帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

66 / 69
第六十六話 雨の線

 雨は、夏の終わりのふりをして降ってきた。

 最初は、匂いだった。

 泥の匂いの奥に、冷えた鉄みたいな匂いが混じった。草の青さが少し濃くなり、空気が重くなり、誰かの髪が額に張りつく。遠くの空に低い雲が広がって、青かったはずの夏が、急に古い布で覆われたみたいになる。

 それでも、まだ誰も雨とは言わなかった。

 言うと降る気がしたからだ。

 そういう迷信は、たぶんどこの戦場にもある。

「降りますね」

 ヒナセが言った。

 言った。

 言ってしまった。

 ユウトが空を見上げる。

「今、言いましたね」

「はい」

「責任、取れます?」

「気象に対する責任は負えません」

「逃げ方が通信兵」

 リゼが小さく笑った。

 その直後、雨粒が落ちた。

 一粒。

 カナタの手袋の甲に。

 黒い泥と汗で湿っていた手袋に、さらに水が足される。もう何が何だか分からない。雪の頃からずっとそうだった。手袋はいつも湿っている。乾く日もある。乾いたと思う日もある。でも、だいたいすぐ湿る。

 雨粒は、手袋の布に小さく染み込んだ。

 それだけだった。

 それだけなのに、カナタは少しだけ嫌な予感がした。

 白線。

 雨。

 泥。

 白い布は、水を吸う。

 泥を吸う。

 重くなる。

 沈む。

 消える。

「白布、回収できる分は回収してください」

 カナタは言った。

 自分の声が少し早かった。

「全部ですか」

 マコトが訊く。

「全部は無理です。使えるところだけ」

「使えないところは」

「置きます」

 置きます。

 最近、何度も言っている。

 言うたびに少しずつ慣れている気がして、それが嫌だった。

 雨はすぐ強くなった。

 夏の雨は、遠慮がない。

 冬の雪は、少しずつ世界を消していく。夏の雨は、最初から全部を濡らしに来る。髪。襟。荷物。火薬袋。赤布。白布。手順書の端。三号車の車体。人の顔。

 音も変わる。

 雨が鉄に当たる音。

 泥に落ちる音。

 草に吸われる音。

 車両の幌を叩く音。

 遠い砲声が、少し丸くなる。

 ハウラーの低い音も、雨の膜の向こうでぼやける。

 ぼやけるだけで、消えない。

 そこが嫌だった。

 旧車道の先は、すでに川みたいになっていた。

 水が轍に集まり、泥の表面を薄く流れている。鉄板路の端から茶色い水が落ちる。短い白布は、水を吸って重くなり、泥に貼りついていた。

 白くない。

 もう白ではない。

 ただの濡れた布だった。

 カナタはそれを見た。

 冬からずっと使ってきた線。

 雪の上に伸び、林の中を抜け、吹雪の中で最後尾を繋ぎ、泥の上で短くなり、夜には点になった線。

 それが、雨で消えていく。

 思ったより静かだった。

 大きな音もない。

 燃えるわけでもない。

 裂けるわけでもない。

 ただ、濡れて、重くなって、泥と同じ色になる。

 そして人に見えなくなる。

「白線、見えません!」

 前方から声が来た。

 若い前線兵だった。

 赤布を持っている。

 リゼが渡した一人。

 彼は足元を見て、少しだけ固まっていた。

 白線がない。

 いつもあるはずのものがない。

 それだけで、人は止まる。

 カナタは口を開いた。

 でも、リゼの方が早かった。

「見えないなら、覚えてる方!」

 若い兵士が顔を上げる。

「覚えてる方?」

「さっき通ったでしょ!足が覚えてる!」

「足!?」

「そう!」

 リゼは赤布を低く振った。

「右に泥深いとこ、左に鉄板、真ん中に硬い場所!覚えてる!」

 若い兵士は足元を見る。

 白線はない。

 でも、道は完全には消えていない。

 何度も人が通った場所。

 泥が踏み固められた場所。

 車輪が沈んでいない場所。

 人の足が作った、目には見えにくい線。

 彼は一歩踏み出した。

 足が沈まない。

 もう一歩。

 沈まない。

「こっち!」

 彼は叫んだ。

「白じゃなくて、硬いとこ!」

 言い方はひどかった。

 でも、通じた。

 人が足元を見る。

 布ではなく、地面を見る。

 タクトの缶が鳴る。

 かん。

 雨の中では、音が少し鈍い。

 でも届く。

 人がそちらを見る。

 赤布。

 手信号。

 硬い泥。

 白線は消えた。

 でも、線は完全には消えていない。

 人が歩いた跡として残っている。

 ヒナセが通信機を押さえて叫んだ。

「雨で通信、さらに不安定!三秒無理です!」

「一秒は?」

 ユウトが言う。

「何を言えと!」

「右!」

「短い!」

「じゃあ左!」

「方向が変わってる!」

 ヒナセは怒りながら、通信機に向かって短く言った。

「硬い道!」

 ノイズ。

 切れる。

 たぶん、届いた。

 たぶんで十分。

 いや、今日はたぶんが少し多すぎる。

 雨が強くなる。

 視界が落ちる。

 夏なのに、少し寒い。

 濡れた服が肌に張りつき、熱を奪っていく。昼の鉄の熱はどこかへ逃げ、三号車の車体も雨で冷え始めていた。

 ミナが運転席から顔を出す。

「泥、深くなる!車間詰めないで!」

「車も滑りますか!」

 ユウトが訊く。

「滑る!怒る!たぶん泣く!」

「車が!」

「私が!」

 三号車が低く唸る。

 雨が車体を叩く。

 その音が、食堂の屋根に降る雨を想像させた。

 ハウンド七の食堂。

 雨の日はあっただろうか。

 雪ばかり覚えている。

 でも、春には雨も降ったはずだ。

 窓に雨が当たり、豆スープの湯気が少しだけ濃く見え、誰かが靴下の乾きが悪いと言ったかもしれない。

 もう、思い出か想像か分からない。

 そういうものが増えていく。

 セナの声が飛んだ。

「足、冷える!歩ける人も交代!濡れたまま止まるな!」

 前線兵が言う。

「止まるなって、ずっと言ってるな!」

「止まると悪くなる!」

「何が!」

「全部!」

 かなり雑だった。

 でも、正しい。

 雨の中では、止まると全部悪くなる。

 体温。

 足元。

 車輪。

 気持ち。

 列。

 全部。

 ハルクは泥の深い場所に立っていた。

 盾を横にして、人の流れを曲げる。

 雨で盾が黒く光っている。

 水が端から落ちる。

 彼はほとんど動かない。

 だが、その場に立っているだけで、人はその内側を通る。

 壁。

 人だが。

 壁。

「ハルクさん、寒くないですか!」

 ユウトが叫ぶ。

「暑いよりましだ」

「意外な感想!」

「濡れると静かだ」

「詩人ですか!」

 ハルクは答えなかった。

 でも、少しだけ口元が動いた気がした。

 雨は、レイスにも降っていた。

 小型レイスの黒い体が濡れて光る。

 泥の中でスリップは動きやすそうだった。いや、そう見えた。水の膜の下を滑るように走り、人の足元へ入る。

 だが、今日は列が足元を見ている。

 白線がないから、足元を見るしかない。

 それが逆に、スリップの動きを見つけやすくしていた。

「足元、小さい黒!」

 若い赤布兵が叫ぶ。

 名前はまだ知らない。

 名前を聞く暇がない。

 でも、彼はもう何度も声を出している。

「足元、小さい黒!踏むな、避けろ!」

「撃つのは?」

 誰かが訊く。

「見えてから!」

 ユウトが答える。

「近くまで!」

 別の兵が続ける。

 言葉が渡っている。

 カナタが言った言葉。

 ユウトが何度も言った言葉。

 それが、知らない前線兵の口から出ている。

 白線は消えた。

 でも、言葉は残っている。

 カナタはそれを聞いた。

 雨が目に入った。

 前が少しだけ滲んだ。

 マコトが雨の中を走ってきた。

 紙を胸に入れている。

 髪が濡れて、額に張りついていた。

「後続、旧車道に入りました!ただ、最後尾が遅いです!」

「何人」

「十二。うち二人担架、三人足を痛めています」

「敵は」

「小型、後方。ハウラーは遠いです」

 カナタは泥の道を見た。

 白線はない。

 火も遠い。

 赤布は低く、雨で重い。

 缶の音は鈍い。

 通信は一秒。

 でも、人が覚えている。

 踏み固めた硬い場所。

 三人ずつ。

 三十歩。

 赤は低く。

 足元を見る。

 止まらない。

 帰ろう。

 全部、誰かの体に残っている。

「迎えに行きます」

 カナタが言った。

 ガレスがこちらを見る。

 雨で顔が濡れている。

 煙草はない。

「白線なしでか」

「はい」

「何を使う」

 カナタは周囲を見た。

 赤布。

 缶。

 手。

 硬い泥。

 人。

「覚えているものを」

 ガレスは少しだけ笑った。

「いい答えだ」

 リゼが隣に来た。

 赤布を握っている。

「行く?」

「はい」

「白線ないよ」

「あります」

「どこに」

 カナタは足元を指した。

 泥。

 踏み固められた跡。

 消えた布の代わりに残った、たくさんの足の線。

「ここに」

 リゼは少しだけ目を細めた。

 それから笑った。

「見えにくい」

「はい」

「でも、ある」

「はい」

 二人は雨の中へ出た。

 ユウトが後ろから叫ぶ。

「三人ずつ!」

 タクトの缶が一回鳴る。

 かん。

 雨の中で、鈍く。

 ヒナセが手信号を上げる。

 マコトが反対側へ走る。

 セナが担架を準備する。

 ハルクが右側に立つ。

 ミナが三号車のライトを地面へ落とす。

 直接ではなく、泥を照らす。

 雨で光が滲む。

 白線はない。

 でも、泥の上に薄い光の道ができる。

 最後尾は、思ったより近くにいた。

 雨で遠く見えただけだった。

 十二人。

 報告通り。

 担架二つ。

 足を痛めた人が三人。

 小型レイスが後ろを追っている。

 ハウラーの音は遠い。

 でも雨の中で、遠い音は距離をごまかす。

 リゼが赤布を低く振る。

「こっち!」

 声は雨に削られる。

 それでも、先頭の兵士が顔を上げた。

 赤を見る。

 カナタは足元を指す。

「硬いところ!足で探して!」

「白線は!」

「足が覚えてます!」

「足!?」

「足!」

 雑だった。

 でも、人は足元を見る。

 一歩。

 沈む。

 戻る。

 少し横。

 沈まない。

 そこを進む。

 担架が揺れる。

 セナの声が遠くから届く。

「持ち手、下げるな!」

 誰かが復唱する。

「持ち手、下げるな!」

 さらに誰かが言う。

「三十歩で交代!」

 また誰かが言う。

「止まるな!」

 言葉が雨の中で飛び石みたいに並ぶ。

 人はそれを踏んで進む。

 白線ではない。

 声の線。

 体の線。

 覚えた線。

 小型レイスが近づく。

 ユウトの銃声。

 若い前線兵の銃声。

 泥が跳ねる。

 カナタは撃たなかった。

 今日は撃つより、足元を見る。

 リゼも撃たない。

 赤布を振る。

 低く。

 雨に濡れて重そうに。

 でも、赤は消えない。

 最後尾が、硬い泥の道へ入った。

 一人。

 担架。

 足を痛めた人。

 また一人。

 雨は強い。

 白線はない。

 でも、列は折れなかった。

 全部が通りきった時、誰も歓声を上げなかった。

 ただ、雨の中で何人かが座り込んだ。

 座り込んでも、もうそこは線の内側だった。

 セナが怒鳴る。

「座るなら膝立てる!冷える!」

 座った人が、慌てて膝を立てる。

 それで少しだけ笑いが起きた。

 雨の中の、湿った笑いだった。

 カナタは足元を見た。

 白布は見えない。

 泥に沈んでいる。

 でも、踏み固められた道がある。

 人が歩いた跡。

 言葉が渡った跡。

 戻るために、何度も何度も通った跡。

 白線は消えた。

 でも、白線が教えたものは残っていた。

 カナタは手袋を見た。

 完全に湿っている。

 今度こそ、どうしようもなく。

 息を吹きかける。

 雨で、すぐ意味がなくなる。

「悪化した」

 小さく言った。

 リゼが隣で笑った。

「でも、帰れた」

「はい」

「じゃあ、線はあった」

 雨はまだ降っている。

 遠くで砲声。

 近くで泥の音。

 火は見えない。

 ハウンド七もない。

 白線も見えない。

 それでも、人は帰ってきた。

 線は、布だけではなかった。

 冬からずっと、足の中にもあったのだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。