帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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エピローグ 冬の前

 冬は、最初に窓へ来る。

 リゼはそう思った。

 朝、旧南部貨物駅の待合室の窓が白くなっていた。

 全面ではない。

 端の方だけ。

 ガラスの隅に、薄く、頼りなく、息を吹きかけた後みたいな白が残っている。外はまだ雪ではない。貨物台の屋根にも、錆びた線路にも、三号車の腹にも、白く積もるものは何もない。ただ、線路の枕木の上に霜が少し乗っていて、朝の光に当たる前の砂糖みたいに見えた。

 晩秋。

 冬の手前。

 そういう言葉は便利だった。

 秋です、と言い切るには空気が冷たすぎる。

 冬です、と言い切るには、まだ世界が諦めていない。

 息は白い。

 でも、少し歩けば消える。

 水たまりは薄く氷を張る。

 でも、靴で踏めばすぐ割れる。

 貨物台の赤布は、朝の風で揺れていた。

 夏の赤ではない。

 雨の赤でもない。

 少し乾いて、少し色が褪せて、端だけが硬くなっている。

 それでも赤だった。

 リゼは待合室の壁を見た。

 《帰ってきた》

 《ここにいる》

 夏に書いた字は、もう少し薄くなっていた。

 チョークの白は壁のざらつきに入り込み、何度も人の袖が触れ、何度も荷物が当たり、何度も朝と夕方を浴びた。それでも消えない。完全ではない。読もうと思えば読める。読まなければ壁の汚れに見える。

 それくらいが、ちょうどよかった。

 言葉は、強すぎると疲れる。

 少し薄いくらいの方が、長くそこにいられる。

「寒いですね」

 ユウトが言った。

 金属椀を両手で包んでいる。

 夏には熱すぎた椀が、今はありがたいものになっていた。季節はずるい。同じ物の評価を、勝手に変えてしまう。

「秋です」

 カナタが答えた。

「秋って、寒くないんですか」

「寒い秋もあります」

「じゃあ冬でよくないですか」

「冬に怒られます」

「季節、怒るんですか」

「たぶん」

「責任を季節に投げる文化」

 ユウトは椀を覗いた。

「今日の豆、三粒」

 少し間が空いた。

 タクトが言った。

「貴族ですね」

「最後の日に貴族」

「縁起がいいのか悪いのか」

「いいことにしましょう」

 ユウトは真面目に頷いた。

 最後の日。

 その言葉で、待合室の空気が少しだけ変わった。

 旧南部貨物駅は、今日で中継点としての役目を終える。

 北側の新基地が、やっと使えるようになった。

 道路も、通信線も、医療棟も、補給倉庫も、まだ全部が完全ではない。完全ではないが、動ける。動けるなら、帰還誘導兵はそこへ行く。

 ここはもう、最前の帰る場所ではなくなる。

 そう決まっていた。

 誰も反対しなかった。

 反対できることではなかった。

 それに、たぶん、反対したいわけでもなかった。

 場所は役目を持つ。

 役目が終わると、場所は少しだけ静かになる。

 旧南部貨物駅は、朝から静かだった。

 静かすぎるわけではない。

 三号車のエンジン音。

 荷物を運ぶ足音。

 金属椀を重ねる音。

 誰かがくしゃみをする音。

 それらはある。

 でも、夏のような切羽詰まったざわめきはない。

 泥だらけの避難列が駆け込んでくる音も、夜通しの受け入れで名前を呼ぶ声も、今朝はなかった。

 貨物駅は、少しだけ空になっている。

 それが寂しかった。

 でも、悪い寂しさではなかった。

 リゼは帰り箱の前にしゃがんだ。

 夏には仮だった箱。

 今も、たぶん仮のままだ。

 でも、この場所ではもう誰も、ただの箱とは思っていない。

 赤い手袋。

 黒札。

 優勝豆。

 チョーク。

 肉缶の蓋。

 射的の木片。

 焦げた端子。

 祭り入口の札の切れ端。

 雨で濡れた赤布の端。

 カナタの退役した手袋。

 リゼが切った赤布の小片。

 それから、知らない誰かが置いていった小さな金属のボタン。

 夏の終わりには少なかった箱が、晩秋には少し重くなっていた。

 全部は持っていけない。

 でも、全部は置いていけない。

 そういう顔をしているものばかりだった。

「それ、持っていきますか」

 タクトが訊いた。

 腰の缶には、少し厚い布が巻かれている。

 秋用、と言っていた布だ。

 もう、冬用に近い。

「持っていく」

 リゼは答えた。

「箱ごと?」

「箱ごと」

「重いですよ」

「軽かったら困る」

 タクトは少し考えて、頷いた。

「そうですね」

 彼の缶は鳴らない。

 でも、必要なら一回だけ鳴る。

 夏の夜に覚えた音。

 今は、布の中で静かにしている。

「缶の布、冬用?」

 リゼが訊く。

「仮です」

「仮が好きだね」

「正式にすると、直せない気がするので」

「それ、ちょっと分かる」

 仮の帰り箱。

 仮の布。

 仮の帰る場所。

 仮のまま、人は何度も帰ってきた。

 正式なものより、仮のものの方が強い時がある。

 壊れたら直せる。

 違ったら結び直せる。

 足りなければ切って渡せる。

 リゼは赤布を見た。

 手首に巻かれた赤。

 冬の手前の空気の中で、少しだけ冷たくなっている。

 軍手はもうない。

 旧貨物駅の裏の水場に置いてきた。

 あの日から、何度か見に行った。

 最初は、ちゃんとあるか確かめるためだった。

 次は、なくなっていないか不安だったから。

 その次は、もう見に行かなくてもいいか確かめるためだった。

 昨日は、行かなかった。

 行かなくても、ここにいた。

 それが少しだけ嬉しかった。

「リゼさん」

 ユウトが呼んだ。

「はい」

「ここの壁、どうします?」

 待合室の壁。

 《帰ってきた》

 《ここにいる》

 そこにはまだ、二行しかない。

 下には何も書かれていない。

 書ける余白はあった。

 夏の終わりからずっと、そこにある余白だった。

「そのまま」

 リゼは答えた。

「置いていくんですか」

「壁は持てないし」

「まあ、そうですね」

「でも、残るなら残ればいい」

「残らなかったら?」

「それも、まあ」

 言ってから、自分で少し驚いた。

 夏なら、もっと強く残したいと思ったかもしれない。

 消えないように。

 忘れないように。

 ここにいたことがなかったことにならないように。

 でも今は、少し違う。

 残るものは残る。

 消えるものは消える。

 それでも、自分たちの足の中には道が残る。

 雨の日の白線みたいに。

 カナタは、待合室の外にいた。

 荷物を確認している。

 手袋をしている。

 両方とも、もう新しいものではない。

 片方は少し擦れて、片方は相変わらず湿りやすい。

 晩秋なのに。

 いや、晩秋だからかもしれない。

「カナタさん」

 リゼが呼ぶ。

「はい」

「手袋、乾いてる?」

 カナタは自分の手を見る。

 少し考える。

「微妙です」

「微妙」

「乾いているようで、湿っています」

「いつも通り」

「はい」

 ユウトが横から言った。

「冬前の正式湿度ですね」

「正式にしないでください」

「文化なので」

「責任を文化にしないでください」

 いつものやり取り。

 何度も聞いた。

 でも、今日聞くと少し違った。

 最後の日だからだ。

 最後の日の会話は、ただの冗談でも少しだけ重くなる。

 それがずるい。

 ミナの声が外から飛んできた。

「三号車、起きた!」

 ユウトが言う。

「仮眠中から起床ですね」

 タクトが答える。

「本眠にはなれませんでしたね」

「車も忙しい」

 リゼは少し笑った。

 貨物台へ出る。

 風が冷たい。

 夏の風とは違う。

 秋の風とも少し違う。

 冬が練習で吹かせている風みたいだった。

 貨物台の端には、霜が残っていた。

 踏むと、かすかに音がした。

 しゃり。

 雪ほど強くない。

 氷ほど固くない。

 でも、確かに白かった。

 三号車の車体には荷物が積まれている。

 帰り箱。

 医療袋。

 白線布。

 赤布。

 金属椀。

 タクトの予備布。

 ユウトがなぜか持っている豆の袋。

「それ、必要?」

 リゼが訊く。

「精神的に」

「物資としては?」

「少し」

「じゃあ許可」

「ありがとうございます」

 カナタが貨物台を見回していた。

 いつもの顔だった。

 出口。

 導線。

 荷物。

 人。

 詰まり。

 でも、今日は少しだけ違う。

 前を見る顔ではなく、後ろも見ている顔だった。

「何を見てるの」

 リゼが訊く。

「ここです」

「ここ」

「ちゃんと空になったか」

「空になった?」

「はい」

 カナタは貨物台を見る。

「人が残っていないか。荷物が残っていないか。戻る場所として、置き忘れたものがないか」

「置き忘れたもの」

「はい」

「全部持っていける?」

「無理です」

「じゃあ、空にはならないね」

 カナタは少しだけ黙った。

 それから頷く。

「そうですね」

 空にはならない。

 場所は、役目を終えても完全には空にならない。

 人がいた跡が残る。

 椀を置いた跡。

 赤布を結んだ跡。

 車輪の跡。

 チョークの字。

 水場に置いた軍手。

 持っていけないもの。

 持っていかないと決めたもの。

 そういうものが残って、場所は場所のまま残る。

 それでいい。

 たぶん。

 出発前、リゼは忘れ物確認という名目で、もう一度待合室へ戻った。

 本当に忘れ物があったわけではない。

 たぶん。

 でも、見ておきたかった。

 誰もいない待合室は、少し寒かった。

 金属椀の音もない。

 ユウトの声もない。

 タクトの缶もない。

 カナタの手袋の匂いも、少し薄い。

 窓が白くなっていた。

 朝より、少し。

 リゼはそこへ近づいた。

 息を吐く。

 ガラスが白くなる。

 今なら、書ける。

 夏には書けなかった窓。

 額を近づけても曇らなかった窓。

 いまは、少しだけ白い。

 リゼは指を上げた。

 でも、止めた。

 もう自分は書いた。

 《帰ってきた》

 《ここにいる》

 それで十分だった。

 そう思った時、気づいた。

 窓の右上。

 少し高いところ。

 リゼがいつも書く高さより、ほんの少し高い。

 そこに、文字があった。

 短い。

 白い。

 少し曲がっている。

 丁寧なのに、どこか不器用だった。

 《次へ》

 誰が書いたのか、リゼには分かった。

 書いているところは見ていない。

 いつ書いたのかも知らない。

 朝かもしれない。

 荷物を確認する前かもしれない。

 手袋を見て、また少し困った顔をした後かもしれない。

 でも、分かった。

 カナタだ。

 リゼは少しだけ黙った。

 それから、窓に息を吹きかけた。

 白が濃くなる。

 《次へ》の文字が、少しだけはっきりする。

 なぞらない。

 消さない。

 ただ、息を足す。

 外からユウトの声がした。

「リゼさん、出ますよ!」

 タクトの声もした。

「箱、固定しました!」

 カナタの声は聞こえなかった。

 リゼは窓を見た。

 《次へ》

 それから壁を見る。

 《帰ってきた》

 《ここにいる》

 三つの言葉は、同じ場所にはない。

 壁と窓。

 夏と冬の手前。

 書いた人も違う。

 でも、つながっていた。

 帰ってきた。

 ここにいる。

 次へ。

 その順番で、やっと出発できる気がした。

 リゼは待合室を出た。

 外の風は冷たい。

 三号車のエンジンが鳴っている。

 赤布が貨物台の柱で揺れている。

 それは持っていかない赤布だった。

 ここに残る赤。

 新しい基地へ持っていく赤は、リゼの手首にある。

 ユウトが豆の袋を抱えている。

 タクトが缶を押さえている。

 カナタは三号車の横に立ち、こちらを見る。

「忘れ物、ありましたか」

 彼が訊いた。

 リゼは少しだけ笑った。

「なかった」

「そうですか」

「うん。もう置いてきた」

 カナタは何も言わなかった。

 少しだけ頷いた。

 三号車が動き出す。

 貨物台が少しずつ後ろへ下がる。

 待合室の窓が光る。

 白い文字は、外からは見えなかった。

 でも、ある。

 見えなくても、ある。

 そういうものが増えた。

 霜の残った線路を越え、三号車は北へ向かう。

 冬は、まだ来ていなかった。

 でも、次へ行く準備はできていた。

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