帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十五話 最後の壁

 壁は、動かないものだと思っていた。

 教室の壁。

 基地の壁。

 防雪柵。

 格納庫の鉄板。

 食堂の窓の下にあった、誰かが靴をぶつけて少しへこんだ壁。

 壁とは、こちらが近づくもので、向こうから来るものではない。そこにあるから壁で、そこにあるから、人は寄りかかったり、背中を預けたり、落書きしたり、張り紙を貼ったりする。

 だから、壁が歩いてくる光景は、いつ見ても慣れなかった。

 バスティオンが三体、朝の熱を持った地平の向こうから進んでくる。

 三体。

 数としては少ない。

 でも、壁が三枚、こちらへ押し寄せてくると思えば、それはもう数ではない。地形が動いている。黒い坂が近づいている。逃げ道の方が間違っていると、世界に言われているような気分になる。

 夏の空は、今日も明るかった。

 それが最悪だった。

 雲は薄く、青は高く、遠くの草は水気を失って白っぽく光っている。午前なのに鉄は熱を持ち、三号車の車体に触れたユウトが「熱っ」と言って手を引っ込めた。

「夏ですね」

 ユウトが言った。

「今言うことですか」

 カナタは答えた。

「言わないと、暑さに負けそうで」

「言っても負けています」

「精神判定では勝ってます」

「豆は?」

「今日は豆がないので不戦敗」

 ユウトは笑った。

 笑ったが、目は前を見ていた。

 バスティオン。

 その上空に、ブルーグラス観測班の小型機が低く旋回している。まるで暑さで羽ばたき方を忘れた虫みたいに、ふらふらと軌道を変えながらも、黒い巨体の位置を伝え続けている。

 アイゼン砲撃群は、その報告を受けて撃っていた。

 ずん。

 腹の底を叩く音。

 地面の下で大きな太鼓を鳴らされたような震え。

 砲弾がバスティオンの前面で爆ぜる。煙。土。黒い破片。熱で歪む空気。

 それでも、壁は進む。

 止まらない。

 少しだけ遅くなる。

 少しだけ傾く。

 それだけだった。

 第三方面の最終防衛線は、地図の上ではまだ線だった。

 現場では、もう線ではない。

 砲兵陣地。

 工兵が敷いた鉄板路。

 救護壕。

 弾薬仮置き場。

 泥で半分埋まった旧車道。

 それから、帰還誘導兵が夜のうちに作った赤布点。

 全部がばらばらにある。

 それを人間がつなぐ。

 つながらなくなった時、そこが崩壊地点になる。

 カナタには、それが見えた。

 見えすぎる。

 でも、今日は止まらなかった。

 見る。

 決める。

 線を引く。

 その外側の痛みは、後で来る。

 今は、通す。

「主線は旧車道」

 カナタは言った。

 声が自分でも少し乾いていた。

「担架と歩行組は旧車道。砲兵は鉄板路。弾薬車は二台だけ。三台目以降は荷を分けて人力で」

 補給兵が顔をしかめる。

「人力だと遅い」

「車が詰まると全部遅いです」

「弾が足りなくなる」

「人が足りなくなるよりは」

 言ってから、少しだけ嫌になった。

 正しい言葉は、時々嫌な手触りがする。

 補給兵は歯を食いしばった。

 それから頷く。

「二台だな」

「はい」

「三台目の運転手、怒るぞ」

「後で」

「生存後か」

「はい」

 補給兵は少しだけ笑った。

 苦笑いだった。

 生存後、という言葉は、いつの間にか部隊の中で通じるようになっていた。苦情も、怒りも、後悔も、全部生き残ってから。便利な言葉だ。便利すぎて嫌になる。

 リゼは赤布を三本持っていた。

 一本は自分の手首。

 一本は前線兵へ。

 一本は避難民の青年へ。

 切った赤布は、もう一本には戻らない。戻らないかわりに、三か所に赤を置ける。

 リゼは言う。

「高く上げない。腰の高さ。三人ずつ。火がない場所では、人を見る」

 若い前線兵が復唱する。

「高く上げない。三人。人を見る」

「火は?」

「ない」

「じゃあ?」

「人を見る」

「合格」

「仮免?」

「まだ仮免」

 前線兵は少しだけ笑った。

 笑い方が昨日よりましになっている。

 それだけで、リゼは少し嬉しそうだった。

 でも、すぐ前を向く。

 ハウラーの音が来た。

 低い。

 複数。

 音というより、空気の底が重くなる。耳ではなく、骨に届く。胸の中に水が入ったみたいに、声が沈む。

 通信が乱れる。

 ヒナセが叫ぶ。

「三秒通信に切り替えます!」

 彼女は通信機を押さえ、息を吸う。

「旧車道、主線。赤、低く。鉄板路、砲兵」

 切れる。

 それだけ。

 それだけでいい。

 説明はもうできない。

 説明が必要な人には、マコトが走る。

 マコトはメモ帳を胸に入れていた。今日は書いていない。走るためだ。記録する人間が、記録より先に伝えることを選んでいる。

 それも、少し変な成長だった。

「旧車道、主線です!担架、歩行組、旧車道!砲兵は鉄板路!」

 マコトの声は、前より通るようになっていた。

 本人は気づいていないかもしれない。

 声も、使えば変わる。

 タクトは中央にいた。

 荷物。

 水袋。

 弾薬箱。

 人の手。

 全部を見ている。

 彼の腰の缶は、布を半分だけ外してある。

 鳴らない缶が、今日は一回だけ鳴る缶になっている。

 かん。

 一回。

 人がそちらを見る。

 赤布を見る。

 手信号を見る。

 進む。

 かん。

 また一回。

 止まるためではない。

 見るための音。

 タクトの缶から始まった静音は、音を消す技術から、音を選ぶ技術になっていた。

 本人はたぶん、そんな大げさなことは考えていない。

 ただ、鳴らす位置を少しずつ変えている。

 それだけだ。

 それだけが、列を動かしている。

 セナは救護壕の前で、負傷者を選別していた。

 選別。

 嫌な言葉だ。

 でも、他にない。

「歩ける人は歩く。歩けない人は担架。歩けると言い張る人は、私が決める」

 前線兵の一人が言う。

「俺は歩ける」

 セナは顔を見る。

「三十歩」

「行ける」

「じゃあ三十歩ごとに交代」

「俺は」

「三十歩」

 前線兵は黙った。

 セナの声に、反論を受け取る場所はない。

 でも、切り捨ててもいない。

 三十歩。

 それは、歩けると言い張る人間を歩かせるための距離だった。

 全部歩けとは言わない。

 歩くなとも言わない。

 三十歩。

 区切る。

 人間は、永遠は歩けなくても、三十歩なら歩けることがある。

 帰還誘導兵の技術は、どんどん小さくなっていく。

 三人。

 三秒。

 三十歩。

 小さくすることで、壊れにくくする。

 大きな撤退は、小さい単位でしか動かない。

 バスティオンの一体が、砲撃を受けて斜めに沈んだ。

 歓声はなかった。

 まだ止まっていないからだ。

 沈んだ巨体が、前脚を地面に叩きつける。

 ずん。

 地面が揺れる。

 鉄板路の端が跳ねる。

 そこを通っていた砲兵が一瞬止まりかける。

「止まらない!」

 リゼが叫んだ。

 声は掠れていない。

 でも、抑えている。

「三人!鉄板の上!落ちても戻らない!」

「落ちても!?」

 ユウトが反応する。

「今は!」

「了解!」

 鉄板から小さな弾薬箱が落ちた。

 誰かが拾おうとする。

 ユウトが止める。

「拾わない!後で泣く!」

「後でっていつだ!」

「生存後!」

 怒鳴った前線兵は、弾薬箱を見た。

 それから歯を食いしばって進んだ。

 弾薬箱は泥に残る。

 カナタはその音を聞いた。

 ごとっ。

 忘れない。

 でも、拾わない。

 拾わないことで、今の線を守る。

 バスティオンの後方から、小型レイスが流れ込んできた。

 黒い影。

 低い姿勢。

 待っていたものが、動き出す。

 列が細く分かれているため、一気には食いつけない。

 だが、そのぶん小さな隙間を狙ってくる。

 スリップが泥を走る。

 ピッカーが短い白布を引く。

 ハウラーが声を沈める。

 レイスはもう、単に襲うだけではない。

 こちらが戻るために使うものを、ひとつずつ確かめるように壊しに来る。

 ハルクが右側に出た。

 盾を低く構える。

 小型レイスがぶつかる。

 鉄音。

 もう一体。

 盾が少し押される。

 ハルクの足が泥に沈む。

「ハルクさん!」

 タクトが叫ぶ。

「抜かせない」

 ハルクは言った。

 いつもの言葉。

 でも、今日は少し違って聞こえた。

 何を抜かせないのか。

 レイスか。

 恐怖か。

 崩壊か。

 たぶん全部だった。

 アイゼン砲撃群の一部が、最後の射撃を行った。

 砲声。

 熱。

 土。

 バスティオンの前面に大きな爆発が咲く。

 その一体が、ようやく膝を折った。

 地面に沈む。

 壁が崩れる。

 だが、その奥に、もう一体の壁がいる。

 そして、さらに奥にも。

 最後の壁ではなかった。

 壁は何枚もある。

 それでも、人間側の壁は、ここが最後だった。

 砲兵長が叫んだ。

「アイゼン、下がる!」

 その声で、前線兵たちの顔が変わった。

 砲が下がる。

 つまり、ここはもう守る場所ではない。

 通す場所になる。

 カナタは手を上げた。

「全員、旧車道へ!鉄板路、最後の砲車!赤布、二番を前へ!」

 リゼが赤布を渡す。

「二番、前!」

 若い前線兵が走る。

「三人ずつ!火じゃない、人を見る!」

 火はここにはない。

 だから、人が火の代わりになる。

 赤布が低く揺れる。

 缶が一回鳴る。

 手信号が上がる。

 マコトが走る。

 ヒナセが三秒だけ通信する。

 ミナが三号車を旧車道入口へ寄せる。

『三号車線、最終営業!』

「それ自分で言うんですか!」

 ユウトが叫ぶ。

『うるさい!今日は許す!』

 少しだけ笑いが起きた。

 笑っている場合ではない。

 でも、笑った。

 その笑いで、足が前に出た。

 砲車が一台、旧車道へ入る。

 車輪が泥に沈む。

 ミナが怒鳴る。

『右!違う、車の右!人間と同じ!左右を疑うな!』

 どこかで聞いた言葉だった。

 雪の林。

 体育館裏。

 あの時も、ミナは似たようなことを叫んでいた。

 季節が変わっても、言うことはあまり変わらない。

 それが少しだけ頼もしい。

 最後の担架が通る。

 最後の砲兵が通る。

 最後の補給兵が、弾薬箱を一つ抱えて走る。

 抱えすぎている。

 タクトが止める。

「一つです」

「これだけは」

「一つです」

「全部必要だ!」

「あなたも必要です」

 補給兵が止まった。

 その言葉に。

 ほんの一瞬。

 それから、一箱を泥に置いた。

 もう一箱だけ抱えた。

「くそ」

「はい」

「覚えてろ」

「はい」

 タクトは頷いた。

 補給兵は走った。

 泥に置かれた弾薬箱の横を、小型レイスが通る。

 箱には触れない。

 人を追う。

 レイスは、もう人間が何を置くかを知っている。

 そして、人間が置いたものより、人間そのものを狙うべき時を知っている。

 怖い。

 カナタはそう思った。

 久しぶりに、素直に。

 怖い。

 でも、怖いと思えるうちは、まだ見えている。

 旧車道の入口で、ハルクが膝をついた。

 盾が泥に沈む。

 小型レイスが三体、同時に押した。

 彼の足が滑る。

「ハルク!」

 ユウトが叫ぶ。

 ハルクは答えない。

 ただ、盾を立て直す。

 抜かせない。

 言葉にはしなかった。

 でも、そう見えた。

 カナタは一瞬、そちらへ走りそうになった。

 だが、リゼが先に動いた。

 赤布を投げる。

 ハルクの右側ではない。

 その後ろにいる前線兵へ。

「支えて!」

 前線兵が赤布を見る。

 手を伸ばす。

 隣の兵士が盾の後ろに入る。

 もう一人。

 ハルク一人の壁ではなくなる。

 人が壁になる。

 ハルクは低く言った。

「助かる」

 珍しい言葉だった。

 リゼは笑う余裕もなく叫ぶ。

「壁、増やして!」

「人だ!」

 ハルクが返す。

「じゃあ人、増やして!」

 今度は少しだけ笑いが起きた。

 壁は増えた。

 人として。

 その間に、最後の列が旧車道へ入った。

 ガレスが後方から戻ってくる。

 肩で息をしている。

 火のつかない煙草はない。

 今日はどこにもない。

「全員か」

 彼が訊く。

 カナタは人数を確認する。

 マコト。

 セナ。

 ヒナセ。

 タクト。

 ユウト。

 リゼ。

 ミナ。

 ハルク。

 前線兵。

 補給兵。

 砲兵。

 避難民。

 全部は、分からない。

 でも、通すべき束は通った。

「通りました」

 カナタは言った。

「全部じゃないです」

「知ってる」

 ガレスは答えた。

「でも、通った」

「はい」

 最後の壁が、背後で崩れていく。

 アイゼンの砲が下がる。

 ブルーグラスの小型機が一機、煙の中へ消える。

 バスティオンが前へ進む。

 守っていた場所が、守れない場所になる。

 だが、そこを通る人はもういない。

 それだけが、今の勝ちだった。

 勝ちというには小さく、負けというにはまだ早い。

 いつもの、中途半端な生存だった。

 カナタは手袋を見た。

 泥で汚れている。

 汗で湿っている。

 火薬の匂いがする。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 でも、今日はそれでよかった。

「悪化した」

 小さく言う。

 隣でユウトが、珍しく何も言わなかった。

 かわりにリゼが言った。

「でも、抜けた」

「はい」

「じゃあ、次」

 次。

 その言葉が、夏の空の下で少し遠く聞こえた。

 でも、確かにあった。

 旧車道の先へ、列は進む。

 最後の壁を後ろにして。

 壁だった場所が、ただの黒い煙になる前に。

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