帰還誘導兵 ― その列の先に、帰る場所 作:自給自足
燃やせるものは、思ったより多かった。
段ボール。
古いポスター。
文化祭の看板。
使いかけのガムテープ。
乾いた木材。
紙吹雪の入った箱。
誰かが作った段ボールの恐竜。
燃やせるものを集めていくと、その場所が何だったのかがよく分かる。
倉庫の奥には《二年三組おばけ迷路》と書かれた看板があった。黒い絵の具で描かれたおばけは、目だけがやけに丸くて、怖がらせる気があるのかないのか分からない顔をしていた。その横には、星形の飾りと、色あせた風船と、誰かの名前が書かれた作業用の軍手が落ちている。
リゼがそれを拾った。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、彼女の顔が普通の学生になった。
それから、すぐに戻った。
「それ、燃やす?」
カナタが訊くと、リゼは首を振った。
「これは違う」
「はい」
「……違うだけ」
彼女は軍手をポケットに押し込んだ。
それだけで、会話は終わった。
地下倉庫の空気は、急に忙しくなった。
レイスは階段から降りてくる。
外にもいる。
出口は出口ではなくなっている。
だから、出口を別のものに変える必要があった。
囮。
火。
煙。
音。
人間が逃げる方向とは別の場所に、人間がいるように見せる。
言葉にすれば簡単だった。
やることはひどかった。
文化祭の残りを燃やす。
学校だったものを、逃げるための道具に変える。
カナタはそれを考えながら、段ボールを抱えた。
軽い。
あまりにも軽い。
弾薬箱を捨てた時の重さとは違う。
軽いものを捨てる方が痛いこともある。
「カナタさん」
ユウトが声をかけた。
手には紙吹雪の箱を持っている。
「これも?」
「燃えますか」
「めっちゃ燃えそうです」
「じゃあ使います」
「ですよね」
ユウトは箱の中を見た。
赤、青、黄色。
小さな紙片がぎっしり詰まっている。
祭りの最後に撒く予定だったのかもしれない。
誰かが笑うためのものだった。
今は、敵を騙すために燃やされる。
「もったいないですね」
ユウトが言った。
「はい」
「でも使いますよね」
「はい」
「嫌ですね」
「はい」
それだけだった。
短い会話は楽だった。
説明しなくていい。
同じものを嫌がっていることだけ分かれば、それで十分だった。
ミナは防災用の発煙筒を見つけていた。
「あるじゃん」
声が少し明るい。
こういう時のミナは、戦場よりも倉庫の方が似合う。
壊れた機械、余った部品、何に使うか分からない古い道具。
そういうものを見つける目がある。
「何本ですか」
「四本」
「足ります?」
「足らせる」
「便利な言葉」
「便利にしないと死ぬ」
ミナは発煙筒を一本、カナタへ投げた。
受け取る。
冷たい。
古くて、表面の印字がかすれている。
使用期限はとっくに切れていた。
「これ使えます?」
「知らない」
「知らない?」
「でもたぶん煙は出る」
「たぶん」
「戦場なので」
それはもう、祈りに近い言葉だった。
セナは重傷者を搬入口近くへ集めていた。
毛布。
担架。
医療袋。
彼女の手は止まらない。
でも、目だけが時々、倉庫の奥へ向く。
燃やすものを見ている。
置いていくものを見ている。
「セナさん」
カナタが声をかける。
「何」
「薬、どれくらい持てますか」
「持てるだけ」
「……」
「分かってる」
セナは小さく言った。
医療袋を一つ開ける。
中から瓶を取り出す。
包帯。
消毒薬。
鎮痛剤。
必要なものばかり。
必要なものしかない。
なのに全部は持てない。
彼女はしばらくそれらを見ていた。
それから、鎮痛剤を一箱だけ戻した。
「置いていくんじゃない」
誰に言うでもなく言った。
「持っていける分を持っていく」
カナタは何も言わなかった。
前にも聞いた言葉だった。
でも、今は少し違って聞こえた。
言い聞かせている。
自分に。
ここにいる全員に。
そして、たぶん置いていく薬にも。
階段の方で音がした。
ぎい。
金属。
その後に、爪が床を探る音。
ユウトが銃を構えた。
手は震えている。
でも銃口は下がっていない。
「見えてから」
カナタが言う。
「はい」
「音だけで撃つと、弾が減ります」
「弾より心臓が減ってます」
「心臓は一個しかないです」
「じゃあもう減らないですね」
「そういう意味では」
ユウトが少しだけ笑った。
笑った直後、階段の赤い光の中に黒い腕が見えた。
銃声。
ユウトが撃った。
レイスの腕が弾ける。
黒い体が階段を転がる。
でも、すぐ後ろに次がいる。
「来た!」
地下倉庫が戦場になった。
段ボールの恐竜の横で銃声が鳴る。
文化祭の看板の下で担架が動く。
紙吹雪の箱が蹴られて、赤と青と黄色の紙片が床に散った。
非常灯の赤い光の中で、それらは血より鮮やかだった。
「ミナ!」
「今やってる!」
ミナが発煙筒をまとめ、導火用の布を巻く。
手元が早い。
迷いがない。
でも、顔は少し歪んでいた。
段ボールの恐竜を見ている。
「これも?」
彼女が訊いた。
カナタは答えなかった。
答えなかったが、ミナは分かった。
「だよね」
恐竜は軽かった。
首をテープで直された恐竜。
誰かが作って、誰かが笑って、誰かが片付けずに置いたもの。
ミナはそれを囮の山へ置いた。
その動きが、ひどく丁寧だった。
リゼがそれを見ていた。
何も言わない。
その沈黙の中に、たぶん名前があった。
恐竜を作った誰かの名前。
消された日直の名前。
帰れなかった誰かの名前。
「リゼさん」
カナタが言う。
「搬入口から出たら、林へ。車は体育館裏の外周を回して拾います」
「敵は」
「囮が効けば、倉庫側へ寄ります」
「効かなかったら?」
「走ります」
「そればっか」
「他にないので」
リゼは少しだけ笑った。
その顔は青かった。
熱がある。
それでも立っている。
「変な人」
「よく言われます」
「帰れなかったら?」
カナタは一瞬、答えられなかった。
その質問は、いつも自分が考えていることだった。
帰れなかったら。
そうなった時のことばかり考えている。
なのに、言葉にすると急に分からなくなる。
「……その時は」
「その時は?」
「たぶん、嫌です」
リゼは目を丸くした。
それから、小さく吹き出した。
「答えになってない」
「すみません」
「でも、いいや」
リゼはポケットの中の軍手を握った。
「嫌なら、帰るしかない」
階段から二体目が降りてきた。
ユウトが撃つ。
外れる。
カナタが撃つ。
当たる。
レイスが階段の途中で崩れた。
その体が後続を少しだけ止める。
ほんの少し。
でも、その少しが必要だった。
「準備できた!」
ミナが叫ぶ。
囮の山。
段ボール。
看板。
紙吹雪。
発煙筒。
古い毛布。
恐竜。
それらが地下倉庫の中央に積まれている。
祭りの前夜みたいだった。
違うのは、誰も笑っていないことだった。
「火、つけます」
カナタは言った。
リゼが目を閉じた。
一秒。
二秒。
それから頷いた。
「いいよ」
火がついた。
最初に紙吹雪が燃えた。
赤と青と黄色が、ぱちぱちと音を立てて黒く縮む。
次に段ボール。
次に看板。
煙が出る。
古い紙と絵の具とビニールが混じった、甘くて嫌な匂い。
文化祭の残りが燃える匂い。
レイスが反応した。
階段から降りてきた影が、火と煙へ向きを変える。
音。
熱。
人間がいると誤認しているのかもしれない。
あるいは、ただ動くものへ寄っているだけかもしれない。
分からない。
でも、寄った。
「今」
カナタが言った。
「出ます」
搬入口から雪明かりが差す。
白い。
地下の赤と、外の白。
その境目を、担架が越える。
一人。
二人。
三人。
学徒兵たちが続く。
セナが最後まで負傷者を押す。
ユウトが階段を撃つ。
ミナが燃えていく恐竜を見ないようにしている。
リゼは一度だけ振り返った。
地下倉庫。
文化祭の残り。
燃える看板。
チョークの粉。
消えた名前。
「行きます」
カナタが言った。
リゼは頷いた。
声は出さなかった。
外へ出る。
雪が顔に当たる。
冷たい。
あまりにも冷たくて、生きている感じがした。
背後では、学校の地下から煙が上がっていた。
文化祭の残りが、帰るために燃えていた。
カナタはそれを覚えてしまう。
紙吹雪の燃える匂い。
恐竜の首。
リゼの閉じた目。
全部。
たぶん、ずっと。