背中合わせの正義―交わらない最適解   作:深見

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潜入組の休日出勤回です。


幕間 波間に消えた休日

 

 せっかくの休みが潰れた。

 

 口に出したのはカクだった。

 

 夜の水路を抜け、乗船場へ向かう船の上で、カクは配られた資料を片手に小さく息を吐いた。

 

「週末に遠出とは、なかなか気の利いた上司じゃのう」

 

「文句なら長官に言え」

 

 ルッチが短く返す。

 

「言うだけ無駄じゃろ」

 

「なら黙って動け」

 

「それも味気ないのう」

 

 カクはそう言って、資料をめくった。

 

「遠方の豪華客船で裏取引か」

 

 カクが資料を覗き込む。

 

「顔が割れていない人員を使いたいらしい」

 

 リバーが言う。

 

「配慮ではないな」

 

「ない。顔が割れていない人間を選んだら、たまたまこっちに回ってきただけだ」

 

 もっと言えば、週末なら表の仕事に穴を開けずに済むだろう、という雑な計算だった。

 

 こちらの休みが潰れることは、特に計算に入っていない。

 

 今回の任務は、ウォーターセブンから離れた海域を航行する豪華客船への潜入だった。

 

 表向きは、投資家や商人、貴族筋の関係者を招いた船上社交会。

 裏では、政府関係の機密を含む取引が行われる。

 

 流出したのは、海軍や司法関係の護送予定表。

 海賊や政治犯の移送日時だけではない。政界の大物や政府賓客の護衛予定、護衛規模、経路の略号まで含まれている。

 

 さらに、役付職員の名簿。

 異動履歴、処分記録、表に出せない不祥事の痕跡。

 

 そして、それらの一部を読むための暗号表。

 

 予定表だけでは読めない。

 暗号表だけでも価値は限られる。

 二つが揃って初めて、取引は形になる。

 

 リバーは資料から目を上げ、ルッチの肩を見た。

 

「ハットリは?」

 

「置いてきた」

 

 ルッチは短く答えた。

 

「珍しいのう」

 

 カクが言う。

 

「悪目立ちする」

 

「納得したのか?」

 

「してなかったな」

 

 リバーが横から言った。

 

「出る前に、いつものより良い豆を買わされてた」

 

「買わされたんじゃない」

 

 ルッチの声が低くなる。

 

「じゃあ何だ」

 

「必要経費だ」

 

「鳩のおやつがか?」

 

「黙れ」

 

 カクは面白そうに笑っている。

 

 カリファは眼鏡の位置を直しながら、資料を閉じる。

 

「豪華客船、船上社交会、裏取引。まるで映画みたいね」

 

「クマドリが好きそうじゃのう」

 

「よよいっ、夜の海に咲く悪の花ァ、みたいなことを言いそうだ」

 

 リバーが適当に真似る。

 

「似てないわ」

 

「似せる気もない」

 

「本人の前でやれ」

 

「絶対に長くなるから嫌だ」

 

 ブルーノは無言で船縁に立っていたが、その顔にはわずかに同意が浮かんでいた。

 

 

 リバーは膝の上に広げた船内図へ目を落とした。

 

 平面図、縦断図、横断図。詳細な設計図面まである。

 甲板の配置、給仕通路、厨房、中央広間、上階回廊、外周非常扉、救命艇の位置。

 

 図面の端には、すでにいくつか印が入っている。

 

「任務条件を整理する」

 

 リバーが言った。

 

 全員の視線が図面に落ちる。

 

「売り手は生け捕り。政府関係者から情報を抜いた仲介人だ。出所を吐かせる必要がある。買い手は裏社会経由で非加盟国に繋がっている可能性が高い。可能なら確保、無理なら処理可」

 

「証拠品は?」

 

 カリファが聞く。

 

「三つある。紙の護送予定表と、それを読むための暗号表、政府職員名簿だ。護送予定と名簿は売り手が持ち込む。暗号表は買い手側の護衛が別で持っているらしい」

 

「面倒じゃな」

 

「だから五人回されたんだろ」

 

 リバーは図面を指で叩く。

 

「取引場所は小ホール。正面扉はメインホール側、側面扉は給仕通路、奥の扉は船尾側の細い通路に抜ける」

 

 リバーが指でなぞる。

 

「売り手は奥側の席を指定してきた。船尾側に逃走用の小舟を用意している可能性が高い」

 

「じゃろうな」

 

 カクが図面を覗き込む。

 

「外周へ出るには、ここを抜けるのが早い。じゃが、ここの飾り柱には触らん方がいい」

 

「飾りじゃないのか」

 

「見た目はのう。だが、上階回廊の荷重を少し受けとる。派手に折れば、広間の床まで面倒なことになる」

 

 リバーは印を一つ増やした。

 

「じゃあ、壊さないでおこう」

 

「壊す前提で話すのやめんか」

 

「敵が壊すかもしれないだろ」

 

「それはある」

 

 カクは図面の別の箇所を指した。

 

「ここの装飾壁は薄い。裏が給仕用の空間じゃ。壊れても船体には響かん。ただし、厨房側の防火扉は壊すな。火が回った時に面倒じゃ」

 

「了解」

 

「あと、この外周非常扉。留め具は弱いが、扉そのものは重い。蹴破られると倒れ方次第で足場を塞ぐ」

 

「なら、外へ出られる前に進路を寄せる」

 

「できるならの」

 

 そこへ、ルッチが図面の中央を指した。

 

「ここは壊すな」

 

「中央広間か?」

 

「上階回廊の支えだ。飾りに見せているが、古い木組みに新しい補強を噛ませている」

 

 リバーは図面を見直した。

 

「そんなこと書いてあったか?」

 

「見れば分かる」

 

「流石職人」

 

「横から割れば、広間側に落ちる。客がいれば巻き込む」

 

 リバーはそこへ印をつけた。

 

「じゃあ、壊さない。壊されそうなら進路を外す」

 

「そうしろ」

 

「お前も一応、船大工ちゃんとやってるんだな」

 

「一応ではない」

 

 カクが不満げに返した。

 

「わしら職長まで上り詰めたんじゃぞ」

 

「はいはい、流石の腕前だ」

 

「まるで心がこもってないのう」

 

 ブルーノは別の資料を見ていた。

 

「俺は小ホール内のバーカウンターだ。給仕として入る」

 

「証拠品の確保はお前に任せた」

 

 リバーが言う。

 

「護送予定表と名簿は、取引成立後すぐに扉の向こうへ入れる」

 

「頼んだ」

 

「本物の保証代理人も、乗船直後に押さえよう。身分証、資格証、契約印、あと襟章は必要だな」

 

「鍵付きの倉庫がある。そこへ運ぶのがいいだろう」

 

「鍵は?」

 

「俺が持つ」

 

 カリファが資料を閉じた。

 

「私はメインホール側。売り手が逃走すれば後を追う」

 

「奥側の扉から逃げたら、船尾側に出る。逃走艇がある場合、潰しておけば戻ってくる可能性が高い」

 

「そこはわしじゃな」

 

 カクが図面の船尾側を指で叩いた。

 

「外周と上階回廊を見る。逃走の足は潰す。暗号表持ちが上へ抜けたら、甲板側で受ける」

 

「壊しすぎるなよ」

 

「壊していい場所は確認したじゃろう」

 

「確認したから心配してる」

 

「信用がないのう」

 

「信用してるから任せるんだよ」

 

 カクは少しだけ笑った。

 

「ルッチは?」

 

 カクが聞く。

 

「正面だ」

 

 ルッチは短く答える。

 

「買い手側の主力護衛の相手をする」

 

「俺が保証代理人として同席。取引成立を確認したら合図を出す」

 

 リバーは自分の前髪に触れ、次に襟足へ手を回した。

 

「言葉の後に、二度」

 

「気取った合図じゃのう。見るのはブルーノだけじゃぞ」

 

「商会代理人が急に指笛を吹くより自然だろ」

 

「まあの」

 

 事前の確認が終わり、各々潜入用の衣装に着換えた。

 上品なデザインのスーツ、給仕用の燕尾服、乗組員の制服。その上から外套を羽織り、目的地への到着を待つ。

 

 カリファの服は、濃い色の長いドレスだった。裾は足首どころか床に近い。だが片側には深いスリットが入っていて、歩くたびに布が割れる。

 

 リバーはそれを見て、少し眉を寄せた。

 

「それ、走れるのか」

 

「問題ないわ。スリットが入っているもの」

 

「へぇ」

 

「セクハラです」

 

「何がだよ」

 

「足を見たわ」

 

「お前の足なんか見ねえよ」

 

「それはそれで失礼じゃのう」

 

 カクが横から言う。

 

「何でお前がそっち側なんだ」

 

「じゃあ、わしの脚でも見るか? 最近調子が良いんじゃ」

 

「それ以上近づくな。裾をめくるな、バカ」

 

「目的地だ」

 

 ブルーノが低く言った。

 

 その一言で、空気が切り替わった。

 

 

 *****

 

 

 遠くに、灯りをまとった客船が見える。

 

 海の上に浮かぶ宮殿のようだった。

 甲板には灯りが連なり、窓からは音楽と笑い声が漏れている。

 

 豪華な夜。

 安全な社交場。

 そう見えるように整えられた場所。

 

 その裏で、今夜いくつかの紙が売買される。

 

 殺すだけなら簡単だ。

 だが、今回の任務は殺すためのものではない。

 

 取引が成立し、金が動き、品が渡り、暗号表で照合される。

 誰が見ても処理できる形にしてから押さえる必要がある。

 

 そのために、五人が呼ばれた。

 

 船に乗ってすぐ、本物の保証代理人は押さえた。

 

 男は表では海運商会の保証代理人、裏ではこうした取引を何度も見届けてきた人間だった。

 

 ブルーノが船内の給仕に紛れ、開いた扉の向こうへ一瞬だけ引き込む。亜空間は長く留める場所ではない。身分証、資格証、銀の襟章、契約印だけを回収し、声と意識を落として、鍵付きの倉庫へ運び込む。

 

「借りるぞ」

 

 リバーは襟章を胸元に留めた。

 

 「返す頃には少し価値が落ちているかもしれないが」

 

 保証代理人として小ホールへ向かう頃には、顔つきも笑い方も、もう別人のものになっていた。

 

 小ホールの扉が閉じると、外の音楽は少し遠くなった。

 

 絨毯の敷かれた床。

 壁際に置かれた飾り棚。

 磨かれた丸テーブル。

 奥には小さなバーカウンターがあり、専属の給仕に扮したブルーノがグラスを拭いている。

 

 小ホールは広すぎない。

 十数人が入れば、もう空気が重くなる。

 

 売り手の男は、薄い笑みを浮かべていた。

 相手に警戒心を見せず、けれど自分の手札は一枚も開かない顔だ。

 

 買い手の男は、椅子に深く腰を下ろしている。

 指輪の嵌まった手で肘掛けを叩く音が、一定ではない。

 

 苛立っている。

 

 壁際には双方の護衛が立っていた。

 

 買い手側には、分厚い身体の大男が一人。ルッチと同じほどの背丈だが、肩も胸も腕も、厚みがまるで違う。両手には、金属を嵌め込んだ拳具。

 

 そして、細身の護衛が一人。短く整えられた髪。軽い足音。腰の内側には、薄い金属筒。

 

 暗号表持ちだ。

 

 リバーは、売り手と買い手の間に立った。

 

 笑う。

 柔らかく。

 どちらにも偏らない顔で。

 

「では、確認を始めましょうか」

 

 売り手が、薄く笑った。

 

「その前に、支払いの証明を見せていただきたいものですな。こちらも危ない橋を渡っている」

 

 買い手の眉がわずかに動く。

 

「先に品を見せろ。価値の分からんものに金は出さん」

 

「価値なら、すでにお聞きでしょう」

 

「聞いたものと見たものが同じとは限らん」

 

 空気が少し硬くなる。

 

 護衛達の視線が動いた。

 売り手側の男が一人、上着の内側へ指を入れる。

 買い手側の主力護衛は、壁際で腕を組んだまま微動だにしない。

 

 リバーは、契約書の端を指で整えた。

 

「急いだ方から損をしますよ」

 

 穏やかな声で言う。

 

 売り手も買い手も、同時にリバーを見た。

 

「信用取引です。双方が疑うのは当然でしょう。ですから、代理人がいる」

 

 リバーは売り手へ視線を向ける。

 

「まず、予定表の一部を」

 

 次に買い手を見る。

 

「その後、暗号表で照合を。読めると分かれば、支払い証明を出していただく」

 

 買い手は少しだけ目を細めた。

 

「随分仕切るな、代理人」

 

「そのために呼ばれていますので」

 

「どちらの味方だ?」

 

「成立した取引の味方です」

 

 買い手は鼻で笑った。

 

「気に入らんな」

 

「信用取引の場で好かれすぎる代理人は、たいてい信用できません」

 

 売り手が、喉の奥で笑った。

 

「なるほど。では、手順通りに」

 

 売り手は懐から薄い革のケースを取り出した。

 机の上に置く。

 まだ手は離さない。

 

 リバーはそれを見て、何も言わなかった。

 

 本物ではない。

 

 逃げ道を確保する人間は、最初に必ず軽い札を出す。

 失っても致命傷にならないものを、相手の反応を見るために置く。

 

「それは写しですね」

 

 売り手の笑みが、わずかに止まる。

 

「慎重なだけですよ」

 

「結構です。慎重なのは悪いことではありません。ただ、取引成立の確認には本紙が必要です」

 

 買い手が低く笑った。

 

「代理人の言う通りだ。写しで金を動かすほど、こちらも暇ではない」

 

 売り手はしばらくリバーを見ていた。

 

 そして、諦めたように肩をすくめる。

 

「最近の代理人は、目が利く」

 

「仕事ですので」

 

 売り手は今度こそ、内ポケットのさらに奥から別の薄い封筒を取り出した。

 革のケースではない。

 古い封蝋の残る紙封筒だ。

 

 リバーは、それを机に置かせる。

 

 中身は二つ。

 

 海軍・司法関係の護送予定表。

 そして、役付職員の名簿。

 

 護送予定表には、海賊や政治犯の移送日時だけではなく、政府賓客の護衛予定、政界の大物の移動経路、護衛規模の略号まで含まれている。

 

 役付職員の名簿には、異動履歴、処分記録、表に出せない不祥事の痕跡。

 

 使い方はいくらでもある。

 襲撃、脅迫、買収、足止め。

 

 どれも、外へ出ていいものではなかった。

 

 買い手は少し身を乗り出す。

 

「暗号なしで読める箇所は?」

 

「表層だけですな」

 

 売り手が言う。

 

「肝心の予定は、こちらの表記では読めない」

 

「なら、そちらの札を出せ」

 

 買い手が横目で護衛を見る。

 

 暗号表持ちが一歩前へ出た。

 

 男は筒から紙片を抜き、机の端へ置く。

 

 リバーはそれを手に取り、護送予定表の一行に重ねた。

 

 数字の列。

 地名の略号。

 日付。

 船名。

 護衛人数。

 

 紙の上で意味が繋がっていく。

 

 買い手の指が、肘掛けを叩くのをやめた。

 

「本物か」

 

「少なくとも、照合は成立しています」

 

 リバーは答える。

 

 売り手の口元が、ほんの少し緩む。

 

「では、支払いを」

 

 買い手は懐から小さな金属箱を出した。

 机の上へ置く。

 蓋が開く。

 

 中には、宝石でも金貨でもなく、数枚の証書が入っていた。

 複数の港で換金できる、裏書き済みの支払い証書。

 

 売り手がそれを確認する。

 目がわずかに細くなる。

 

 満足した顔だ。

 

 しかし、その手はまだ封筒から離れない。

 

 リバーは笑った。

 

「売り手側は、護送予定表と名簿を引き渡す。買い手側は、支払い証書を渡す。暗号表は照合済み。以後は、双方の危険負担となります」

 

「堅苦しいな」

 

 買い手が言う。

 

「堅苦しくない取引ほど、後で揉めます」

 

「揉める気はない」

 

「それは何よりです」

 

 リバーは契約書を閉じた。

 

「これで、双方の条件は揃いましたね」

 

 落ちてきた前髪を指で払う。

 続けて、首の後ろへ手を回し、襟足を軽く整えた。

 

 二度。

 

 小ホールの奥、バーカウンターでグラスを拭いていたブルーノの手が止まる。グラスは音もなくカウンターへ戻された。

 

 まだ、誰もそれを見ていない。

 

 買い手側の護衛が、机の下へ指を滑らせた。

 小型の銃だ。

 

 リバーは笑ったまま、一歩寄る。

 

「失礼」

 

 指先が手首の内側へ沈んだ。

 

 骨は折らない。

 握る命令だけを切る。

 

 男の指が開き、銃が落ちる。

 床に当たる前に、リバーの靴先がそれをソファの下へ滑らせた。

 

 一人目が膝を折る。

 

 二人目は速かった。

 

 崩れた仲間を見るより先に、腰の刃へ手を伸ばしている。

 動きは悪くない。

 

 だが、見る場所が違う。

 

 リバーの手を見た。

 足を見なかった。

 

 踏み出した膝が抜ける。

 男の口が開いたが、声になる前に息だけが漏れた。

 

 その時、テーブルのグラスが床へ落ちた。

 

 割れる音と、正面扉の開く音はほとんど同時だった。

 

 扉の向こうに、ルッチが立っている。

 

 待っていたのだ。

 

 買い手の顔色が変わった。

 

 売り手の裏切りではない。

 保証代理人が敵だった。

 給仕も仕込み。

 正面扉の外にも人員。

 

 理解は早かった。

 

「走れ」

 

 短い命令だった。

 

 暗号表持ちが、机上の紙片を掴んだ。

 

 椅子を蹴り、側面扉へ向かって飛び出す。

 軽い足音。

 迷いがない。

 

 同時に、売り手が動いた。

 

 封筒を片手で押さえ、もう片方の手で別の鞄を机上へ投げる。

 

 偽物だ。

 

 中身の重さが違う。

 革の跳ね方も違う。

 

 リバーは視線だけでそれを捨てた。

 

「ブルーノ」

 

 名前だけ呼ぶ。

 

 小ホールの奥で、給仕が動いた。

 

 ブルーノはカウンターを出る。

 何事もなかったような足取りで、だが迷いなくテーブルへ近づいた。

 

 売り手側の護衛がそれを遮ろうとする。

 

 ブルーノの腕が、横から伸びる。

 

 一撃。

 

 護衛は壁際へ崩れた。

 

 ブルーノは足を止めず、机上の護送予定表と役付職員の名簿をまとめて掴む。

 空気に手をかけるように指を動かした。

 

 扉が開く。

 

 そこにあるはずのない場所へ、証拠品だけが滑り込む。

 

 閉まる。

 

 それで、紙の方は消えた。

 

 買い手側の主力護衛が、そこで初めて腕を解いた。

 

 分厚い拳が、机ごと潰す勢いで振り下ろされる。

 

 狙いはリバーだった。

 

 取引を壊した保証代理人。

 最も近く、最も目障りな敵。

 

 その判断は自然だった。

 

 リバーは紙絵で薄く避け、脇腹へ蹴りを入れた。

 

 入った。

 だが、浅い。

 

 肉の厚みが衝撃を殺している。

 もう一歩踏み込めば届く。

 だが、その一歩を許す相手ではなかった。

 

 自分の間合いではない。

 

「こいつは任せた」

 

 リバーは壁を蹴り、狭い船内で身体を斜めへ逃がす。

 

 主力護衛の拳が空を切り、飾り壁を砕いた。

 

 リバーの嵐脚が、男の踏み込みを半歩ずらす。

 

 その先に、ルッチがいた。

 

 ルッチはわずかに眉を動かす。

 

「判断が遅い」

 

 一撃。

 

 分厚い身体が床へ沈んだ。

 

「配達で鈍ったか」

 

「任務中に説教するな」

 

 リバーは着地と同時に、側面扉へ走った。

 

 暗号表持ちはすでに給仕通路へ抜けている。

 売り手は奥扉へ向かった。

 買い手は、砕けた机と倒れた護衛を見て、即座に後退する。まだ諦めていない目だった。

 

 リバーは追わない。

 

 買い手の前にはルッチがいる。

 売り手の逃げ道にはカリファがいる。

 証拠品はブルーノが押さえた。

 

 なら、今追うべきは一つだ。

 

 暗号表。

 

 小ホールの空気は、完全に割れていた。

 外の音楽はまだ続いている。

 

 その薄い優雅さを破るように、リバーは側面扉を蹴って給仕通路へ抜けた。

 

 食器棚が倒れた。

 

 皿が割れ、銀の皿蓋が床を滑る。食料籠がひっくり返り、果物と瓶詰めが通路に散った。

 

 足を止めるには十分な量だ。

 

 リバーは止まらなかった。

 

 滑る皿は踏まない。

 転がる瓶は踵で弾く。

 籠は蹴らず、縁だけを踏んで潰す。

 

 暗号表持ちは物を壊して道を塞ぐ。

 リバーは、塞がれた道の中から足の置き場だけを抜き取って進む。

 

 厨房脇へ出た瞬間、白い上着の料理人が突き飛ばされてきた。

 

 その後ろから、皿を抱えた給仕も押し出される。

 

 暗号表持ちは振り返りもしない。

 人を障害物として使うことに、何のためらいもなかった。

 

 リバーは舌打ちする。

 

 料理人の襟を掴み、回す。

 倒さず、壁へ逃がす。

 

 給仕の皿は片手で支え、空いた足で床の瓶を蹴り飛ばす。

 

 割れる音は一つ増えた。

 怪我人は増えない。

 

 それで十分だった。

 

 中央広間へ出ると、音楽と悲鳴がぶつかった。

 

 暗号表持ちは、階段へ向かう前に壁を蹴り上がり、シャンデリアの吊り具へ刃を入れた。

 

 落ちる。

 

 客達の頭上へ、硝子と金属の塊が傾いた。

 

 リバーは走りながら、天井を見た。

 

 止めるのは無理だ。

 だが、落ちる場所は変えられる。

 

 嵐脚。

 

 斬撃はシャンデリア本体ではなく、残った吊り具の片側だけを裂いた。

 支えを失う方向が変わる。

 

 光の塊は客席を外れ、無人の床へ落ちた。

 

 派手な音。

 悲鳴。

 砕けた硝子が、床を星屑みたいに散った。

 

 その混乱へ、売り手の男が飛び込んできた。

 

 カリファのムチが追う。

 だが、人が多い。

 逃げ惑う客、転がったグラス、床に散った硝子。

 

 ムチを振れば届く。

 ただし、余計なものまで巻き込む位置だった。

 

 売り手側の護衛が、近くの女客へ手を伸ばす。

 

 リバーは速度を落とさず、横から抜けた。

 

 指ではなく、手刀だった。

 男の手首の内側を薄く叩く。

 

 掴む前に、指が開く。

 

「通り道だった」

 

「便利な通り道ね」

 

「裾が長いからな」

 

「セクハラです」

 

 返事を聞き終える前に、リバーは階段へ向かった。

 

 売り手は、さらに奥へ逃げる。

 

 船尾側の細い通路。

 積荷口。

 その先に、用意したはずの小型蒸気艇。

 

 だが、そこへ辿り着いた時、売り手は足を止めた。

 

 逃げ道は、もう逃げ道ではなくなっていた。

 

 小型蒸気艇は、客船の脇で無様に傾いている。

 破れた蒸気管から、白い煙が荒く吹き出していた。

 

 売り手は引き返す。

 

 その先に、カリファがいた。

 

 売り手側の護衛が前へ出る。

 カリファは足を止めない。

 

 嵐脚が細く飛び、護衛の足元を裂く。

 体勢が崩れたところへ、ムチが伸びる。

 床へ叩きつけられた男は、それきり動かなかった。

 

 売り手は中央広間を抜け、さらに狭い通路へ逃げ込む。

 

 行き止まりだった。

 

 息を切らしながら、それでも売り手は笑おうとした。

 懐から薄い封筒を抜き、カリファの足元へ投げる。

 

「本物だ! 持っていけ!」

 

 カリファは、その封筒を一瞥もしなかった。

 

 細い脚が、迷いなく上がる。

 

 一撃。

 

 売り手の身体が壁に叩きつけられ、ずるりと床へ落ちた。

 

「あなたみたいな男は、保険を一つで済ませないもの」

 

 カリファは倒れた男の上着を探り、内側に縫い込まれた薄い封筒を抜き取った。

 

 封蝋の跡。

 紙の厚み。

 折り目の癖。

 

「こちらが本物ね」

 

 同じ頃、暗号表持ちは階段を駆け上がっていた。

 

 上階回廊の手すりの向こうに、カクがいる。

 

 すでに外周側へ身体を向けていた。

 

 一瞬、視線が合う。

 

 言葉はいらなかった。

 

 カクなら見る。

 リバーが今見ている場所を、同じように見る。

 

 外周非常扉。

 その先の甲板。

 そして、逃走艇へ繋がる最短の線。

 

 リバーは敵を追うのではなく、進路を削った。

 

 床の縁を浅く裂く。

 手すりの留め具を片側だけ飛ばす。

 暗号表持ちが選べる道を、一つずつ潰していく。

 

 暗号表持ちは非常扉を蹴破った。

 

 夜風が流れ込む。

 

 外へ出るなり、壁際の信号旗の束が切られた。

 色のついた布が風を孕み、一気に広がる。

 

 視界が潰れる。

 

 続けて、帆布を留めていた縄が切られた。

 重い布が外周通路へ落ち、足元を覆う。

 

 リバーは布を避けない。

 踏めば絡む。

 

 だから、絡む前に切る。

 

 嵐脚を細く飛ばす。

 布の中央ではなく、風を受けて膨らんだ端だけを裂いた。

 

 視界が一拍だけ開く。

 

 その一拍で、カクが前へ出た。

 

 暗号表持ちの足が、初めて止まった。

 

 目指していた小型蒸気艇は、船ではなく残骸になっていた。

 

 舵は落ち、推進軸は断たれ、破れた蒸気管から白い煙が吹き出している。

 係留ロープだけが残り、壊れた船体は客船の脇で無様に揺れていた。

 

「悪いのう。足は先に潰しといた」

 

 欄干の上に立つカクは、帽子を浅くかぶり直してこちらを見た。

 

「やっぱりこっちへ寄越したのう」

 

「お前の仕事に期待した」

 

「ご期待には添えたか?」

 

 暗号表持ちが、紙片を海へ投げ捨てようとした。

 

 遅い。

 

 リバーの指が、空中でそれを挟み取る。

 

「十分だ」

 

 カクはそこで、にっと笑った。

 

 暗号表持ちは方向を変えようとする。

 救命艇へ飛ぼうとしたのだろう。

 

 だが、その足は甲板を蹴る前に止められた。

 

 カクの蹴りが入り、暗号表持ちの身体が甲板へ叩きつけられる。

 

 もう立たない。

 

 暗号表を懐へ入れた直後、甲板の反対側で短い悲鳴が上がった。

 

 買い手だった。

 

 小ホールの正面をルッチに塞がれ、別の導線へ切り替えたのだろう。

 判断は早い。

 

 だが、逃げた先が開いているとは限らない。

 

 甲板のテラス席には、逃げ遅れた客がまだ数人いた。

 

 夜風に当たりに出ていたのだろう。悲鳴と破壊音に足をすくませ、壁際で動けなくなっている。

 

 買い手は、その中の一人を引き寄せた。

 

 若い女客の首へ腕を回す。

 

 銃口は女ではなく、リバーへ向いていた。

 

 それが一番厄介だった。

 

 人質は殺すためではない。

 リバーの踏み込みを鈍らせるための重りだ。

 

 リバーの後ろにも、逃げ遅れた客がいる。

 避ければ、弾はそちらへ抜ける。

 踏み込めば、人質の首に回った腕が締まる。

 

 買い手は、そこまで見ていた。

 

 手は悪くない。

 

 ただ、足りない。

 

 引き金が引かれる。

 

 リバーは左腕を上げた。

 こめかみを庇う位置。

 

 鉄塊。

 

 鈍い衝撃が腕に沈んだ。

 弾丸が潰れ、甲板へ落ちる。

 

 重い。

 やはり、好きな技ではない。

 

 だが、一拍あれば十分だった。

 

 剃。

 

 距離が消える。

 

 銃を持つ手首を外へ弾く。

 人質を抱え込む肘の内側へ、指を沈める。

 腕の力が抜けた。

 

 女客を後ろへ押し出し、空いた懐へ入る。

 

 指銃。

 

 鳩尾の少し上。

 呼吸と意識が、一拍遅れて途切れる場所。

 

 買い手の目から焦点が抜けた。

 

「取引は終わった。逃走は別料金だ」

 

 言い終える頃には、買い手はもう聞いていなかった。

 

 甲板に、五人が揃った。

 

 買い手は床に沈み、暗号表はリバーの懐にある。

 護送予定表と名簿はブルーノが押さえ、売り手はカリファのムチで縛られていた。

 

「売り手は確保。隠していた本紙も回収済みよ」

 

 カリファが封筒を軽く掲げる。

 

「護送予定表の一部と名簿も回収した」

 

 ブルーノが短く続けた。

 

 ルッチは何も言わなかった。

 小ホール側の護衛がもう立っていないことは、その沈黙だけで十分だった。

 

 カクは壊れた小型蒸気艇の方を見て、少しだけ肩をすくめた。

 

「足も潰した」

 

「潰しすぎだろ」

 

 リバーが言う。

 

「逃げられんじゃろ」

 

「船としても使えないだろ」

 

「そこまでは頼まれとらん」

 

 カリファは壊れた甲板扉と、割れた硝子と、半壊した小型蒸気艇を順に見た。

 

「船体損傷は軽微、としておくわ」

 

「軽微かのう」

 

「沈んでいないわ」

 

「基準が強い」

 

「俺は最小限しか壊してない」

 

 リバーが言う。

 

「シャンデリアは?」

 

「落ちる場所を変えた」

 

「言い訳じゃのう」

 

「壊したのは暗号表持ちだ」

 

「報告書にもそう書く?」

 

 カリファが聞く。

 

「書いてくれ」

 

「検討するわ」

 

「修理代は出ない」

 

 ブルーノが言った。

 

「出ても困る」

 

「お前さん、それ船大工の前で言うかのう」

 

 カクが呆れたように言う。

 

 リバーは、甲板の手すりに軽く背を預けた。

 

「疲れた」

 

「明日も朝から配達じゃろ」

 

 カクが言う。

 

「思い出させるな」

 

「わしも朝から図面チェックじゃ」

 

「私もアイスバーグさんの予定調整があるわ」

 

「俺は午前は休みだ」

 

 ブルーノが言った。

 

「お前、仕込みは?」

 

「済ませてある」

 

「裏切り者」

 

「段取りの差だ」

 

「うるさい」

 

 ルッチが言った。

 

「文句を言うなら、移動中に寝てろ」

 

「寝台が硬い。睡眠の質は大事だろ」

 

「つべこべ言わずにさっさと寝ろ」

 

 その言葉を最後に会話は終わり、五人は歩き出した。

 

 任務は終わった。

 

 週明けは、もうすぐそこにあった。

 

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