帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
教室には、まだ日直の名前が残っていた。
黒板の右上。
白いチョークで、少し丸い字。
リゼ。
その隣に、もう一人の名前があった。
途中で消されている。
消し方が雑だった。
黒板消しで一度こすって、それでも白い粉が残って、誰かが指で上からなぞったような跡がある。名前だったものはもう読めない。でも、そこに誰かがいたことだけは分かる。
そういう跡が、カナタは苦手だった。
完全に消えてくれればいいのにと思う。
でも世界は、だいたい半分だけ残す。
椅子の傷。
机の落書き。
壁に貼られた行事予定。
窓際に置かれた枯れた鉢植え。
それらは全部、ここが戦場になる前からここにあったものだった。
そして今も、まだある。
それが一番怖い。
教室の床には毛布が敷かれていた。
そこに学徒兵たちが座っている。
若い。
若すぎる。
軍服の袖が余っている者もいる。銃を膝に置いているが、持ち方がまだ部活動の備品に近い。誰かが咳をする。誰かが笑う。誰かが笑った後に黙る。
窓には板が打ちつけられている。
その隙間から雪の白さが見えた。
外にはレイスがいる。
帰る人間を待っている。
なのに教室の中には、粉っぽいチョークの匂いがした。
その匂いが、消毒液よりも、血よりも、ずっと場違いだった。
「人数、もう一度」
セナが言った。
声は低い。
医療袋を開きながら、紙に何かを書いている。
リゼは教卓にもたれて答えた。
「生存三十二」
「歩行可能」
「十七。たぶん」
「たぶん、やめて」
「じゃあ十五」
「減った」
「嘘つきがいる」
リゼはそう言って、教室の隅を見た。
数人が目を逸らす。
セナはため息をつかなかった。
代わりに、ペン先を止めた。
「担架必要なのは」
「五」
「担架は」
「二」
「車両は」
ミナが窓際から答えた。
「一台」
「座席は」
「普通に乗るなら八。詰めたら十二。人権を消したら十五」
「人権は消さない」
「じゃあ十二」
ユウトが小さく言った。
「足りないですね」
誰も返事をしなかった。
足りない。
それは、この数日で何度も聞いた言葉だった。
車両が足りない。
燃料が足りない。
担架が足りない。
薬が足りない。
時間が足りない。
足りないものを数えていると、最後には人間が足りなくなる。
カナタは教室の後ろに立っていた。
出入口。
窓。
廊下。
階段。
そこばかり見ている。
たぶん癖だ。
いや。
もう癖ではない。
必要なことになってしまった。
それが少し嫌だった。
リゼがこちらを見た。
「出口見てる」
「はい」
「何個ある?」
「使えるのは二つ」
「玄関と裏口?」
「玄関は待たれてます」
「じゃあ一つ」
「裏口も、たぶんすぐ塞がれます」
「じゃあゼロじゃん」
リゼは笑った。
短い笑い。
笑い終わる前に、咳が混じった。
セナが顔を上げる。
「熱ある?」
「ない」
「ある返事」
「ちょっと」
「ちょっとって何度」
「気合いで下がるくらい」
「下がらない」
セナはリゼの額に手を当てた。
リゼは少しだけ顔をしかめる。
でも抵抗しない。
片腕を布で吊っている。
肩口の包帯には血が滲んでいた。
乾いた血と新しい血の色は違う。
カナタはそれも最近覚えた。
覚えたくなかった。
「あなたも車に乗る」
セナが言った。
「無理」
「命令」
「誰の」
「衛生兵の」
「弱そう」
「従わないと痛いことする」
「強い」
少しだけ笑いが起きた。
教室の空気がわずかに緩む。
その緩み方が、学校らしかった。
誰かが小さく咳をして、誰かが「先生みたい」と言って、セナが「誰が」と睨んで、それでまた少しだけ笑いが起きた。
外には黒い影がいる。
でも、この教室の中には、まだ笑い方を忘れていない人間がいた。
カナタはそれを見るのが少し怖かった。
笑える人間は、まだ戻れる場所を持っているように見える。
戻れる場所を持っている人間ほど、戻れなかった時に残る。
「カナタさん」
ユウトが隣に来た。
声が小さい。
「これ、どうするんですか」
「考えてます」
「全員は無理ですよね」
「……」
「ですよね」
ユウトは自分で言って、自分で傷ついた顔をした。
カナタは何も言えなかった。
全員は無理。
その言葉は簡単すぎる。
でも、その中には三十二人の顔が入っている。
三十二人分の名前が入っている。
チョークの粉。
手の震え。
咳。
足を引きずる音。
そういうもの全部を、一つの言葉で切る。
全員は無理。
だからカナタは、その言葉を言わない。
言わなくても、分かってしまうからだ。
「リゼさん」
カナタは言った。
「学校の地下、ありますか」
リゼがこちらを見る。
「地下?」
「倉庫とか、避難路とか」
「避難路はない。倉庫はある」
「外へ繋がってます?」
「昔の搬入口なら」
「どこへ」
「体育館の裏」
ミナが窓の隙間から外を覗く。
「体育館裏、雪深いよ」
「車は入れない?」
「無理」
「人なら」
「通れるかも」
カナタは頭の中で線を引いた。
教室。
廊下。
地下倉庫。
搬入口。
体育館裏。
そこから林。
林を抜ければ、西側道路。
車は回り込ませる必要がある。
時間がいる。
でも玄関よりはましだ。
敵は校門を待っている。
帰る人間は、道を通ると思われている。
なら、道じゃない場所を通るしかない。
「二班に分けます」
カナタは言った。
教室が静かになる。
「歩ける人は地下から林へ。車は体育館裏へ回します。重傷者は先に車へ」
「車に乗れない人は」
セナが訊く。
まっすぐだった。
カナタは答えを持っていなかった。
答えを探していた。
探しても、どこにもなかった。
「歩ける人が、歩けない人を持ちます」
「全員?」
「できるだけ」
「できるだけ」
セナはその言葉を繰り返した。
嫌そうに。
「便利な言葉」
「はい」
「嫌い」
「はい」
リゼが教卓から離れた。
「やるしかないよ」
その声は軽かった。
軽すぎた。
「ここにいたら、どっちにしても終わる」
学徒兵たちが顔を上げる。
リゼは教室を見回した。
「歩ける人、嘘つかない」
何人かが目を逸らす。
「歩けない人も、嘘つかない」
今度は別の何人かが俯く。
「嘘つくと、誰かが余計に死ぬ」
静かだった。
子供が言うには重すぎる言葉だった。
でも、ここでは彼女が言わなければならなかった。
誰も代わりに言ってくれないからだ。
その時。
外で音がした。
爪で金属を引っかく音。
ぎい。
ぎぎ。
校門ではない。
もっと近い。
窓の下。
ユウトが息を呑む。
ミナが小さく言った。
「もう来た」
カナタは窓の隙間から外を見る。
校庭にレイスはいない。
一瞬、いないように見えた。
違った。
雪の下だ。
黒い腕が、雪の中から出ていた。
校舎の壁際。
そこに伏せていた。
待っていた。
玄関ではなく。
裏口でもなく。
壁の下で。
帰る人間が動き出すのを待っていた。
「……学んでる」
カナタは呟いた。
「なにを」
ユウトが訊く。
「人が逃げる前に、出口を見ることを」
外の雪が動いた。
一体。
二体。
三体。
レイスが立ち上がる。
音もなく。
まるで、最初からそこに立っていたのに、こちらが見ていなかっただけみたいだった。
リゼが短く息を吸った。
「地下」
カナタは言った。
「今すぐ」
教室が動き出す。
毛布。
担架。
銃。
医療袋。
誰かの教科書が床に落ちた。
表紙には、夏服の生徒が笑っていた。
カナタはそれを踏まないように避けた。
なぜ避けたのか、自分でも分からなかった。
ただ。
踏んだら、何かが完全に終わる気がした。
廊下へ出る。
非常灯が赤い。
窓の外で、黒い影が動く。
校舎の中には、チョークの匂いと、血の匂いと、雪の匂いが混ざっていた。
学校が、ゆっくり戦場になっていく。
いや。
もう戦場だった。
ただ、カナタたちがそれを認めるのが遅かっただけだった。