帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
新しい拠点には、まだ匂いがなかった。
いや、匂いそのものはあった。
古い木材の匂い。
湿った布の匂い。
消毒液の匂い。
倉庫に長く置かれていた穀物袋の匂い。
それから、誰かが急いで運び込んだ燃料缶の、鼻に刺さる匂い。
でも、それはまだ拠点の匂いではなかった。
ただ、物が集まっている匂いだった。
ハウンド七には、ハウンド七の匂いがあった。
豆スープ。
灯油ストーブ。
濡れた靴下。
三号車の油。
医療棟の消毒液。
食堂の木の椀。
夏になってからは、開いた窓から入る草の匂い。
それらがごちゃごちゃに混ざって、最初は嫌だったのに、いつの間にか「戻ってきた」と思う匂いになっていた。
新しい拠点の匂いは、まだばらばらだった。
ひとつになっていない。
だから、カナタは門をくぐった瞬間、帰ってきたとは思わなかった。
着いた、と思った。
それだけだった。
新拠点は、旧南部貨物駅を転用した場所だった。
駅と言っても、旅客用ではない。
長い屋根。
低い倉庫。
錆びた線路。
貨物台。
古い信号機。
屋根の端からは、昨日の雨がまだ少し落ちている。地面には水たまりが残り、その水面に夏の空が小さく割れて映っていた。
空は明るかった。
雨のあとの空は、少しだけ嘘みたいに明るい。
何もなかった顔をする。
泥に残った足跡も、破れた赤布も、湿った手袋も、全部見ていたはずなのに、空だけは知らないふりをしている。
残暑だった。
夏はまだいた。
でも、昨日までの夏とは少し違った。
熱はある。
鉄も熱い。
水筒の麦茶も冷えない。
それなのに、風の端に少しだけ空白がある。
蝉の声が少ない。
鳴いていないわけではない。
鳴いている。
でも、夏祭りの日のように世界を埋めるほどではない。
ところどころ欠けている。
その欠けた場所に、遠い砲声が入る。
ユウトが貨物台の端に座り、椀を持っていた。
新しい椀だった。
金属製。
木ではない。
持つと少し熱い。
「木の椀じゃないですね」
彼は言った。
「はい」
カナタは答えた。
「豆は?」
「見ましたか」
「見る前に訊きました」
「祈りですか」
「宗教に近いです」
ユウトは椀を覗いた。
しばらく黙る。
「二粒」
「市民ですね」
タクトが言った。
彼も金属椀を持っている。
腰の缶は鳴らない。
濡れた布は交換済みで、赤布の小片が一緒に結ばれていた。
「市民制度、続くんですね」
ユウトは少し笑った。
「場所が変わっても」
「豆は豆なので」
タクトは真面目に答えた。
「強い」
リゼが言った。
彼女は貨物台の柱に赤布を結んでいた。
ハウンド七の食堂の柱ではない。
旧搬送集積所の鉄骨でもない。
貨物駅の、煤で黒ずんだ柱。
そこに赤布を結ぶ。
見慣れない。
赤が少し浮いている。
新しい壁に貼られた古いポスターみたいだった。
「似合わないね」
リゼは自分で言った。
「赤布がですか」
「この柱に」
「そのうち馴染みます」
「柱の方が?」
「たぶん」
「赤布、強いな」
リゼは結び目を少し直した。
いつもの位置。
腰より少し上。
高すぎず、低すぎず。
人が自然に見る高さ。
柱は知らない。
でも、結び方は同じだった。
それだけで、少しだけ場所が変わる。
マコトは貨物台の隅に座り、手順書を開いていた。
《帰還誘導兵のだいたいのやつ》
《改訂予定》
《移転後も使用》
そこへ、新しく書き足している。
《新拠点。匂い未確定》
カナタはそれを見て、少しだけ笑った。
「それ、記録するんですか」
「はい」
「必要ですか」
「たぶん」
「たぶん」
「拠点の匂いは、帰還判断に関係する可能性があります」
真面目だった。
かなり真面目だった。
でも、分かる。
匂いは、帰る場所を決める。
人は地図だけで帰るのではない。
匂いで帰る。
音で帰る。
湯気で帰る。
椀の重さで帰る。
まだ、この場所にはそれがない。
だから、帰ってきた気がしない。
ミナは三号車の前で、何も言わずにしゃがんでいた。
三号車は貨物屋根の下に入っている。
入っただけだった。
格納庫ではない。
床はコンクリートではなく、古い敷石と泥。
工具を置く台も、部品棚も、あの壁の油染みもない。
それでも、三号車はそこにいた。
車体には泥。
雨の跡。
細かい傷。
ハウンド七の格納庫から持ってきた音が、まだ中に残っているように見えた。
「三号車、落ち着きませんね」
カナタが言うと、ミナは顔を上げた。
「分かる?」
「なんとなく」
「車庫じゃない」
「はい」
「屋根はあるけど、違う」
「はい」
「床が違う。音が違う。風が抜けすぎる」
ミナは三号車の側面を叩いた。
軽い音。
確かに、格納庫で聞いた音とは違った。
「でも、ここで寝るしかない」
「はい」
「じゃあ、ここを車庫にする」
ミナは立ち上がった。
工具箱を開く。
貨物台の壁に、チョークで小さく書いた。
《三号車仮眠中》
リゼが遠くから見て笑った。
「かわいい」
「かわいいじゃない。注意喚起」
「仮眠なんだ」
「本眠はまだ無理」
ユウトが言う。
「車にも本眠があるんですね」
「ある」
「奥深い」
笑いが起きた。
新しい拠点で、初めて少しだけ自然に笑った気がした。
笑い声は屋根に当たり、少し跳ね返ってきた。
ハウンド七の食堂とは音が違う。
広い。
乾いている。
まだ誰のものでもない音。
セナは駅舎の旧事務室を医療室にしていた。
机をどかす。
床を拭く。
窓を開ける。
古い書類を束ねて外へ出す。
その手つきは早い。
迷いがない。
場所に愛着を持つ前に、使える場所に変えてしまう。
それがセナのやり方だった。
「ここ、医療室ですか」
「今から」
セナは答えた。
「まだ医療室の匂いがしませんね」
「させる」
「強い」
「消毒液、開けて」
カナタが瓶を開けると、匂いが広がった。
消毒液。
ハウンド七と同じ匂い。
でも、部屋が違うから少し違って感じる。
セナはその匂いを確認して、短く言った。
「よし」
それだけで、旧事務室は少し医療室になった。
匂い。
人。
道具。
名前。
場所は、そういうものに少しずつ負けて変わっていく。
ヒナセは駅舎の屋根へ上がっていた。
通信線を張るためだ。
高いところが苦手ではないらしい。
雨上がりの屋根は滑る。
それでも、彼女は通信機材の鞄を抱えて登っていく。
下からユウトが見上げて言う。
「落ちないでくださいね」
「落ちたら通信できません」
「そこですか」
「あと痛いです」
「順番」
ヒナセは屋根の上で、アンテナを立てた。
細い棒。
頼りない。
でも、空へ伸びる。
ノイズ混じりの通信が入る。
遠い部隊の声。
まだ前線は動いている。
まだ撤退は続いている。
ここに着いたから終わりではない。
新しい拠点は、終点ではなく中継点だった。
それでも、いったん着いた。
いったん着く、ということは大事だ。
夕方、帰り箱を置く場所が決まった。
駅舎の旧待合室。
待合室と言っても、貨物駅の作業員用だったらしい。
長いベンチ。
割れた時計。
壁に貼られた古い時刻表。
もう何年も動いていない扇風機。
窓は大きいが、結露はない。
夏だからだ。
リゼはベンチの上に小箱を置いた。
赤い手袋。
黒札。
優勝豆。
チョーク。
肉缶の蓋。
射的の木片。
焦げた端子。
祭り入口の札の切れ端。
そして、今日の雨で濡れた赤布の端。
全部を並べる。
少ない。
本当に少ない。
ハウンド七の机に比べると、さびしい。
机ではなくベンチだ。
天板の落書きもない。
帰りたい。
帰った。
あの文字はここにない。
リゼはしばらく黙っていた。
それから、チョークを取った。
壁に書くのかと思った。
でも、書かなかった。
チョークを小箱の横に置くだけだった。
「まだ」
彼女は言った。
「まだ、書かない」
「何を」
「分からない」
カナタは頷いた。
ここはまだ、帰る場所になっていない。
だから、まだ書けない。
焦って名前をつけると、場所が驚く。
たぶん。
ユウトが待合室を覗き込んだ。
「帰ってきたもの置き場、新拠点版ですね」
「まだ仮」
リゼが言う。
「仮が多いですね」
「今は全部仮」
「じゃあ仮豆制度」
「豆は正式」
「そこは正式なんだ」
タクトが小さく笑った。
彼は小箱の横に、自分の缶を一瞬だけ置いた。
置いて、すぐ腰へ戻す。
「まだ持ちます」
「はい」
カナタは答えた。
持っているもの。
置くもの。
まだ持つもの。
いつか置けるもの。
その区別も、場所が決めるのかもしれない。
夜になると、新拠点の食事が配られた。
食堂ではない。
貨物台の端に鍋を置き、金属椀に注ぐだけだ。
屋根はある。
風は抜ける。
湯気はすぐ消える。
豆は二粒。
ハウンド七と同じなのに、味が違った。
水が違う。
鍋が違う。
椀が違う。
座る場所が違う。
だから、同じ豆二粒でも違う。
カナタは一口飲んだ。
薄い。
ちゃんと薄い。
でも、まだ味が馴染んでいない。
「違いますね」
ユウトが言った。
「はい」
「薄さにも場所性がある」
「ありますか」
「あります」
「記録します」
マコトが言った。
「やめてください」
ユウトが慌てる。
少し笑いが起きた。
その笑いは、昼より少しだけこの場所に残った。
屋根に跳ね返り、貨物台の柱に当たり、三号車の車体に少し吸われた。
場所が、笑いを覚え始めている。
そう思った。
通信塔代わりの屋根から、ヒナセの声が降りてきた。
「各撤退列、到着遅延。夜間、小規模受け入れ継続」
終わらない。
当然だった。
でも、少しだけ肩が重くなる。
リゼは赤布を手首に巻き直した。
「じゃあ、ここも働くね」
「はい」
「帰る場所って、休ませてくれないね」
「使われるから、帰る場所なので」
「理屈っぽい」
「すみません」
「でも、そうかも」
リゼは貨物台の柱を見る。
赤布が結ばれている。
まだ似合わない。
でも、少しだけ見慣れた。
カナタは手袋を見た。
今日は少し乾いている。
雨のあとで、移動のあとで、それでも屋根の下にいるからかもしれない。
息を吹きかける。
温かくはならない。
でも、悪化はしていない。
「悪化してない」
小さく言った。
リゼが聞いていた。
「残暑の勝利?」
「手袋の話です」
「文化だね」
「責任を文化にしないでください」
遠くで砲声がした。
前線はまだある。
撤退はまだ続く。
ハウンド七はない。
新しい食堂はまだない。
帰ってきたもの置き場は小さい。
窓も違う。
匂いも違う。
足りないものばかりだった。
でも、赤布はある。
白線布も少しある。
缶は鳴らないし、一回だけ鳴る。
三号車は仮眠中。
豆は二粒。
人はいる。
足りない。
でも、ゼロではない。
カナタは旧貨物駅の暗い屋根を見上げた。
ここはまだ帰る場所ではない。
でも、帰る場所になりかけている。
それくらいなら、今夜は信じてもいい気がした。