帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
地下へ降りる階段は、理科準備室の奥にあった。
そのこと自体が、少しおかしかった。
戦場の出口が、人体模型と割れたビーカーの横にある。
薬品棚のガラスは割れていて、床には白い粉と茶色い液体の跡がこびりついていた。何かの実験途中だったのか、机の上には金属製のスタンドが倒れたままになっている。黒板には《酸化》という文字が残っていて、その下に誰かの落書きで小さな猫が描かれていた。
猫は笑っていた。
口が三角で、ひげが六本。
その横を、負傷兵を背負った学徒兵が通っていく。
カナタはその猫を見ないようにした。
見ないようにしたのに、一度見たものは残る。
猫。
酸化。
割れたビーカー。
血の匂い。
雪の匂い。
戦争は、どうでもいいものまで連れていこうとする。
「足元、気をつけて」
リゼが言った。
片腕を吊ったまま、先頭に立っている。
セナがすぐに言った。
「あなたは最後尾」
「案内できるの私だけ」
「案内したら最後尾」
「はいはい」
「はいは一回」
「先生みたい」
リゼは笑った。
笑った後、少し咳をした。
セナの目が細くなる。
何も言わなかった。
言えば止まる。
止まれば遅れる。
遅れれば、誰かが帰れなくなる。
カナタは階段の上から廊下を見た。
窓の外で黒い影が動く。
まだ校舎内には入ってきていない。
でも、待っている。
出口の外で。
壁の下で。
まるで、こちらがいつか間違えるのを知っているみたいに。
「カナタさん」
ユウトが小声で言った。
「これ、間に合いますか」
カナタは答えなかった。
答えるために、地下へ降りる人の数を見た。
一人。
二人。
三人。
足を引きずる者。
肩を借りる者。
担架の上で目を閉じている者。
泣かない子。
泣いている子。
リゼの顔を見る者。
見ない者。
数える。
数えるたびに重くなる。
でも、数えないと消える。
「間に合わせます」
カナタは言った。
答えではなかった。
でもユウトは頷いた。
そういう嘘が必要な時もある。
地下倉庫は暗かった。
非常灯は生きている。
赤い。
その赤い光が、壁に並んだ棚を細長く伸ばしていた。棚には防災用の毛布、古い缶詰、折り畳み椅子、文化祭で使ったらしい看板、体育祭の得点板、誰かが途中で飽きた段ボールの恐竜が置かれている。
恐竜。
首が折れていた。
折れた首を、誰かが雑にテープで直している。
そのテープの貼り方が下手で、たぶん作ったのは生徒だと思った。
そこに、担架が通る。
缶詰の箱に血が落ちる。
赤い光の中で、それは黒く見えた。
「ここ、文化祭の倉庫?」
ミナが呟いた。
「たぶん」
リゼが答える。
「去年、迷路やった」
「迷路」
「段ボールで」
「楽しそう」
「楽しかった」
短かった。
その短さが、長い説明より痛かった。
楽しかった。
過去形。
それだけで十分だった。
地下の空気は湿っていた。
外より暖かいわけではないのに、息が少し重い。コンクリートの匂い。古い紙の匂い。鉄の錆びた匂い。そこに医療袋の消毒液が混ざる。
人が多い。
地下倉庫はすぐに狭くなった。
歩ける者が歩けない者を支える。
支えられる者が謝る。
支える者が怒る。
怒りながら支える。
「ごめん」
「謝るな、重くなる」
「もう重い」
「じゃあ黙って軽くなれ」
誰かが笑った。
すぐに咳へ変わった。
セナがその方を見る。
「咳してる人、あとで見る」
「あとっていつ」
「生きて出たら」
「怖い」
「生きて出ろ」
セナの声は硬い。
でも、硬い声は折れにくい。
カナタはそう思った。
柔らかいものから先に壊れるとは限らない。
硬いものも割れる。
人間は、どちらでも壊れる。
「搬入口、こっち」
リゼが奥を指す。
地下倉庫の突き当たり。
鉄扉。
古い。
表面に錆が浮いている。
その上に、誰かがチョークで《開けたら閉める》と書いていた。
当たり前のこと。
でも、もう閉めるために開ける扉ではない。
帰るために開ける。
開けたら、たぶん戻らない。
ミナが扉を見る。
「固そう」
「開く?」
ユウトが訊く。
「開かなかったら?」
「困ります」
「じゃあ開ける」
ミナは工具を取り出した。
金属音が地下に響く。
かん。
かん。
その音を聞いていると、遠くで別の音がした。
上。
校舎の方。
ぎい。
ぎぎぎ。
金属を引っかく音。
全員が黙る。
非常灯の赤い光だけが揺れている。
また音。
今度は、机が倒れるような音。
上で何かが入ってきた。
誰も言わない。
言わなくても分かる。
レイスだ。
リゼが目を閉じた。
ほんの一瞬。
それから開けた。
「急いで」
声は震えていなかった。
震えないようにしている声だった。
ミナの手が速くなる。
「錆びてる」
「開く?」
「開かせる」
かん。
かん。
上の音も近づく。
床越しに振動が伝わる。
天井の埃が落ちた。
古い紙の上に積もる。
段ボールの恐竜の折れた首にも積もる。
カナタは階段の方を見る。
暗い。
赤い。
そこから冷たい空気が降りてくる。
空気だけではない。
何かが降りてくる気配がある。
「ユウト」
「はい」
「階段、見て」
「……はい」
ユウトは小銃を構えた。
手は震えている。
でも構えている。
昨日、彼は豆の数で笑っていた。
今日、彼は階段の暗がりへ銃を向けている。
その変化が、カナタにはどうしようもなく悲しかった。
でも、今はそれを悲しむ時間ではない。
時間はいつも足りない。
悲しむ時間さえ、持っていけない。
セナが担架の位置を変える。
「扉が開いたら、重傷から」
「歩ける人は?」
「後」
「走れる人は?」
「最後」
リゼが小さく言った。
「私は最後でいい」
「ダメ」
セナが即答する。
「なんで」
「指揮してる人間が最後に倒れると、全員止まる」
「じゃあ途中?」
「途中」
「中途半端」
「生きるのはだいたい中途半端」
リゼは少し笑った。
「衛生兵って、もっと優しいと思ってた」
「優しいよ」
「どこが」
「死なせないところ」
その時、階段の上から音がした。
足音。
人間ではない。
軽い。
速い。
でも、止まる。
こちらを探している。
ユウトの呼吸が聞こえた。
浅い。
短い。
カナタは階段の下へ移動した。
「カナタさん」
「撃つのは、見えてから」
「はい」
「見えたら、迷わない」
「はい」
「迷うなら、俺が撃ちます」
ユウトは小さく頷いた。
その頷き方は、子供が怖い話を聞いた後に布団を握る時の動きに似ていた。
ミナが叫ぶ。
「開く!」
鉄扉が軋んだ。
外の冷たい空気が流れ込む。
白い。
雪明かり。
地下倉庫に、外の白さが入ってくる。
出口だ。
出口という言葉だけで、人が動きかける。
でもカナタはすぐに言った。
「止まって」
全員が止まる。
外を見る。
体育館裏。
雪。
林。
そして。
地面のくぼみ。
足跡ではない。
這った跡。
何かが、すでにそこを通っていた。
ミナが息を呑む。
「……外も?」
カナタは頷いた。
「待たれてます」
「じゃあ」
ユウトの声が掠れる。
「出口じゃないんですか」
カナタは外を見た。
白い雪。
黒い林。
そこにあるはずの帰り道。
でも今、それは出口ではない。
待ち伏せの場所だ。
出口は、誰かが帰れる時だけ出口になる。
待たれていたら、それはただの穴だ。
階段の上で、レイスが鳴いた。
金属を引っかくような声。
近い。
ミナが扉を押さえる。
セナが担架に手をかける。
リゼが片腕で銃を持つ。
ユウトが階段を見る。
カナタは外を見る。
前にも、後ろにも、帰れない気配があった。
それでも。
帰り道は、どこかに作らなければならない。
「扉、閉めないで」
カナタは言った。
「外に出ます」
「待たれてるんじゃ」
「だから、待ってる場所をずらします」
ミナが嫌そうな顔をした。
「また無茶なこと言う顔だ」
「はい」
「はいじゃない」
カナタは地下倉庫を見た。
文化祭の看板。
折れた恐竜。
缶詰の箱。
防災用の毛布。
残された日常。
それら全部が、今だけは使えるものに見えた。
「囮を作ります」
階段の暗がりで、黒い影が動いた。
レイスが降りてくる。
日常の倉庫が、ゆっくり戦場へ変わっていく。
でもまだ。
ここには使えるものがある。
帰るために、燃やせるものが。