背中合わせの正義―交わらない最適解   作:深見

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第五話 変化の前夜

 

 いつもならまだ客のいる時間帯だが、ブルーノの店は灯りが落とされていた。

 扉には、定休日の看板が掛かっている。

 

 昼間の喧騒は、跡形もなかった。

 店内には、酒の匂いと磨かれた木の匂いだけが薄く残っている。

 

 カリファは、その奥で一人先に座っていた。

 

 いつも通り背筋は伸びている。

 手元に開いた書類はない。

 必要な整理は、とっくに済んでいるのだろう。

 

 あとは時間だけが進んでいる、そんな座り方だった。

 

 ほどなくして、ルッチが入ってくる。

 

 扉が開く音にカリファが目を上げる。

 ルッチは何も言わず、そのままいつもの席へ向かった。

 

 肩のハットリだけが、小さく首を傾けた。

 だが、鳴き声はない。

 

 ブルーノの不在について、確認の言葉はなかった。

 

 彼がここにいない事実こそが、今夜がどこまで進んでいるかの証明だった。

 

 ロビンがこの街へ入った場合の手順は、昨夜のうちに決めてある。

 

 上から来た追加指示は大雑把だった。

 ロビンの身柄、あるいは協力を確実に押さえろ。

 

 それだけだ。

 

 ならば、接触はブルーノがやる。

 屋敷側はカリファが整える。

 リバーは街の流れを見て、ルッチとカクはガレーラの職人として必要な顔を残す。

 

 今日一日で確定したのは、その手順を動かすだけの材料が揃ったということだった。

 

 カリファが口を開く。

 

「アイスバーグの帰宅は確認したわ。持ち帰りの仕事もない。何も起こらなければ、就寝時刻はいつも通り。外出もしないでしょう」

 

 ルッチは短く頷くだけだった。

 

 遅れて入ってきたカクも、今夜は珍しく静かだった。

 戸口をくぐり、店内を一度見回してから、軽く息を吐く。

 

「……静かじゃのう」

 

「静かじゃなきゃ困るわ」

 

 カリファが返す。

 

 その言葉で会話は切れた。

 冗談にする余地もない。

 

 今夜はそういう夜だった。

 

 最後に、リバーが入ってくる。

 

 いつもなら少し遅れて来て、何か一言くらいは軽く混ぜる。

 だが今夜は違った。

 

 扉を閉める音も、足音も、妙に静かだった。

 

「遅かったわね」

 

 カリファが言う。

 

「少し見てきた」

 

 それだけ返して、リバーは空いている席に腰を下ろした。

 それ以上の軽口は続かない。

 

 四人が揃う。

 

 ブルーノの店なのに、ブルーノだけがいない。

 それだけで、今夜の段階は十分に分かった。

 

「屋敷側は予定通りよ。今夜動かせる」

 

 カリファが静かに言う。

 

「そのようだ。アイスバーグの部屋はまだ明かりがついていたが、直に消えるだろう」

 

 リバーが続ける。

 

「今夜は人の流れが薄い。噂が本格的に回り出すのは朝になってからだ」

 

「今日は十分騒がしかったと思うけど」

 

 カリファが言う。

 

 リバーは小さく肩をすくめた。

 

「麦わらの一味な。船は査定に回ったが、修理は断られた。金はフランキー一家に奪われた。金を持っていた長鼻はやられ、連中はそのまま殴り込みに行った」

 

 少しだけ間を置く。

 

「よくまあ、たった一日でこれだけ騒げるもんだ」

 

 カクが腕を組んだまま、低く続ける。

 

「査定は真面目にやったが、あの船はもう保たん。じゃが、あ奴らは簡単に切れる顔ではなかった」

 

「切れないなら、割れる」

 

 リバーが言う。

 

「先ほど、クルーの一人が宿に入っていくのを見た。全員揃っていたようには見えない。船の方に残った奴がいてもおかしくない」

 

「揉めるだけで済むかしら」

 

「済まんじゃろうな」

 

 カクの声にも、いつもの軽さはあまりなかった。

 

「仲間がやられりゃ、敵の根城まで突っ込む。船を切り捨てるとなれば、今度は内側で割れる。騒がしいだけかと思ったが、動くのも早いらしい」

 

「感情で動く節は強いみたいだけど」

 

 カリファが淡々と返した。

 

「だから読みづらい」

 

「細かい順番はな」

 

 リバーはグラスにも触れずに言った。

 

「だが、動機は真っ直ぐだ。金を奪われれば取り返す。仲間をやられれば敵を討つ。まるで物語の主人公だな」

 

 口元だけで、薄く笑う。

 

「その素直さを利用してやればいい」

 

「十分だ」

 

 ルッチが初めて口を挟んだ。

 

「利用できるなら、それでいい」

 

 短い声だった。

 そこに興味も苛立ちも見えない。

 

 ただ、使える材料かどうかだけを見ている声だった。

 

 けれど、リバーはそれ以上説明しなかった。

 

 ルッチが「十分だ」と言ったなら、その読みはもう作戦の材料として扱われる。

 細かい言葉を重ねる必要はない。

 

「そういえば、お金はあなたが返したんだったわね」

 

 カリファが確認する。

 

「表向きはな」

 

 ルッチが答える。

 

「親切な職人だな」

 

 リバーが薄く言う。

 

 ルッチはリバーを見もしなかった。

 

「そう見えるなら、それでいい」

 

「あそこで返さない方が不自然だ。腕の立つ職人が、目の前の不始末を放っておく理由がない。まして、同僚が絡んだ金ならなおさらだ」

 

 リバーは淡々と言った。

 

「麦わら達にも街にも、“そういう男”として残る」

 

 ルッチは短く頷いた。

 

「なら問題ない」

 

 その一言で、話は終わった。

 

 実際、昼間のルッチはガレーラの職人として自然に動いた。

 奪われた金を返し、麦わら達の前に立ち、あの街の腕利き職人として必要な顔をしてみせた。

 

 それが善意かどうかなど、ここでは誰も問わない。

 

 問う意味もない。

 

「アイスバーグは生かすんだったな」

 

 リバーが言う。

 

「ええ。死なれては困るもの」

 

 カリファの声は冷たい。

 

 死なせるためではない。

 追い込むための襲撃だった。

 

 アイスバーグを生かしたまま、疑念と恐怖の中に置く。

 ロビンを使い、麦わらの一味へ視線を向ける。

 

 設計図へ繋がる線を、今度こそ引きずり出す。

 

 それだけ分かっていれば十分だった。

 

 カクが息を吐く。

 

「いよいよじゃのう」

 

 その声に、今度は誰も茶化さなかった。

 

 五年。

 

 この街で過ごした時間としては、十分すぎるほど長い。

 

 潜ることには成功した。

 街に根を張ることにも。

 

 それだけで、進まなかった時間が今夜で終わる。

 

 カリファがグラスに触れもせず、静かに言う。

 

「ようやく、次へ進めるわね」

 

「止まっていた時間が長すぎたんじゃ」

 

 カクが返す。

 

 リバーは何も言わなかった。

 

 言葉にしなくても分かる。

 

 今夜で、街は変わる。

 明日の朝には、昨日までと同じ顔をしてはいられない。

 

 長く停滞していた任務が、ようやく動き出す。

 

 それは前進でもある。

 同時に、もう戻れないということでもあった。

 

 ルッチがそこで、はっきりと口を開く。

 

「明日には変わる」

 

 命令でもない。

 確認でもない。

 

 ただ、決まった事実をそのまま置くみたいに言う。

 

 誰も返さなかった。

 

 ハットリが、ルッチの肩で小さく羽を畳み直した。

 それだけの音が、妙にはっきり聞こえた。

 

 店の中には、しばらく静けさだけが残る。

 夜はまだ深く、外の水路も何事もないように暗いままだ。

 

 だが、もう同じ朝は来ない。

 

 四人は、そのことだけを理解していた。

 

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