帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十三話 白線の先

 白線は、夜になると見えにくい。

 当たり前だった。

 白は、明るい場所で白い。

 昼の泥の上ならまだ見える。夏の強い光が布の端を照らし、泥で汚れていても、そこに線があることくらいは分かる。雪の上では、逆に白すぎて見失うこともあった。それでも、足元にあると思って見れば、見えた。

 夜は違う。

 白い布は、暗がりの中で灰色になる。

 泥と同じ色になり、草の影と同じ色になり、濡れた靴の先と同じ色になる。灯火を当てれば見えるが、灯火はレイスにも見える。見えれば使える。見えれば狙われる。

 それが、今の帰還誘導兵の問題だった。

 旧搬送集積所の火は、まだ燃えていた。

 小さい。

 頼りない。

 でも、消えてはいなかった。

 火の周りには人がいる。座っている人。立っている人。水を飲む人。靴の泥を落とす人。赤布を見る人。火を見る人。何も見ないで、ただ膝に手を置いている人。

 ここは、もうただの空き地ではない。

 火と赤で作った、仮の帰る場所だった。

 仮。

 その言葉は、少し寂しい。

 でも、今は仮で十分だった。

 仮設の火。

 仮設の救護所。

 仮設の通信点。

 仮設の帰る場所。

 夏の夜は、何もかもを少しだけ仮にする。

 夜風は湿っている。

 虫は火に近づきすぎて、時々ぱち、と小さく鳴る。

 遠くでは砲声が続いている。

 昼より少し遠く聞こえる。

 夜だからだろうか。

 それとも、前線が少し下がったからだろうか。

 どちらにしても、音は消えていない。

 消えない音があると、人は安心できない。

 でも、完全に無音でも安心できない。

 だから、虫と砲声と火の音が混ざったこの夜は、かなり中途半端で、かなり夏だった。

「白線、使えませんね」

 ヒナセが言った。

 通信機の横に座り、白布の切れ端を膝に乗せている。夜目に慣れた目でも、その布はほとんど灰色だった。

「使えないわけではありません」

 カナタは答えた。

「使うと見える。見えると狙われる」

「ほぼ使えないです」

「はい」

 認めるしかなかった。

 ヒナセは少しだけ困った顔をした。

「通信も長くは使えません」

「はい」

「拡声器も、長く使うと寄ります」

「はい」

「赤布も、高く出すと待たれます」

「はい」

「全部だめですね」

「全部、少しずつ使います」

 カナタが言うと、ヒナセは顔を上げた。

「少しずつ」

「はい」

 白線だけではだめだ。

 赤布だけでもだめだ。

 通信だけでも、声だけでも、手信号だけでもだめだ。

 だが、全部が完全に死んだわけではない。

 少しなら使える。

 一瞬なら通信できる。

 近くなら声が届く。

 低くなら赤布を見せられる。

 足元だけなら白線を使える。

 手信号は見える範囲だけ。

 静音は常に役に立つ。

 火は、戻る場所を示す。

 全部、少しずつ。

 帰還誘導は、一本の線ではなくなる。

 小さな合図の束になる。

 タクトはその話を聞いて、腰の缶に触れた。

「音も、少しですか」

「はい」

「全部消す必要は」

「ないです。必要な音もあります」

 タクトは少し考えた。

「合図の音」

「はい」

「鳴らないことと、鳴らすこと」

「両方です」

 タクトは缶を見た。

 布で巻かれたオレンジソーダの空き缶。

 彼の缶は鳴らない。

 ずっと鳴らないことが正解だった。

 でも、今は違う。

 鳴らすべき音もある。

 ただし、鳴らす場所と回数を決める。

 タクトは缶を少し持ち上げた。

「一回だけ鳴らすなら、できます」

「できますか」

「布を半分だけ外せば」

 ユウトが近くで反応した。

「ついにオレンジソーダ缶が正式信号に」

「正式ではありません」

 マコトが即答した。

「まだ言ってませんよ」

「言いそうだったので」

「顔で判断される側になった」

 リゼが笑った。

 彼女は火の近くで赤布を乾かしている。直接火に当てるのではなく、少し離して、湿気だけを抜く。赤布は泥と汗で暗い色になっていたが、火の光を受けるとまた赤く見えた。

「缶の音、いいかも」

 リゼが言った。

「どう使いますか」

 カナタが訊く。

「見えない時。一回鳴ったら止まるんじゃなくて、こっち見る」

「止まらない」

「うん。見るだけ」

 それは大事だった。

 今、止まる音は危険だ。

 笛。

 警報。

 銃声。

 それらは人を止める。

 止まると列が折れる。

 必要なのは、止める音ではない。

 見る音。

 確認する音。

 缶が一回だけ鳴る。

 人はそちらを見る。

 そこに低い赤布がある。

 足元に短い白線がある。

 手信号がある。

 それで進む。

 カナタは頭の中で、線ではなく点を置いていった。

 火。

 赤。

 缶の音。

 手。

 短い白布。

 三号車のライト。

 ハルクの盾。

 セナの救護布。

 ヒナセの三秒通信。

 マコトの伝令。

 点。

 点。

 点。

 それが、人の動きで線になる。

「白線の先ですね」

 マコトが言った。

 手順書を開いている。

「白線の先?」

 ユウトが訊く。

「白線が使えない後の誘導です」

「かっこいい」

「仮称です」

「正式名称にしましょう」

「正式にするには」

「やめましょう」

 マコトは少しだけ口元を緩めた。

 そして手順書に書いた。

 《白線の先》

 字はまだ硬い。

 でも、前より少しだけ速い。

 ヒナセが通信機に耳を当てた。

「後続列、近づいてます。三つに割れてる。ひとつはかなり遅いです」

「敵は」

「小型群。ハウラー一。白線誘導点に反応あり」

「白線誘導点は使いません」

「伝えます」

 ヒナセは通信機を握った。

 三秒。

 それ以上は潰される。

 彼女は息を吸い、短く言った。

「白線使うな。火を見ろ。赤は低い。三人ずつ」

 ノイズ。

 切れる。

 それだけ。

 説明はない。

 でも、届けば十分だった。

 届かなければ、こちらから迎える。

 リゼが立ち上がった。

「戻る場所、増やす?」

「はい」

 カナタは頷く。

「火を中心に、三方向。赤布は低く。白布は足元だけ。缶音は一回。声は近くへ。手信号は止まらない合図だけ」

「注文、多い」

「多いですね」

「でも、分ければいい」

「はい」

 リゼは赤布を三つに分けた。

 正確には、長い布を切った。

 少し躊躇した。

 赤布は彼女のものだった。

 旧学校区からずっと持ってきたものではない。

 だが、帰還誘導兵の中で、赤布はリゼの身体の一部みたいになっていた。

 それを切る。

 ちき、と布が裂ける音。

 小さかった。

 でも、火のそばではよく聞こえた。

 ユウトが少しだけ顔を引きつらせた。

「切るんですか」

「増やすの」

 リゼは言った。

「一本だと足りない」

「でも」

「切っても赤いよ」

 リゼは切った布を二人の前線兵へ渡した。

 一人はさっき帰ってきたばかりの若い兵士。

 もう一人は避難民の青年。

「高く上げない」

 リゼが言う。

「腰の高さ」

「三人ずつ」

「止めない」

「迷ったら火を見る」

 二人は復唱した。

 赤布が三つになった。

 火の光の中で、三つとも少し違う赤に見えた。

 それでいい。

 同じでなくていい。

 同じものを増やすのではなく、役割を増やす。

 タクトは缶の布を半分だけ外した。

 試しに一回鳴らす。

 かん。

 思ったより小さい。

 でも、火の周りにいた人が数人、そちらを見た。

「ちょうどいい」

 セナが言った。

「止まらない程度」

「医療評価出ました」

 ユウトが言う。

「ありがたいですね」

 タクトは真面目に頷いた。

「鳴らすの、少し緊張します」

「鳴らさない職人でしたからね」

「職人ではないです」

「オレンジ流、第二段階」

「やめてください」

 少しだけ笑いが起きた。

 火が揺れる。

 赤布が揺れる。

 ぬるい夜風が、汗の匂いと煙の匂いを運んでいく。

 その時、遠くから人の声が聞こえた。

 後続列だ。

 まだ見えない。

 でも、ざわめきがある。

 泥を踏む音。

 誰かが誰かを呼ぶ声。

 ハウラーの低い音。

 それらが、夜の向こうから重なってくる。

 カナタは手を上げた。

「配置」

 短く言う。

 全員が動いた。

 ユウトは右の導線へ。

 タクトは中央へ。

 リゼは火のそば。

 セナは救護布の前。

 ヒナセは通信機と手信号。

 マコトは伝令。

 ハルクは暗い草の方へ。

 ミナは三号車を少し動かし、ライトを地面へ落とした。

 直接照らさない。

 反射だけ。

 泥の表面に、薄い光ができる。

 白布を短く置く。

 点。

 点。

 点。

 線ではない。

 でも、人が歩けば線になる。

 後続列の先頭が見えた。

 疲れた前線兵。

 泥だらけの避難民。

 子供。

 担架。

 荷物を抱えた老人。

 顔が全員、夜に沈んでいる。

 彼らは白線を探していた。

 足元を見る。

 見つからずに止まりかける。

 そこで、タクトの缶が鳴った。

 かん。

 一回。

 人々の顔が上がる。

 そこに低い赤布がある。

 ユウトが近くで言う。

「三人ずつ!火を見る!白い線じゃなくて、足元の短い布!」

「白線は?」

 誰かが訊く。

「今日はお休み!」

「何だそれ」

「働きすぎたので!」

 小さく笑いが起きた。

 笑いながら、三人が進む。

 次の三人。

 また次。

 赤布は低い。

 レイスに見せるためではなく、人に渡すための高さ。

 缶の音が一回。

 手信号。

 火。

 足元の短い白布。

 それだけで、人は止まらずに進んだ。

 スリップが泥の中を走った。

 だが、列が小さく分かれているため、狙う塊がない。

 ハルクが一体を盾で止める。

 がん。

 夜の鉄音。

 ユウトが撃つ。

 リゼは声を出しすぎない。

 近くの人にだけ言う。

「火まで」

「火を見て」

「三人」

「帰ろう」

 言葉が短い。

 でも、短い言葉の方が夜には残る。

 長い説明は湿気に吸われる。

 短い言葉は、虫の声の間を抜ける。

 ハウラーの音が強くなる。

 通信が潰れる。

 ヒナセは通信機を置き、手信号へ切り替える。

 右。

 止まらない。

 低く。

 三人。

 マコトがそれを見て、走って伝える。

 複合誘導は、きれいではなかった。

 白線一本のように分かりやすくない。

 赤布一本のように目立たない。

 通信のように遠くへ届かない。

 でも、壊されにくかった。

 一つが切れても、別の合図がある。

 声が消えれば手がある。

 手が見えなければ缶が鳴る。

 缶が鳴れば赤を見る。

 赤の先に火がある。

 火のそばに人がいる。

 そこが戻る場所だ。

 後続列の半分が通った時、小型レイスが火を狙って走った。

 学習している。

 当然だった。

 白線を狙い、赤布を狙い、今度は火を狙う。

 火が消えれば戻る場所が消える。

 カナタは息を呑んだ。

 ハルクは遠い。

 ユウトは右。

 タクトは中央。

 セナは担架。

 リゼが火の前に立った。

 赤布を低く構える。

 武器ではない。

 盾でもない。

 ただの布。

 でも、彼女は退かなかった。

「火はだめ」

 小さく言った。

 レイスが跳ぶ。

 銃声。

 撃ったのは若い前線兵だった。

 さっき赤布を受け取った兵士。

 レイスが火の手前で泥に落ちる。

 火が揺れる。

 消えない。

 若い兵士は息を吐いた。

「火、守った」

 リゼは頷いた。

「合格」

「何の」

「仮免」

 彼は少し笑った。

 火の光で、その笑いはひどく若く見えた。

 後続列が通りきった。

 最後の担架が火の横を通る。

 セナが確認する。

 タクトが荷物をまとめる。

 ヒナセが熱源を照合する。

 マコトが人数を数える。

 ユウトが戻ってくる。

「通りました」

 カナタは頷いた。

 胸の中で、何かが少しだけほどけた。

 白線は使わなかった。

 いや、少しだけ使った。

 短く。

 足元だけ。

 線ではなく、点として。

 白線の先。

 マコトの仮称は、悪くなかった。

 リゼが火のそばに戻ってきた。

 赤布は三つに切られたまま、それぞれ別の人の手にある。

「返してもらいますか」

 カナタが訊く。

 リゼは首を振った。

「持っててもらう」

「いいんですか」

「増やしたんだから」

 リゼは火を見た。

「一本に戻したら、また足りなくなる」

 確かにそうだった。

 帰る場所は、一本の布が作るものではない。

 布を持つ人が増えることで、広がる。

 カナタは手袋を見た。

 火の近くにいたのに、湿っている。

 汗と、泥と、煙。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 でも、火の匂いがする。

「悪化した」

 小さく言う。

 ユウトが聞いていた。

「白線の先でも、手袋は通常営業ですね」

「やめてください」

 リゼが笑う。

「文化だから」

「責任を文化にしないでください」

 火がぱち、と鳴った。

 遠くで砲声。

 近くで虫の声。

 空はもう完全に夜だった。

 でも、火の周りだけは少し赤い。

 白線は見えない。

 それでも、人は帰ってきた。

 線は布の上ではなく、人の間に残っていた。

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