帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十四話 遠い夏

 夏は、遠くなる時も暑い。

 それが不思議だった。

 終わるなら、少しは涼しくなればいい。

 空が高くなるとか、風が乾くとか、夜に虫の声が変わるとか、そういう分かりやすい合図を出してくれればいい。そうすれば、人間は「ああ、終わるんだ」と思える。

 けれど、撤退路の夏はなかなか終わらなかった。

 夜になっても、空気はぬるい。

 火の近くにいなくても、服が肌に張りつく。

 水筒の水は冷えず、麦茶は最初から負けた顔をしている。鉄骨は夕方の熱をまだ残していて、うっかり手を置くと、昼間の続きみたいな熱が返ってくる。

 夏は遠くなるのではなく、薄くなるのだと思った。

 少しずつ。

 気づかれないように。

 旧搬送集積所の火は、夜半を過ぎても消えなかった。

 火そのものは小さい。

 頼りない。

 でも、誰かが見ている限り、誰かが木片を足す限り、火は火でいられる。

 カナタはその火のそばに座っていた。

 座っている、というより、膝を曲げた姿勢のまま止まっていた。

 体が休む形を忘れたみたいだった。

 背中を丸めても落ち着かない。

 横になればすぐ起き上がりたくなる。

 目を閉じると、泥の上に置いてきた水箱が見える。

 目を開けると、火がある。

 だから、目を開けている方がまだましだった。

「寝ないんですか」

 ユウトが言った。

 火の反対側に座っている。

 彼の声は小さかった。

 珍しく。

「寝ます」

 カナタは答えた。

「今?」

「そのうち」

「便利な未来形ですね」

「はい」

 ユウトは少しだけ笑った。

 いつもなら、もう一言何か続けるところだった。

 豆の話。

 市民制度。

 乾パン階級。

 何かを大げさにして、少しだけ空気を軽くする。

 でも今日は、笑っただけだった。

 それが少し怖かった。

 ユウトが静かだと、戦場の音が増える。

 虫の声。

 火の音。

 遠い砲声。

 誰かの寝息。

 負傷者のうめき声。

 三号車の金属が冷えて、時々小さく鳴る音。

 世界は、誰かが喋らなくなった分だけ、別の音を前に出してくる。

「豆、今日はないですね」

 カナタは言った。

 自分でも少し驚いた。

 ユウトが顔を上げる。

「カナタさんから豆の話を」

「はい」

「成長ですか」

「疲労です」

「そっちか」

 ユウトは乾パンのかけらが浮いた薄いスープを見た。

 携行食を煮たもの。

 豆はない。

 乾パンは、柔らかくなるのではなく、諦めたように崩れていた。

「乾パンって、煮ても乾パンの魂が残ってますよね」

「魂」

「ふやけたふりをして、奥の方がまだ固い」

「頑固ですね」

「誰かに似てる」

「誰ですか」

「言うと怒られるので」

 ユウトはセナの方を見た。

 セナは少し離れた救護布の前で、包帯を巻いていた。

 夜でも袖をまくっている。

 声はあまり出していない。

 怒鳴っていないセナは、少し怖い。

 怒鳴ることで立っている人が黙ると、立っている理由が見えなくなる。

 彼女は最後の包帯を留めると、負傷者の顔を見て言った。

「寝ていい」

 短い。

 でも、その負傷者は泣きそうな顔になった。

 寝ていい。

 たったそれだけの許可が、ここではかなり大きい。

 寝るのにも許可がいる。

 寝ていいと言われないと、体が眠り方を思い出せない。

 セナは立ち上がり、水を飲んだ。

 ぬるい水。

 顔をしかめる。

 それでも飲む。

 そして、また誰かの方へ歩いていく。

 リゼは赤布を畳んでいた。

 三つに切った赤布。

 それぞれが別の人の手から戻ってきている。

 泥で暗くなっているもの。

 汗で白い跡がついているもの。

 火の煙の匂いがついているもの。

 同じ布だったはずなのに、もう違う布になっている。

 リゼはそれを一枚ずつ広げ、指で泥を落とし、端を確かめる。

 切った時は少し痛そうだった。

 今は、痛いというより、不思議そうに見ていた。

「戻すんですか」

 カナタが訊く。

「何を?」

「一本に」

「戻らないよ」

 リゼは即答した。

「切ったから」

「縫えば」

「縫っても跡が残る」

「はい」

「なら、別々でいい」

 リゼは一枚をタクトへ渡した。

「これ、預かって」

「自分がですか」

「うん。中央用」

 タクトは少し驚いた顔をした。

 それから、両手で受け取った。

 缶を受け取る時より、慎重だった。

「鳴らないようにします」

「赤布は鳴らないよ」

「でも、揺れるので」

「確かに」

 リゼは笑った。

 タクトは真面目に赤布を畳む。

 腰の缶の横に入れる。

 オレンジソーダの空き缶と、赤布。

 少し変な組み合わせだった。

 でも、今の帰還誘導兵には似合っている。

 役に立つものと、役に立たないように見えるもの。

 音を消すものと、人に見せるもの。

 過去と、次の仕事。

 そういうものが、ひとつの腰にぶら下がる。

 ヒナセは通信機の前で眠っていた。

 いや、眠っているように見えた。

 目は閉じている。

 でも、通信機のノイズが少し変わるたびに、指が動く。

 寝ているのか、聞いているのか分からない。

 たぶん、どちらでもある。

 人間は本当に疲れると、起きていることと眠っていることの境目が薄くなる。

 ヒナセの髪に、小さな虫がとまっていた。

 マコトがそれを見て、そっと払った。

 ヒナセは目を開けないまま言う。

「通信、来ました?」

「虫です」

「虫」

「はい」

「ならいいです」

 いいのか。

 カナタは少しだけ笑いそうになった。

 マコトは記録帳を開いていた。

 書く字が、昼より少し崩れている。

 疲れているからだ。

 でも書いている。

 彼の横には、帰ってきたものの小箱が置いてある。

 ハウンド七から持ってきたもの。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 チョーク。

 肉缶の蓋。

 射的の木片。

 焦げた端子。

 祭り入口の札の切れ端。

 小箱は、思ったより小さい。

 火のそばに置くと、さらに小さく見える。

 でも、その小ささがいいのかもしれない。

 大きすぎるものは持てない。

 小さいから、次へ連れていける。

 マコトは箱を見て言った。

「この箱、名前が必要ですか」

「帰ってきたもの置き場、移動版」

 ユウトが答える。

「長いですね」

「略して帰り箱」

「急に雑」

 リゼが笑う。

「でも、悪くない」

「採用?」

「仮採用」

「また仮」

「今は全部仮だから」

 リゼの言葉に、誰もすぐ返さなかった。

 仮の火。

 仮の救護所。

 仮の通信点。

 仮の帰る場所。

 仮の名前。

 仮の食堂もどき。

 それでも、人はそこで水を飲み、怪我を見てもらい、荷物を置き、少し眠る。

 仮でも、使えば場所になる。

 ハルクは少し離れた暗がりに立っていた。

 盾を地面に下ろしている。

 座ってはいない。

 立ったまま、目を閉じている。

 寝ているのかもしれない。

 立ったまま。

 ユウトがそれを見て小声で言った。

「壁って、寝るんですか」

「人です」

 カナタは答えた。

「でも立ってます」

「人です」

「強い人ですね」

 ハルクが目を開けずに言った。

「聞こえてる」

「すみません」

「寝てない」

「ですよね」

「少しだけ休んでいる」

「立ったまま?」

「場所を決めている」

 短い。

 でも、少し分かる気がした。

 ハルクは、立つ場所を決めることで休んでいる。

 誰かにとっては座ることが休みで、誰かにとっては水を飲むことが休みで、誰かにとっては話すことが休みで、誰かにとっては黙ることが休みになる。

 休み方も、帰り方と同じで、人によって違う。

 三号車は火の向こう側に停まっていた。

 エンジンは切っている。

 でも、熱は残っている。

 近づくと、鉄の匂いがする。

 熱を持つ鉄の匂い。

 夏の鉄は、冬よりずっと生き物に近い。

 汗をかいているように見える。

 いや、実際に油が滲んでいた。

 ミナは三号車のタイヤのそばに座り込んでいる。

 工具箱を枕にして、少しだけ目を閉じていた。

 寝ているかと思ったら、口だけ動いた。

「見てるよ」

「何をですか」

 カナタが訊く。

「夢の中で整備」

「それは休めてますか」

「休めてない」

「寝てください」

「車が先」

「車は寝ますか」

「今寝てる」

 ミナは三号車の側面を軽く叩いた。

「寝かしつけ成功」

「整備兵って、何なんですか」

「母親と医者と詐欺師」

「最後」

「動くって言い張るから」

 ミナは薄く笑った。

 そして、今度こそ黙った。

 カナタは火のそばへ戻った。

 遠い砲声がした。

 さっきより遠い。

 それとも、耳が慣れたのか。

 ハウラーの低い音は、今は聞こえない。

 聞こえないだけで、いないわけではない。

 この数日で、その違いを嫌というほど覚えた。

 いないことと、聞こえないことは違う。

 安全と、今は襲われていないことも違う。

 帰る場所と、ただ止まった場所も違う。

 違うことが増える。

 増えるほど、頭の中が重くなる。

 カナタは火を見た。

 火の赤が、リゼの赤布と似ているようで似ていない。

 火は揺れる。

 布も揺れる。

 でも、火は消えれば終わりで、布は持って歩ける。

 ハウンド七は消えた。

 いや、まだ建物は残っているかもしれない。

 でも、帰る場所としては消えた。

 そのかわり、小さな箱がある。

 赤布がある。

 手順書がある。

 人がいる。

 仮の火がある。

 足りない。

 でも、ゼロではない。

「カナタさん」

 リゼが隣に座った。

 声が少し低い。

 疲れている。

「寝ないの」

「寝ます」

「そのうち?」

「はい」

「便利な未来形」

「さっき言われました」

「じゃあ禁止」

「厳しい」

 リゼは火を見る。

 しばらく黙っていた。

 彼女が黙ると、赤布の音が聞こえる気がする。

 実際には鳴っていない。

 でも、何度も振られ、結ばれ、切られ、渡され、戻ってきた布には、音のない音がある。

「夏、遠くなったね」

 リゼが言った。

「まだ暑いです」

「暑いけど」

「はい」

「祭りの時の夏とは違う」

 カナタは頷いた。

 祭りの夏。

 缶詰くじ。

 豆数当て。

 三号車公開整備。

 赤布の導線。

 遠い砲撃を花火みたいに見ていた夜。

 あれも夏だった。

 今も夏だ。

 でも、同じ夏ではない。

「遠いですね」

「うん」

「昨日なのに」

「たぶん、昨日じゃないんだよ」

「日付では」

「日付は嘘つく」

 リゼは小さく言った。

 その言い方が妙に自然で、カナタは何も返せなかった。

 日付は嘘つく。

 確かにそうかもしれない。

 人間は、時計や暦で時間を測る。

 でも本当は、豆の数や、手袋の湿り方や、赤布の汚れ方や、火の匂いで測っているのかもしれない。

 だったら、祭りの夜はもう遠い。

 まだ数日も経っていないのに。

 遠い夏。

 すでに思い出の形をしている。

 ヒナセの通信機が小さく鳴った。

 全員が反応した。

 眠っていた人も、座っていた人も、火を見ていた人も、体のどこかを少しだけ硬くする。

 ヒナセが耳を当てる。

 しばらく聞く。

 そして、言った。

「全体後退、継続。今夜はここで待機。次の移動は夜明け前」

 誰かが息を吐いた。

 安心ではない。

 落胆でもない。

 ただ、次の一手が決まった時の息。

 夜明け前。

 それまではここ。

 仮の火のそば。

 仮の帰る場所で。

 カナタは手袋を見た。

 湿っている。

 でも、少しだけ火で乾きかけている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 ただ、火の煙と麦茶と鉄の匂いが混ざった。

「悪化してない」

 小さく言った。

 リゼが笑う。

「夏の終わりっぽい」

「手袋がですか」

「全部」

 火が小さく揺れた。

 遠くで砲声。

 近くで虫の声。

 ユウトは黙ってスープを飲んでいる。

 タクトは赤布を畳んでいる。

 ヒナセは通信を聞いている。

 マコトは記録帳に小さく何かを書いている。

 ミナは三号車のそばで目を閉じている。

 セナは救護布の横で、水を飲んでいる。

 ハルクは立ったまま、場所を決めている。

 ガレスは暗がりで、火のついていない煙草を咥えていた。

 また火はついていない。

 少しだけ、いつもに戻った気がした。

 でも、ハウンド七はない。

 だから、戻ったわけではない。

 それでも、火の周りに人がいる。

 そこに赤布がある。

 帰り箱がある。

 遠い夏がある。

 今夜は、それで足りることにした。

 足りないものを数え始めると、夜が終わらなくなるから。

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