帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第六十九話 旧貨物駅

 夏の終わりは、音が減る。

 蝉がいなくなるわけではない。

 まだ鳴いている。

 駅舎の裏の草むらで、貨物台の屋根の上で、古い信号機の錆びた柱のどこかで、短く、残りものみたいに鳴いている。けれど、その声はもう空を埋めない。昼の熱を支配しない。誰かの会話を無理やり押し流したりしない。

 ただ、鳴いている。

 そこにいることを、自分で確かめるみたいに。

 新拠点の朝は、ハウンド七の朝とは違っていた。

 まず、窓が大きい。

 旧貨物駅の待合室には、横長の窓が三つ並んでいる。ガラスは古く、端の方が少し波打っていて、外の景色がわずかに歪む。朝の光が入ると、床に長い四角が落ちる。その四角は食堂の窓から入ってきた光より少し硬く、少し薄く、まだ誰のものでもない顔をしていた。

 結露はしない。

 夏だからだ。

 冬なら、息を吐けばガラスが白くなった。

 そこに誰かが落書きをした。

 豆。

 白線。

 下手なレイス。

 ハウンド七の窓には、そういうものが残っていた。

 ここには残らない。

 指でなぞっても、ただ透明なままだ。

 カナタはその窓を見て、少しだけ困った。

 文字を書く場所がない。

 いや、壁に書けばいい。

 床でもいい。

 柱でもいい。

 リゼならたぶん、どこにでも書く。

 でも、窓に書けないということが、妙に大きかった。

 季節が違う。

 場所が違う。

 だから、残り方も違う。

 新しい待合室の隅には、小さな箱が置かれていた。

 昨日までは、ただの箱だった。

 今日からは、少し違う。

 箱の中には、赤い手袋がある。

 黒札がある。

 優勝豆がある。

 チョークがある。

 肉缶の蓋。

 射的の木片。

 焦げた端子。

 祭り入口の札の切れ端。

 雨で濡れた赤布の端。

 それから、今朝、カナタの湿った手袋がひとつ追加された。

 正確には、片方だけ。

 穴が開いた方だ。

 手のひらのところが擦り切れて、泥が染み込み、何度洗っても乾いた匂いにならなかった。セナが「替えろ」と言い、ミナが「それもう布じゃなくて歴史」と言い、ユウトが「湿った手袋殿、退役ですね」と言った。

 退役。

 変な言葉だった。

 でも、少しだけ合っている気がした。

 カナタはそれを箱に入れた。

 赤い手袋の隣。

 黒札の下。

 優勝豆の横。

 湿った手袋は、箱の中であまり目立たなかった。

 ただの汚れた手袋だった。

 でも、それでよかった。

 帰ってきたものは、いつも少し汚れている。

「置いたんだ」

 リゼが言った。

 待合室の入口に立っている。

 手首には赤布。

 昨日より少し乾いている。

 乾いたぶん、泥の跡がはっきりしていた。

「はい」

「もう片方は?」

「使います」

「片方だけ?」

「新しいのと組み合わせます」

「左右で歴史が違うね」

「嫌な言い方」

 リゼは笑った。

 その笑い方は、ハウンド七にいた頃と少し違っていた。

 軽い。

 でも、軽いだけではない。

 旧学校区の軍手を持ってきた時のリゼとも違う。

 赤布を渡して増やした時のリゼとも違う。

 帰る場所を作る人の顔。

 それから、帰ってきたものを見送れる人の顔。

 たぶん、そういう顔だった。

「これ、名前つける?」

 リゼが箱を指す。

「帰り箱、では」

「仮称だったじゃん」

「まだ仮でいいと思います」

「ずっと仮?」

「しばらく」

「じゃあ、仮の帰り箱」

「長いです」

「長いものは略される」

「何に」

「かりばこ」

「急に雑」

 リゼはまた笑った。

 朝の光の中で、笑い声は窓に当たらず、そのまま部屋の奥へ流れていった。

 新拠点の朝食は、貨物台で配られた。

 食堂ではない。

 まだ食堂と呼べる場所はない。

 屋根の下に長い木箱を並べ、その上に鍋を置き、金属椀を渡すだけだ。人は線路の跡に沿って並び、椀を受け取り、好きな場所へ散っていく。

 でも、少しだけ列らしくなっていた。

 昨日はただ集まっているだけだった。

 今日は、誰かが自然に入口を作り、誰かが出口を作り、ユウトが「豆確認は受け取ってから右へ」と言った。

 豆確認列。

 意味はない。

 でも、なぜか人は右へ流れた。

「今日の豆、二粒」

 ユウトが言った。

「市民ですね」

 タクトが答えた。

「新拠点でも市民」

「制度の継続性があります」

 マコトが真面目に言った。

「記録しないでください」

「もうしました」

「早い」

 ユウトは少しだけ肩を落とした。

 でも、笑っていた。

 タクトは椀を持つ手で、腰の缶を軽く押さえた。

 缶は鳴らない。

 その横には小さな赤布。

 音係。

 中央用。

 いくつかの役割が、彼の腰に静かにぶら下がっている。

「今日は鳴らさなくていいですね」

 カナタが言うと、タクトは少し考えた。

「今は」

「今は」

「はい」

 今は鳴らさなくていい。

 それは平和ではない。

 でも、少しだけ休みだった。

 ヒナセは貨物駅の屋根から降りてきた。

 髪に朝露がついている。

 通信線を確認していたらしい。

「定時通信、入りました」

 ガレスが椀を持ったまま見る。

「内容は」

「前線後退、継続。ただし、昨夜より接触減。後続列、昼までに三つ到着予定」

「三つか」

「はい」

「少ないと思う日が来るとはな」

 ガレスはそう言って、火のつかない煙草を咥えた。

 火はついていない。

 昨日から、またつけていない。

 それが少しだけいつも通りで、少しだけ安心した。

 ミナは三号車の横で、金属椀を持っていた。

 片手に椀。

 片手に工具。

 食事中に工具を持つな、という張り紙はここにはまだない。

 だが、マコトが紙を持って近づいている。

「貼りますか」

 カナタが訊く。

「必要です」

 マコトは言った。

「特にミナ、と書きますか」

「書くと怒られますか」

「たぶん」

「でも必要です」

「強くなりましたね」

 マコトは少しだけ笑った。

 その張り紙は、貨物台の柱に貼られた。

 《食事中に工具箱を開かない》

 その下に、小さく。

 《特にミナ》

 ミナはそれを見て、五秒黙った。

「字が硬い」

「そこですか」

 ユウトが言う。

「注意するなら、もっと柔らかい字で」

「内容には異議なし?」

「ある」

「ありますよね」

 笑いが起きた。

 その笑いは、昨日より少しだけ、この場所に残った。

 貨物台の屋根の下で跳ね返り、三号車の車体に当たり、赤布の結ばれた柱を通り過ぎ、待合室の窓の方へ流れていく。

 場所が笑いを覚える。

 そんな言い方をしたら、たぶんユウトに「詩的ですね」と言われる。

 だから言わなかった。

 昼前、最初の後続列が到着した。

 大きな混乱はなかった。

 それが少し不思議だった。

 旧貨物駅の入口に、赤布がある。

 低い位置。

 その横に若い前線兵が立っている。

 昨日、赤布を持っていた兵士だ。

「三人ずつ。水は右。負傷者は赤二番。荷物は一つ」

 彼は言った。

 声はまだぎこちない。

 でも、通じている。

 避難民が頷く。

 補給兵が右へ流れる。

 担架が赤二番へ進む。

 セナがそこで受ける。

 カナタは少し離れて見ていた。

 見ているだけだった。

 全部を指示しない。

 全部を見ない。

 でも、見ている。

 見える場所を分ける。

 そのことを、やっと体が覚え始めていた。

 リゼが隣に来る。

「暇?」

「暇ではないです」

「でも、前より手が空いてる」

「はい」

「いいこと?」

「たぶん」

「たぶんで十分」

 リゼは貨物台の方を見た。

 赤布が三つある。

 ひとつは柱。

 ひとつは救護所。

 ひとつは入口。

 もう、一本の布ではない。

 赤は増えた。

 白線は少ない。

 でも、人が覚えている。

 缶は鳴らないし、鳴る。

 手信号は伝わる。

 声は渡る。

 帰還誘導兵という名前は、昨日より少し普通に使われている。

「普通になってきたね」

 リゼが言った。

「何が」

「帰還誘導兵」

「はい」

「変な名前だったのに」

「今も変です」

「でも、通じる」

「はい」

「名前って、通じたら勝ちなのかな」

「たぶん」

「たぶんで十分」

 彼女は少し笑った。

 その笑いの向こうで、遠い砲声がした。

 まだ終わっていない。

 前線はまだある。

 撤退もまだ続く。

 けれど、音は昨日より遠く聞こえた。

 本当に遠くなったのか、ここに着いて少し気持ちが鈍くなっただけなのかは分からない。

 でも、遠く聞こえた。

 午後、待合室の窓をリゼが指でなぞった。

 結露はない。

 何も書けない。

 彼女は少し不満そうだった。

「書けない」

「夏なので」

「夏、こういうところ不便」

「冬は寒いです」

「でも書ける」

「はい」

「じゃあ、冬にも良いところがある」

「ありますね」

「寒いけど」

「はい」

 リゼは窓の外を見た。

 錆びた線路。

 貨物台。

 三号車。

 赤布。

 並んでいる人たち。

 まだ知らない場所。

 でも、昨日より少しだけ知っている場所。

 彼女はチョークを取り出した。

 昨日、書かなかったチョーク。

 その白い先を、待合室の壁に当てた。

 少しだけ迷う。

 それから書いた。

 《帰ってきた》

 短い字。

 少し曲がっている。

 ハウンド七の机にあった《帰った》とは違う。

 ここは、まだ完全に帰った場所ではない。

 でも、帰ってきた人がいる。

 だから、帰ってきた。

 カナタはその文字を見た。

「書きましたね」

「うん」

「まだ仮では」

「仮でも、帰ってきたから」

「はい」

「それに」

 リゼはチョークを小箱の横に戻す。

「ここからまた出るでしょ」

「はい」

「なら、帰ってくるって書いておかないと」

 カナタは何も言えなかった。

 帰ってきた。

 帰ってくる。

 同じ言葉のようで、少し違う。

 過去と未来。

 箱の中のものと、これから戻る人。

 その両方が、壁の白い文字に入っている気がした。

 夕方、空は少しだけ高く見えた。

 夏の終わりの空だった。

 まだ暑い。

 まだ汗は乾きにくい。

 麦茶は冷えない。

 鉄は熱を持つ。

 でも、蝉の声は少ない。

 風の中に、ほんの少しだけ次の季節の空白がある。

 カナタは貨物台の端に座って、金属椀を持っていた。

 豆は二粒。

 湯気はほとんど見えない。

 薄い。

 でも、昨日より少しだけ、この場所の味がした。

 ユウトが隣に座る。

「新拠点、市民生活二日目ですね」

「はい」

「慣れますかね」

「たぶん」

「たぶんで十分」

 それはリゼの言い方だった。

 ユウトも気づいて、少し笑う。

 タクトが缶を押さえる。

 ヒナセが屋根の上で通信を聞いている。

 マコトが壁の文字を記録している。

 ミナが三号車の仮眠札を直している。

 セナが新しい医療室の窓を開けている。

 ハルクが入口に立っている。

 ガレスが火のつかない煙草を咥えて、赤布の柱を見ている。

 リゼは待合室の壁の前に立っている。

 夏が終わる。

 終わった、と言うにはまだ暑い。

 でも、もう始まりの夏ではない。

 祭りの夏でもない。

 ハウンド七の夏でもない。

 違う場所の、違う夏だった。

 カナタは手袋を見た。

 片方は新しい。

 片方はまだ少し湿っている。

 息を吹きかける。

 温かくはならない。

 でも、前より少しだけ乾いていた。

「悪化してない」

 小さく言った。

 リゼが遠くから聞いていた。

「夏の終わりだからね」

「手袋の話です」

「帰る場所の話だよ」

 カナタは壁の文字を見た。

 《帰ってきた》

 新しい帰り箱。

 赤布。

 湿った手袋。

 金属椀。

 違う窓。

 結露しないガラス。

 ハウンド七ではない。

 でも、ここには人がいる。

 声がある。

 豆が二粒ある。

 赤い布が揺れている。

 帰る場所は失う。

 だから、作り続ける。

 それを、誰かが教えてくれたわけではない。

 雪と泥と雨と火と、たくさんの帰れた人と帰れなかったものが、少しずつ教えた。

 カナタは椀を持ち直した。

 薄いスープを飲む。

 まだ少し、知らない場所の味がした。

 でも、ちゃんと味がした。

 夕方の貨物駅に、残った蝉の声がひとつだけ鳴った。

 短く。

 それきり、少し静かになった。

 夏が終わる音は、思っていたより小さかった。

 けれど、聞こえた。

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