背中合わせの正義―交わらない最適解 作:深見
五年近く経てば、たいていのものは街に馴染む。
人も、店も、嘘も。
ブルーノの店もそうだった。
開店したばかりの頃にはどこか硬かったカウンターも、今では客の肘の跡を覚え、酒と愚痴と噂が落ちる場所になっていた。
ルッチとカクはガレーラの職長として名を通し、職人達の信頼と警戒の内側へ入り込んだ。カリファは社長秘書としてアイスバーグの信頼を得た。リバーは運送屋として、港、倉庫、商会、役所、ガレーラの裏口まで、荷を口実に街の表裏を巡った。
彼らはただ馴染んだわけではない。
馴染むことで、見られる場所を増やしていった。
それでも、目的のものだけは見えなかった。
夜もだいぶ更けると、ブルーノの店はようやく自分たちの場所に戻った。
最後の客を見送り、扉が閉まる。
外の水路を渡る風が、昼より少し冷たくなっていた。
店内にはまだ、酒と料理の匂いが薄く残っている。
カウンターの上には、皿がいくつか並んでいた。
魚のソテーに、温野菜。
じゃがいもを潰して焼いたもの。
派手ではないが、妙にきちんと腹に入る料理ばかりだった。
ブルーノが作ったものだ。
「新しいのか、それ」
リバーが皿を見ながら言うと、ブルーノは短く「ああ」とだけ返した。
「客に出す前に試してる」
「悪くないわね」
カリファが一口食べて言う。
「店で出すには、もう少し見栄えを整えてもいいけど」
「味は十分じゃ」
カクも頷く。
「この街、見た目ばかり洒落とる店も多いが、こういうのでいいんじゃ」
「飲み屋だぞ、ここは」
ブルーノが言う。
「お前らの食堂じゃない」
「似たようなもんじゃろ」
カクは悪びれもせず、皿の端の芋をつついた。
その向かいで、リバーは黙って食べている。
早くも遅くもない。
味わっていないわけではないのに、食事というより、必要なものを順に入れているような食べ方だった。
カクがそれを見て、呆れたように笑う。
「お前さん、ほんと飯を飯として見とらんのう」
「見てるさ」
リバーは顔も上げずに返した。
「魚に野菜、芋もある。補給としては十分だ」
数秒、沈黙が落ちる。
カリファが眉を寄せた。
「あなたって、本当にそういうところがあるわね」
「そういうところ、とは?」
「聞き返すあたりが、もう駄目なんじゃ」
カクが肩を揺らす。
リバーはようやく顔を上げた。
「いや、美味いのは分かるぞ」
「分かった上で、それが先に出るの?」
「食う理由としては大事だろ」
「優先順位の話をしてるの」
「前提は補給だろ」
「楽しむのまで込みで食事じゃろうが」
カクが笑い、ブルーノは何も言わずに新しい皿を置いた。
ルッチだけは最初から最後まで、会話に乗らない。
ただ黙って食べ、食べ終えた皿を脇へ避ける。
五年近くも一緒にいれば、それが機嫌の悪さではなく、単に平常だということくらい分かる。
「それで」
やがて、ルッチが口を開いた。
その一言で、皿の上にあった食事の時間は終わる。
五年近く繰り返しても、それだけは変わらなかった。
「今日の分は」
「大きな動きはなし」
カリファが先に言った。
「市長邸もガレーラも、表向きは変わらないわ。予定、来客、決裁書類、保管庫の出入り。見られるものは見ている」
カリファは淡々と言った。
「でも、空白がない」
「空白?」
「隠している人間には、たいてい不自然な余白が出るものよ。誰にも触らせない時間、理由の薄い人払い、説明のつかない鍵。でも、アイスバーグさんにはそれが見えない」
カクが続く。
「工房側も同じじゃ。古い図面庫、部材の保管場所、職長しか入れん倉庫。見られるところは見た。怪しい場所はある。じゃが、怪しいだけじゃ」
「芯には届かない?」
「届かん。造船会社なら、隠し場所に見える場所はいくらでもある。逆に多すぎて、どれも決め手にならん」
ブルーノが腕を組む。
「店に落ちてくる話も似たようなもんだ。アイスバーグの噂は多い。だが、どれも人柄か政治の話で止まる」
「奥はどうじゃ」
カクが聞く。
「扉を作れば入れる場所はある。だが、入るべき場所が多すぎてキリがない。無差別に開ければ非効率な上に痕跡が増える」
最後にルッチの視線がリバーへ向く。
「お前は」
「港、倉庫、商会、役所、ガレーラの裏口。入れるところには入ってる」
リバーは、皿の端に残った芋をフォークで崩しながら言った。
「妙な搬入はない。説明のつかない保管もない。特定の時間だけ消える荷もない。噂は拾えるが、アイスバーグの周りだけは綺麗に日常で閉じてる」
そこで一度、グラスの水を飲む。
「隠しているなら、うまい。隠し場所を守ってるんじゃない。隠している形跡を作っていない」
もう何度目かも分からない。
街には馴染んだ。
橋の位置も、水路の癖も、誰がどこへ荷を出すのかも分かる。
どの店がいつ忙しいか、どの職人が誰を嫌っているか、どの役人がどこで酒を飲むかも知っている。
生活は出来上がっていた。
なのに、目的地だけが遠い。
「またかよ、って感じじゃのう」
カクが小さく言う。
「またかよ、だな」
リバーもそれには素直に頷いた。
「近いようで、毎回一段手前で外れる」
「外れるなら、また拾えばいい」
ルッチの声はいつも通りだった。
感情は見えない。
ただ、止まる理由にはならないという事実だけを置く。
正しい。
たぶん、それは正しい。
だからこそ、重い。
「簡単に言うわね」
カリファが言う。
「難しくする必要があるか」
「なくても、疲れるものは疲れるのよ」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
疲れている、と口にするほど鈍ってはいない。
だが、疲れていないと言い切れるほど、もう短い任務ではなかった。
ブルーノが皿を下げる音だけが、小さく店に響く。
いつの間にか、こうして夜に顔を揃えるのが習慣になっていた。
情報を持ち寄り、進展の薄さを確認し、食事をとって、また翌日にはそれぞれの顔で街へ出ていく。
潜入は失敗していない。
むしろ、うまくいきすぎているくらいだった。
だから余計に、届かなさだけが浮き上がる。
カクが椅子の背にもたれ、天井を見たまま言う。
「住めば都、とは言うがのう」
「都にはなったか?」
リバーが聞く。
「さあのう。お前さんはどうじゃ」
リバーは少しだけ考えてから、窓の外へ目を向けた。
夜の水路は静かだった。
橋も、石畳も、もう見慣れている。
仕事の流れも、人の癖も、この街の呼吸も、だいたい分かる。
分かるようになった。
それでも。
「馴染むほど、遠さだけがはっきりする」
ぽつりと、そう言う。
誰も笑わなかった。
軽口で流せる程度の本音ではなかったからだろう。
店の中には、しばらく静けさだけが残った。
それは息苦しい沈黙ではなく、長く潜った者たちの間にだけある、説明のいらない重さだった。
その夜が、いつもと違っていたわけではない。
ただ、五年近く積み上げた停滞の上に、次の朝が来ようとしていた。
水面の下で、まだ誰にも見えない流れが変わり始めていた。