」
ユウトが言う。
「ありがたいですね」
タクトは真面目に頷いた。
「鳴らすの、少し緊張します」
「鳴らさない職人でしたからね」
「職人ではないです」
「オレンジ流、第二段階」
「やめてください」
少しだけ笑いが起きた。
火が揺れる。
赤布が揺れる。
ぬるい夜風が、汗の匂いと煙の匂いを運んでいく。
その時、遠くから人の声が聞こえた。
後続列だ。
まだ見えない。
でも、ざわめきがある。
泥を踏む音。
誰かが誰かを呼ぶ声。
ハウラーの低い音。
それらが、夜の向こうから重なってくる。
カナタは手を上げた。
「配置」
短く言う。
全員が動いた。
ユウトは右の導線へ。
タクトは中央へ。
リゼは火のそば。
セナは救護布の前。
ヒナセは通信機と手信号。
マコトは伝令。
ハルクは暗い草の方へ。
ミナは三号車を少し動かし、ライトを地面へ落とした。
直接照らさない。
反射だけ。
泥の表面に、薄い光ができる。
白布を短く置く。
点。
点。
点。
線ではない。
でも、人が歩けば線になる。
後続列の先頭が見えた。
疲れた前線兵。
泥だらけの避難民。
子供。
担架。
荷物を抱えた老人。
顔が全員、夜に沈んでいる。
彼らは白線を探していた。
足元を見る。
見つからずに止まりかける。
そこで、タクトの缶が鳴った。
かん。
一回。
人々の顔が上がる。
そこに低い赤布がある。
ユウトが近くで言う。
「三人ずつ!火を見る!白い線じゃなくて、足元の短い布!」
「白線は?」
誰かが訊く。
「今日はお休み!」
「何だそれ」
「働きすぎたので!」
小さく笑いが起きた。
笑いながら、三人が進む。
次の三人。
また次。
赤布は低い。
レイスに見せるためではなく、人に渡すための高さ。
缶の音が一回。
手信号。
火。
足元の短い白布。
それだけで、人は止まらずに進んだ。
スリップが泥の中を走った。
だが、列が小さく分かれているため、狙う塊がない。
ハルクが一体を盾で止める。
がん。
夜の鉄音。
ユウトが撃つ。
リゼは声を出しすぎない。
近くの人にだけ言う。
「火まで」
「火を見て」
「三人」
「帰ろう」
言葉が短い。
でも、短い言葉の方が夜には残る。
長い説明は湿気に吸われる。
短い言葉は、虫の声の間を抜ける。
ハウラーの音が強くなる。
通信が潰れる。
ヒナセは通信機を置き、手信号へ切り替える。
右。
止まらない。
低く。
三人。
マコトがそれを見て、走って伝える。
複合誘導は、きれいではなかった。
白線一本のように分かりやすくない。
赤布一本のように目立たない。
通信のように遠くへ届かない。
でも、壊されにくかった。
一つが切れても、別の合図がある。
声が消えれば手がある。
手が見えなければ缶が鳴る。
缶が鳴れば赤を見る。
赤の先に火がある。
火のそばに人がいる。
そこが戻る場所だ。
後続列の半分が通った時、小型レイスが火を狙って走った。
学習している。
当然だった。
白線を狙い、赤布を狙い、今度は火を狙う。
火が消えれば戻る場所が消える。
カナタは息を呑んだ。
ハルクは遠い。
ユウトは右。
タクトは中央。
セナは担架。
リゼが火の前に立った。
赤布を低く構える。
武器ではない。
盾でもない。
ただの布。
でも、彼女は退かなかった。
「火はだめ」
小さく言った。
レイスが跳ぶ。
銃声。
撃ったのは若い前線兵だった。
さっき赤布を受け取った兵士。
レイスが火の手前で泥に落ちる。
火が揺れる。
消えない。
若い兵士は息を吐いた。
「火、守った」
リゼは頷いた。
「合格」
「何の」
「仮免」
彼は少し笑った。
火の光で、その笑いはひどく若く見えた。
後続列が通りきった。
最後の担架が火の横を通る。
セナが確認する。
タクトが荷物をまとめる。
ヒナセが熱源を照合する。
マコトが人数を数える。
ユウトが戻ってくる。
「通りました」
カナタは頷いた。
胸の中で、何かが少しだけほどけた。
白線は使わなかった。
いや、少しだけ使った。
短く。
足元だけ。
線ではなく、点として。
白線の先。
マコトの仮称は、悪くなかった。
リゼが火のそばに戻ってきた。
赤布は三つに切られたまま、それぞれ別の人の手にある。
「返してもらいますか」
カナタが訊く。
リゼは首を振った。
「持っててもらう」
「いいんですか」
「増やしたんだから」
リゼは火を見た。
「一本に戻したら、また足りなくなる」
確かにそうだった。
帰る場所は、一本の布が作るものではない。
布を持つ人が増えることで、広がる。
カナタは手袋を見た。
火の近くにいたのに、湿っている。
汗と、泥と、煙。
息を吹きかける。
温かくはならない。
でも、火の匂いがする。
「悪化した」
小さく言う。
ユウトが聞いていた。
「白線の先でも、手袋は通常営業ですね」
「やめてください」
リゼが笑う。
「文化だから」
「責任を文化にしないでください」
火がぱち、と鳴った。
遠くで砲声。
近くで虫の声。
空はもう完全に夜だった。
でも、火の周りだけは少し赤い。
白線は見えない。
それでも、人は帰ってきた。
線は布の上ではなく、人の間に残っていた。