帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十八話 残暑

 新しい拠点には、まだ匂いがなかった。

 いや、匂いそのものはあった。

 古い木材の匂い。

 湿った布の匂い。

 消毒液の匂い。

 倉庫に長く置かれていた穀物袋の匂い。

 それから、誰かが急いで運び込んだ燃料缶の、鼻に刺さる匂い。

 でも、それはまだ拠点の匂いではなかった。

 ただ、物が集まっている匂いだった。

 ハウンド七には、ハウンド七の匂いがあった。

 豆スープ。

 灯油ストーブ。

 濡れた靴下。

 三号車の油。

 医療棟の消毒液。

 食堂の木の椀。

 夏になってからは、開いた窓から入る草の匂い。

 それらがごちゃごちゃに混ざって、最初は嫌だったのに、いつの間にか「戻ってきた」と思う匂いになっていた。

 新しい拠点の匂いは、まだばらばらだった。

 ひとつになっていない。

 だから、カナタは門をくぐった瞬間、帰ってきたとは思わなかった。

 着いた、と思った。

 それだけだった。

 新拠点は、旧南部貨物駅を転用した場所だった。

 駅と言っても、旅客用ではない。

 長い屋根。

 低い倉庫。

 錆びた線路。

 貨物台。

 古い信号機。

 屋根の端からは、昨日の雨がまだ少し落ちている。地面には水たまりが残り、その水面に夏の空が小さく割れて映っていた。

 空は明るかった。

 雨のあとの空は、少しだけ嘘みたいに明るい。

 何もなかった顔をする。

 泥に残った足跡も、破れた赤布も、湿った手袋も、全部見ていたはずなのに、空だけは知らないふりをしている。

 残暑だった。

 夏はまだいた。

 でも、昨日までの夏とは少し違った。

 熱はある。

 鉄も熱い。

 水筒の麦茶も冷えない。

 それなのに、風の端に少しだけ空白がある。

 蝉の声が少ない。

 鳴いていないわけではない。

 鳴いている。

 でも、夏祭りの日のように世界を埋めるほどではない。

 ところどころ欠けている。

 その欠けた場所に、遠い砲声が入る。

 ユウトが貨物台の端に座り、椀を持っていた。

 新しい椀だった。

 金属製。

 木ではない。

 持つと少し熱い。

「木の椀じゃないですね」

 彼は言った。

「はい」

 カナタは答えた。

「豆は?」

「見ましたか」

「見る前に訊きました」

「祈りですか」

「宗教に近いです」

 ユウトは椀を覗いた。

 しばらく黙る。

「二粒」

「市民ですね」

 タクトが言った。

 彼も金属椀を持っている。

 腰の缶は鳴らない。

 濡れた布は交換済みで、赤布の小片が一緒に結ばれていた。

「市民制度、続くんですね」

 ユウトは少し笑った。

「場所が変わっても」

「豆は豆なので」

 タクトは真面目に答えた。

「強い」

 リゼが言った。

 彼女は貨物台の柱に赤布を結んでいた。

 ハウンド七の食堂の柱ではない。

 旧搬送集積所の鉄骨でもない。

 貨物駅の、煤で黒ずんだ柱。

 そこに赤布を結ぶ。

 見慣れない。

 赤が少し浮いている。

 新しい壁に貼られた古いポスターみたいだった。

「似合わないね」

 リゼは自分で言った。

「赤布がですか」

「この柱に」

「そのうち馴染みます」

「柱の方が?」

「たぶん」

「赤布、強いな」

 リゼは結び目を少し直した。

 いつもの位置。

 腰より少し上。

 高すぎず、低すぎず。

 人が自然に見る高さ。

 柱は知らない。

 でも、結び方は同じだった。

 それだけで、少しだけ場所が変わる。

 マコトは貨物台の隅に座り、手順書を開いていた。

 《帰還誘導兵のだいたいのやつ》

 《改訂予定》

 《移転後も使用》

 そこへ、新しく書き足している。

 《新拠点。匂い未確定》

 カナタはそれを見て、少しだけ笑った。

「それ、記録するんですか」

「はい」

「必要ですか」

「たぶん」

「たぶん」

「拠点の匂いは、帰還判断に関係する可能性があります」

 真面目だった。

 かなり真面目だった。

 でも、分かる。

 匂いは、帰る場所を決める。

 人は地図だけで帰るのではない。

 匂いで帰る。

 音で帰る。

 湯気で帰る。

 椀の重さで帰る。

 まだ、この場所にはそれがない。

 だから、帰ってきた気がしない。

 ミナは三号車の前で、何も言わずにしゃがんでいた。

 三号車は貨物屋根の下に入っている。

 入っただけだった。

 格納庫ではない。

 床はコンクリートではなく、古い敷石と泥。

 工具を置く台も、部品棚も、あの壁の油染みもない。

 それでも、三号車はそこにいた。

 車体には泥。

 雨の跡。

 細かい傷。

 ハウンド七の格納庫から持ってきた音が、まだ中に残っているように見えた。

「三号車、落ち着きませんね」

 カナタが言うと、ミナは顔を上げた。

「分かる?」

「なんとなく」

「車庫じゃない」

「はい」

「屋根はあるけど、違う」

「はい」

「床が違う。音が違う。風が抜けすぎる」

 ミナは三号車の側面を叩いた。

 軽い音。

 確かに、格納庫で聞いた音とは違った。

「でも、ここで寝るしかない」

「はい」

「じゃあ、ここを車庫にする」

 ミナは立ち上がった。

 工具箱を開く。

 貨物台の壁に、チョークで小さく書いた。

 《三号車仮眠中》

 リゼが遠くから見て笑った。

「かわいい」

「かわいいじゃない。注意喚起」

「仮眠なんだ」

「本眠はまだ無理」

 ユウトが言う。

「車にも本眠があるんですね」

「ある」

「奥深い」

 笑いが起きた。

 新しい拠点で、初めて少しだけ自然に笑った気がした。

 笑い声は屋根に当たり、少し跳ね返ってきた。

 ハウンド七の食堂とは音が違う。

 広い。

 乾いている。

 まだ誰のものでもない音。

 セナは駅舎の旧事務室を医療室にしていた。

 机をどかす。

 床を拭く。

 窓を開ける。

 古い書類を束ねて外へ出す。

 その手つきは早い。

 迷いがない。

 場所に愛着を持つ前に、使える場所に変えてしまう。

 それがセナのやり方だった。

「ここ、医療室ですか」

「今から」

 セナは答えた。

「まだ医療室の匂いがしませんね」

「させる」

「強い」

「消毒液、開けて」

 カナタが瓶を開けると、匂いが広がった。

 消毒液。

 ハウンド七と同じ匂い。

 でも、部屋が違うから少し違って感じる。

 セナはその匂いを確認して、短く言った。

「よし」

 それだけで、旧事務室は少し医療室になった。

 匂い。

 人。

 道具。

 名前。

 場所は、そういうものに少しずつ負けて変わっていく。

 ヒナセは駅舎の屋根へ上がっていた。

 通信線を張るためだ。

 高いところが苦手ではないらしい。

 雨上がりの屋根は滑る。

 それでも、彼女は通信機材の鞄を抱えて登っていく。

 下からユウトが見上げて言う。

「落ちないでくださいね」

「落ちたら通信できません」

「そこですか」

「あと痛いです」

「順番」

 ヒナセは屋根の上で、アンテナを立てた。

 細い棒。

 頼りない。

 でも、空へ伸びる。

 ノイズ混じりの通信が入る。

 遠い部隊の声。

 まだ前線は動いている。

 まだ撤退は続いている。

 ここに着いたから終わりではない。

 新しい拠点は、終点ではなく中継点だった。

 それでも、いったん着いた。

 いったん着く、ということは大事だ。

 夕方、帰り箱を置く場所が決まった。

 駅舎の旧待合室。

 待合室と言っても、貨物駅の作業員用だったらしい。

 長いベンチ。

 割れた時計。

 壁に貼られた古い時刻表。

 もう何年も動いていない扇風機。

 窓は大きいが、結露はない。

 夏だからだ。

 リゼはベンチの上に小箱を置いた。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 チョーク。

 肉缶の蓋。

 射的の木片。

 焦げた端子。

 祭り入口の札の切れ端。

 そして、今日の雨で濡れた赤布の端。

 全部を並べる。

 少ない。

 本当に少ない。

 ハウンド七の机に比べると、さびしい。

 机ではなくベンチだ。

 天板の落書きもない。

 帰りたい。

 帰った。

 あの文字はここにない。

 リゼはしばらく黙っていた。

 それから、チョークを取った。

 壁に書くのかと思った。

 でも、書かなかった。

 チョークを小箱の横に置くだけだった。

「まだ」

 彼女は言った。

「まだ、書かない」

「何を」

「分からない」

 カナタは頷いた。

 ここはまだ、帰る場所になっていない。

 だから、まだ書けない。

 焦って名前をつけると、場所が驚く。

 たぶん。

 ユウトが待合室を覗き込んだ。

「帰ってきたもの置き場、新拠点版ですね」

「まだ仮」

 リゼが言う。

「仮が多いですね」

「今は全部仮」

「じゃあ仮豆制度」

「豆は正式」

「そこは正式なんだ」

 タクトが小さく笑った。

 彼は小箱の横に、自分の缶を一瞬だけ置いた。

 置いて、すぐ腰へ戻す。

「まだ持ちます」

「はい」

 カナタは答えた。

 持っているもの。

 置くもの。

 まだ持つもの。

 いつか置けるもの。

 その区別も、場所が決めるのかもしれない。

 夜になると、新拠点の食事が配られた。

 食堂ではない。

 貨物台の端に鍋を置き、金属椀に注ぐだけだ。

 屋根はある。

 風は抜ける。

 湯気はすぐ消える。

 豆は二粒。

 ハウンド七と同じなのに、味が違った。

 水が違う。

 鍋が違う。

 椀が違う。

 座る場所が違う。

 だから、同じ豆二粒でも違う。

 カナタは一口飲んだ。

 薄い。

 ちゃんと薄い。

 でも、まだ味が馴染んでいない。

「違いますね」

 ユウトが言った。

「はい」

「薄さにも場所性がある」

「ありますか」

「あります」

「記録します」

 マコトが言った。

「やめてください」

 ユウトが慌てる。

 少し笑いが起きた。

 その笑いは、昼より少しだけこの場所に残った。

 屋根に跳ね返り、貨物台の柱に当たり、三号車の車体に少し吸われた。

 場所が、笑いを覚え始めている。

 そう思った。

 通信塔代わりの屋根から、ヒナセの声が降りてきた。

「各撤退列、到着遅延。夜間、小規模受け入れ継続」

 終わらない。

 当然だった。

 でも、少しだけ肩が重くなる。

 リゼは赤布を手首に巻き直した。

「じゃあ、ここも働くね」

「はい」

「帰る場所って、休ませてくれないね」

「使われるから、帰る場所なので」

「理屈っぽい」

「すみません」

「でも、そうかも」

 リゼは貨物台の柱を見る。

 赤布が結ばれている。

 まだ似合わない。

 でも、少しだけ見慣れた。

 カナタは手袋を見た。

 今日は少し乾いている。

 雨のあとで、移動のあとで、それでも屋根の下にいるからかもしれない。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 でも、悪化はしていない。

「悪化してない」

 小さく言った。

 リゼが聞いていた。

「残暑の勝利?」

「手袋の話です」

「文化だね」

「責任を文化にしないでください」

 遠くで砲声がした。

 前線はまだある。

 撤退はまだ続く。

 ハウンド七はない。

 新しい食堂はまだない。

 帰ってきたもの置き場は小さい。

 窓も違う。

 匂いも違う。

 足りないものばかりだった。

 でも、赤布はある。

 白線布も少しある。

 缶は鳴らないし、一回だけ鳴る。

 三号車は仮眠中。

 豆は二粒。

 人はいる。

 足りない。

 でも、ゼロではない。

 カナタは旧貨物駅の暗い屋根を見上げた。

 ここはまだ帰る場所ではない。

 でも、帰る場所になりかけている。

 それくらいなら、今夜は信じてもいい気がした。

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