帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所   作:自給自足

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第九話 文化祭の残り

 燃やせるものは、思ったより多かった。

 段ボール。

 古いポスター。

 文化祭の看板。

 使いかけのガムテープ。

 乾いた木材。

 紙吹雪の入った箱。

 誰かが作った段ボールの恐竜。

 燃やせるものを集めていくと、その場所が何だったのかがよく分かる。

 倉庫の奥には《二年三組おばけ迷路》と書かれた看板があった。黒い絵の具で描かれたおばけは、目だけがやけに丸くて、怖がらせる気があるのかないのか分からない顔をしていた。その横には、星形の飾りと、色あせた風船と、誰かの名前が書かれた作業用の軍手が落ちている。

 リゼがそれを拾った。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ、彼女の顔が普通の学生になった。

 それから、すぐに戻った。

「それ、燃やす?」

 カナタが訊くと、リゼは首を振った。

「これは違う」

「はい」

「……違うだけ」

 彼女は軍手をポケットに押し込んだ。

 それだけで、会話は終わった。

 地下倉庫の空気は、急に忙しくなった。

 レイスは階段から降りてくる。

 外にもいる。

 出口は出口ではなくなっている。

 だから、出口を別のものに変える必要があった。

 囮。

 火。

 煙。

 音。

 人間が逃げる方向とは別の場所に、人間がいるように見せる。

 言葉にすれば簡単だった。

 やることはひどかった。

 文化祭の残りを燃やす。

 学校だったものを、逃げるための道具に変える。

 カナタはそれを考えながら、段ボールを抱えた。

 軽い。

 あまりにも軽い。

 弾薬箱を捨てた時の重さとは違う。

 軽いものを捨てる方が痛いこともある。

「カナタさん」

 ユウトが声をかけた。

 手には紙吹雪の箱を持っている。

「これも?」

「燃えますか」

「めっちゃ燃えそうです」

「じゃあ使います」

「ですよね」

 ユウトは箱の中を見た。

 赤、青、黄色。

 小さな紙片がぎっしり詰まっている。

 祭りの最後に撒く予定だったのかもしれない。

 誰かが笑うためのものだった。

 今は、敵を騙すために燃やされる。

「もったいないですね」

 ユウトが言った。

「はい」

「でも使いますよね」

「はい」

「嫌ですね」

「はい」

 それだけだった。

 短い会話は楽だった。

 説明しなくていい。

 同じものを嫌がっていることだけ分かれば、それで十分だった。

 ミナは防災用の発煙筒を見つけていた。

「あるじゃん」

 声が少し明るい。

 こういう時のミナは、戦場よりも倉庫の方が似合う。

 壊れた機械、余った部品、何に使うか分からない古い道具。

 そういうものを見つける目がある。

「何本ですか」

「四本」

「足ります?」

「足らせる」

「便利な言葉」

「便利にしないと死ぬ」

 ミナは発煙筒を一本、カナタへ投げた。

 受け取る。

 冷たい。

 古くて、表面の印字がかすれている。

 使用期限はとっくに切れていた。

「これ使えます?」

「知らない」

「知らない?」

「でもたぶん煙は出る」

「たぶん」

「戦場なので」

 それはもう、祈りに近い言葉だった。

 セナは重傷者を搬入口近くへ集めていた。

 毛布。

 担架。

 医療袋。

 彼女の手は止まらない。

 でも、目だけが時々、倉庫の奥へ向く。

 燃やすものを見ている。

 置いていくものを見ている。

「セナさん」

 カナタが声をかける。

「何」

「薬、どれくらい持てますか」

「持てるだけ」

「……」

「分かってる」

 セナは小さく言った。

 医療袋を一つ開ける。

 中から瓶を取り出す。

 包帯。

 消毒薬。

 鎮痛剤。

 必要なものばかり。

 必要なものしかない。

 なのに全部は持てない。

 彼女はしばらくそれらを見ていた。

 それから、鎮痛剤を一箱だけ戻した。

「置いていくんじゃない」

 誰に言うでもなく言った。

「持っていける分を持っていく」

 カナタは何も言わなかった。

 前にも聞いた言葉だった。

 でも、今は少し違って聞こえた。

 言い聞かせている。

 自分に。

 ここにいる全員に。

 そして、たぶん置いていく薬にも。

 階段の方で音がした。

 ぎい。

 金属。

 その後に、爪が床を探る音。

 ユウトが銃を構えた。

 手は震えている。

 でも銃口は下がっていない。

「見えてから」

 カナタが言う。

「はい」

「音だけで撃つと、弾が減ります」

「弾より心臓が減ってます」

「心臓は一個しかないです」

「じゃあもう減らないですね」

「そういう意味では」

 ユウトが少しだけ笑った。

 笑った直後、階段の赤い光の中に黒い腕が見えた。

 銃声。

 ユウトが撃った。

 レイスの腕が弾ける。

 黒い体が階段を転がる。

 でも、すぐ後ろに次がいる。

「来た!」

 地下倉庫が戦場になった。

 段ボールの恐竜の横で銃声が鳴る。

 文化祭の看板の下で担架が動く。

 紙吹雪の箱が蹴られて、赤と青と黄色の紙片が床に散った。

 非常灯の赤い光の中で、それらは血より鮮やかだった。

「ミナ!」

「今やってる!」

 ミナが発煙筒をまとめ、導火用の布を巻く。

 手元が早い。

 迷いがない。

 でも、顔は少し歪んでいた。

 段ボールの恐竜を見ている。

「これも?」

 彼女が訊いた。

 カナタは答えなかった。

 答えなかったが、ミナは分かった。

「だよね」

 恐竜は軽かった。

 首をテープで直された恐竜。

 誰かが作って、誰かが笑って、誰かが片付けずに置いたもの。

 ミナはそれを囮の山へ置いた。

 その動きが、ひどく丁寧だった。

 リゼがそれを見ていた。

 何も言わない。

 その沈黙の中に、たぶん名前があった。

 恐竜を作った誰かの名前。

 消された日直の名前。

 帰れなかった誰かの名前。

「リゼさん」

 カナタが言う。

「搬入口から出たら、林へ。車は体育館裏の外周を回して拾います」

「敵は」

「囮が効けば、倉庫側へ寄ります」

「効かなかったら?」

「走ります」

「そればっか」

「他にないので」

 リゼは少しだけ笑った。

 その顔は青かった。

 熱がある。

 それでも立っている。

「変な人」

「よく言われます」

「帰れなかったら?」

 カナタは一瞬、答えられなかった。

 その質問は、いつも自分が考えていることだった。

 帰れなかったら。

 そうなった時のことばかり考えている。

 なのに、言葉にすると急に分からなくなる。

「……その時は」

「その時は?」

「たぶん、嫌です」

 リゼは目を丸くした。

 それから、小さく吹き出した。

「答えになってない」

「すみません」

「でも、いいや」

 リゼはポケットの中の軍手を握った。

「嫌なら、帰るしかない」

 階段から二体目が降りてきた。

 ユウトが撃つ。

 外れる。

 カナタが撃つ。

 当たる。

 レイスが階段の途中で崩れた。

 その体が後続を少しだけ止める。

 ほんの少し。

 でも、その少しが必要だった。

「準備できた!」

 ミナが叫ぶ。

 囮の山。

 段ボール。

 看板。

 紙吹雪。

 発煙筒。

 古い毛布。

 恐竜。

 それらが地下倉庫の中央に積まれている。

 祭りの前夜みたいだった。

 違うのは、誰も笑っていないことだった。

「火、つけます」

 カナタは言った。

 リゼが目を閉じた。

 一秒。

 二秒。

 それから頷いた。

「いいよ」

 火がついた。

 最初に紙吹雪が燃えた。

 赤と青と黄色が、ぱちぱちと音を立てて黒く縮む。

 次に段ボール。

 次に看板。

 煙が出る。

 古い紙と絵の具とビニールが混じった、甘くて嫌な匂い。

 文化祭の残りが燃える匂い。

 レイスが反応した。

 階段から降りてきた影が、火と煙へ向きを変える。

 音。

 熱。

 人間がいると誤認しているのかもしれない。

 あるいは、ただ動くものへ寄っているだけかもしれない。

 分からない。

 でも、寄った。

「今」

 カナタが言った。

「出ます」

 搬入口から雪明かりが差す。

 白い。

 地下の赤と、外の白。

 その境目を、担架が越える。

 一人。

 二人。

 三人。

 学徒兵たちが続く。

 セナが最後まで負傷者を押す。

 ユウトが階段を撃つ。

 ミナが燃えていく恐竜を見ないようにしている。

 リゼは一度だけ振り返った。

 地下倉庫。

 文化祭の残り。

 燃える看板。

 チョークの粉。

 消えた名前。

「行きます」

 カナタが言った。

 リゼは頷いた。

 声は出さなかった。

 外へ出る。

 雪が顔に当たる。

 冷たい。

 あまりにも冷たくて、生きている感じがした。

 背後では、学校の地下から煙が上がっていた。

 文化祭の残りが、帰るために燃えていた。

 カナタはそれを覚えてしまう。

 紙吹雪の燃える匂い。

 恐竜の首。

 リゼの閉じた目。

 全部。

 たぶん、ずっと。

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