帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
夏は、遠くなる時も暑い。
それが不思議だった。
終わるなら、少しは涼しくなればいい。
空が高くなるとか、風が乾くとか、夜に虫の声が変わるとか、そういう分かりやすい合図を出してくれればいい。そうすれば、人間は「ああ、終わるんだ」と思える。
けれど、撤退路の夏はなかなか終わらなかった。
夜になっても、空気はぬるい。
火の近くにいなくても、服が肌に張りつく。
水筒の水は冷えず、麦茶は最初から負けた顔をしている。鉄骨は夕方の熱をまだ残していて、うっかり手を置くと、昼間の続きみたいな熱が返ってくる。
夏は遠くなるのではなく、薄くなるのだと思った。
少しずつ。
気づかれないように。
旧搬送集積所の火は、夜半を過ぎても消えなかった。
火そのものは小さい。
頼りない。
でも、誰かが見ている限り、誰かが木片を足す限り、火は火でいられる。
カナタはその火のそばに座っていた。
座っている、というより、膝を曲げた姿勢のまま止まっていた。
体が休む形を忘れたみたいだった。
背中を丸めても落ち着かない。
横になればすぐ起き上がりたくなる。
目を閉じると、泥の上に置いてきた水箱が見える。
目を開けると、火がある。
だから、目を開けている方がまだましだった。
「寝ないんですか」
ユウトが言った。
火の反対側に座っている。
彼の声は小さかった。
珍しく。
「寝ます」
カナタは答えた。
「今?」
「そのうち」
「便利な未来形ですね」
「はい」
ユウトは少しだけ笑った。
いつもなら、もう一言何か続けるところだった。
豆の話。
市民制度。
乾パン階級。
何かを大げさにして、少しだけ空気を軽くする。
でも今日は、笑っただけだった。
それが少し怖かった。
ユウトが静かだと、戦場の音が増える。
虫の声。
火の音。
遠い砲声。
誰かの寝息。
負傷者のうめき声。
三号車の金属が冷えて、時々小さく鳴る音。
世界は、誰かが喋らなくなった分だけ、別の音を前に出してくる。
「豆、今日はないですね」
カナタは言った。
自分でも少し驚いた。
ユウトが顔を上げる。
「カナタさんから豆の話を」
「はい」
「成長ですか」
「疲労です」
「そっちか」
ユウトは乾パンのかけらが浮いた薄いスープを見た。
携行食を煮たもの。
豆はない。
乾パンは、柔らかくなるのではなく、諦めたように崩れていた。
「乾パンって、煮ても乾パンの魂が残ってますよね」
「魂」
「ふやけたふりをして、奥の方がまだ固い」
「頑固ですね」
「誰かに似てる」
「誰ですか」
「言うと怒られるので」
ユウトはセナの方を見た。
セナは少し離れた救護布の前で、包帯を巻いていた。
夜でも袖をまくっている。
声はあまり出していない。
怒鳴っていないセナは、少し怖い。
怒鳴ることで立っている人が黙ると、立っている理由が見えなくなる。
彼女は最後の包帯を留めると、負傷者の顔を見て言った。
「寝ていい」
短い。
でも、その負傷者は泣きそうな顔になった。
寝ていい。
たったそれだけの許可が、ここではかなり大きい。
寝るのにも許可がいる。
寝ていいと言われないと、体が眠り方を思い出せない。
セナは立ち上がり、水を飲んだ。
ぬるい水。
顔をしかめる。
それでも飲む。
そして、また誰かの方へ歩いていく。
リゼは赤布を畳んでいた。
三つに切った赤布。
それぞれが別の人の手から戻ってきている。
泥で暗くなっているもの。
汗で白い跡がついているもの。
火の煙の匂いがついているもの。
同じ布だったはずなのに、もう違う布になっている。
リゼはそれを一枚ずつ広げ、指で泥を落とし、端を確かめる。
切った時は少し痛そうだった。
今は、痛いというより、不思議そうに見ていた。
「戻すんですか」
カナタが訊く。
「何を?」
「一本に」
「戻らないよ」
リゼは即答した。
「切ったから」
「縫えば」
「縫っても跡が残る」
「はい」
「なら、別々でいい」
リゼは一枚をタクトへ渡した。
「これ、預かって」
「自分がですか」
「うん。中央用」
タクトは少し驚いた顔をした。
それから、両手で受け取った。
缶を受け取る時より、慎重だった。
「鳴らないようにします」
「赤布は鳴らないよ」
「でも、揺れるので」
「確かに」
リゼは笑った。
タクトは真面目に赤布を畳む。
腰の缶の横に入れる。
オレンジソーダの空き缶と、赤布。
少し変な組み合わせだった。
でも、今の帰還誘導兵には似合っている。
役に立つものと、役に立たないように見えるもの。
音を消すものと、人に見せるもの。
過去と、次の仕事。
そういうものが、ひとつの腰にぶら下がる。
ヒナセは通信機の前で眠っていた。
いや、眠っているように見えた。
目は閉じている。
でも、通信機のノイズが少し変わるたびに、指が動く。
寝ているのか、聞いているのか分からない。
たぶん、どちらでもある。
人間は本当に疲れると、起きていることと眠っていることの境目が薄くなる。
ヒナセの髪に、小さな虫がとまっていた。
マコトがそれを見て、そっと払った。
ヒナセは目を開けないまま言う。
「通信、来ました?」
「虫です」
「虫」
「はい」
「ならいいです」
いいのか。
カナタは少しだけ笑いそうになった。
マコトは記録帳を開いていた。
書く字が、昼より少し崩れている。
疲れているからだ。
でも書いている。
彼の横には、帰ってきたものの小箱が置いてある。
ハウンド七から持ってきたもの。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
チョーク。
肉缶の蓋。
射的の木片。
焦げた端子。
祭り入口の札の切れ端。
小箱は、思ったより小さい。
火のそばに置くと、さらに小さく見える。
でも、その小ささがいいのかもしれない。
大きすぎるものは持てない。
小さいから、次へ連れていける。
マコトは箱を見て言った。
「この箱、名前が必要ですか」
「帰ってきたもの置き場、移動版」
ユウトが答える。
「長いですね」
「略して帰り箱」
「急に雑」
リゼが笑う。
「でも、悪くない」
「採用?」
「仮採用」
「また仮」
「今は全部仮だから」
リゼの言葉に、誰もすぐ返さなかった。
仮の火。
仮の救護所。
仮の通信点。
仮の帰る場所。
仮の名前。
仮の食堂もどき。
それでも、人はそこで水を飲み、怪我を見てもらい、荷物を置き、少し眠る。
仮でも、使えば場所になる。
ハルクは少し離れた暗がりに立っていた。
盾を地面に下ろしている。
座ってはいない。
立ったまま、目を閉じている。
寝ているのかもしれない。
立ったまま。
ユウトがそれを見て小声で言った。
「壁って、寝るんですか」
「人です」
カナタは答えた。
「でも立ってます」
「人です」
「強い人ですね」
ハルクが目を開けずに言った。
「聞こえてる」
「すみません」
「寝てない」
「ですよね」
「少しだけ休んでいる」
「立ったまま?」
「場所を決めている」
短い。
でも、少し分かる気がした。
ハルクは、立つ場所を決めることで休んでいる。
誰かにとっては座ることが休みで、誰かにとっては水を飲むことが休みで、誰かにとっては話すことが休みで、誰かにとっては黙ることが休みになる。
休み方も、帰り方と同じで、人によって違う。
三号車は火の向こう側に停まっていた。
エンジンは切っている。
でも、熱は残っている。
近づくと、鉄の匂いがする。
熱を持つ鉄の匂い。
夏の鉄は、冬よりずっと生き物に近い。
汗をかいているように見える。
いや、実際に油が滲んでいた。
ミナは三号車のタイヤのそばに座り込んでいる。
工具箱を枕にして、少しだけ目を閉じていた。
寝ているかと思ったら、口だけ動いた。
「見てるよ」
「何をですか」
カナタが訊く。
「夢の中で整備」
「それは休めてますか」
「休めてない」
「寝てください」
「車が先」
「車は寝ますか」
「今寝てる」
ミナは三号車の側面を軽く叩いた。
「寝かしつけ成功」
「整備兵って、何なんですか」
「母親と医者と詐欺師」
「最後」
「動くって言い張るから」
ミナは薄く笑った。
そして、今度こそ黙った。
カナタは火のそばへ戻った。
遠い砲声がした。
さっきより遠い。
それとも、耳が慣れたのか。
ハウラーの低い音は、今は聞こえない。
聞こえないだけで、いないわけではない。
この数日で、その違いを嫌というほど覚えた。
いないことと、聞こえないことは違う。
安全と、今は襲われていないことも違う。
帰る場所と、ただ止まった場所も違う。
違うことが増える。
増えるほど、頭の中が重くなる。
カナタは火を見た。
火の赤が、リゼの赤布と似ているようで似ていない。
火は揺れる。
布も揺れる。
でも、火は消えれば終わりで、布は持って歩ける。
ハウンド七は消えた。
いや、まだ建物は残っているかもしれない。
でも、帰る場所としては消えた。
そのかわり、小さな箱がある。
赤布がある。
手順書がある。
人がいる。
仮の火がある。
足りない。
でも、ゼロではない。
「カナタさん」
リゼが隣に座った。
声が少し低い。
疲れている。
「寝ないの」
「寝ます」
「そのうち?」
「はい」
「便利な未来形」
「さっき言われました」
「じゃあ禁止」
「厳しい」
リゼは火を見る。
しばらく黙っていた。
彼女が黙ると、赤布の音が聞こえる気がする。
実際には鳴っていない。
でも、何度も振られ、結ばれ、切られ、渡され、戻ってきた布には、音のない音がある。
「夏、遠くなったね」
リゼが言った。
「まだ暑いです」
「暑いけど」
「はい」
「祭りの時の夏とは違う」
カナタは頷いた。
祭りの夏。
缶詰くじ。
豆数当て。
三号車公開整備。
赤布の導線。
遠い砲撃を花火みたいに見ていた夜。
あれも夏だった。
今も夏だ。
でも、同じ夏ではない。
「遠いですね」
「うん」
「昨日なのに」
「たぶん、昨日じゃないんだよ」
「日付では」
「日付は嘘つく」
リゼは小さく言った。
その言い方が妙に自然で、カナタは何も返せなかった。
日付は嘘つく。
確かにそうかもしれない。
人間は、時計や暦で時間を測る。
でも本当は、豆の数や、手袋の湿り方や、赤布の汚れ方や、火の匂いで測っているのかもしれない。
だったら、祭りの夜はもう遠い。
まだ数日も経っていないのに。
遠い夏。
すでに思い出の形をしている。
ヒナセの通信機が小さく鳴った。
全員が反応した。
眠っていた人も、座っていた人も、火を見ていた人も、体のどこかを少しだけ硬くする。
ヒナセが耳を当てる。
しばらく聞く。
そして、言った。
「全体後退、継続。今夜はここで待機。次の移動は夜明け前」
誰かが息を吐いた。
安心ではない。
落胆でもない。
ただ、次の一手が決まった時の息。
夜明け前。
それまではここ。
仮の火のそば。
仮の帰る場所で。
カナタは手袋を見た。
湿っている。
でも、少しだけ火で乾きかけている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
ただ、火の煙と麦茶と鉄の匂いが混ざった。
「悪化してない」
小さく言った。
リゼが笑う。
「夏の終わりっぽい」
「手袋がですか」
「全部」
火が小さく揺れた。
遠くで砲声。
近くで虫の声。
ユウトは黙ってスープを飲んでいる。
タクトは赤布を畳んでいる。
ヒナセは通信を聞いている。
マコトは記録帳に小さく何かを書いている。
ミナは三号車のそばで目を閉じている。
セナは救護布の横で、水を飲んでいる。
ハルクは立ったまま、場所を決めている。
ガレスは暗がりで、火のついていない煙草を咥えていた。
また火はついていない。
少しだけ、いつもに戻った気がした。
でも、ハウンド七はない。
だから、戻ったわけではない。
それでも、火の周りに人がいる。
そこに赤布がある。
帰り箱がある。
遠い夏がある。
今夜は、それで足りることにした。
足りないものを数え始めると、夜が終わらなくなるから。