帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
夏の終わりは、音が減る。
蝉がいなくなるわけではない。
まだ鳴いている。
駅舎の裏の草むらで、貨物台の屋根の上で、古い信号機の錆びた柱のどこかで、短く、残りものみたいに鳴いている。けれど、その声はもう空を埋めない。昼の熱を支配しない。誰かの会話を無理やり押し流したりしない。
ただ、鳴いている。
そこにいることを、自分で確かめるみたいに。
新拠点の朝は、ハウンド七の朝とは違っていた。
まず、窓が大きい。
旧貨物駅の待合室には、横長の窓が三つ並んでいる。ガラスは古く、端の方が少し波打っていて、外の景色がわずかに歪む。朝の光が入ると、床に長い四角が落ちる。その四角は食堂の窓から入ってきた光より少し硬く、少し薄く、まだ誰のものでもない顔をしていた。
結露はしない。
夏だからだ。
冬なら、息を吐けばガラスが白くなった。
そこに誰かが落書きをした。
豆。
白線。
下手なレイス。
ハウンド七の窓には、そういうものが残っていた。
ここには残らない。
指でなぞっても、ただ透明なままだ。
カナタはその窓を見て、少しだけ困った。
文字を書く場所がない。
いや、壁に書けばいい。
床でもいい。
柱でもいい。
リゼならたぶん、どこにでも書く。
でも、窓に書けないということが、妙に大きかった。
季節が違う。
場所が違う。
だから、残り方も違う。
新しい待合室の隅には、小さな箱が置かれていた。
昨日までは、ただの箱だった。
今日からは、少し違う。
箱の中には、赤い手袋がある。
黒札がある。
優勝豆がある。
チョークがある。
肉缶の蓋。
射的の木片。
焦げた端子。
祭り入口の札の切れ端。
雨で濡れた赤布の端。
それから、今朝、カナタの湿った手袋がひとつ追加された。
正確には、片方だけ。
穴が開いた方だ。
手のひらのところが擦り切れて、泥が染み込み、何度洗っても乾いた匂いにならなかった。セナが「替えろ」と言い、ミナが「それもう布じゃなくて歴史」と言い、ユウトが「湿った手袋殿、退役ですね」と言った。
退役。
変な言葉だった。
でも、少しだけ合っている気がした。
カナタはそれを箱に入れた。
赤い手袋の隣。
黒札の下。
優勝豆の横。
湿った手袋は、箱の中であまり目立たなかった。
ただの汚れた手袋だった。
でも、それでよかった。
帰ってきたものは、いつも少し汚れている。
「置いたんだ」
リゼが言った。
待合室の入口に立っている。
手首には赤布。
昨日より少し乾いている。
乾いたぶん、泥の跡がはっきりしていた。
「はい」
「もう片方は?」
「使います」
「片方だけ?」
「新しいのと組み合わせます」
「左右で歴史が違うね」
「嫌な言い方」
リゼは笑った。
その笑い方は、ハウンド七にいた頃と少し違っていた。
軽い。
でも、軽いだけではない。
旧学校区の軍手を持ってきた時のリゼとも違う。
赤布を渡して増やした時のリゼとも違う。
帰る場所を作る人の顔。
それから、帰ってきたものを見送れる人の顔。
たぶん、そういう顔だった。
「これ、名前つける?」
リゼが箱を指す。
「帰り箱、では」
「仮称だったじゃん」
「まだ仮でいいと思います」
「ずっと仮?」
「しばらく」
「じゃあ、仮の帰り箱」
「長いです」
「長いものは略される」
「何に」
「かりばこ」
「急に雑」
リゼはまた笑った。
朝の光の中で、笑い声は窓に当たらず、そのまま部屋の奥へ流れていった。
新拠点の朝食は、貨物台で配られた。
食堂ではない。
まだ食堂と呼べる場所はない。
屋根の下に長い木箱を並べ、その上に鍋を置き、金属椀を渡すだけだ。人は線路の跡に沿って並び、椀を受け取り、好きな場所へ散っていく。
でも、少しだけ列らしくなっていた。
昨日はただ集まっているだけだった。
今日は、誰かが自然に入口を作り、誰かが出口を作り、ユウトが「豆確認は受け取ってから右へ」と言った。
豆確認列。
意味はない。
でも、なぜか人は右へ流れた。
「今日の豆、二粒」
ユウトが言った。
「市民ですね」
タクトが答えた。
「新拠点でも市民」
「制度の継続性があります」
マコトが真面目に言った。
「記録しないでください」
「もうしました」
「早い」
ユウトは少しだけ肩を落とした。
でも、笑っていた。
タクトは椀を持つ手で、腰の缶を軽く押さえた。
缶は鳴らない。
その横には小さな赤布。
音係。
中央用。
いくつかの役割が、彼の腰に静かにぶら下がっている。
「今日は鳴らさなくていいですね」
カナタが言うと、タクトは少し考えた。
「今は」
「今は」
「はい」
今は鳴らさなくていい。
それは平和ではない。
でも、少しだけ休みだった。
ヒナセは貨物駅の屋根から降りてきた。
髪に朝露がついている。
通信線を確認していたらしい。
「定時通信、入りました」
ガレスが椀を持ったまま見る。
「内容は」
「前線後退、継続。ただし、昨夜より接触減。後続列、昼までに三つ到着予定」
「三つか」
「はい」
「少ないと思う日が来るとはな」
ガレスはそう言って、火のつかない煙草を咥えた。
火はついていない。
昨日から、またつけていない。
それが少しだけいつも通りで、少しだけ安心した。
ミナは三号車の横で、金属椀を持っていた。
片手に椀。
片手に工具。
食事中に工具を持つな、という張り紙はここにはまだない。
だが、マコトが紙を持って近づいている。
「貼りますか」
カナタが訊く。
「必要です」
マコトは言った。
「特にミナ、と書きますか」
「書くと怒られますか」
「たぶん」
「でも必要です」
「強くなりましたね」
マコトは少しだけ笑った。
その張り紙は、貨物台の柱に貼られた。
《食事中に工具箱を開かない》
その下に、小さく。
《特にミナ》
ミナはそれを見て、五秒黙った。
「字が硬い」
「そこですか」
ユウトが言う。
「注意するなら、もっと柔らかい字で」
「内容には異議なし?」
「ある」
「ありますよね」
笑いが起きた。
その笑いは、昨日より少しだけ、この場所に残った。
貨物台の屋根の下で跳ね返り、三号車の車体に当たり、赤布の結ばれた柱を通り過ぎ、待合室の窓の方へ流れていく。
場所が笑いを覚える。
そんな言い方をしたら、たぶんユウトに「詩的ですね」と言われる。
だから言わなかった。
昼前、最初の後続列が到着した。
大きな混乱はなかった。
それが少し不思議だった。
旧貨物駅の入口に、赤布がある。
低い位置。
その横に若い前線兵が立っている。
昨日、赤布を持っていた兵士だ。
「三人ずつ。水は右。負傷者は赤二番。荷物は一つ」
彼は言った。
声はまだぎこちない。
でも、通じている。
避難民が頷く。
補給兵が右へ流れる。
担架が赤二番へ進む。
セナがそこで受ける。
カナタは少し離れて見ていた。
見ているだけだった。
全部を指示しない。
全部を見ない。
でも、見ている。
見える場所を分ける。
そのことを、やっと体が覚え始めていた。
リゼが隣に来る。
「暇?」
「暇ではないです」
「でも、前より手が空いてる」
「はい」
「いいこと?」
「たぶん」
「たぶんで十分」
リゼは貨物台の方を見た。
赤布が三つある。
ひとつは柱。
ひとつは救護所。
ひとつは入口。
もう、一本の布ではない。
赤は増えた。
白線は少ない。
でも、人が覚えている。
缶は鳴らないし、鳴る。
手信号は伝わる。
声は渡る。
帰還誘導兵という名前は、昨日より少し普通に使われている。
「普通になってきたね」
リゼが言った。
「何が」
「帰還誘導兵」
「はい」
「変な名前だったのに」
「今も変です」
「でも、通じる」
「はい」
「名前って、通じたら勝ちなのかな」
「たぶん」
「たぶんで十分」
彼女は少し笑った。
その笑いの向こうで、遠い砲声がした。
まだ終わっていない。
前線はまだある。
撤退もまだ続く。
けれど、音は昨日より遠く聞こえた。
本当に遠くなったのか、ここに着いて少し気持ちが鈍くなっただけなのかは分からない。
でも、遠く聞こえた。
午後、待合室の窓をリゼが指でなぞった。
結露はない。
何も書けない。
彼女は少し不満そうだった。
「書けない」
「夏なので」
「夏、こういうところ不便」
「冬は寒いです」
「でも書ける」
「はい」
「じゃあ、冬にも良いところがある」
「ありますね」
「寒いけど」
「はい」
リゼは窓の外を見た。
錆びた線路。
貨物台。
三号車。
赤布。
並んでいる人たち。
まだ知らない場所。
でも、昨日より少しだけ知っている場所。
彼女はチョークを取り出した。
昨日、書かなかったチョーク。
その白い先を、待合室の壁に当てた。
少しだけ迷う。
それから書いた。
《帰ってきた》
短い字。
少し曲がっている。
ハウンド七の机にあった《帰った》とは違う。
ここは、まだ完全に帰った場所ではない。
でも、帰ってきた人がいる。
だから、帰ってきた。
カナタはその文字を見た。
「書きましたね」
「うん」
「まだ仮では」
「仮でも、帰ってきたから」
「はい」
「それに」
リゼはチョークを小箱の横に戻す。
「ここからまた出るでしょ」
「はい」
「なら、帰ってくるって書いておかないと」
カナタは何も言えなかった。
帰ってきた。
帰ってくる。
同じ言葉のようで、少し違う。
過去と未来。
箱の中のものと、これから戻る人。
その両方が、壁の白い文字に入っている気がした。
夕方、空は少しだけ高く見えた。
夏の終わりの空だった。
まだ暑い。
まだ汗は乾きにくい。
麦茶は冷えない。
鉄は熱を持つ。
でも、蝉の声は少ない。
風の中に、ほんの少しだけ次の季節の空白がある。
カナタは貨物台の端に座って、金属椀を持っていた。
豆は二粒。
湯気はほとんど見えない。
薄い。
でも、昨日より少しだけ、この場所の味がした。
ユウトが隣に座る。
「新拠点、市民生活二日目ですね」
「はい」
「慣れますかね」
「たぶん」
「たぶんで十分」
それはリゼの言い方だった。
ユウトも気づいて、少し笑う。
タクトが缶を押さえる。
ヒナセが屋根の上で通信を聞いている。
マコトが壁の文字を記録している。
ミナが三号車の仮眠札を直している。
セナが新しい医療室の窓を開けている。
ハルクが入口に立っている。
ガレスが火のつかない煙草を咥えて、赤布の柱を見ている。
リゼは待合室の壁の前に立っている。
夏が終わる。
終わった、と言うにはまだ暑い。
でも、もう始まりの夏ではない。
祭りの夏でもない。
ハウンド七の夏でもない。
違う場所の、違う夏だった。
カナタは手袋を見た。
片方は新しい。
片方はまだ少し湿っている。
息を吹きかける。
温かくはならない。
でも、前より少しだけ乾いていた。
「悪化してない」
小さく言った。
リゼが遠くから聞いていた。
「夏の終わりだからね」
「手袋の話です」
「帰る場所の話だよ」
カナタは壁の文字を見た。
《帰ってきた》
新しい帰り箱。
赤布。
湿った手袋。
金属椀。
違う窓。
結露しないガラス。
ハウンド七ではない。
でも、ここには人がいる。
声がある。
豆が二粒ある。
赤い布が揺れている。
帰る場所は失う。
だから、作り続ける。
それを、誰かが教えてくれたわけではない。
雪と泥と雨と火と、たくさんの帰れた人と帰れなかったものが、少しずつ教えた。
カナタは椀を持ち直した。
薄いスープを飲む。
まだ少し、知らない場所の味がした。
でも、ちゃんと味がした。
夕方の貨物駅に、残った蝉の声がひとつだけ鳴った。
短く。
それきり、少し静かになった。
夏が終わる音は、思っていたより小さかった。
けれど、聞こえた。