背中合わせの正義―交わらない最適解   作:深見

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第一話 潜入開始

 

 

 夕方の水路は、街に差し込む光をやわらかく揺らしていた。

 

 人が暮らすには美しい街だ。

 造船で大きくなったこの街には、人も物も絶えず流れ込む。

 紛れるには都合がいい。

 

 窓の外を流れる水面に、西日が細く砕けている。開け放した扉からは、潮の匂いと、少し湿った木の匂いが入ってきた。

 

 ブルーノは店の奥で、磨いたばかりのグラスを棚へ戻していた。

 

 まだ開店したばかりというには物が馴染みすぎていて、長く続いている店というには空気が新しい。

 作り込まれた生活感。

 偽装としては上出来で、日常としてはまだ浅い。

 

 そんな半端な顔をした店だった。

 

 そこへ、一番にルッチが入ってくる。

 

 足音に無駄がない。店の中を見回すでもなく、最初からここに来ることが決まっていたかのように、まっすぐカウンターへ寄った。

 

「問題はないか」

 

「今のところはな」

 

 ブルーノが短く返す。

 

「表向きの営業なら、今日からでも始められる」

 

「馴染むのはこれからだ」

 

「十分だ」

 

 それだけで話は切れた。

 

 長く住むことになる街かもしれない。

 だが、ルッチにとっては住む場所である前に、任務の現場でしかない。

 

 そういう温度だった。

 

 しばらくして、カリファが入ってくる。

 

 書類の束を片手に、もう仕事を終えてきた顔をしていた。

 

「書類の上では問題ないわ」

 

 カリファはカウンターの端へ書類を置く。

 

「けど、“そこに住んでいる人間”に見せるのはこれからね。書類だけで街に馴染むなら、誰も苦労しないわ」

 

「この街では、そういうところを見られるでしょうし」

 

「職人の街だからな」

 

 ブルーノが言う。

 

「腕も、手つきも、暮らし方も見られる」

 

 そこへ今度は、カクが軽い足取りで入ってきた。

 

 扉をくぐるなり、ぐるりと店内を見回し、窓の外へ目をやる。

 

「思ったより洒落とる街じゃのう。水の都というだけはある」

 

「観光客みたいなこと言うのね」

 

 カリファが呆れたように言うと、カクは肩をすくめた。

 

「今くらいは似たようなものじゃろう。橋も水路も整っておる。造船の街にしては、見栄えもいいのう」

 

 ブルーノは鼻を鳴らす。

 

「綺麗なだけで済めばいいがな」

 

「済まんのか?」

 

「人も物も集まる。目も多い。面倒は増える」

 

「ほう」

 

 カクは楽しそうに笑った。

 

「ますます面白そうじゃ」

 

 扉の外で、誰かが一度だけ立ち止まる気配がした。

 

 足音は軽い。

 だが、店に入る前に外の通りを一度測った気配があった。

 

 短い間のあとで、リバーが入ってくる。

 

 彼の到着は、いつも少しだけ遅い。

 

「遅いのう。何しておったんじゃ」

 

 カクが言う。

 

「下見だよ。働き者なんでね」

 

 リバーはおどけたような調子で返すと、そのままカウンターの空いた席へ腰を下ろした。

 

「寄り道の間違いじゃろ」

 

「半分正解」

 

 ブルーノがグラスを一つ置く。

 

 リバーは目だけで礼をして、外の水路をちらりと見た。

 

「綺麗な街だな」

 

「じゃろ?」

 

 カクがすぐ乗る。

 

「中央の噴水を見たか?あれほど大きいのは初めて見た。任務とはいえ、少し得した気分じゃ」

 

「任務にとっても悪くないと思うぞ」

 

 リバーはグラスに口をつけるでもなく、指先で縁をなぞった。

 

「船を目当てに、商人から海賊まで様々な人間が集まる。海列車のおかげで物流も盛んだ。潜り込むのは容易く、情報は集まりやすい」

 

「街の見方が可愛くないわね」

 

 カリファが言う。

 

「綺麗だとは思ってるさ」

 

 リバーは口元だけで笑った。

 

「思ってるけど、それと仕事のしやすさは別だろ」

 

「お前さん、もう少し情緒を身につけたらどうじゃ」

 

 カクが言うと、リバーは肩をすくめる。

 

「今更それを求めるのか?」

 

 少しだけ空気が緩む。

 

 そのまま雑談が続きそうになったところで、ルッチが口を開いた。

 

「本題だ」

 

 たった一言で、店の空気が戻る。

 

 誰も返さない。

 返さなくても十分だった。

 

 ルッチはそのまま続ける。

 

「設計図の所在は不明。すぐに答えが出る任務じゃない」

 

 淡々とした声だった。

 

「長く潜る。まずは立場を固める。下手に急ぐな」

 

「集めた情報はここで合わせる、でいいわね」

 

 カリファがブルーノを見る。

 

「ああ」

 

 ブルーノは短く頷いた。

 

「店には人も話も集まる。捌くのは俺がやる」

 

「職人連中は、こっちで見よう」

 

 カクが言う。

 

「船の話なら、聞いても退屈せんしのう」

 

「アイスバーグの周りは私が見るわ。不自然な書類や予定があれば、先に拾う」

 

 カリファが淡々と続ける。

 

 ルッチは最後にリバーを見た。

 

「お前は外を見ろ」

 

 それだけだった。

 

 だが十分だ。

 

 ルッチは、何を見るかを細かく指定しない。

 人の動きか、物の流れか、噂の落ち方か。

 どれを拾い、どれを捨てるかは、リバーの領分だと知っている。

 

 リバーも、それ以上の説明を求めなかった。

 

「了解」

 

 グラスの縁から指を離す。

 

「小口の運び屋をやろう。港、倉庫、ガレーラの周り、酒場。荷物と伝票を口実に回れるところは回る。人の流れと、荷の動きは見ておく」

 

「余計なものまで踏まないこと」

 

 カリファが釘を刺す。

 

「善処する」

 

「善処、のう」

 

 カクが笑う。

 

「お前さんの善処は、たまに胡散臭いんじゃ」

 

「失礼だな」

 

 リバーはようやくグラスに口をつけた。

 

「俺はいつだって真面目だぞ」

 

「それを真顔で言うから怪しいんじゃろ」

 

「怪しく見えるなら成功だな」

 

「そういうとこじゃ」

 

 また少しだけ空気が緩む。

 

 任務は重い。

 設計図の所在は見えない。

 どれだけかかるかも分からない。

 

 それでも今この場では、まだ始まりに近い。

 

 カクが外の水路へ視線を向けたまま、ぽつりと言う。

 

「長い付き合いになりそうじゃのう」

 

「どうだかな」

 

 リバーは同じように外を見た。

 

 夕方の光が、水面の揺れと一緒に天井へ映っている。

 

「綺麗な街ほど、底は見えにくい」

 

 誰もそれを否定しなかった。

 

 水の都、ウォーターセブン。

 

 その街での長い潜伏は、静かに始まった。

 水面の下にあるものを、まだ誰も見てはいなかった。

 

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