背中合わせの正義―交わらない最適解 作:深見
いつもならまだ客のいる時間帯だが、ブルーノの店は灯りが落とされていた。
扉には、定休日の看板が掛かっている。
昼間の喧騒は、跡形もなかった。
店内には、酒の匂いと磨かれた木の匂いだけが薄く残っている。
カリファは、その奥で一人先に座っていた。
いつも通り背筋は伸びている。
手元に開いた書類はない。
必要な整理は、とっくに済んでいるのだろう。
あとは時間だけが進んでいる、そんな座り方だった。
ほどなくして、ルッチが入ってくる。
扉が開く音にカリファが目を上げる。
ルッチは何も言わず、そのままいつもの席へ向かった。
肩のハットリだけが、小さく首を傾けた。
だが、鳴き声はない。
ブルーノの不在について、確認の言葉はなかった。
彼がここにいない事実こそが、今夜がどこまで進んでいるかの証明だった。
ロビンがこの街へ入った場合の手順は、昨夜のうちに決めてある。
上から来た追加指示は大雑把だった。
ロビンの身柄、あるいは協力を確実に押さえろ。
それだけだ。
ならば、接触はブルーノがやる。
屋敷側はカリファが整える。
リバーは街の流れを見て、ルッチとカクはガレーラの職人として必要な顔を残す。
今日一日で確定したのは、その手順を動かすだけの材料が揃ったということだった。
カリファが口を開く。
「アイスバーグの帰宅は確認したわ。持ち帰りの仕事もない。何も起こらなければ、就寝時刻はいつも通り。外出もしないでしょう」
ルッチは短く頷くだけだった。
遅れて入ってきたカクも、今夜は珍しく静かだった。
戸口をくぐり、店内を一度見回してから、軽く息を吐く。
「……静かじゃのう」
「静かじゃなきゃ困るわ」
カリファが返す。
その言葉で会話は切れた。
冗談にする余地もない。
今夜はそういう夜だった。
最後に、リバーが入ってくる。
いつもなら少し遅れて来て、何か一言くらいは軽く混ぜる。
だが今夜は違った。
扉を閉める音も、足音も、妙に静かだった。
「遅かったわね」
カリファが言う。
「少し見てきた」
それだけ返して、リバーは空いている席に腰を下ろした。
それ以上の軽口は続かない。
四人が揃う。
ブルーノの店なのに、ブルーノだけがいない。
それだけで、今夜の段階は十分に分かった。
「屋敷側は予定通りよ。今夜動かせる」
カリファが静かに言う。
「そのようだ。アイスバーグの部屋はまだ明かりがついていたが、直に消えるだろう」
リバーが続ける。
「今夜は人の流れが薄い。噂が本格的に回り出すのは朝になってからだ」
「今日は十分騒がしかったと思うけど」
カリファが言う。
リバーは小さく肩をすくめた。
「麦わらの一味な。船は査定に回ったが、修理は断られた。金はフランキー一家に奪われた。金を持っていた長鼻はやられ、連中はそのまま殴り込みに行った」
少しだけ間を置く。
「よくまあ、たった一日でこれだけ騒げるもんだ」
カクが腕を組んだまま、低く続ける。
「査定は真面目にやったが、あの船はもう保たん。じゃが、あ奴らは簡単に切れる顔ではなかった」
「切れないなら、割れる」
リバーが言う。
「先ほど、クルーの一人が宿に入っていくのを見た。全員揃っていたようには見えない。船の方に残った奴がいてもおかしくない」
「揉めるだけで済むかしら」
「済まんじゃろうな」
カクの声にも、いつもの軽さはあまりなかった。
「仲間がやられりゃ、敵の根城まで突っ込む。船を切り捨てるとなれば、今度は内側で割れる。騒がしいだけかと思ったが、動くのも早いらしい」
「感情で動く節は強いみたいだけど」
カリファが淡々と返した。
「だから読みづらい」
「細かい順番はな」
リバーはグラスにも触れずに言った。
「だが、動機は真っ直ぐだ。金を奪われれば取り返す。仲間をやられれば敵を討つ。まるで物語の主人公だな」
口元だけで、薄く笑う。
「その素直さを利用してやればいい」
「十分だ」
ルッチが初めて口を挟んだ。
「利用できるなら、それでいい」
短い声だった。
そこに興味も苛立ちも見えない。
ただ、使える材料かどうかだけを見ている声だった。
けれど、リバーはそれ以上説明しなかった。
ルッチが「十分だ」と言ったなら、その読みはもう作戦の材料として扱われる。
細かい言葉を重ねる必要はない。
「そういえば、お金はあなたが返したんだったわね」
カリファが確認する。
「表向きはな」
ルッチが答える。
「親切な職人だな」
リバーが薄く言う。
ルッチはリバーを見もしなかった。
「そう見えるなら、それでいい」
「あそこで返さない方が不自然だ。腕の立つ職人が、目の前の不始末を放っておく理由がない。まして、同僚が絡んだ金ならなおさらだ」
リバーは淡々と言った。
「麦わら達にも街にも、“そういう男”として残る」
ルッチは短く頷いた。
「なら問題ない」
その一言で、話は終わった。
実際、昼間のルッチはガレーラの職人として自然に動いた。
奪われた金を返し、麦わら達の前に立ち、あの街の腕利き職人として必要な顔をしてみせた。
それが善意かどうかなど、ここでは誰も問わない。
問う意味もない。
「アイスバーグは生かすんだったな」
リバーが言う。
「ええ。死なれては困るもの」
カリファの声は冷たい。
死なせるためではない。
追い込むための襲撃だった。
アイスバーグを生かしたまま、疑念と恐怖の中に置く。
ロビンを使い、麦わらの一味へ視線を向ける。
設計図へ繋がる線を、今度こそ引きずり出す。
それだけ分かっていれば十分だった。
カクが息を吐く。
「いよいよじゃのう」
その声に、今度は誰も茶化さなかった。
五年。
この街で過ごした時間としては、十分すぎるほど長い。
潜ることには成功した。
街に根を張ることにも。
それだけで、進まなかった時間が今夜で終わる。
カリファがグラスに触れもせず、静かに言う。
「ようやく、次へ進めるわね」
「止まっていた時間が長すぎたんじゃ」
カクが返す。
リバーは何も言わなかった。
言葉にしなくても分かる。
今夜で、街は変わる。
明日の朝には、昨日までと同じ顔をしてはいられない。
長く停滞していた任務が、ようやく動き出す。
それは前進でもある。
同時に、もう戻れないということでもあった。
ルッチがそこで、はっきりと口を開く。
「明日には変わる」
命令でもない。
確認でもない。
ただ、決まった事実をそのまま置くみたいに言う。
誰も返さなかった。
ハットリが、ルッチの肩で小さく羽を畳み直した。
それだけの音が、妙にはっきり聞こえた。
店の中には、しばらく静けさだけが残る。
夜はまだ深く、外の水路も何事もないように暗いままだ。
だが、もう同じ朝は来ない。
四人は、そのことだけを理解していた。