帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
名前は、あとから来る。
最初から名前があるものは、案外少ない。
赤い布は、最初ただの布だった。
白線も、最初ただの布だった。
タクトの缶も、最初ただの空き缶だった。
黒札も、ただの札だった。
帰ってきたもの置き場も、ただの古い学校机だった。
そこに何度も人が戻ってきて、何度も誰かが泣き、何度も笑い、何度も荷物を置き、何度も出ていって、ようやく名前になる。
名前とは、たぶん、そういうものなのだと思う。
雨は夜明け前にやんだ。
やんだ、というより力尽きたように止まった。
雲は低く残り、空は灰色で、夏の朝なのに少しだけ寒かった。泥は水を含んで重く、草の先には水滴が並んでいる。三号車の車体からは、雨水がまだぽたぽた落ちていた。
火は消えていた。
灰だけが残っている。
夜のあいだ帰る場所だった火は、朝になるとただの黒い跡になる。
それが少し寂しかった。
でも、火があった場所は分かる。
人が座っていた輪も分かる。
足跡もある。
赤布を結んだ鉄骨には、濡れた赤い繊維が少しだけ残っていた。
火は消えた。
でも、場所は残っている。
仮だったものが、跡になる。
跡になれば、人はそこを覚えられる。
「寒いですね」
ユウトが言った。
濡れた袖を絞っている。
「夏です」
カナタは答えた。
「夏にも裏切られるんですね」
「よくあります」
「季節への信頼がなくなってきました」
「戦場なので」
「便利な言葉」
ユウトは笑った。
笑い方は少し疲れている。
でも、昨日よりは声が戻っていた。
雨の夜を越えたあと、人間は少しだけ変なテンションになる。眠れなかったせいかもしれない。濡れた服が不快すぎて、かえって笑うしかなくなるせいかもしれない。
タクトは缶の布を替えていた。
濡れた布を外し、乾いた布を巻く。
乾いた、と言っても完全ではない。
湿っていない、という程度だ。
それでも、今はかなり貴重だった。
「缶、無事ですか」
カナタが訊く。
「はい」
タクトは缶を軽く振った。
鳴らない。
少しだけ布をずらす。
もう一度。
かん。
一回だけ鳴る。
彼は頷いた。
「両方いけます」
「職人ですね」
ユウトが言う。
「職人ではないです」
「じゃあ何ですか」
タクトは少し考えた。
「係」
「缶係?」
「音係」
ユウトは真顔で頷いた。
「出世しましたね」
「したんですか」
「缶から音へ」
「広くなった気はします」
小さな笑いが起きた。
朝の泥の上では、笑いも少し湿っていた。
ヒナセの通信機が鳴ったのは、その直後だった。
ノイズ。
雨上がりの通信は、昨日より少しだけ通る。
ただし、聞こえることが必ず良いとは限らない。
聞こえなければ知らずに済んだ悪い知らせが、はっきり届くこともある。
ヒナセは耳を押さえた。
顔が少し変わる。
「前方、合流点で渋滞。前線兵、補給車、避難列が混在。指揮系統、混線」
ガレスが煙草を咥えた。
火はついていない。
「敵は」
「ハウラー複数。小型群。バスティオンは遠いです。でも進行中」
「遠いは、どれくらいだ」
「……遠いです」
「便利に逃げたな」
「通信がそこまでしか」
ヒナセは少し悔しそうに言った。
ガレスは責めなかった。
「十分だ」
合流点。
そこは、地図の上では大した場所ではなかった。
旧車道と補給路と避難路が交わるだけの場所。
ただ、それだけ。
だが撤退中は、ただ交わるだけの場所が一番怖い。
人が合わさる。
車が合わさる。
声が合わさる。
正しい方向が複数になる。
正しい人間が複数いる。
そういう場所で、列は折れる。
カナタは泥の地図を見た。
紙の地図は濡れて使いにくい。
だから、マコトが板に描いている。
硬い板。
泥で汚れた指。
旧車道。
補給路。
避難路。
その交差。
そこに、前線兵と補給車と避難民。
そこへレイスが来る。
「ここで詰まると、全部詰まります」
カナタは言った。
「でしょうね」
ユウトが言う。
「でしょうね、の顔してます」
「どういう顔ですか」
「詰まりを見てしまった顔」
「嫌な顔ですね」
「最近よくします」
否定できなかった。
カナタは息を吸った。
雨上がりの空気。
泥。
鉄。
草。
消えた火の匂い。
全部が混ざっている。
「合流点では、こちらが一つずつ分けます。前線兵は左、補給車は中央、避難列は右。担架は赤布二番。動ける兵は通過後に誘導へ回します」
「また増やす?」
リゼが訊いた。
「はい」
「帰れたら、次を帰す」
「はい」
リゼは少し笑った。
「じゃあ、名前も渡るね」
「名前?」
「うん」
彼女は赤布を巻き直した。
「たぶん、そろそろ」
その時、カナタには意味が分からなかった。
分かったのは、合流点に着いてからだった。
合流点は、すでに混乱していた。
雨上がりの泥に、車輪が何本も線を引いている。
人の足跡は、その線の間で潰れている。
補給車が斜めに止まり、前線兵が荷台から弾薬箱を下ろそうとしていて、避難民がそれを避けようとして詰まり、担架が進めず、誰かが怒鳴り、誰かが泣き、誰かが「こっちでいいのか」と何度も訊いている。
その全部の上から、ハウラーの音が落ちていた。
低い。
複数。
声が沈む。
怒鳴り声が途中で途切れる。
自分の言葉が、自分の喉から遠く出ていかない感じ。
人々は白線を探していた。
でも、雨で消えた。
赤布を探していた。
でも、レイスが赤に反応することを知っている者は、むしろ赤を怖がっていた。
通信は混線している。
指揮官らしい兵士が三人、それぞれ正しいことを言っている。
全部が正しい。
だから、全部が詰まっていた。
「第七混成機動群!」
ガレスが名乗った。
しかし、ハウラーの音に削られて届きにくい。
カナタは前へ出た。
だが、その前に、泥の中から声が上がった。
「帰還誘導兵だ!」
誰かが言った。
誰だったのか、分からなかった。
前線兵かもしれない。
避難民かもしれない。
補給兵かもしれない。
でも、その声は確かに届いた。
「帰還誘導兵が来た!」
別の声が続く。
「通せ!」
「帰還誘導兵を通せ!」
名前が、泥の上を走った。
カナタは一瞬、足を止めそうになった。
帰還誘導兵。
辞令にはあった。
食堂でも言われた。
避難民にも呼ばれた。
だが、今のそれは違った。
泥の中で、混乱の中で、誰かが道を開けるためにその名を使った。
名前が、役に立った。
人が、こちらを見る。
道が、少し空く。
その瞬間、名前はただの呼び名ではなくなった。
役割になった。
命令になった。
合図になった。
カナタは息を吸った。
止まっている場合ではない。
「前線兵は左!」
声が出た。
思ったより大きく。
「補給車は中央!避難列は右!担架は赤布二番!帰れた人は次を帰す!」
リゼがすぐに赤布を低く出す。
「赤は高く上げない!見た人から三人ずつ!」
ユウトが続く。
「苦情は生存後!今は左、中央、右!」
タクトの缶が鳴る。
かん。
一回。
ヒナセが手信号を出す。
マコトが走る。
「帰還誘導兵、左!前線兵、左です!」
言葉が少し変だった。
でも、それで伝わった。
帰還誘導兵という言葉を聞いた人たちが、自分たちの進む場所を探す。
ハルクが中央へ立つ。
盾を横にする。
補給車の進路が決まる。
ミナが三号車を斜めに入れる。
『車の右!人間も右!今日は全員同じ右!』
「ありがたい!」
ユウトが叫ぶ。
少し笑いが起きる。
笑いながら、車輪が動く。
補給車が中央へ流れる。
避難列が右へ抜ける。
前線兵が左へ寄る。
担架が赤布二番へ入る。
セナがそこで受ける。
「担架は下げるな!三十歩交代!倒れる前に言え!」
その言葉を、知らない衛生兵が復唱した。
「三十歩交代!」
さらに別の兵士が言う。
「倒れる前に言え!」
セナが一瞬だけそちらを見る。
そして、少しだけ頷いた。
褒めたのではない。
でも、認めた。
それで十分だった。
小型レイスが合流点の端へ来た。
ピッカーが赤布へ向かう。
若い前線兵が叫ぶ。
「赤、移動!」
リゼが驚くより早く、彼は赤布を低く折り、位置をずらした。
ピッカーは空振りする。
泥を引っかく。
ユウトが撃つ。
当たる。
「今の、誰が教えたんですか!」
ユウトが叫ぶ。
若い兵士が返す。
「見て覚えた!」
「優秀!」
「仮免だ!」
リゼが言う。
「まだ!?」
「まだ!」
小さな笑い。
でも、流れは止まらない。
レイスが狙う赤は、もう一か所ではない。
白線はない。
でも、足が覚えている。
通信はない。
でも、声が渡る。
帰還誘導兵は、ひとつの班ではなくなりかけていた。
言葉が、人の間を渡っている。
「帰還誘導兵、こっち見ろ!」
補給兵が叫ぶ。
タクトが反応する。
「音、鳴らします!」
かん。
人が見る。
補給兵が自分で赤布代わりに腕を振る。
「中央!中央通す!」
「違う、そっちは避難列!」
避難民の青年が叫ぶ。
「右!子供は右!荷物は一つ!」
カナタはその声を聞いた。
自分たちではない声。
でも、同じ仕事をしている声。
帰還誘導兵。
その名前は、もうカナタたちだけを指していなかった。
帰すために立った人間を指していた。
泥の上で、名前が広がっている。
ハウラーの音がさらに強くなる。
雨上がりの湿った空気が震える。
小型レイスが中央へ突っ込む。
ハルクが盾で止める。
その後ろに、知らない前線兵が二人入る。
「壁、増やす!」
リゼが叫ぶ。
「人だ!」
ハルクが返す。
「じゃあ人、増やす!」
前線兵が笑いながら盾の横に並ぶ。
疲れている。
濡れている。
怖い。
でも、立つ。
壁は増えた。
人として。
補給車が抜ける。
避難列が抜ける。
前線兵が抜ける。
担架が抜ける。
合流点の混乱が、少しずつ線になる。
きれいではない。
泥だらけ。
怒鳴り声だらけ。
間違いだらけ。
それでも、流れている。
カナタは初めて、指示を少し減らした。
必要なところだけを見る。
補給車の車間。
担架の角度。
右の避難列の詰まり。
それ以外は、誰かが見ている。
帰還誘導兵が。
カナタたちだけではない。
名前を受け取った人たちが。
最後の車両が合流点を抜けた時、泥の上にはたくさんの足跡が残った。
白線はない。
赤布もいくつか泥に落ちている。
缶の音は止んだ。
通信はまたノイズに沈んだ。
でも、列は通った。
ガレスが隣に来る。
顔が濡れている。
雨ではない。
汗かもしれない。
「聞いたか」
「はい」
「名前、使われたな」
「はい」
「逃げられねぇぞ」
カナタは少しだけ笑った。
「もう逃げてません」
「言うようになった」
ガレスも少し笑った。
リゼが泥の中から赤布を拾う。
絞る。
水が落ちる。
「帰還誘導兵」
彼女が言った。
「変な名前」
「あなたが最初に言いました」
「そうだっけ」
「はい」
「じゃあ、責任あるね」
「文化ですか」
「文化」
「責任を文化にしないでください」
リゼは笑った。
疲れた笑い。
でも、ちゃんと笑いだった。
カナタは手袋を見た。
泥と雨と汗で、もう完全に湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
だが、今日は少しだけ違った。
この手袋も、名前を持っている気がした。
湿った手袋。
帰還誘導兵の手袋。
嫌な名前だ。
でも、少しだけ悪くない。
「悪化した」
小さく言う。
ユウトが聞いていた。
「正式悪化ですね」
「やめてください」
タクトが缶を押さえる。
「でも、通りました」
「はい」
ヒナセが通信機を持ち上げる。
ノイズの向こうから、別の声が聞こえた。
『帰還誘導兵、次の合流点へ回せ』
誰かが言った。
たぶん別の部隊。
カナタは目を閉じた。
一瞬だけ。
名前が、また先へ行く。
自分たちより先に。
泥の道の向こうへ。
夏の終わりの空の下へ。
帰還誘導兵。
それはもう、ハウンド七の変な部隊の名前ではなかった。
帰る場所を作る人間たちの名前になっていた。