背中合わせの正義―交わらない最適解   作:深見

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第二話 五年の停滞

 

 

 五年近く経てば、たいていのものは街に馴染む。

 

 人も、店も、嘘も。

 

 ブルーノの店もそうだった。

 

 開店したばかりの頃にはどこか硬かったカウンターも、今では客の肘の跡を覚え、酒と愚痴と噂が落ちる場所になっていた。

 

 ルッチとカクはガレーラの職長として名を通し、職人達の信頼と警戒の内側へ入り込んだ。カリファは社長秘書としてアイスバーグの信頼を得た。リバーは運送屋として、港、倉庫、商会、役所、ガレーラの裏口まで、荷を口実に街の表裏を巡った。

 

 彼らはただ馴染んだわけではない。

 馴染むことで、見られる場所を増やしていった。

 

 それでも、目的のものだけは見えなかった。

 

 夜もだいぶ更けると、ブルーノの店はようやく自分たちの場所に戻った。

 

 最後の客を見送り、扉が閉まる。

 外の水路を渡る風が、昼より少し冷たくなっていた。

 店内にはまだ、酒と料理の匂いが薄く残っている。

 

 カウンターの上には、皿がいくつか並んでいた。

 

 魚のソテーに、温野菜。

 じゃがいもを潰して焼いたもの。

 

 派手ではないが、妙にきちんと腹に入る料理ばかりだった。

 

 ブルーノが作ったものだ。

 

「新しいのか、それ」

 

 リバーが皿を見ながら言うと、ブルーノは短く「ああ」とだけ返した。

 

「客に出す前に試してる」

 

「悪くないわね」

 

 カリファが一口食べて言う。

 

「店で出すには、もう少し見栄えを整えてもいいけど」

 

「味は十分じゃ」

 

 カクも頷く。

 

「この街、見た目ばかり洒落とる店も多いが、こういうのでいいんじゃ」

 

「飲み屋だぞ、ここは」

 

 ブルーノが言う。

 

「お前らの食堂じゃない」

 

「似たようなもんじゃろ」

 

 カクは悪びれもせず、皿の端の芋をつついた。

 

 その向かいで、リバーは黙って食べている。

 

 早くも遅くもない。

 味わっていないわけではないのに、食事というより、必要なものを順に入れているような食べ方だった。

 

 カクがそれを見て、呆れたように笑う。

 

「お前さん、ほんと飯を飯として見とらんのう」

 

「見てるさ」

 

 リバーは顔も上げずに返した。

 

「魚に野菜、芋もある。補給としては十分だ」

 

 数秒、沈黙が落ちる。

 

 カリファが眉を寄せた。

 

「あなたって、本当にそういうところがあるわね」

 

「そういうところ、とは?」

 

「聞き返すあたりが、もう駄目なんじゃ」

 

 カクが肩を揺らす。

 

 リバーはようやく顔を上げた。

 

「いや、美味いのは分かるぞ」

 

「分かった上で、それが先に出るの?」

 

「食う理由としては大事だろ」

 

「優先順位の話をしてるの」

 

「前提は補給だろ」

 

「楽しむのまで込みで食事じゃろうが」

 

 カクが笑い、ブルーノは何も言わずに新しい皿を置いた。

 

 ルッチだけは最初から最後まで、会話に乗らない。

 

 ただ黙って食べ、食べ終えた皿を脇へ避ける。

 五年近くも一緒にいれば、それが機嫌の悪さではなく、単に平常だということくらい分かる。

 

「それで」

 

 やがて、ルッチが口を開いた。

 

 その一言で、皿の上にあった食事の時間は終わる。

 五年近く繰り返しても、それだけは変わらなかった。

 

「今日の分は」

 

「大きな動きはなし」

 

 カリファが先に言った。

 

「市長邸もガレーラも、表向きは変わらないわ。予定、来客、決裁書類、保管庫の出入り。見られるものは見ている」

 

 カリファは淡々と言った。

 

「でも、空白がない」

 

「空白?」

 

「隠している人間には、たいてい不自然な余白が出るものよ。誰にも触らせない時間、理由の薄い人払い、説明のつかない鍵。でも、アイスバーグさんにはそれが見えない」

 

 カクが続く。

 

「工房側も同じじゃ。古い図面庫、部材の保管場所、職長しか入れん倉庫。見られるところは見た。怪しい場所はある。じゃが、怪しいだけじゃ」

 

「芯には届かない?」

 

「届かん。造船会社なら、隠し場所に見える場所はいくらでもある。逆に多すぎて、どれも決め手にならん」

 

 

 ブルーノが腕を組む。

 

「店に落ちてくる話も似たようなもんだ。アイスバーグの噂は多い。だが、どれも人柄か政治の話で止まる」

 

「奥はどうじゃ」

 

 カクが聞く。

 

「扉を作れば入れる場所はある。だが、入るべき場所が多すぎてキリがない。無差別に開ければ非効率な上に痕跡が増える」

 

 最後にルッチの視線がリバーへ向く。

 

「お前は」

 

「港、倉庫、商会、役所、ガレーラの裏口。入れるところには入ってる」

 

 リバーは、皿の端に残った芋をフォークで崩しながら言った。

 

「妙な搬入はない。説明のつかない保管もない。特定の時間だけ消える荷もない。噂は拾えるが、アイスバーグの周りだけは綺麗に日常で閉じてる」

 

 そこで一度、グラスの水を飲む。

 

「隠しているなら、うまい。隠し場所を守ってるんじゃない。隠している形跡を作っていない」

 

 

 もう何度目かも分からない。

 

 街には馴染んだ。

 橋の位置も、水路の癖も、誰がどこへ荷を出すのかも分かる。

 どの店がいつ忙しいか、どの職人が誰を嫌っているか、どの役人がどこで酒を飲むかも知っている。

 

 生活は出来上がっていた。

 

 なのに、目的地だけが遠い。

 

「またかよ、って感じじゃのう」

 

 カクが小さく言う。

 

「またかよ、だな」

 

 リバーもそれには素直に頷いた。

 

「近いようで、毎回一段手前で外れる」

 

「外れるなら、また拾えばいい」

 

 ルッチの声はいつも通りだった。

 

 感情は見えない。

 ただ、止まる理由にはならないという事実だけを置く。

 

 正しい。

 

 たぶん、それは正しい。

 

 だからこそ、重い。

 

「簡単に言うわね」

 

 カリファが言う。

 

「難しくする必要があるか」

 

「なくても、疲れるものは疲れるのよ」

 

 その言葉に、誰もすぐには返さなかった。

 

 疲れている、と口にするほど鈍ってはいない。

 だが、疲れていないと言い切れるほど、もう短い任務ではなかった。

 

 ブルーノが皿を下げる音だけが、小さく店に響く。

 

 いつの間にか、こうして夜に顔を揃えるのが習慣になっていた。

 

 情報を持ち寄り、進展の薄さを確認し、食事をとって、また翌日にはそれぞれの顔で街へ出ていく。

 

 潜入は失敗していない。

 

 むしろ、うまくいきすぎているくらいだった。

 

 だから余計に、届かなさだけが浮き上がる。

 

 カクが椅子の背にもたれ、天井を見たまま言う。

 

「住めば都、とは言うがのう」

 

「都にはなったか?」

 

 リバーが聞く。

 

「さあのう。お前さんはどうじゃ」

 

 リバーは少しだけ考えてから、窓の外へ目を向けた。

 

 夜の水路は静かだった。

 橋も、石畳も、もう見慣れている。

 仕事の流れも、人の癖も、この街の呼吸も、だいたい分かる。

 

 分かるようになった。

 

 それでも。

 

「馴染むほど、遠さだけがはっきりする」

 

 ぽつりと、そう言う。

 

 誰も笑わなかった。

 

 軽口で流せる程度の本音ではなかったからだろう。

 

 店の中には、しばらく静けさだけが残った。

 

 それは息苦しい沈黙ではなく、長く潜った者たちの間にだけある、説明のいらない重さだった。

 

 その夜が、いつもと違っていたわけではない。

 

 ただ、五年近く積み上げた停滞の上に、次の朝が来ようとしていた。

 

 水面の下で、まだ誰にも見えない流れが変わり始めていた。

 

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