帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第八話 地下倉庫

 地下へ降りる階段は、理科準備室の奥にあった。

 そのこと自体が、少しおかしかった。

 戦場の出口が、人体模型と割れたビーカーの横にある。

 薬品棚のガラスは割れていて、床には白い粉と茶色い液体の跡がこびりついていた。何かの実験途中だったのか、机の上には金属製のスタンドが倒れたままになっている。黒板には《酸化》という文字が残っていて、その下に誰かの落書きで小さな猫が描かれていた。

 猫は笑っていた。

 口が三角で、ひげが六本。

 その横を、負傷兵を背負った学徒兵が通っていく。

 カナタはその猫を見ないようにした。

 見ないようにしたのに、一度見たものは残る。

 猫。

 酸化。

 割れたビーカー。

 血の匂い。

 雪の匂い。

 戦争は、どうでもいいものまで連れていこうとする。

「足元、気をつけて」

 リゼが言った。

 片腕を吊ったまま、先頭に立っている。

 セナがすぐに言った。

「あなたは最後尾」

「案内できるの私だけ」

「案内したら最後尾」

「はいはい」

「はいは一回」

「先生みたい」

 リゼは笑った。

 笑った後、少し咳をした。

 セナの目が細くなる。

 何も言わなかった。

 言えば止まる。

 止まれば遅れる。

 遅れれば、誰かが帰れなくなる。

 カナタは階段の上から廊下を見た。

 窓の外で黒い影が動く。

 まだ校舎内には入ってきていない。

 でも、待っている。

 出口の外で。

 壁の下で。

 まるで、こちらがいつか間違えるのを知っているみたいに。

「カナタさん」

 ユウトが小声で言った。

「これ、間に合いますか」

 カナタは答えなかった。

 答えるために、地下へ降りる人の数を見た。

 一人。

 二人。

 三人。

 足を引きずる者。

 肩を借りる者。

 担架の上で目を閉じている者。

 泣かない子。

 泣いている子。

 リゼの顔を見る者。

 見ない者。

 数える。

 数えるたびに重くなる。

 でも、数えないと消える。

「間に合わせます」

 カナタは言った。

 答えではなかった。

 でもユウトは頷いた。

 そういう嘘が必要な時もある。

 地下倉庫は暗かった。

 非常灯は生きている。

 赤い。

 その赤い光が、壁に並んだ棚を細長く伸ばしていた。棚には防災用の毛布、古い缶詰、折り畳み椅子、文化祭で使ったらしい看板、体育祭の得点板、誰かが途中で飽きた段ボールの恐竜が置かれている。

 恐竜。

 首が折れていた。

 折れた首を、誰かが雑にテープで直している。

 そのテープの貼り方が下手で、たぶん作ったのは生徒だと思った。

 そこに、担架が通る。

 缶詰の箱に血が落ちる。

 赤い光の中で、それは黒く見えた。

「ここ、文化祭の倉庫?」

 ミナが呟いた。

「たぶん」

 リゼが答える。

「去年、迷路やった」

「迷路」

「段ボールで」

「楽しそう」

「楽しかった」

 短かった。

 その短さが、長い説明より痛かった。

 楽しかった。

 過去形。

 それだけで十分だった。

 地下の空気は湿っていた。

 外より暖かいわけではないのに、息が少し重い。コンクリートの匂い。古い紙の匂い。鉄の錆びた匂い。そこに医療袋の消毒液が混ざる。

 人が多い。

 地下倉庫はすぐに狭くなった。

 歩ける者が歩けない者を支える。

 支えられる者が謝る。

 支える者が怒る。

 怒りながら支える。

「ごめん」

「謝るな、重くなる」

「もう重い」

「じゃあ黙って軽くなれ」

 誰かが笑った。

 すぐに咳へ変わった。

 セナがその方を見る。

「咳してる人、あとで見る」

「あとっていつ」

「生きて出たら」

「怖い」

「生きて出ろ」

 セナの声は硬い。

 でも、硬い声は折れにくい。

 カナタはそう思った。

 柔らかいものから先に壊れるとは限らない。

 硬いものも割れる。

 人間は、どちらでも壊れる。

「搬入口、こっち」

 リゼが奥を指す。

 地下倉庫の突き当たり。

 鉄扉。

 古い。

 表面に錆が浮いている。

 その上に、誰かがチョークで《開けたら閉める》と書いていた。

 当たり前のこと。

 でも、もう閉めるために開ける扉ではない。

 帰るために開ける。

 開けたら、たぶん戻らない。

 ミナが扉を見る。

「固そう」

「開く?」

 ユウトが訊く。

「開かなかったら?」

「困ります」

「じゃあ開ける」

 ミナは工具を取り出した。

 金属音が地下に響く。

 かん。

 かん。

 その音を聞いていると、遠くで別の音がした。

 上。

 校舎の方。

 ぎい。

 ぎぎぎ。

 金属を引っかく音。

 全員が黙る。

 非常灯の赤い光だけが揺れている。

 また音。

 今度は、机が倒れるような音。

 上で何かが入ってきた。

 誰も言わない。

 言わなくても分かる。

 レイスだ。

 リゼが目を閉じた。

 ほんの一瞬。

 それから開けた。

「急いで」

 声は震えていなかった。

 震えないようにしている声だった。

 ミナの手が速くなる。

「錆びてる」

「開く?」

「開かせる」

 かん。

 かん。

 上の音も近づく。

 床越しに振動が伝わる。

 天井の埃が落ちた。

 古い紙の上に積もる。

 段ボールの恐竜の折れた首にも積もる。

 カナタは階段の方を見る。

 暗い。

 赤い。

 そこから冷たい空気が降りてくる。

 空気だけではない。

 何かが降りてくる気配がある。

「ユウト」

「はい」

「階段、見て」

「……はい」

 ユウトは小銃を構えた。

 手は震えている。

 でも構えている。

 昨日、彼は豆の数で笑っていた。

 今日、彼は階段の暗がりへ銃を向けている。

 その変化が、カナタにはどうしようもなく悲しかった。

 でも、今はそれを悲しむ時間ではない。

 時間はいつも足りない。

 悲しむ時間さえ、持っていけない。

 セナが担架の位置を変える。

「扉が開いたら、重傷から」

「歩ける人は?」

「後」

「走れる人は?」

「最後」

 リゼが小さく言った。

「私は最後でいい」

「ダメ」

 セナが即答する。

「なんで」

「指揮してる人間が最後に倒れると、全員止まる」

「じゃあ途中?」

「途中」

「中途半端」

「生きるのはだいたい中途半端」

 リゼは少し笑った。

「衛生兵って、もっと優しいと思ってた」

「優しいよ」

「どこが」

「死なせないところ」

 その時、階段の上から音がした。

 足音。

 人間ではない。

 軽い。

 速い。

 でも、止まる。

 こちらを探している。

 ユウトの呼吸が聞こえた。

 浅い。

 短い。

 カナタは階段の下へ移動した。

「カナタさん」

「撃つのは、見えてから」

「はい」

「見えたら、迷わない」

「はい」

「迷うなら、俺が撃ちます」

 ユウトは小さく頷いた。

 その頷き方は、子供が怖い話を聞いた後に布団を握る時の動きに似ていた。

 ミナが叫ぶ。

「開く!」

 鉄扉が軋んだ。

 外の冷たい空気が流れ込む。

 白い。

 雪明かり。

 地下倉庫に、外の白さが入ってくる。

 出口だ。

 出口という言葉だけで、人が動きかける。

 でもカナタはすぐに言った。

「止まって」

 全員が止まる。

 外を見る。

 体育館裏。

 雪。

 林。

 そして。

 地面のくぼみ。

 足跡ではない。

 這った跡。

 何かが、すでにそこを通っていた。

 ミナが息を呑む。

「……外も?」

 カナタは頷いた。

「待たれてます」

「じゃあ」

 ユウトの声が掠れる。

「出口じゃないんですか」

 カナタは外を見た。

 白い雪。

 黒い林。

 そこにあるはずの帰り道。

 でも今、それは出口ではない。

 待ち伏せの場所だ。

 出口は、誰かが帰れる時だけ出口になる。

 待たれていたら、それはただの穴だ。

 階段の上で、レイスが鳴いた。

 金属を引っかくような声。

 近い。

 ミナが扉を押さえる。

 セナが担架に手をかける。

 リゼが片腕で銃を持つ。

 ユウトが階段を見る。

 カナタは外を見る。

 前にも、後ろにも、帰れない気配があった。

 それでも。

 帰り道は、どこかに作らなければならない。

「扉、閉めないで」

 カナタは言った。

「外に出ます」

「待たれてるんじゃ」

「だから、待ってる場所をずらします」

 ミナが嫌そうな顔をした。

「また無茶なこと言う顔だ」

「はい」

「はいじゃない」

 カナタは地下倉庫を見た。

 文化祭の看板。

 折れた恐竜。

 缶詰の箱。

 防災用の毛布。

 残された日常。

 それら全部が、今だけは使えるものに見えた。

「囮を作ります」

 階段の暗がりで、黒い影が動いた。

 レイスが降りてくる。

 日常の倉庫が、ゆっくり戦場へ変わっていく。

 でもまだ。

 ここには使えるものがある。

 帰るために、燃やせるものが。

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