帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
雨は、夏の終わりのふりをして降ってきた。
最初は、匂いだった。
泥の匂いの奥に、冷えた鉄みたいな匂いが混じった。草の青さが少し濃くなり、空気が重くなり、誰かの髪が額に張りつく。遠くの空に低い雲が広がって、青かったはずの夏が、急に古い布で覆われたみたいになる。
それでも、まだ誰も雨とは言わなかった。
言うと降る気がしたからだ。
そういう迷信は、たぶんどこの戦場にもある。
「降りますね」
ヒナセが言った。
言った。
言ってしまった。
ユウトが空を見上げる。
「今、言いましたね」
「はい」
「責任、取れます?」
「気象に対する責任は負えません」
「逃げ方が通信兵」
リゼが小さく笑った。
その直後、雨粒が落ちた。
一粒。
カナタの手袋の甲に。
黒い泥と汗で湿っていた手袋に、さらに水が足される。もう何が何だか分からない。雪の頃からずっとそうだった。手袋はいつも湿っている。乾く日もある。乾いたと思う日もある。でも、だいたいすぐ湿る。
雨粒は、手袋の布に小さく染み込んだ。
それだけだった。
それだけなのに、カナタは少しだけ嫌な予感がした。
白線。
雨。
泥。
白い布は、水を吸う。
泥を吸う。
重くなる。
沈む。
消える。
「白布、回収できる分は回収してください」
カナタは言った。
自分の声が少し早かった。
「全部ですか」
マコトが訊く。
「全部は無理です。使えるところだけ」
「使えないところは」
「置きます」
置きます。
最近、何度も言っている。
言うたびに少しずつ慣れている気がして、それが嫌だった。
雨はすぐ強くなった。
夏の雨は、遠慮がない。
冬の雪は、少しずつ世界を消していく。夏の雨は、最初から全部を濡らしに来る。髪。襟。荷物。火薬袋。赤布。白布。手順書の端。三号車の車体。人の顔。
音も変わる。
雨が鉄に当たる音。
泥に落ちる音。
草に吸われる音。
車両の幌を叩く音。
遠い砲声が、少し丸くなる。
ハウラーの低い音も、雨の膜の向こうでぼやける。
ぼやけるだけで、消えない。
そこが嫌だった。
旧車道の先は、すでに川みたいになっていた。
水が轍に集まり、泥の表面を薄く流れている。鉄板路の端から茶色い水が落ちる。短い白布は、水を吸って重くなり、泥に貼りついていた。
白くない。
もう白ではない。
ただの濡れた布だった。
カナタはそれを見た。
冬からずっと使ってきた線。
雪の上に伸び、林の中を抜け、吹雪の中で最後尾を繋ぎ、泥の上で短くなり、夜には点になった線。
それが、雨で消えていく。
思ったより静かだった。
大きな音もない。
燃えるわけでもない。
裂けるわけでもない。
ただ、濡れて、重くなって、泥と同じ色になる。
そして人に見えなくなる。
「白線、見えません!」
前方から声が来た。
若い前線兵だった。
赤布を持っている。
リゼが渡した一人。
彼は足元を見て、少しだけ固まっていた。
白線がない。
いつもあるはずのものがない。
それだけで、人は止まる。
カナタは口を開いた。
でも、リゼの方が早かった。
「見えないなら、覚えてる方!」
若い兵士が顔を上げる。
「覚えてる方?」
「さっき通ったでしょ!足が覚えてる!」
「足!?」
「そう!」
リゼは赤布を低く振った。
「右に泥深いとこ、左に鉄板、真ん中に硬い場所!覚えてる!」
若い兵士は足元を見る。
白線はない。
でも、道は完全には消えていない。
何度も人が通った場所。
泥が踏み固められた場所。
車輪が沈んでいない場所。
人の足が作った、目には見えにくい線。
彼は一歩踏み出した。
足が沈まない。
もう一歩。
沈まない。
「こっち!」
彼は叫んだ。
「白じゃなくて、硬いとこ!」
言い方はひどかった。
でも、通じた。
人が足元を見る。
布ではなく、地面を見る。
タクトの缶が鳴る。
かん。
雨の中では、音が少し鈍い。
でも届く。
人がそちらを見る。
赤布。
手信号。
硬い泥。
白線は消えた。
でも、線は完全には消えていない。
人が歩いた跡として残っている。
ヒナセが通信機を押さえて叫んだ。
「雨で通信、さらに不安定!三秒無理です!」
「一秒は?」
ユウトが言う。
「何を言えと!」
「右!」
「短い!」
「じゃあ左!」
「方向が変わってる!」
ヒナセは怒りながら、通信機に向かって短く言った。
「硬い道!」
ノイズ。
切れる。
たぶん、届いた。
たぶんで十分。
いや、今日はたぶんが少し多すぎる。
雨が強くなる。
視界が落ちる。
夏なのに、少し寒い。
濡れた服が肌に張りつき、熱を奪っていく。昼の鉄の熱はどこかへ逃げ、三号車の車体も雨で冷え始めていた。
ミナが運転席から顔を出す。
「泥、深くなる!車間詰めないで!」
「車も滑りますか!」
ユウトが訊く。
「滑る!怒る!たぶん泣く!」
「車が!」
「私が!」
三号車が低く唸る。
雨が車体を叩く。
その音が、食堂の屋根に降る雨を想像させた。
ハウンド七の食堂。
雨の日はあっただろうか。
雪ばかり覚えている。
でも、春には雨も降ったはずだ。
窓に雨が当たり、豆スープの湯気が少しだけ濃く見え、誰かが靴下の乾きが悪いと言ったかもしれない。
もう、思い出か想像か分からない。
そういうものが増えていく。
セナの声が飛んだ。
「足、冷える!歩ける人も交代!濡れたまま止まるな!」
前線兵が言う。
「止まるなって、ずっと言ってるな!」
「止まると悪くなる!」
「何が!」
「全部!」
かなり雑だった。
でも、正しい。
雨の中では、止まると全部悪くなる。
体温。
足元。
車輪。
気持ち。
列。
全部。
ハルクは泥の深い場所に立っていた。
盾を横にして、人の流れを曲げる。
雨で盾が黒く光っている。
水が端から落ちる。
彼はほとんど動かない。
だが、その場に立っているだけで、人はその内側を通る。
壁。
人だが。
壁。
「ハルクさん、寒くないですか!」
ユウトが叫ぶ。
「暑いよりましだ」
「意外な感想!」
「濡れると静かだ」
「詩人ですか!」
ハルクは答えなかった。
でも、少しだけ口元が動いた気がした。
雨は、レイスにも降っていた。
小型レイスの黒い体が濡れて光る。
泥の中でスリップは動きやすそうだった。いや、そう見えた。水の膜の下を滑るように走り、人の足元へ入る。
だが、今日は列が足元を見ている。
白線がないから、足元を見るしかない。
それが逆に、スリップの動きを見つけやすくしていた。
「足元、小さい黒!」
若い赤布兵が叫ぶ。
名前はまだ知らない。
名前を聞く暇がない。
でも、彼はもう何度も声を出している。
「足元、小さい黒!踏むな、避けろ!」
「撃つのは?」
誰かが訊く。
「見えてから!」
ユウトが答える。
「近くまで!」
別の兵が続ける。
言葉が渡っている。
カナタが言った言葉。
ユウトが何度も言った言葉。
それが、知らない前線兵の口から出ている。
白線は消えた。
でも、言葉は残っている。
カナタはそれを聞いた。
雨が目に入った。
前が少しだけ滲んだ。
マコトが雨の中を走ってきた。
紙を胸に入れている。
髪が濡れて、額に張りついていた。
「後続、旧車道に入りました!ただ、最後尾が遅いです!」
「何人」
「十二。うち二人担架、三人足を痛めています」
「敵は」
「小型、後方。ハウラーは遠いです」
カナタは泥の道を見た。
白線はない。
火も遠い。
赤布は低く、雨で重い。
缶の音は鈍い。
通信は一秒。
でも、人が覚えている。
踏み固めた硬い場所。
三人ずつ。
三十歩。
赤は低く。
足元を見る。
止まらない。
帰ろう。
全部、誰かの体に残っている。
「迎えに行きます」
カナタが言った。
ガレスがこちらを見る。
雨で顔が濡れている。
煙草はない。
「白線なしでか」
「はい」
「何を使う」
カナタは周囲を見た。
赤布。
缶。
手。
硬い泥。
人。
「覚えているものを」
ガレスは少しだけ笑った。
「いい答えだ」
リゼが隣に来た。
赤布を握っている。
「行く?」
「はい」
「白線ないよ」
「あります」
「どこに」
カナタは足元を指した。
泥。
踏み固められた跡。
消えた布の代わりに残った、たくさんの足の線。
「ここに」
リゼは少しだけ目を細めた。
それから笑った。
「見えにくい」
「はい」
「でも、ある」
「はい」
二人は雨の中へ出た。
ユウトが後ろから叫ぶ。
「三人ずつ!」
タクトの缶が一回鳴る。
かん。
雨の中で、鈍く。
ヒナセが手信号を上げる。
マコトが反対側へ走る。
セナが担架を準備する。
ハルクが右側に立つ。
ミナが三号車のライトを地面へ落とす。
直接ではなく、泥を照らす。
雨で光が滲む。
白線はない。
でも、泥の上に薄い光の道ができる。
最後尾は、思ったより近くにいた。
雨で遠く見えただけだった。
十二人。
報告通り。
担架二つ。
足を痛めた人が三人。
小型レイスが後ろを追っている。
ハウラーの音は遠い。
でも雨の中で、遠い音は距離をごまかす。
リゼが赤布を低く振る。
「こっち!」
声は雨に削られる。
それでも、先頭の兵士が顔を上げた。
赤を見る。
カナタは足元を指す。
「硬いところ!足で探して!」
「白線は!」
「足が覚えてます!」
「足!?」
「足!」
雑だった。
でも、人は足元を見る。
一歩。
沈む。
戻る。
少し横。
沈まない。
そこを進む。
担架が揺れる。
セナの声が遠くから届く。
「持ち手、下げるな!」
誰かが復唱する。
「持ち手、下げるな!」
さらに誰かが言う。
「三十歩で交代!」
また誰かが言う。
「止まるな!」
言葉が雨の中で飛び石みたいに並ぶ。
人はそれを踏んで進む。
白線ではない。
声の線。
体の線。
覚えた線。
小型レイスが近づく。
ユウトの銃声。
若い前線兵の銃声。
泥が跳ねる。
カナタは撃たなかった。
今日は撃つより、足元を見る。
リゼも撃たない。
赤布を振る。
低く。
雨に濡れて重そうに。
でも、赤は消えない。
最後尾が、硬い泥の道へ入った。
一人。
担架。
足を痛めた人。
また一人。
雨は強い。
白線はない。
でも、列は折れなかった。
全部が通りきった時、誰も歓声を上げなかった。
ただ、雨の中で何人かが座り込んだ。
座り込んでも、もうそこは線の内側だった。
セナが怒鳴る。
「座るなら膝立てる!冷える!」
座った人が、慌てて膝を立てる。
それで少しだけ笑いが起きた。
雨の中の、湿った笑いだった。
カナタは足元を見た。
白布は見えない。
泥に沈んでいる。
でも、踏み固められた道がある。
人が歩いた跡。
言葉が渡った跡。
戻るために、何度も何度も通った跡。
白線は消えた。
でも、白線が教えたものは残っていた。
カナタは手袋を見た。
完全に湿っている。
今度こそ、どうしようもなく。
息を吹きかける。
雨で、すぐ意味がなくなる。
「悪化した」
小さく言った。
リゼが隣で笑った。
「でも、帰れた」
「はい」
「じゃあ、線はあった」
雨はまだ降っている。
遠くで砲声。
近くで泥の音。
火は見えない。
ハウンド七もない。
白線も見えない。
それでも、人は帰ってきた。
線は、布だけではなかった。
冬からずっと、足の中にもあったのだ。