帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
壁は、動かないものだと思っていた。
教室の壁。
基地の壁。
防雪柵。
格納庫の鉄板。
食堂の窓の下にあった、誰かが靴をぶつけて少しへこんだ壁。
壁とは、こちらが近づくもので、向こうから来るものではない。そこにあるから壁で、そこにあるから、人は寄りかかったり、背中を預けたり、落書きしたり、張り紙を貼ったりする。
だから、壁が歩いてくる光景は、いつ見ても慣れなかった。
バスティオンが三体、朝の熱を持った地平の向こうから進んでくる。
三体。
数としては少ない。
でも、壁が三枚、こちらへ押し寄せてくると思えば、それはもう数ではない。地形が動いている。黒い坂が近づいている。逃げ道の方が間違っていると、世界に言われているような気分になる。
夏の空は、今日も明るかった。
それが最悪だった。
雲は薄く、青は高く、遠くの草は水気を失って白っぽく光っている。午前なのに鉄は熱を持ち、三号車の車体に触れたユウトが「熱っ」と言って手を引っ込めた。
「夏ですね」
ユウトが言った。
「今言うことですか」
カナタは答えた。
「言わないと、暑さに負けそうで」
「言っても負けています」
「精神判定では勝ってます」
「豆は?」
「今日は豆がないので不戦敗」
ユウトは笑った。
笑ったが、目は前を見ていた。
バスティオン。
その上空に、ブルーグラス観測班の小型機が低く旋回している。まるで暑さで羽ばたき方を忘れた虫みたいに、ふらふらと軌道を変えながらも、黒い巨体の位置を伝え続けている。
アイゼン砲撃群は、その報告を受けて撃っていた。
ずん。
腹の底を叩く音。
地面の下で大きな太鼓を鳴らされたような震え。
砲弾がバスティオンの前面で爆ぜる。煙。土。黒い破片。熱で歪む空気。
それでも、壁は進む。
止まらない。
少しだけ遅くなる。
少しだけ傾く。
それだけだった。
第三方面の最終防衛線は、地図の上ではまだ線だった。
現場では、もう線ではない。
砲兵陣地。
工兵が敷いた鉄板路。
救護壕。
弾薬仮置き場。
泥で半分埋まった旧車道。
それから、帰還誘導兵が夜のうちに作った赤布点。
全部がばらばらにある。
それを人間がつなぐ。
つながらなくなった時、そこが崩壊地点になる。
カナタには、それが見えた。
見えすぎる。
でも、今日は止まらなかった。
見る。
決める。
線を引く。
その外側の痛みは、後で来る。
今は、通す。
「主線は旧車道」
カナタは言った。
声が自分でも少し乾いていた。
「担架と歩行組は旧車道。砲兵は鉄板路。弾薬車は二台だけ。三台目以降は荷を分けて人力で」
補給兵が顔をしかめる。
「人力だと遅い」
「車が詰まると全部遅いです」
「弾が足りなくなる」
「人が足りなくなるよりは」
言ってから、少しだけ嫌になった。
正しい言葉は、時々嫌な手触りがする。
補給兵は歯を食いしばった。
それから頷く。
「二台だな」
「はい」
「三台目の運転手、怒るぞ」
「後で」
「生存後か」
「はい」
補給兵は少しだけ笑った。
苦笑いだった。
生存後、という言葉は、いつの間にか部隊の中で通じるようになっていた。苦情も、怒りも、後悔も、全部生き残ってから。便利な言葉だ。便利すぎて嫌になる。
リゼは赤布を三本持っていた。
一本は自分の手首。
一本は前線兵へ。
一本は避難民の青年へ。
切った赤布は、もう一本には戻らない。戻らないかわりに、三か所に赤を置ける。
リゼは言う。
「高く上げない。腰の高さ。三人ずつ。火がない場所では、人を見る」
若い前線兵が復唱する。
「高く上げない。三人。人を見る」
「火は?」
「ない」
「じゃあ?」
「人を見る」
「合格」
「仮免?」
「まだ仮免」
前線兵は少しだけ笑った。
笑い方が昨日よりましになっている。
それだけで、リゼは少し嬉しそうだった。
でも、すぐ前を向く。
ハウラーの音が来た。
低い。
複数。
音というより、空気の底が重くなる。耳ではなく、骨に届く。胸の中に水が入ったみたいに、声が沈む。
通信が乱れる。
ヒナセが叫ぶ。
「三秒通信に切り替えます!」
彼女は通信機を押さえ、息を吸う。
「旧車道、主線。赤、低く。鉄板路、砲兵」
切れる。
それだけ。
それだけでいい。
説明はもうできない。
説明が必要な人には、マコトが走る。
マコトはメモ帳を胸に入れていた。今日は書いていない。走るためだ。記録する人間が、記録より先に伝えることを選んでいる。
それも、少し変な成長だった。
「旧車道、主線です!担架、歩行組、旧車道!砲兵は鉄板路!」
マコトの声は、前より通るようになっていた。
本人は気づいていないかもしれない。
声も、使えば変わる。
タクトは中央にいた。
荷物。
水袋。
弾薬箱。
人の手。
全部を見ている。
彼の腰の缶は、布を半分だけ外してある。
鳴らない缶が、今日は一回だけ鳴る缶になっている。
かん。
一回。
人がそちらを見る。
赤布を見る。
手信号を見る。
進む。
かん。
また一回。
止まるためではない。
見るための音。
タクトの缶から始まった静音は、音を消す技術から、音を選ぶ技術になっていた。
本人はたぶん、そんな大げさなことは考えていない。
ただ、鳴らす位置を少しずつ変えている。
それだけだ。
それだけが、列を動かしている。
セナは救護壕の前で、負傷者を選別していた。
選別。
嫌な言葉だ。
でも、他にない。
「歩ける人は歩く。歩けない人は担架。歩けると言い張る人は、私が決める」
前線兵の一人が言う。
「俺は歩ける」
セナは顔を見る。
「三十歩」
「行ける」
「じゃあ三十歩ごとに交代」
「俺は」
「三十歩」
前線兵は黙った。
セナの声に、反論を受け取る場所はない。
でも、切り捨ててもいない。
三十歩。
それは、歩けると言い張る人間を歩かせるための距離だった。
全部歩けとは言わない。
歩くなとも言わない。
三十歩。
区切る。
人間は、永遠は歩けなくても、三十歩なら歩けることがある。
帰還誘導兵の技術は、どんどん小さくなっていく。
三人。
三秒。
三十歩。
小さくすることで、壊れにくくする。
大きな撤退は、小さい単位でしか動かない。
バスティオンの一体が、砲撃を受けて斜めに沈んだ。
歓声はなかった。
まだ止まっていないからだ。
沈んだ巨体が、前脚を地面に叩きつける。
ずん。
地面が揺れる。
鉄板路の端が跳ねる。
そこを通っていた砲兵が一瞬止まりかける。
「止まらない!」
リゼが叫んだ。
声は掠れていない。
でも、抑えている。
「三人!鉄板の上!落ちても戻らない!」
「落ちても!?」
ユウトが反応する。
「今は!」
「了解!」
鉄板から小さな弾薬箱が落ちた。
誰かが拾おうとする。
ユウトが止める。
「拾わない!後で泣く!」
「後でっていつだ!」
「生存後!」
怒鳴った前線兵は、弾薬箱を見た。
それから歯を食いしばって進んだ。
弾薬箱は泥に残る。
カナタはその音を聞いた。
ごとっ。
忘れない。
でも、拾わない。
拾わないことで、今の線を守る。
バスティオンの後方から、小型レイスが流れ込んできた。
黒い影。
低い姿勢。
待っていたものが、動き出す。
列が細く分かれているため、一気には食いつけない。
だが、そのぶん小さな隙間を狙ってくる。
スリップが泥を走る。
ピッカーが短い白布を引く。
ハウラーが声を沈める。
レイスはもう、単に襲うだけではない。
こちらが戻るために使うものを、ひとつずつ確かめるように壊しに来る。
ハルクが右側に出た。
盾を低く構える。
小型レイスがぶつかる。
鉄音。
もう一体。
盾が少し押される。
ハルクの足が泥に沈む。
「ハルクさん!」
タクトが叫ぶ。
「抜かせない」
ハルクは言った。
いつもの言葉。
でも、今日は少し違って聞こえた。
何を抜かせないのか。
レイスか。
恐怖か。
崩壊か。
たぶん全部だった。
アイゼン砲撃群の一部が、最後の射撃を行った。
砲声。
熱。
土。
バスティオンの前面に大きな爆発が咲く。
その一体が、ようやく膝を折った。
地面に沈む。
壁が崩れる。
だが、その奥に、もう一体の壁がいる。
そして、さらに奥にも。
最後の壁ではなかった。
壁は何枚もある。
それでも、人間側の壁は、ここが最後だった。
砲兵長が叫んだ。
「アイゼン、下がる!」
その声で、前線兵たちの顔が変わった。
砲が下がる。
つまり、ここはもう守る場所ではない。
通す場所になる。
カナタは手を上げた。
「全員、旧車道へ!鉄板路、最後の砲車!赤布、二番を前へ!」
リゼが赤布を渡す。
「二番、前!」
若い前線兵が走る。
「三人ずつ!火じゃない、人を見る!」
火はここにはない。
だから、人が火の代わりになる。
赤布が低く揺れる。
缶が一回鳴る。
手信号が上がる。
マコトが走る。
ヒナセが三秒だけ通信する。
ミナが三号車を旧車道入口へ寄せる。
『三号車線、最終営業!』
「それ自分で言うんですか!」
ユウトが叫ぶ。
『うるさい!今日は許す!』
少しだけ笑いが起きた。
笑っている場合ではない。
でも、笑った。
その笑いで、足が前に出た。
砲車が一台、旧車道へ入る。
車輪が泥に沈む。
ミナが怒鳴る。
『右!違う、車の右!人間と同じ!左右を疑うな!』
どこかで聞いた言葉だった。
雪の林。
体育館裏。
あの時も、ミナは似たようなことを叫んでいた。
季節が変わっても、言うことはあまり変わらない。
それが少しだけ頼もしい。
最後の担架が通る。
最後の砲兵が通る。
最後の補給兵が、弾薬箱を一つ抱えて走る。
抱えすぎている。
タクトが止める。
「一つです」
「これだけは」
「一つです」
「全部必要だ!」
「あなたも必要です」
補給兵が止まった。
その言葉に。
ほんの一瞬。
それから、一箱を泥に置いた。
もう一箱だけ抱えた。
「くそ」
「はい」
「覚えてろ」
「はい」
タクトは頷いた。
補給兵は走った。
泥に置かれた弾薬箱の横を、小型レイスが通る。
箱には触れない。
人を追う。
レイスは、もう人間が何を置くかを知っている。
そして、人間が置いたものより、人間そのものを狙うべき時を知っている。
怖い。
カナタはそう思った。
久しぶりに、素直に。
怖い。
でも、怖いと思えるうちは、まだ見えている。
旧車道の入口で、ハルクが膝をついた。
盾が泥に沈む。
小型レイスが三体、同時に押した。
彼の足が滑る。
「ハルク!」
ユウトが叫ぶ。
ハルクは答えない。
ただ、盾を立て直す。
抜かせない。
言葉にはしなかった。
でも、そう見えた。
カナタは一瞬、そちらへ走りそうになった。
だが、リゼが先に動いた。
赤布を投げる。
ハルクの右側ではない。
その後ろにいる前線兵へ。
「支えて!」
前線兵が赤布を見る。
手を伸ばす。
隣の兵士が盾の後ろに入る。
もう一人。
ハルク一人の壁ではなくなる。
人が壁になる。
ハルクは低く言った。
「助かる」
珍しい言葉だった。
リゼは笑う余裕もなく叫ぶ。
「壁、増やして!」
「人だ!」
ハルクが返す。
「じゃあ人、増やして!」
今度は少しだけ笑いが起きた。
壁は増えた。
人として。
その間に、最後の列が旧車道へ入った。
ガレスが後方から戻ってくる。
肩で息をしている。
火のつかない煙草はない。
今日はどこにもない。
「全員か」
彼が訊く。
カナタは人数を確認する。
マコト。
セナ。
ヒナセ。
タクト。
ユウト。
リゼ。
ミナ。
ハルク。
前線兵。
補給兵。
砲兵。
避難民。
全部は、分からない。
でも、通すべき束は通った。
「通りました」
カナタは言った。
「全部じゃないです」
「知ってる」
ガレスは答えた。
「でも、通った」
「はい」
最後の壁が、背後で崩れていく。
アイゼンの砲が下がる。
ブルーグラスの小型機が一機、煙の中へ消える。
バスティオンが前へ進む。
守っていた場所が、守れない場所になる。
だが、そこを通る人はもういない。
それだけが、今の勝ちだった。
勝ちというには小さく、負けというにはまだ早い。
いつもの、中途半端な生存だった。
カナタは手袋を見た。
泥で汚れている。
汗で湿っている。
火薬の匂いがする。
息を吹きかける。
温かくはならない。
でも、今日はそれでよかった。
「悪化した」
小さく言う。
隣でユウトが、珍しく何も言わなかった。
かわりにリゼが言った。
「でも、抜けた」
「はい」
「じゃあ、次」
次。
その言葉が、夏の空の下で少し遠く聞こえた。
でも、確かにあった。
旧車道の先へ、列は進む。
最後の壁を後ろにして。
壁だった場所が、ただの黒い煙になる前に。