背中合わせの正義―交わらない最適解 作:深見
夕方の水路は、街に差し込む光をやわらかく揺らしていた。
人が暮らすには美しい街だ。
造船で大きくなったこの街には、人も物も絶えず流れ込む。
紛れるには都合がいい。
窓の外を流れる水面に、西日が細く砕けている。開け放した扉からは、潮の匂いと、少し湿った木の匂いが入ってきた。
ブルーノは店の奥で、磨いたばかりのグラスを棚へ戻していた。
まだ開店したばかりというには物が馴染みすぎていて、長く続いている店というには空気が新しい。
作り込まれた生活感。
偽装としては上出来で、日常としてはまだ浅い。
そんな半端な顔をした店だった。
そこへ、一番にルッチが入ってくる。
足音に無駄がない。店の中を見回すでもなく、最初からここに来ることが決まっていたかのように、まっすぐカウンターへ寄った。
「問題はないか」
「今のところはな」
ブルーノが短く返す。
「表向きの営業なら、今日からでも始められる」
「馴染むのはこれからだ」
「十分だ」
それだけで話は切れた。
長く住むことになる街かもしれない。
だが、ルッチにとっては住む場所である前に、任務の現場でしかない。
そういう温度だった。
しばらくして、カリファが入ってくる。
書類の束を片手に、もう仕事を終えてきた顔をしていた。
「書類の上では問題ないわ」
カリファはカウンターの端へ書類を置く。
「けど、“そこに住んでいる人間”に見せるのはこれからね。書類だけで街に馴染むなら、誰も苦労しないわ」
「この街では、そういうところを見られるでしょうし」
「職人の街だからな」
ブルーノが言う。
「腕も、手つきも、暮らし方も見られる」
そこへ今度は、カクが軽い足取りで入ってきた。
扉をくぐるなり、ぐるりと店内を見回し、窓の外へ目をやる。
「思ったより洒落とる街じゃのう。水の都というだけはある」
「観光客みたいなこと言うのね」
カリファが呆れたように言うと、カクは肩をすくめた。
「今くらいは似たようなものじゃろう。橋も水路も整っておる。造船の街にしては、見栄えもいいのう」
ブルーノは鼻を鳴らす。
「綺麗なだけで済めばいいがな」
「済まんのか?」
「人も物も集まる。目も多い。面倒は増える」
「ほう」
カクは楽しそうに笑った。
「ますます面白そうじゃ」
扉の外で、誰かが一度だけ立ち止まる気配がした。
足音は軽い。
だが、店に入る前に外の通りを一度測った気配があった。
短い間のあとで、リバーが入ってくる。
彼の到着は、いつも少しだけ遅い。
「遅いのう。何しておったんじゃ」
カクが言う。
「下見だよ。働き者なんでね」
リバーはおどけたような調子で返すと、そのままカウンターの空いた席へ腰を下ろした。
「寄り道の間違いじゃろ」
「半分正解」
ブルーノがグラスを一つ置く。
リバーは目だけで礼をして、外の水路をちらりと見た。
「綺麗な街だな」
「じゃろ?」
カクがすぐ乗る。
「中央の噴水を見たか?あれほど大きいのは初めて見た。任務とはいえ、少し得した気分じゃ」
「任務にとっても悪くないと思うぞ」
リバーはグラスに口をつけるでもなく、指先で縁をなぞった。
「船を目当てに、商人から海賊まで様々な人間が集まる。海列車のおかげで物流も盛んだ。潜り込むのは容易く、情報は集まりやすい」
「街の見方が可愛くないわね」
カリファが言う。
「綺麗だとは思ってるさ」
リバーは口元だけで笑った。
「思ってるけど、それと仕事のしやすさは別だろ」
「お前さん、もう少し情緒を身につけたらどうじゃ」
カクが言うと、リバーは肩をすくめる。
「今更それを求めるのか?」
少しだけ空気が緩む。
そのまま雑談が続きそうになったところで、ルッチが口を開いた。
「本題だ」
たった一言で、店の空気が戻る。
誰も返さない。
返さなくても十分だった。
ルッチはそのまま続ける。
「設計図の所在は不明。すぐに答えが出る任務じゃない」
淡々とした声だった。
「長く潜る。まずは立場を固める。下手に急ぐな」
「集めた情報はここで合わせる、でいいわね」
カリファがブルーノを見る。
「ああ」
ブルーノは短く頷いた。
「店には人も話も集まる。捌くのは俺がやる」
「職人連中は、こっちで見よう」
カクが言う。
「船の話なら、聞いても退屈せんしのう」
「アイスバーグの周りは私が見るわ。不自然な書類や予定があれば、先に拾う」
カリファが淡々と続ける。
ルッチは最後にリバーを見た。
「お前は外を見ろ」
それだけだった。
だが十分だ。
ルッチは、何を見るかを細かく指定しない。
人の動きか、物の流れか、噂の落ち方か。
どれを拾い、どれを捨てるかは、リバーの領分だと知っている。
リバーも、それ以上の説明を求めなかった。
「了解」
グラスの縁から指を離す。
「小口の運び屋をやろう。港、倉庫、ガレーラの周り、酒場。荷物と伝票を口実に回れるところは回る。人の流れと、荷の動きは見ておく」
「余計なものまで踏まないこと」
カリファが釘を刺す。
「善処する」
「善処、のう」
カクが笑う。
「お前さんの善処は、たまに胡散臭いんじゃ」
「失礼だな」
リバーはようやくグラスに口をつけた。
「俺はいつだって真面目だぞ」
「それを真顔で言うから怪しいんじゃろ」
「怪しく見えるなら成功だな」
「そういうとこじゃ」
また少しだけ空気が緩む。
任務は重い。
設計図の所在は見えない。
どれだけかかるかも分からない。
それでも今この場では、まだ始まりに近い。
カクが外の水路へ視線を向けたまま、ぽつりと言う。
「長い付き合いになりそうじゃのう」
「どうだかな」
リバーは同じように外を見た。
夕方の光が、水面の揺れと一緒に天井へ映っている。
「綺麗な街ほど、底は見えにくい」
誰もそれを否定しなかった。
水の都、ウォーターセブン。
その街での長い潜伏は、静かに始まった。
水面の下にあるものを、まだ誰も見てはいなかった。