帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十七話 帰還誘導兵

 名前は、あとから来る。

 最初から名前があるものは、案外少ない。

 赤い布は、最初ただの布だった。

 白線も、最初ただの布だった。

 タクトの缶も、最初ただの空き缶だった。

 黒札も、ただの札だった。

 帰ってきたもの置き場も、ただの古い学校机だった。

 そこに何度も人が戻ってきて、何度も誰かが泣き、何度も笑い、何度も荷物を置き、何度も出ていって、ようやく名前になる。

 名前とは、たぶん、そういうものなのだと思う。

 雨は夜明け前にやんだ。

 やんだ、というより力尽きたように止まった。

 雲は低く残り、空は灰色で、夏の朝なのに少しだけ寒かった。泥は水を含んで重く、草の先には水滴が並んでいる。三号車の車体からは、雨水がまだぽたぽた落ちていた。

 火は消えていた。

 灰だけが残っている。

 夜のあいだ帰る場所だった火は、朝になるとただの黒い跡になる。

 それが少し寂しかった。

 でも、火があった場所は分かる。

 人が座っていた輪も分かる。

 足跡もある。

 赤布を結んだ鉄骨には、濡れた赤い繊維が少しだけ残っていた。

 火は消えた。

 でも、場所は残っている。

 仮だったものが、跡になる。

 跡になれば、人はそこを覚えられる。

「寒いですね」

 ユウトが言った。

 濡れた袖を絞っている。

「夏です」

 カナタは答えた。

「夏にも裏切られるんですね」

「よくあります」

「季節への信頼がなくなってきました」

「戦場なので」

「便利な言葉」

 ユウトは笑った。

 笑い方は少し疲れている。

 でも、昨日よりは声が戻っていた。

 雨の夜を越えたあと、人間は少しだけ変なテンションになる。眠れなかったせいかもしれない。濡れた服が不快すぎて、かえって笑うしかなくなるせいかもしれない。

 タクトは缶の布を替えていた。

 濡れた布を外し、乾いた布を巻く。

 乾いた、と言っても完全ではない。

 湿っていない、という程度だ。

 それでも、今はかなり貴重だった。

「缶、無事ですか」

 カナタが訊く。

「はい」

 タクトは缶を軽く振った。

 鳴らない。

 少しだけ布をずらす。

 もう一度。

 かん。

 一回だけ鳴る。

 彼は頷いた。

「両方いけます」

「職人ですね」

 ユウトが言う。

「職人ではないです」

「じゃあ何ですか」

 タクトは少し考えた。

「係」

「缶係?」

「音係」

 ユウトは真顔で頷いた。

「出世しましたね」

「したんですか」

「缶から音へ」

「広くなった気はします」

 小さな笑いが起きた。

 朝の泥の上では、笑いも少し湿っていた。

 ヒナセの通信機が鳴ったのは、その直後だった。

 ノイズ。

 雨上がりの通信は、昨日より少しだけ通る。

 ただし、聞こえることが必ず良いとは限らない。

 聞こえなければ知らずに済んだ悪い知らせが、はっきり届くこともある。

 ヒナセは耳を押さえた。

 顔が少し変わる。

「前方、合流点で渋滞。前線兵、補給車、避難列が混在。指揮系統、混線」

 ガレスが煙草を咥えた。

 火はついていない。

「敵は」

「ハウラー複数。小型群。バスティオンは遠いです。でも進行中」

「遠いは、どれくらいだ」

「……遠いです」

「便利に逃げたな」

「通信がそこまでしか」

 ヒナセは少し悔しそうに言った。

 ガレスは責めなかった。

「十分だ」

 合流点。

 そこは、地図の上では大した場所ではなかった。

 旧車道と補給路と避難路が交わるだけの場所。

 ただ、それだけ。

 だが撤退中は、ただ交わるだけの場所が一番怖い。

 人が合わさる。

 車が合わさる。

 声が合わさる。

 正しい方向が複数になる。

 正しい人間が複数いる。

 そういう場所で、列は折れる。

 カナタは泥の地図を見た。

 紙の地図は濡れて使いにくい。

 だから、マコトが板に描いている。

 硬い板。

 泥で汚れた指。

 旧車道。

 補給路。

 避難路。

 その交差。

 そこに、前線兵と補給車と避難民。

 そこへレイスが来る。

「ここで詰まると、全部詰まります」

 カナタは言った。

「でしょうね」

 ユウトが言う。

「でしょうね、の顔してます」

「どういう顔ですか」

「詰まりを見てしまった顔」

「嫌な顔ですね」

「最近よくします」

 否定できなかった。

 カナタは息を吸った。

 雨上がりの空気。

 泥。

 鉄。

 草。

 消えた火の匂い。

 全部が混ざっている。

「合流点では、こちらが一つずつ分けます。前線兵は左、補給車は中央、避難列は右。担架は赤布二番。動ける兵は通過後に誘導へ回します」

「また増やす?」

 リゼが訊いた。

「はい」

「帰れたら、次を帰す」

「はい」

 リゼは少し笑った。

「じゃあ、名前も渡るね」

「名前?」

「うん」

 彼女は赤布を巻き直した。

「たぶん、そろそろ」

 その時、カナタには意味が分からなかった。

 分かったのは、合流点に着いてからだった。

 合流点は、すでに混乱していた。

 雨上がりの泥に、車輪が何本も線を引いている。

 人の足跡は、その線の間で潰れている。

 補給車が斜めに止まり、前線兵が荷台から弾薬箱を下ろそうとしていて、避難民がそれを避けようとして詰まり、担架が進めず、誰かが怒鳴り、誰かが泣き、誰かが「こっちでいいのか」と何度も訊いている。

 その全部の上から、ハウラーの音が落ちていた。

 低い。

 複数。

 声が沈む。

 怒鳴り声が途中で途切れる。

 自分の言葉が、自分の喉から遠く出ていかない感じ。

 人々は白線を探していた。

 でも、雨で消えた。

 赤布を探していた。

 でも、レイスが赤に反応することを知っている者は、むしろ赤を怖がっていた。

 通信は混線している。

 指揮官らしい兵士が三人、それぞれ正しいことを言っている。

 全部が正しい。

 だから、全部が詰まっていた。

「第七混成機動群!」

 ガレスが名乗った。

 しかし、ハウラーの音に削られて届きにくい。

 カナタは前へ出た。

 だが、その前に、泥の中から声が上がった。

「帰還誘導兵だ!」

 誰かが言った。

 誰だったのか、分からなかった。

 前線兵かもしれない。

 避難民かもしれない。

 補給兵かもしれない。

 でも、その声は確かに届いた。

「帰還誘導兵が来た!」

 別の声が続く。

「通せ!」

「帰還誘導兵を通せ!」

 名前が、泥の上を走った。

 カナタは一瞬、足を止めそうになった。

 帰還誘導兵。

 辞令にはあった。

 食堂でも言われた。

 避難民にも呼ばれた。

 だが、今のそれは違った。

 泥の中で、混乱の中で、誰かが道を開けるためにその名を使った。

 名前が、役に立った。

 人が、こちらを見る。

 道が、少し空く。

 その瞬間、名前はただの呼び名ではなくなった。

 役割になった。

 命令になった。

 合図になった。

 カナタは息を吸った。

 止まっている場合ではない。

「前線兵は左!」

 声が出た。

 思ったより大きく。

「補給車は中央!避難列は右!担架は赤布二番!帰れた人は次を帰す!」

 リゼがすぐに赤布を低く出す。

「赤は高く上げない!見た人から三人ずつ!」

 ユウトが続く。

「苦情は生存後!今は左、中央、右!」

 タクトの缶が鳴る。

 かん。

 一回。

 ヒナセが手信号を出す。

 マコトが走る。

「帰還誘導兵、左!前線兵、左です!」

 言葉が少し変だった。

 でも、それで伝わった。

 帰還誘導兵という言葉を聞いた人たちが、自分たちの進む場所を探す。

 ハルクが中央へ立つ。

 盾を横にする。

 補給車の進路が決まる。

 ミナが三号車を斜めに入れる。

『車の右!人間も右!今日は全員同じ右!』

「ありがたい!」

 ユウトが叫ぶ。

 少し笑いが起きる。

 笑いながら、車輪が動く。

 補給車が中央へ流れる。

 避難列が右へ抜ける。

 前線兵が左へ寄る。

 担架が赤布二番へ入る。

 セナがそこで受ける。

「担架は下げるな!三十歩交代!倒れる前に言え!」

 その言葉を、知らない衛生兵が復唱した。

「三十歩交代!」

 さらに別の兵士が言う。

「倒れる前に言え!」

 セナが一瞬だけそちらを見る。

 そして、少しだけ頷いた。

 褒めたのではない。

 でも、認めた。

 それで十分だった。

 小型レイスが合流点の端へ来た。

 ピッカーが赤布へ向かう。

 若い前線兵が叫ぶ。

「赤、移動!」

 リゼが驚くより早く、彼は赤布を低く折り、位置をずらした。

 ピッカーは空振りする。

 泥を引っかく。

 ユウトが撃つ。

 当たる。

「今の、誰が教えたんですか!」

 ユウトが叫ぶ。

 若い兵士が返す。

「見て覚えた!」

「優秀!」

「仮免だ!」

 リゼが言う。

「まだ!?」

「まだ!」

 小さな笑い。

 でも、流れは止まらない。

 レイスが狙う赤は、もう一か所ではない。

 白線はない。

 でも、足が覚えている。

 通信はない。

 でも、声が渡る。

 帰還誘導兵は、ひとつの班ではなくなりかけていた。

 言葉が、人の間を渡っている。

「帰還誘導兵、こっち見ろ!」

 補給兵が叫ぶ。

 タクトが反応する。

「音、鳴らします!」

 かん。

 人が見る。

 補給兵が自分で赤布代わりに腕を振る。

「中央!中央通す!」

「違う、そっちは避難列!」

 避難民の青年が叫ぶ。

「右!子供は右!荷物は一つ!」

 カナタはその声を聞いた。

 自分たちではない声。

 でも、同じ仕事をしている声。

 帰還誘導兵。

 その名前は、もうカナタたちだけを指していなかった。

 帰すために立った人間を指していた。

 泥の上で、名前が広がっている。

 ハウラーの音がさらに強くなる。

 雨上がりの湿った空気が震える。

 小型レイスが中央へ突っ込む。

 ハルクが盾で止める。

 その後ろに、知らない前線兵が二人入る。

「壁、増やす!」

 リゼが叫ぶ。

「人だ!」

 ハルクが返す。

「じゃあ人、増やす!」

 前線兵が笑いながら盾の横に並ぶ。

 疲れている。

 濡れている。

 怖い。

 でも、立つ。

 壁は増えた。

 人として。

 補給車が抜ける。

 避難列が抜ける。

 前線兵が抜ける。

 担架が抜ける。

 合流点の混乱が、少しずつ線になる。

 きれいではない。

 泥だらけ。

 怒鳴り声だらけ。

 間違いだらけ。

 それでも、流れている。

 カナタは初めて、指示を少し減らした。

 必要なところだけを見る。

 補給車の車間。

 担架の角度。

 右の避難列の詰まり。

 それ以外は、誰かが見ている。

 帰還誘導兵が。

 カナタたちだけではない。

 名前を受け取った人たちが。

 最後の車両が合流点を抜けた時、泥の上にはたくさんの足跡が残った。

 白線はない。

 赤布もいくつか泥に落ちている。

 缶の音は止んだ。

 通信はまたノイズに沈んだ。

 でも、列は通った。

 ガレスが隣に来る。

 顔が濡れている。

 雨ではない。

 汗かもしれない。

「聞いたか」

「はい」

「名前、使われたな」

「はい」

「逃げられねぇぞ」

 カナタは少しだけ笑った。

「もう逃げてません」

「言うようになった」

 ガレスも少し笑った。

 リゼが泥の中から赤布を拾う。

 絞る。

 水が落ちる。

「帰還誘導兵」

 彼女が言った。

「変な名前」

「あなたが最初に言いました」

「そうだっけ」

「はい」

「じゃあ、責任あるね」

「文化ですか」

「文化」

「責任を文化にしないでください」

 リゼは笑った。

 疲れた笑い。

 でも、ちゃんと笑いだった。

 カナタは手袋を見た。

 泥と雨と汗で、もう完全に湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 だが、今日は少しだけ違った。

 この手袋も、名前を持っている気がした。

 湿った手袋。

 帰還誘導兵の手袋。

 嫌な名前だ。

 でも、少しだけ悪くない。

「悪化した」

 小さく言う。

 ユウトが聞いていた。

「正式悪化ですね」

「やめてください」

 タクトが缶を押さえる。

「でも、通りました」

「はい」

 ヒナセが通信機を持ち上げる。

 ノイズの向こうから、別の声が聞こえた。

『帰還誘導兵、次の合流点へ回せ』

 誰かが言った。

 たぶん別の部隊。

 カナタは目を閉じた。

 一瞬だけ。

 名前が、また先へ行く。

 自分たちより先に。

 泥の道の向こうへ。

 夏の終わりの空の下へ。

 帰還誘導兵。

 それはもう、ハウンド七の変な部隊の名前ではなかった。

 帰る場所を作る人間たちの名前になっていた。

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