背中合わせの正義―交わらない最適解 作:深見
潜入組の休日出勤回です。
せっかくの休みが潰れた。
口に出したのはカクだった。
夜の水路を抜け、乗船場へ向かう船の上で、カクは配られた資料を片手に小さく息を吐いた。
「週末に遠出とは、なかなか気の利いた上司じゃのう」
「文句なら長官に言え」
ルッチが短く返す。
「言うだけ無駄じゃろ」
「なら黙って動け」
「それも味気ないのう」
カクはそう言って、資料をめくった。
「遠方の豪華客船で裏取引か」
カクが資料を覗き込む。
「顔が割れていない人員を使いたいらしい」
リバーが言う。
「配慮ではないな」
「ない。顔が割れていない人間を選んだら、たまたまこっちに回ってきただけだ」
もっと言えば、週末なら表の仕事に穴を開けずに済むだろう、という雑な計算だった。
こちらの休みが潰れることは、特に計算に入っていない。
今回の任務は、ウォーターセブンから離れた海域を航行する豪華客船への潜入だった。
表向きは、投資家や商人、貴族筋の関係者を招いた船上社交会。
裏では、政府関係の機密を含む取引が行われる。
流出したのは、海軍や司法関係の護送予定表。
海賊や政治犯の移送日時だけではない。政界の大物や政府賓客の護衛予定、護衛規模、経路の略号まで含まれている。
さらに、役付職員の名簿。
異動履歴、処分記録、表に出せない不祥事の痕跡。
そして、それらの一部を読むための暗号表。
予定表だけでは読めない。
暗号表だけでも価値は限られる。
二つが揃って初めて、取引は形になる。
リバーは資料から目を上げ、ルッチの肩を見た。
「ハットリは?」
「置いてきた」
ルッチは短く答えた。
「珍しいのう」
カクが言う。
「悪目立ちする」
「納得したのか?」
「してなかったな」
リバーが横から言った。
「出る前に、いつものより良い豆を買わされてた」
「買わされたんじゃない」
ルッチの声が低くなる。
「じゃあ何だ」
「必要経費だ」
「鳩のおやつがか?」
「黙れ」
カクは面白そうに笑っている。
カリファは眼鏡の位置を直しながら、資料を閉じる。
「豪華客船、船上社交会、裏取引。まるで映画みたいね」
「クマドリが好きそうじゃのう」
「よよいっ、夜の海に咲く悪の花ァ、みたいなことを言いそうだ」
リバーが適当に真似る。
「似てないわ」
「似せる気もない」
「本人の前でやれ」
「絶対に長くなるから嫌だ」
ブルーノは無言で船縁に立っていたが、その顔にはわずかに同意が浮かんでいた。
リバーは膝の上に広げた船内図へ目を落とした。
平面図、縦断図、横断図。詳細な設計図面まである。
甲板の配置、給仕通路、厨房、中央広間、上階回廊、外周非常扉、救命艇の位置。
図面の端には、すでにいくつか印が入っている。
「任務条件を整理する」
リバーが言った。
全員の視線が図面に落ちる。
「売り手は生け捕り。政府関係者から情報を抜いた仲介人だ。出所を吐かせる必要がある。買い手は裏社会経由で非加盟国に繋がっている可能性が高い。可能なら確保、無理なら処理可」
「証拠品は?」
カリファが聞く。
「三つある。紙の護送予定表と、それを読むための暗号表、政府職員名簿だ。護送予定と名簿は売り手が持ち込む。暗号表は買い手側の護衛が別で持っているらしい」
「面倒じゃな」
「だから五人回されたんだろ」
リバーは図面を指で叩く。
「取引場所は小ホール。正面扉はメインホール側、側面扉は給仕通路、奥の扉は船尾側の細い通路に抜ける」
リバーが指でなぞる。
「売り手は奥側の席を指定してきた。船尾側に逃走用の小舟を用意している可能性が高い」
「じゃろうな」
カクが図面を覗き込む。
「外周へ出るには、ここを抜けるのが早い。じゃが、ここの飾り柱には触らん方がいい」
「飾りじゃないのか」
「見た目はのう。だが、上階回廊の荷重を少し受けとる。派手に折れば、広間の床まで面倒なことになる」
リバーは印を一つ増やした。
「じゃあ、壊さないでおこう」
「壊す前提で話すのやめんか」
「敵が壊すかもしれないだろ」
「それはある」
カクは図面の別の箇所を指した。
「ここの装飾壁は薄い。裏が給仕用の空間じゃ。壊れても船体には響かん。ただし、厨房側の防火扉は壊すな。火が回った時に面倒じゃ」
「了解」
「あと、この外周非常扉。留め具は弱いが、扉そのものは重い。蹴破られると倒れ方次第で足場を塞ぐ」
「なら、外へ出られる前に進路を寄せる」
「できるならの」
そこへ、ルッチが図面の中央を指した。
「ここは壊すな」
「中央広間か?」
「上階回廊の支えだ。飾りに見せているが、古い木組みに新しい補強を噛ませている」
リバーは図面を見直した。
「そんなこと書いてあったか?」
「見れば分かる」
「流石職人」
「横から割れば、広間側に落ちる。客がいれば巻き込む」
リバーはそこへ印をつけた。
「じゃあ、壊さない。壊されそうなら進路を外す」
「そうしろ」
「お前も一応、船大工ちゃんとやってるんだな」
「一応ではない」
カクが不満げに返した。
「わしら職長まで上り詰めたんじゃぞ」
「はいはい、流石の腕前だ」
「まるで心がこもってないのう」
ブルーノは別の資料を見ていた。
「俺は小ホール内のバーカウンターだ。給仕として入る」
「証拠品の確保はお前に任せた」
リバーが言う。
「護送予定表と名簿は、取引成立後すぐに扉の向こうへ入れる」
「頼んだ」
「本物の保証代理人も、乗船直後に押さえよう。身分証、資格証、契約印、あと襟章は必要だな」
「鍵付きの倉庫がある。そこへ運ぶのがいいだろう」
「鍵は?」
「俺が持つ」
カリファが資料を閉じた。
「私はメインホール側。売り手が逃走すれば後を追う」
「奥側の扉から逃げたら、船尾側に出る。逃走艇がある場合、潰しておけば戻ってくる可能性が高い」
「そこはわしじゃな」
カクが図面の船尾側を指で叩いた。
「外周と上階回廊を見る。逃走の足は潰す。暗号表持ちが上へ抜けたら、甲板側で受ける」
「壊しすぎるなよ」
「壊していい場所は確認したじゃろう」
「確認したから心配してる」
「信用がないのう」
「信用してるから任せるんだよ」
カクは少しだけ笑った。
「ルッチは?」
カクが聞く。
「正面だ」
ルッチは短く答える。
「買い手側の主力護衛の相手をする」
「俺が保証代理人として同席。取引成立を確認したら合図を出す」
リバーは自分の前髪に触れ、次に襟足へ手を回した。
「言葉の後に、二度」
「気取った合図じゃのう。見るのはブルーノだけじゃぞ」
「商会代理人が急に指笛を吹くより自然だろ」
「まあの」
事前の確認が終わり、各々潜入用の衣装に着換えた。
上品なデザインのスーツ、給仕用の燕尾服、乗組員の制服。その上から外套を羽織り、目的地への到着を待つ。
カリファの服は、濃い色の長いドレスだった。裾は足首どころか床に近い。だが片側には深いスリットが入っていて、歩くたびに布が割れる。
リバーはそれを見て、少し眉を寄せた。
「それ、走れるのか」
「問題ないわ。スリットが入っているもの」
「へぇ」
「セクハラです」
「何がだよ」
「足を見たわ」
「お前の足なんか見ねえよ」
「それはそれで失礼じゃのう」
カクが横から言う。
「何でお前がそっち側なんだ」
「じゃあ、わしの脚でも見るか? 最近調子が良いんじゃ」
「それ以上近づくな。裾をめくるな、バカ」
「目的地だ」
ブルーノが低く言った。
その一言で、空気が切り替わった。
*****
遠くに、灯りをまとった客船が見える。
海の上に浮かぶ宮殿のようだった。
甲板には灯りが連なり、窓からは音楽と笑い声が漏れている。
豪華な夜。
安全な社交場。
そう見えるように整えられた場所。
その裏で、今夜いくつかの紙が売買される。
殺すだけなら簡単だ。
だが、今回の任務は殺すためのものではない。
取引が成立し、金が動き、品が渡り、暗号表で照合される。
誰が見ても処理できる形にしてから押さえる必要がある。
そのために、五人が呼ばれた。
船に乗ってすぐ、本物の保証代理人は押さえた。
男は表では海運商会の保証代理人、裏ではこうした取引を何度も見届けてきた人間だった。
ブルーノが船内の給仕に紛れ、開いた扉の向こうへ一瞬だけ引き込む。亜空間は長く留める場所ではない。身分証、資格証、銀の襟章、契約印だけを回収し、声と意識を落として、鍵付きの倉庫へ運び込む。
「借りるぞ」
リバーは襟章を胸元に留めた。
「返す頃には少し価値が落ちているかもしれないが」
保証代理人として小ホールへ向かう頃には、顔つきも笑い方も、もう別人のものになっていた。
小ホールの扉が閉じると、外の音楽は少し遠くなった。
絨毯の敷かれた床。
壁際に置かれた飾り棚。
磨かれた丸テーブル。
奥には小さなバーカウンターがあり、専属の給仕に扮したブルーノがグラスを拭いている。
小ホールは広すぎない。
十数人が入れば、もう空気が重くなる。
売り手の男は、薄い笑みを浮かべていた。
相手に警戒心を見せず、けれど自分の手札は一枚も開かない顔だ。
買い手の男は、椅子に深く腰を下ろしている。
指輪の嵌まった手で肘掛けを叩く音が、一定ではない。
苛立っている。
壁際には双方の護衛が立っていた。
買い手側には、分厚い身体の大男が一人。ルッチと同じほどの背丈だが、肩も胸も腕も、厚みがまるで違う。両手には、金属を嵌め込んだ拳具。
そして、細身の護衛が一人。短く整えられた髪。軽い足音。腰の内側には、薄い金属筒。
暗号表持ちだ。
リバーは、売り手と買い手の間に立った。
笑う。
柔らかく。
どちらにも偏らない顔で。
「では、確認を始めましょうか」
売り手が、薄く笑った。
「その前に、支払いの証明を見せていただきたいものですな。こちらも危ない橋を渡っている」
買い手の眉がわずかに動く。
「先に品を見せろ。価値の分からんものに金は出さん」
「価値なら、すでにお聞きでしょう」
「聞いたものと見たものが同じとは限らん」
空気が少し硬くなる。
護衛達の視線が動いた。
売り手側の男が一人、上着の内側へ指を入れる。
買い手側の主力護衛は、壁際で腕を組んだまま微動だにしない。
リバーは、契約書の端を指で整えた。
「急いだ方から損をしますよ」
穏やかな声で言う。
売り手も買い手も、同時にリバーを見た。
「信用取引です。双方が疑うのは当然でしょう。ですから、代理人がいる」
リバーは売り手へ視線を向ける。
「まず、予定表の一部を」
次に買い手を見る。
「その後、暗号表で照合を。読めると分かれば、支払い証明を出していただく」
買い手は少しだけ目を細めた。
「随分仕切るな、代理人」
「そのために呼ばれていますので」
「どちらの味方だ?」
「成立した取引の味方です」
買い手は鼻で笑った。
「気に入らんな」
「信用取引の場で好かれすぎる代理人は、たいてい信用できません」
売り手が、喉の奥で笑った。
「なるほど。では、手順通りに」
売り手は懐から薄い革のケースを取り出した。
机の上に置く。
まだ手は離さない。
リバーはそれを見て、何も言わなかった。
本物ではない。
逃げ道を確保する人間は、最初に必ず軽い札を出す。
失っても致命傷にならないものを、相手の反応を見るために置く。
「それは写しですね」
売り手の笑みが、わずかに止まる。
「慎重なだけですよ」
「結構です。慎重なのは悪いことではありません。ただ、取引成立の確認には本紙が必要です」
買い手が低く笑った。
「代理人の言う通りだ。写しで金を動かすほど、こちらも暇ではない」
売り手はしばらくリバーを見ていた。
そして、諦めたように肩をすくめる。
「最近の代理人は、目が利く」
「仕事ですので」
売り手は今度こそ、内ポケットのさらに奥から別の薄い封筒を取り出した。
革のケースではない。
古い封蝋の残る紙封筒だ。
リバーは、それを机に置かせる。
中身は二つ。
海軍・司法関係の護送予定表。
そして、役付職員の名簿。
護送予定表には、海賊や政治犯の移送日時だけではなく、政府賓客の護衛予定、政界の大物の移動経路、護衛規模の略号まで含まれている。
役付職員の名簿には、異動履歴、処分記録、表に出せない不祥事の痕跡。
使い方はいくらでもある。
襲撃、脅迫、買収、足止め。
どれも、外へ出ていいものではなかった。
買い手は少し身を乗り出す。
「暗号なしで読める箇所は?」
「表層だけですな」
売り手が言う。
「肝心の予定は、こちらの表記では読めない」
「なら、そちらの札を出せ」
買い手が横目で護衛を見る。
暗号表持ちが一歩前へ出た。
男は筒から紙片を抜き、机の端へ置く。
リバーはそれを手に取り、護送予定表の一行に重ねた。
数字の列。
地名の略号。
日付。
船名。
護衛人数。
紙の上で意味が繋がっていく。
買い手の指が、肘掛けを叩くのをやめた。
「本物か」
「少なくとも、照合は成立しています」
リバーは答える。
売り手の口元が、ほんの少し緩む。
「では、支払いを」
買い手は懐から小さな金属箱を出した。
机の上へ置く。
蓋が開く。
中には、宝石でも金貨でもなく、数枚の証書が入っていた。
複数の港で換金できる、裏書き済みの支払い証書。
売り手がそれを確認する。
目がわずかに細くなる。
満足した顔だ。
しかし、その手はまだ封筒から離れない。
リバーは笑った。
「売り手側は、護送予定表と名簿を引き渡す。買い手側は、支払い証書を渡す。暗号表は照合済み。以後は、双方の危険負担となります」
「堅苦しいな」
買い手が言う。
「堅苦しくない取引ほど、後で揉めます」
「揉める気はない」
「それは何よりです」
リバーは契約書を閉じた。
「これで、双方の条件は揃いましたね」
落ちてきた前髪を指で払う。
続けて、首の後ろへ手を回し、襟足を軽く整えた。
二度。
小ホールの奥、バーカウンターでグラスを拭いていたブルーノの手が止まる。グラスは音もなくカウンターへ戻された。
まだ、誰もそれを見ていない。
買い手側の護衛が、机の下へ指を滑らせた。
小型の銃だ。
リバーは笑ったまま、一歩寄る。
「失礼」
指先が手首の内側へ沈んだ。
骨は折らない。
握る命令だけを切る。
男の指が開き、銃が落ちる。
床に当たる前に、リバーの靴先がそれをソファの下へ滑らせた。
一人目が膝を折る。
二人目は速かった。
崩れた仲間を見るより先に、腰の刃へ手を伸ばしている。
動きは悪くない。
だが、見る場所が違う。
リバーの手を見た。
足を見なかった。
踏み出した膝が抜ける。
男の口が開いたが、声になる前に息だけが漏れた。
その時、テーブルのグラスが床へ落ちた。
割れる音と、正面扉の開く音はほとんど同時だった。
扉の向こうに、ルッチが立っている。
待っていたのだ。
買い手の顔色が変わった。
売り手の裏切りではない。
保証代理人が敵だった。
給仕も仕込み。
正面扉の外にも人員。
理解は早かった。
「走れ」
短い命令だった。
暗号表持ちが、机上の紙片を掴んだ。
椅子を蹴り、側面扉へ向かって飛び出す。
軽い足音。
迷いがない。
同時に、売り手が動いた。
封筒を片手で押さえ、もう片方の手で別の鞄を机上へ投げる。
偽物だ。
中身の重さが違う。
革の跳ね方も違う。
リバーは視線だけでそれを捨てた。
「ブルーノ」
名前だけ呼ぶ。
小ホールの奥で、給仕が動いた。
ブルーノはカウンターを出る。
何事もなかったような足取りで、だが迷いなくテーブルへ近づいた。
売り手側の護衛がそれを遮ろうとする。
ブルーノの腕が、横から伸びる。
一撃。
護衛は壁際へ崩れた。
ブルーノは足を止めず、机上の護送予定表と役付職員の名簿をまとめて掴む。
空気に手をかけるように指を動かした。
扉が開く。
そこにあるはずのない場所へ、証拠品だけが滑り込む。
閉まる。
それで、紙の方は消えた。
買い手側の主力護衛が、そこで初めて腕を解いた。
分厚い拳が、机ごと潰す勢いで振り下ろされる。
狙いはリバーだった。
取引を壊した保証代理人。
最も近く、最も目障りな敵。
その判断は自然だった。
リバーは紙絵で薄く避け、脇腹へ蹴りを入れた。
入った。
だが、浅い。
肉の厚みが衝撃を殺している。
もう一歩踏み込めば届く。
だが、その一歩を許す相手ではなかった。
自分の間合いではない。
「こいつは任せた」
リバーは壁を蹴り、狭い船内で身体を斜めへ逃がす。
主力護衛の拳が空を切り、飾り壁を砕いた。
リバーの嵐脚が、男の踏み込みを半歩ずらす。
その先に、ルッチがいた。
ルッチはわずかに眉を動かす。
「判断が遅い」
一撃。
分厚い身体が床へ沈んだ。
「配達で鈍ったか」
「任務中に説教するな」
リバーは着地と同時に、側面扉へ走った。
暗号表持ちはすでに給仕通路へ抜けている。
売り手は奥扉へ向かった。
買い手は、砕けた机と倒れた護衛を見て、即座に後退する。まだ諦めていない目だった。
リバーは追わない。
買い手の前にはルッチがいる。
売り手の逃げ道にはカリファがいる。
証拠品はブルーノが押さえた。
なら、今追うべきは一つだ。
暗号表。
小ホールの空気は、完全に割れていた。
外の音楽はまだ続いている。
その薄い優雅さを破るように、リバーは側面扉を蹴って給仕通路へ抜けた。
食器棚が倒れた。
皿が割れ、銀の皿蓋が床を滑る。食料籠がひっくり返り、果物と瓶詰めが通路に散った。
足を止めるには十分な量だ。
リバーは止まらなかった。
滑る皿は踏まない。
転がる瓶は踵で弾く。
籠は蹴らず、縁だけを踏んで潰す。
暗号表持ちは物を壊して道を塞ぐ。
リバーは、塞がれた道の中から足の置き場だけを抜き取って進む。
厨房脇へ出た瞬間、白い上着の料理人が突き飛ばされてきた。
その後ろから、皿を抱えた給仕も押し出される。
暗号表持ちは振り返りもしない。
人を障害物として使うことに、何のためらいもなかった。
リバーは舌打ちする。
料理人の襟を掴み、回す。
倒さず、壁へ逃がす。
給仕の皿は片手で支え、空いた足で床の瓶を蹴り飛ばす。
割れる音は一つ増えた。
怪我人は増えない。
それで十分だった。
中央広間へ出ると、音楽と悲鳴がぶつかった。
暗号表持ちは、階段へ向かう前に壁を蹴り上がり、シャンデリアの吊り具へ刃を入れた。
落ちる。
客達の頭上へ、硝子と金属の塊が傾いた。
リバーは走りながら、天井を見た。
止めるのは無理だ。
だが、落ちる場所は変えられる。
嵐脚。
斬撃はシャンデリア本体ではなく、残った吊り具の片側だけを裂いた。
支えを失う方向が変わる。
光の塊は客席を外れ、無人の床へ落ちた。
派手な音。
悲鳴。
砕けた硝子が、床を星屑みたいに散った。
その混乱へ、売り手の男が飛び込んできた。
カリファのムチが追う。
だが、人が多い。
逃げ惑う客、転がったグラス、床に散った硝子。
ムチを振れば届く。
ただし、余計なものまで巻き込む位置だった。
売り手側の護衛が、近くの女客へ手を伸ばす。
リバーは速度を落とさず、横から抜けた。
指ではなく、手刀だった。
男の手首の内側を薄く叩く。
掴む前に、指が開く。
「通り道だった」
「便利な通り道ね」
「裾が長いからな」
「セクハラです」
返事を聞き終える前に、リバーは階段へ向かった。
売り手は、さらに奥へ逃げる。
船尾側の細い通路。
積荷口。
その先に、用意したはずの小型蒸気艇。
だが、そこへ辿り着いた時、売り手は足を止めた。
逃げ道は、もう逃げ道ではなくなっていた。
小型蒸気艇は、客船の脇で無様に傾いている。
破れた蒸気管から、白い煙が荒く吹き出していた。
売り手は引き返す。
その先に、カリファがいた。
売り手側の護衛が前へ出る。
カリファは足を止めない。
嵐脚が細く飛び、護衛の足元を裂く。
体勢が崩れたところへ、ムチが伸びる。
床へ叩きつけられた男は、それきり動かなかった。
売り手は中央広間を抜け、さらに狭い通路へ逃げ込む。
行き止まりだった。
息を切らしながら、それでも売り手は笑おうとした。
懐から薄い封筒を抜き、カリファの足元へ投げる。
「本物だ! 持っていけ!」
カリファは、その封筒を一瞥もしなかった。
細い脚が、迷いなく上がる。
一撃。
売り手の身体が壁に叩きつけられ、ずるりと床へ落ちた。
「あなたみたいな男は、保険を一つで済ませないもの」
カリファは倒れた男の上着を探り、内側に縫い込まれた薄い封筒を抜き取った。
封蝋の跡。
紙の厚み。
折り目の癖。
「こちらが本物ね」
同じ頃、暗号表持ちは階段を駆け上がっていた。
上階回廊の手すりの向こうに、カクがいる。
すでに外周側へ身体を向けていた。
一瞬、視線が合う。
言葉はいらなかった。
カクなら見る。
リバーが今見ている場所を、同じように見る。
外周非常扉。
その先の甲板。
そして、逃走艇へ繋がる最短の線。
リバーは敵を追うのではなく、進路を削った。
床の縁を浅く裂く。
手すりの留め具を片側だけ飛ばす。
暗号表持ちが選べる道を、一つずつ潰していく。
暗号表持ちは非常扉を蹴破った。
夜風が流れ込む。
外へ出るなり、壁際の信号旗の束が切られた。
色のついた布が風を孕み、一気に広がる。
視界が潰れる。
続けて、帆布を留めていた縄が切られた。
重い布が外周通路へ落ち、足元を覆う。
リバーは布を避けない。
踏めば絡む。
だから、絡む前に切る。
嵐脚を細く飛ばす。
布の中央ではなく、風を受けて膨らんだ端だけを裂いた。
視界が一拍だけ開く。
その一拍で、カクが前へ出た。
暗号表持ちの足が、初めて止まった。
目指していた小型蒸気艇は、船ではなく残骸になっていた。
舵は落ち、推進軸は断たれ、破れた蒸気管から白い煙が吹き出している。
係留ロープだけが残り、壊れた船体は客船の脇で無様に揺れていた。
「悪いのう。足は先に潰しといた」
欄干の上に立つカクは、帽子を浅くかぶり直してこちらを見た。
「やっぱりこっちへ寄越したのう」
「お前の仕事に期待した」
「ご期待には添えたか?」
暗号表持ちが、紙片を海へ投げ捨てようとした。
遅い。
リバーの指が、空中でそれを挟み取る。
「十分だ」
カクはそこで、にっと笑った。
暗号表持ちは方向を変えようとする。
救命艇へ飛ぼうとしたのだろう。
だが、その足は甲板を蹴る前に止められた。
カクの蹴りが入り、暗号表持ちの身体が甲板へ叩きつけられる。
もう立たない。
暗号表を懐へ入れた直後、甲板の反対側で短い悲鳴が上がった。
買い手だった。
小ホールの正面をルッチに塞がれ、別の導線へ切り替えたのだろう。
判断は早い。
だが、逃げた先が開いているとは限らない。
甲板のテラス席には、逃げ遅れた客がまだ数人いた。
夜風に当たりに出ていたのだろう。悲鳴と破壊音に足をすくませ、壁際で動けなくなっている。
買い手は、その中の一人を引き寄せた。
若い女客の首へ腕を回す。
銃口は女ではなく、リバーへ向いていた。
それが一番厄介だった。
人質は殺すためではない。
リバーの踏み込みを鈍らせるための重りだ。
リバーの後ろにも、逃げ遅れた客がいる。
避ければ、弾はそちらへ抜ける。
踏み込めば、人質の首に回った腕が締まる。
買い手は、そこまで見ていた。
手は悪くない。
ただ、足りない。
引き金が引かれる。
リバーは左腕を上げた。
こめかみを庇う位置。
鉄塊。
鈍い衝撃が腕に沈んだ。
弾丸が潰れ、甲板へ落ちる。
重い。
やはり、好きな技ではない。
だが、一拍あれば十分だった。
剃。
距離が消える。
銃を持つ手首を外へ弾く。
人質を抱え込む肘の内側へ、指を沈める。
腕の力が抜けた。
女客を後ろへ押し出し、空いた懐へ入る。
指銃。
鳩尾の少し上。
呼吸と意識が、一拍遅れて途切れる場所。
買い手の目から焦点が抜けた。
「取引は終わった。逃走は別料金だ」
言い終える頃には、買い手はもう聞いていなかった。
甲板に、五人が揃った。
買い手は床に沈み、暗号表はリバーの懐にある。
護送予定表と名簿はブルーノが押さえ、売り手はカリファのムチで縛られていた。
「売り手は確保。隠していた本紙も回収済みよ」
カリファが封筒を軽く掲げる。
「護送予定表の一部と名簿も回収した」
ブルーノが短く続けた。
ルッチは何も言わなかった。
小ホール側の護衛がもう立っていないことは、その沈黙だけで十分だった。
カクは壊れた小型蒸気艇の方を見て、少しだけ肩をすくめた。
「足も潰した」
「潰しすぎだろ」
リバーが言う。
「逃げられんじゃろ」
「船としても使えないだろ」
「そこまでは頼まれとらん」
カリファは壊れた甲板扉と、割れた硝子と、半壊した小型蒸気艇を順に見た。
「船体損傷は軽微、としておくわ」
「軽微かのう」
「沈んでいないわ」
「基準が強い」
「俺は最小限しか壊してない」
リバーが言う。
「シャンデリアは?」
「落ちる場所を変えた」
「言い訳じゃのう」
「壊したのは暗号表持ちだ」
「報告書にもそう書く?」
カリファが聞く。
「書いてくれ」
「検討するわ」
「修理代は出ない」
ブルーノが言った。
「出ても困る」
「お前さん、それ船大工の前で言うかのう」
カクが呆れたように言う。
リバーは、甲板の手すりに軽く背を預けた。
「疲れた」
「明日も朝から配達じゃろ」
カクが言う。
「思い出させるな」
「わしも朝から図面チェックじゃ」
「私もアイスバーグさんの予定調整があるわ」
「俺は午前は休みだ」
ブルーノが言った。
「お前、仕込みは?」
「済ませてある」
「裏切り者」
「段取りの差だ」
「うるさい」
ルッチが言った。
「文句を言うなら、移動中に寝てろ」
「寝台が硬い。睡眠の質は大事だろ」
「つべこべ言わずにさっさと寝ろ」
その言葉を最後に会話は終わり、五人は歩き出した。
任務は終わった。
週明けは、もうすぐそこにあった。