帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第七話 教室

 教室には、まだ日直の名前が残っていた。

 黒板の右上。

 白いチョークで、少し丸い字。

 リゼ。

 その隣に、もう一人の名前があった。

 途中で消されている。

 消し方が雑だった。

 黒板消しで一度こすって、それでも白い粉が残って、誰かが指で上からなぞったような跡がある。名前だったものはもう読めない。でも、そこに誰かがいたことだけは分かる。

 そういう跡が、カナタは苦手だった。

 完全に消えてくれればいいのにと思う。

 でも世界は、だいたい半分だけ残す。

 椅子の傷。

 机の落書き。

 壁に貼られた行事予定。

 窓際に置かれた枯れた鉢植え。

 それらは全部、ここが戦場になる前からここにあったものだった。

 そして今も、まだある。

 それが一番怖い。

 教室の床には毛布が敷かれていた。

 そこに学徒兵たちが座っている。

 若い。

 若すぎる。

 軍服の袖が余っている者もいる。銃を膝に置いているが、持ち方がまだ部活動の備品に近い。誰かが咳をする。誰かが笑う。誰かが笑った後に黙る。

 窓には板が打ちつけられている。

 その隙間から雪の白さが見えた。

 外にはレイスがいる。

 帰る人間を待っている。

 なのに教室の中には、粉っぽいチョークの匂いがした。

 その匂いが、消毒液よりも、血よりも、ずっと場違いだった。

「人数、もう一度」

 セナが言った。

 声は低い。

 医療袋を開きながら、紙に何かを書いている。

 リゼは教卓にもたれて答えた。

「生存三十二」

「歩行可能」

「十七。たぶん」

「たぶん、やめて」

「じゃあ十五」

「減った」

「嘘つきがいる」

 リゼはそう言って、教室の隅を見た。

 数人が目を逸らす。

 セナはため息をつかなかった。

 代わりに、ペン先を止めた。

「担架必要なのは」

「五」

「担架は」

「二」

「車両は」

 ミナが窓際から答えた。

「一台」

「座席は」

「普通に乗るなら八。詰めたら十二。人権を消したら十五」

「人権は消さない」

「じゃあ十二」

 ユウトが小さく言った。

「足りないですね」

 誰も返事をしなかった。

 足りない。

 それは、この数日で何度も聞いた言葉だった。

 車両が足りない。

 燃料が足りない。

 担架が足りない。

 薬が足りない。

 時間が足りない。

 足りないものを数えていると、最後には人間が足りなくなる。

 カナタは教室の後ろに立っていた。

 出入口。

 窓。

 廊下。

 階段。

 そこばかり見ている。

 たぶん癖だ。

 いや。

 もう癖ではない。

 必要なことになってしまった。

 それが少し嫌だった。

 リゼがこちらを見た。

「出口見てる」

「はい」

「何個ある?」

「使えるのは二つ」

「玄関と裏口?」

「玄関は待たれてます」

「じゃあ一つ」

「裏口も、たぶんすぐ塞がれます」

「じゃあゼロじゃん」

 リゼは笑った。

 短い笑い。

 笑い終わる前に、咳が混じった。

 セナが顔を上げる。

「熱ある?」

「ない」

「ある返事」

「ちょっと」

「ちょっとって何度」

「気合いで下がるくらい」

「下がらない」

 セナはリゼの額に手を当てた。

 リゼは少しだけ顔をしかめる。

 でも抵抗しない。

 片腕を布で吊っている。

 肩口の包帯には血が滲んでいた。

 乾いた血と新しい血の色は違う。

 カナタはそれも最近覚えた。

 覚えたくなかった。

「あなたも車に乗る」

 セナが言った。

「無理」

「命令」

「誰の」

「衛生兵の」

「弱そう」

「従わないと痛いことする」

「強い」

 少しだけ笑いが起きた。

 教室の空気がわずかに緩む。

 その緩み方が、学校らしかった。

 誰かが小さく咳をして、誰かが「先生みたい」と言って、セナが「誰が」と睨んで、それでまた少しだけ笑いが起きた。

 外には黒い影がいる。

 でも、この教室の中には、まだ笑い方を忘れていない人間がいた。

 カナタはそれを見るのが少し怖かった。

 笑える人間は、まだ戻れる場所を持っているように見える。

 戻れる場所を持っている人間ほど、戻れなかった時に残る。

「カナタさん」

 ユウトが隣に来た。

 声が小さい。

「これ、どうするんですか」

「考えてます」

「全員は無理ですよね」

「……」

「ですよね」

 ユウトは自分で言って、自分で傷ついた顔をした。

 カナタは何も言えなかった。

 全員は無理。

 その言葉は簡単すぎる。

 でも、その中には三十二人の顔が入っている。

 三十二人分の名前が入っている。

 チョークの粉。

 手の震え。

 咳。

 足を引きずる音。

 そういうもの全部を、一つの言葉で切る。

 全員は無理。

 だからカナタは、その言葉を言わない。

 言わなくても、分かってしまうからだ。

「リゼさん」

 カナタは言った。

「学校の地下、ありますか」

 リゼがこちらを見る。

「地下?」

「倉庫とか、避難路とか」

「避難路はない。倉庫はある」

「外へ繋がってます?」

「昔の搬入口なら」

「どこへ」

「体育館の裏」

 ミナが窓の隙間から外を覗く。

「体育館裏、雪深いよ」

「車は入れない?」

「無理」

「人なら」

「通れるかも」

 カナタは頭の中で線を引いた。

 教室。

 廊下。

 地下倉庫。

 搬入口。

 体育館裏。

 そこから林。

 林を抜ければ、西側道路。

 車は回り込ませる必要がある。

 時間がいる。

 でも玄関よりはましだ。

 敵は校門を待っている。

 帰る人間は、道を通ると思われている。

 なら、道じゃない場所を通るしかない。

「二班に分けます」

 カナタは言った。

 教室が静かになる。

「歩ける人は地下から林へ。車は体育館裏へ回します。重傷者は先に車へ」

「車に乗れない人は」

 セナが訊く。

 まっすぐだった。

 カナタは答えを持っていなかった。

 答えを探していた。

 探しても、どこにもなかった。

「歩ける人が、歩けない人を持ちます」

「全員?」

「できるだけ」

「できるだけ」

 セナはその言葉を繰り返した。

 嫌そうに。

「便利な言葉」

「はい」

「嫌い」

「はい」

 リゼが教卓から離れた。

「やるしかないよ」

 その声は軽かった。

 軽すぎた。

「ここにいたら、どっちにしても終わる」

 学徒兵たちが顔を上げる。

 リゼは教室を見回した。

「歩ける人、嘘つかない」

 何人かが目を逸らす。

「歩けない人も、嘘つかない」

 今度は別の何人かが俯く。

「嘘つくと、誰かが余計に死ぬ」

 静かだった。

 子供が言うには重すぎる言葉だった。

 でも、ここでは彼女が言わなければならなかった。

 誰も代わりに言ってくれないからだ。

 その時。

 外で音がした。

 爪で金属を引っかく音。

 ぎい。

 ぎぎ。

 校門ではない。

 もっと近い。

 窓の下。

 ユウトが息を呑む。

 ミナが小さく言った。

「もう来た」

 カナタは窓の隙間から外を見る。

 校庭にレイスはいない。

 一瞬、いないように見えた。

 違った。

 雪の下だ。

 黒い腕が、雪の中から出ていた。

 校舎の壁際。

 そこに伏せていた。

 待っていた。

 玄関ではなく。

 裏口でもなく。

 壁の下で。

 帰る人間が動き出すのを待っていた。

「……学んでる」

 カナタは呟いた。

「なにを」

 ユウトが訊く。

「人が逃げる前に、出口を見ることを」

 外の雪が動いた。

 一体。

 二体。

 三体。

 レイスが立ち上がる。

 音もなく。

 まるで、最初からそこに立っていたのに、こちらが見ていなかっただけみたいだった。

 リゼが短く息を吸った。

「地下」

 カナタは言った。

「今すぐ」

 教室が動き出す。

 毛布。

 担架。

 銃。

 医療袋。

 誰かの教科書が床に落ちた。

 表紙には、夏服の生徒が笑っていた。

 カナタはそれを踏まないように避けた。

 なぜ避けたのか、自分でも分からなかった。

 ただ。

 踏んだら、何かが完全に終わる気がした。

 廊下へ出る。

 非常灯が赤い。

 窓の外で、黒い影が動く。

 校舎の中には、チョークの匂いと、血の匂いと、雪の匂いが混ざっていた。

 学校が、ゆっくり戦場になっていく。

 いや。

 もう戦場だった。

 ただ、カナタたちがそれを認めるのが遅かっただけだった。

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