帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第七十話 リゼの夏

 リゼは、夏が終わる音を知っている。

 昔は、チャイムだった。

 夏休みの終わりの日、学校の廊下に響く始業のチャイム。誰かが日焼けしていて、誰かが髪を切っていて、誰かが宿題を忘れていて、誰かが昨日までの夏を机の中に押し込もうとして失敗している。廊下にはワックスの匂いと、濡れた雑巾の匂いと、購買でまだ売っている冷たい紙パック飲料の匂いが少し混じっていた。

 夏は、教室に戻ることで終わった。

 少なくとも、リゼはそう思っていた。

 でも、今は教室がない。

 チャイムもない。

 黒板もない。

 机は、ハウンド七に置いてきた。

 《帰りたい》と《帰った》を書いた、あの古い学校机。

 だから、夏が終わる音も変わった。

 旧南部貨物駅の朝には、チャイムの代わりに金属椀の音が鳴る。

 かん。

 かん。

 誰かが椀を重ねる音。

 誰かが落としかけて慌てて掴む音。

 鍋の底を柄杓がこする音。

 それに、少なくなった蝉の声が重なる。

 蝉はまだ鳴いている。

 でも、もう世界の中心ではなかった。

 貨物駅の裏の草むらで、思い出したように鳴く。鳴いて、すぐ止まる。その短い沈黙の方が、鳴き声より夏の終わりに似ていた。

 リゼは待合室の壁の前に立っていた。

 壁には、昨日書いた文字がある。

 《帰ってきた》

 白いチョークの字。

 少し曲がっている。

 朝の光に当たると薄くなり、昼になるとほとんど見えなくなる。夕方になると、また少し浮かび上がる。そういう字だった。

 不安定。

 でも、消えない。

 新しい待合室の窓は、朝になっても白くならない。

 息を吹きかけても、少し曇って、すぐ消える。指でなぞる暇もない。冬のハウンド七なら、ガラスはすぐ白くなった。そこに誰かが豆を描き、ユウトが勝手に勝利と書き、タクトが小さな缶を描き、カナタがそれを見て少しだけ困った顔をした。

 ここでは、そうならない。

 ガラスはずっと透明で、向こう側に貨物台と錆びた線路と、三号車の少しへこんだ横腹を映している。窓に書けないことは、夏の終わりそのものではない。たぶん、ここがハウンド七ではないということだった。

 リゼは窓に額を近づけた。

 曇らない。

 つまらない。

 少しだけ腹が立つ。

 夏は、そういうところがある。

 勝手に来る。

 勝手に暑くする。

 勝手に人を汗だくにして、麦茶をぬるくして、鉄板を触れないくらい熱くして、それで最後は、勝手に荷物をまとめ始める。

 ずるい。

「何してるんですか」

 カナタが言った。

 待合室の入口に立っている。

 片方だけ新しい手袋。

 もう片方は、まだ少し湿った古い方。

 穴の開いた手袋は、昨日、帰り箱に入れた。なのに、カナタはまだ手袋の人だった。

「窓に勝てない」

 リゼは答えた。

「窓と戦ってたんですか」

「うん」

「勝てそうですか」

「無理」

「でしょうね」

 カナタは少しだけ笑った。

 その笑い方も変わった。

 ハウンド七にいた頃より、短い。

 でも、前よりちゃんと笑う。

 たぶん、いろいろ失った人間の笑い方だった。

 リゼは窓から離れた。

 

 待合室の隅に、小さな箱がある。

 帰り箱。

 仮の帰り箱。

 かりばこ。

 呼び方はまだ決まっていない。

 でも、もう誰もただの箱とは思っていない。

 箱の中には、赤い手袋、黒札、優勝豆、チョーク、肉缶の蓋、射的の木片、焦げた端子、祭り入口の札の切れ端、雨で濡れた赤布の端、それからカナタの湿った手袋がある。

 少ない。

 でも、軽くはない。

 リゼはその前にしゃがんだ。

 手首には赤布。

 赤布は何度も切られて、もう最初の長さではない。手首に巻いている分も、端が少し短い。泥の跡がある。雨の跡がある。火の匂いも少し残っている。

 自分のものだった。

 でも、もう自分だけのものではない。

 それが、少し不思議だった。

「リゼさん」

 タクトの声がした。

 振り向くと、彼が金属椀を両手で持って立っていた。

 腰には、布を巻いたオレンジソーダの空き缶。

 その横に、赤布の小片。

 音係。

 中央用。

 そういう名前が増えたせいで、タクトは少しだけ以前と違って見える。

 でも、困った時の顔はあまり変わらない。

「どうしたの」

「スープ、余ってます」

「豆は?」

「二粒です」

「市民だ」

「はい」

 タクトは真面目に頷いた。

「ユウトさんが、リゼさんは壁と喋っているので、スープを持っていけと言いました」

「壁と喋ってる扱いなんだ」

「違いますか」

 リゼは壁を見た。

 《帰ってきた》。

 喋っているわけではない。

 でも、返事を待っているような気はする。

「半分当たり」

「では、半分スープです」

「何それ」

 リゼは椀を受け取った。

 金属椀は、まだ少し熱い。

 木の椀ではない。

 指に伝わる熱が違う。

 ハウンド七の椀は、もっとぬるくて、もっと手に馴染んだ。金属椀は正直で、熱い時は熱いし、冷めるとすぐ冷たい。

 リゼは一口飲んだ。

 薄い。

 ちゃんと薄い。

 でも、昨日より少しこの場所の味がした。

「薄いね」

「はい」

「でも、薄さが安定してきた」

「ユウトさんが喜びます」

「変な喜び方だね」

「記録されています」

「もっと変」

 タクトは少し笑った。

 笑ってから、壁の文字を見る。

「何か書くんですか」

「まだ迷ってる」

「迷うなら、まだ書かなくていいと思います」

「タクトがそういうこと言うと、ちゃんとして聞こえる」

「ちゃんとしてませんか」

「してる」

「ならよかったです」

 タクトは本当に少し安心した顔をした。

 リゼはそれを見て、胸の奥が少しだけ痛くなった。

 最初に会った時、彼は空き缶を持っていた。

 鳴らないように布を巻いた空き缶。

 帰ってきたことを確認するための、小さなもの。

 今は、その缶から技術が生まれた。

 音を消す。

 音を鳴らす。

 音を選ぶ。

 人が帰るために使う。

 誰かの壊れたものが、誰かの道具になる。

 それは、救いなのかもしれない。

 でも、きれいな救いではない。

 缶はまだ空だ。

 タクトが失ったものが消えたわけではない。

 ただ、持ち方が変わった。

 リゼは自分の赤布を見た。

 泥で暗くなり、雨で色が少し抜け、端がほつれている。

 切った。

 増やした。

 渡した。

 戻ってきた。

 もう、最初の一本ではない。

 リゼも同じだった。

 学校の中にいた自分ではない。

 文化祭の倉庫で軍手を拾った自分でもない。

 ハウンド七の食堂で豆を数えていた自分でもない。

 帰ろう、と言えるようになった自分でも、まだ途中だった。

 帰れたなら、次を帰そう。

 そう言った時から、赤布は自分だけのものではなくなった。

「タクト」

「はい」

「夏って、いつ終わると思う?」

 タクトは少し困った顔をした。

 真面目に考えている。

「暦ですか」

「暦は却下」

「では、蝉が鳴かなくなったら」

「まだ鳴いてる」

「麦茶が冷たくなったら」

「冷える設備が必要です」

「難しいね」

「はい」

 タクトは缶に触れた。

「自分は、缶の布を秋用に替えたら、少し終わる気がします」

「缶基準」

「はい」

「いいね」

「いいんですか」

「うん。そういうのでいい気がする」

 夏が終わる基準は、たぶん人それぞれだ。

 蝉。

 空。

 豆。

 手袋。

 赤布。

 缶の布。

 教室のチャイムがなくなった今、リゼは自分で終わりを決めなければならない。

 それが少し怖い。

 でも、少しだけ自由でもある。

 

 昼前、小さな受け入れがあった。

 以前救出した少年が、今朝は入口に立っていた。

 軍服は泥だらけ。

 でも、赤布を持っている。

 正確には、リゼが昨夜渡した細い赤布。

 彼は入口で、後続の三人に言っていた。

「三人ずつ。水は右。怪我してる人は赤二番。荷物は一つ」

 声は硬い。

 緊張している。

 でも、言えている。

 リゼは少し離れて見ていた。

 手伝いたい。

 口を出したい。

 でも、出さなかった。

 彼の赤布が、少し震えている。

 風ではない。

 手の震え。

 それでも、赤は見える。

 後続の避難民がその赤を見て、頷く。

 動く。

 一人が間違えて左へ行きかける。

 少年が慌てて言う。

「違う、右。あ、右です」

 ユウトが近くで小声で言った。

「敬語と命令が混ざってる」

「かわいい」

 リゼが言う。

「かわいいで済むならいいですね」

「済まないから、見てる」

 少年は何とか三人を通した。

 次の三人も。

 その次も。

 最後に、自分で小さく息を吐いた。

 リゼはその時だけ近づいた。

「仮免、更新」

 少年は驚いて振り返る。

「まだ仮免ですか」

「まだ」

「いつ本免に」

「知らない」

「そんな」

「でも、今のはよかった」

 少年は少しだけ笑った。

 照れたような、安心したような顔だった。

 その顔を見て、リゼは思った。

 夏は終わっていいのかもしれない。

 終わるというのは、消えることではない。

 渡ることかもしれない。

 赤布が自分の手から別の手へ渡る。

 言葉が別の口から出る。

 帰ろう、が知らない誰かの声になる。

 そうなった時、自分の中の夏は、少しだけ役目を終える。

 けれど、まだ終わらないものもあった。

 リゼはポケットの中の軍手を握った。

 旧学校区から持ってきた軍手。

 何度も濡れ、何度も乾きかけ、灰色になり、端が少しほつれている。

 持っていると、指先に学校の感触が戻る。

 チョークの粉。

 木の机。

 古い床。

 窓から入る風。

 誰かの声。

 もう戻らない場所。

 ずっと持っていた。

 全部置いてきたわけじゃない、と思うために。

 リゼは軍手を握ったまま、貨物駅の裏へ回った。

 そこには、小さな斜面があった。

 草が伸びている。

 線路の外れ。

 誰かが昔使っていたらしい水場。

 壊れた蛇口。

 ひび割れたコンクリート。

 水は出ない。

 蛇口の下に、雨水が少しだけ溜まっている。

 そこに、空が映っていた。

 リゼはしゃがんだ。

 水面を見る。

 自分の顔が映る。

 少し歪んでいる。

 髪は伸びた。

 前より、顔色はいい。

 でも、もう学校にいた頃の顔ではない。

 患者服の顔でもない。

 赤布の顔。

 帰ろうと言う顔。

 帰れたなら次を帰そうと言う顔。

 そういう顔になってしまった。

 なってしまった。

 たぶん、それでいい。

 でも、少し寂しい。

「夏、終わるね」

 誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 水場か。

 軍手か。

 旧学校区か。

 ハウンド七か。

 それとも、自分にか。

 返事はない。

 蝉が鳴いた。

 一匹。

 短い。

 リゼは軍手を水場の縁に置いた。

 置いて、すぐ拾いそうになった。

 指が動いた。

 でも、止めた。

 置く。

 置いていく。

 捨てるのではない。

 ここに置く。

 新しい拠点の、まだ名前のない水場に。

 軍手は濡れたコンクリートの上で、少しだけ暗くなった。

 ひどく普通だった。

 劇的ではない。

 音もしない。

 空も変わらない。

 ただ、リゼの手が軽くなった。

 それが、少し怖かった。

 軽くなってしまった。

 ずっと、重いと思っていた。

 でも、重いものがなくなると、人は急に不安になる。

 重さで、自分がどこにいるか分かっていたのかもしれない。

「置いたのか」

 声がした。

 ハルクだった。

 斜面の上に立っている。

 盾は背負っていない。

 珍しい。

「見てた?」

「見えた」

「盗み見」

「巡回」

「便利」

 ハルクは水場の方を見た。

 軍手。

 それからリゼ。

「いいのか」

「分かんない」

「そうか」

「でも、持ってると、ずっと学校に半分いるから」

「今は」

「ここにいる」

 口に出してから、リゼは少し驚いた。

 ここにいる。

 言えた。

 前なら、たぶん言えなかった。

 学校に半分。

 医療棟に半分。

 赤布のそばに半分。

 いろんな場所に分かれていた。

 でも今、少なくともこの瞬間は、ここにいると言えた。

 ハルクは頷いた。

「ならいい」

「短い」

「長く言うと違う」

「それ、ちょっと分かる」

 ハルクは斜面を下りなかった。

 そのまま言った。

「戻るなら、右」

「分かってる」

「左はぬかるむ」

「支柱みたい」

「人だ」

「はい」

 リゼは笑った。

 ハルクはもう少しだけ軍手を見てから、静かに去った。

 リゼは水場に残った。

 軍手を置いたまま。

 拾わないまま。

 時間が少し経つ。

 蝉が鳴く。

 風が来る。

 軍手は動かない。

 置いたものは、勝手に戻ってこない。

 当たり前のことだった。

 でも、その当たり前に体が慣れるまで、少し時間がかかった。

 リゼは立ち上がった。

 水場を見た。

 軍手を見た。

「じゃあね」

 小さく言った。

 言ったあと、自分で少し恥ずかしくなった。

 でも、言ってよかった。

 

 帰り道は、右だった。

 ハルクの言う通り、左はぬかるんでいた。

 午後、リゼは待合室へ戻った。

 帰り箱の前に座る。

 軍手はもうない。

 箱に入れることもできた。

 でも、入れなかった。

 あれは、持って帰るものではなく、置いてくるものだった。

 代わりに、リゼは赤布のほつれた端を少し切った。

 ほんの少し。

 指先ほどの赤。

 それを箱に入れる。

 軍手の代わりではない。

 でも、今の自分から置けるものだった。

 赤い布の端は、小箱の中で目立った。

 赤い手袋の隣。

 湿った手袋の近く。

 リゼはチョークを取った。

 昨日の文字の下に、少しだけ書き足す。

 《ここにいる》

 字は曲がった。

 でも、読める。

 カナタが後ろで見ていた。

「書きましたね」

「うん」

「窓じゃなくて、壁に」

「窓、負けたから」

「まだ戦ってたんですか」

「今日は引き分け」

 リゼはチョークを戻した。

 壁には、昨日の文字がある。

 《帰ってきた》

 その下に。

 《ここにいる》

 それだけだった。

 でも、それで十分だった。

 夏が終わる、というのは、何かが消えることではないのかもしれない。

 持っていたものを、どこに置くか決められるようになることかもしれない。

 夕方、空は高かった。

 貨物台の端から見える空は、昨日より少し薄い。

 蝉の声はまた減っていた。

 遠い砲声はある。

 後続列も来る。

 通信は途切れる。

 レイスはいなくなっていない。

 夏が終わっても、戦争は終わらない。

 それは少し詐欺みたいだった。

 でも、たぶん季節にそこまでの責任はない。

 リゼは柱の赤布を直した。

 結び目を少し外側へ。

 見えやすいように。

 いつもの手つき。

 でも、今日は少し違う。

 赤布は、もう学校の代わりではなかった。

 ハウンド七の代わりでもない。

 今いる場所に、今いる人を戻すためのものだった。

 カナタが隣に立つ。

「夏、終わりましたか」

「私の中では」

「そうですか」

「うん」

「外はまだ暑いです」

「外は遅いから」

「季節にも辛辣ですね」

「夏にはいろいろされたから」

 リゼは笑った。

 ちゃんと笑えた。

 空の端が、少しだけ橙色になる。

 祭りの夜の色とは違う。

 ハウンド七を出た夕方の色とも違う。

 新しい場所の、初めての夕方だった。

 リゼは赤布を握った。

 もう、軍手はポケットにない。

 その軽さが、今は少しだけ大丈夫だった。

 待合室の壁には、白い文字が二行ある。

 《帰ってきた》

 《ここにいる》

 窓には何も書けない。

 結露しない。

 でも、壁に書けば残る。

 その下には、まだ何も書かなかった。

 次へ。

 その言葉は、もうある。

 でも、まだ書かない。

 書かなくても、リゼには見えている。

 帰ってきた。

 ここにいる。

 だから、いつか次へ行ける。

 その順番を、今日は崩したくなかった。

 夏が終わる音は、小さい。

 昨日、カナタがそう言っていたような気がする。

 言っていないかもしれない。

 どちらでもいい。

 リゼには、聞こえた。

 蝉が一度だけ鳴いた。

 短く。

 それきり黙った。

 リゼはその沈黙を聞いた。

 そして、やっと少しだけ、夏を見送れた気がした。

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