背中合わせの正義―交わらない最適解 作:深見
標的は、三分前に死んでいた。
首の骨を折られ、机に突っ伏したまま動かない。
床に広がる血は少ない。見事なほど無駄のない処理だった。
部屋の窓は閉ざされている。
夜の港町から聞こえる波音も、ここまでは届かない。
ロブ・ルッチは標的の死体に一瞥もくれず、手袋の指先についた埃を払った。
「戻るぞ」
短い声だった。
確かに、戦闘は終わっている。
標的の護衛も、廊下の見張りも、裏口に回った連中も、もう立っていない。
だが、もう一人の男は返事をしなかった。
机の上に残された書類束をめくる。
押印。日付。伝令の到着時刻。保管控え。
標的が動かしていた資金の流れと、表向きの積荷の記録。
銀色の髪が、薄暗い部屋の灯りを拾ってわずかに光った。
細身だが、弱そうには見えない。
体格で威圧するタイプではないだけで、立ち方にも指先にも無駄がなかった。
一枚、二枚、三枚。
そこで、指が止まる。
「まだ終わってない」
リバーは書類を一枚持ち上げた。
ルッチが視線だけを向ける。
「標的は死んだ」
「標的以外もだ」
リバーは紙面へ目を落としたまま言う。
「命令では、対象は一人。護衛三人は抵抗時の処理で通る。問題はこの秘書だ」
二人の足元にはスーツの男が倒れ伏している。その首元からは血が広がり、白いシャツは真っ赤に染まっていた。
「そいつは見た。不運にもな」
ルッチは悪びれない。
必要だったから殺した。
恐らく、それ以上の感想はない。
リバーは机の上の薄い控えを持ち上げた。
「こいつはCP6が標的側に差し込んでいた札だ。情報を横に流していたらしい。知らされたのはたった今だが」
ルッチは紙面へ視線を落とす。
「標的より上を辿るための糸か」
「だった」
リバーは冷たくなった秘書を一度だけ見た。
「生きた糸は切れた。そこは戻らない」
「情報の共有が遅すぎる」
「それには全く同意するが」
リバーは控えの端を指で叩いた。
「このままだと、うちがCP6の情報源を潰した形になる。向こうは管理責任を問われたくない。こっちは味方の線を切った理由を説明しなきゃならない」
「なら処理しろ」
「今やってる」
「秘書は死亡。帳簿は、秘書の協力線から回収したことにする。死因の細部は、現場の混乱に埋める」
ルッチは少しだけ目を細めた。
「協力者にすると」
「そう。CP6は成果を出した。うちは帳簿を受け取った。秘書は死んだ。そこまでは全部事実だ」
「損失は消えない」
「責任の置き場所は変えられる」
「向こうの責任まで拾う気か」
「違う。こっちに戻ってこないようにするんだよ」
リバーは書類を並べ替える。
「敵の線を切るのはいい。味方の線まで切ると、次の任務まで巻き込むことになりかねない」
「支障が出ると」
「出さないために分ける」
リバーは死んだ秘書の方を見た。
「問題は、切った後だ。敵の線を切ったのか、味方の線まで切ったのか、紙の上で分けておかないと後で裂けた時に面倒になる」
ルッチは答えない。
理解していない沈黙ではない。
理解した上で、優先順位が違う、と言わなかっただけの沈黙だった。
その時、廊下の奥で物音がした。
倒れていたはずの護衛の一人が、まだ動いていた。
血を流しながらも壁に手をつき、非常用の鐘へ向かっている。
ルッチが踏み出すより先に、リバーは用途を決めていた。
剃。
次の瞬間、護衛の手首が跳ね上がった。
指が鐘の紐に触れる寸前で止まる。
リバーは背後に回り込み、首筋へ人差指を刺す。
殺さない深さ。声だけを奪い、意識を落とす角度。
護衛は呻き声すら上げずに崩れた。
「これ以上の面倒はよしてくれ」
低く言って、リバーは男を壁際へ引きずる。
廊下の角から見えない位置へ転がし、倒れた椅子を一つ直した。
それから、何事もなかったように部屋へ戻る。
ルッチはその一連を黙って見ていた。
「生かしたのか」
「使えるからな」
「尋問用にか」
「ああ。結果次第ではCP6に恩も売れる」
「消す方が早い時もある」
「だが、死体にすれば処理しかできない」
リバーは机に戻り、汚れた書類を並べ替える。
「リソースは最大限活用する」
「敵は減らない」
「敵の数はな。道は残り、選択肢が広がる」
ルッチはわずかに目を細めた。
「お前はいつも道を残したがるな」
「残せるならな」
リバーは濡れた布で机の縁を拭い、血の跡を薄くした。
完全に消す必要はない。
不自然に綺麗な部屋は、逆に違和感が出る。
次に、引き出しの中から封蝋を取り出す。
割れていた封を熱で柔らかくし、別の印で押し直す。
若い下級役人なら見逃す。
古い監査官なら気づく。
それでも構わない。
気づく者が見れば、多少の不自然さは残る。
だが、全部を消した現場よりはましだ。
現場は壊れている。
なら、壊れているなりに筋が通っていればいい。
「どれくらいかかる」
ルッチが問う。
「二分」
「一分でやれ」
「じゃあお前が押せ。押印を一つでも間違えたら、帳簿の行き先が変わる。取り戻すのに三日は食う」
ルッチは黙った。
リバーは口元だけで笑う。
「いい判断だ」
紙を重ね、順番を入れ替える。
命令書。
補足命令。
押収品目録。
死亡確認。
搬出記録。
紙の順番を変えるだけで、死体の扱いは変わる。
誰が殺したのか。
誰が渡したのか。
誰が責任を負うのか。
現場は、いつも紙より先に壊れる。
だから紙の方を、壊れた現場に追いつかせる。
だが、嘘にはしない。
嘘は後で裂ける。
本当のことを、破綻しない順番で見せるだけだ。
ルッチはそれ以上、口を挟まなかった。
扉の前へ移り、廊下の気配へ視線を向ける。
急かさない。
覗き込まない。
ただ、向かって来るものを切るために立つ。
リバーが紙を繋ぐ間、外を塞ぐのは自分の役目だとでも言うように。
正しさの置き場所は違う。
だが、任務を終わらせるという一点では、二人の呼吸はよく合った。
最後の一枚に押印を入れたところで、リバーは書類束を閉じた。
「終わった」
ルッチが扉へ向かう。
「ようやくか」
「待たせたな」
リバーは封筒を懐にしまい、部屋を出る前に一度だけ振り返った。
標的は死んでいる。
護衛は沈黙している。
秘書の死は損失のままだ。
だが、帳簿の回収だけは成果の側へ寄せられる。
任務は、ようやく終わった。
廊下へ出ると、窓の外に港の灯りが見えた。
夜風が少しだけ潮の匂いを運んでくる。
ルッチが前を歩きながら言う。
「お前の仕事は、いつも面倒だ」
「お前のやり方がたまに雑なんだ」
「必要な分しか殺していない」
「その“必要”を、紙の上で通すのが面倒なんだよ」
ルッチはわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「なら、次もお前がやれ」
「手遅れになる前に回してくれ」
リバーは懐の書類束を指で叩いた。
「後から呼ばれると、原因を作った奴を殴りたくなる」
「殴るのか」
「状況による」
「お前は殴る前に、殴った後の書類を考える」
「殴っても書面は変わってくれないからな」
ルッチは答えなかった。
二人は夜の廊下を進む。
背後の部屋では、死体も紙も、もう声を上げない。
リバーは足を止めなかった。
喉元へ届く手と、壊れた現場を閉じる手。
向いている場所は違う。
けれど同じ任務の上では、よく噛み合った。
戦って勝つだけなら、ルッチがいる。
だが、任務を後ろから崩れさせずに閉じるには、別の手がいる。
紙から火が出る前に、消す手が。
その役目は、昔からリバーのものだった。
*****
そして数日後、彼らは次の任務を受ける。
数年を見込んだ、長期潜伏任務。
標的は、古代兵器プルトンの設計図。
場所は、水の都ウォーターセブン。
リバーは命令書を読み終え、紙の端を指先で叩いた。
「年単位か」
誰かが、長いな、と言った。
リバーは口元だけで笑った。
「燃えなきゃいいな」
誰も、笑わなかった。
久々に漫画を読んで扉絵連載を知り、書いてみたくなりました。初書きなので、矛盾点等は優しくご指摘いただけると幸いです。
とある二次創作に影響をガッツリ受けてます。