背中合わせの正義―交わらない最適解   作:深見

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第七話 見えている炎

 

 

 アクア・ラグナを知らせる警報が鳴ってから、ブルーノの店は早々に扉を閉めていた。

 

 普段なら、まだ客が残っている時間帯だ。

 だが、今夜ばかりは違う。

 

 水の都に暮らす者なら、あの警報の意味を知らない者はいない。

 馴染みの客たちはいつもより早く席を立ち、店の外へ出ていった。戸口の向こうでは、家路を急ぐ足音と、店じまいを急ぐ声が水路に沿って流れている。

 

 リバーは荷車を裏口に寄せ、懐から封書を抜いた。

 

 港で拾ってから、紙の端のふやけた跡が妙に目に残っていた。

 

 封書を、カウンターへ滑らせる。

 

「移送の追加指示だ」

 

 ブルーノはグラスを拭く手を止めなかった。

 ただ、視線だけが封書へ落ちる。

 

「早いな」

 

「早すぎる。到着順と押印が合わない」

 

 店の奥から、カリファが出てきた。

 

 昼間までの、泣き腫らした秘書の顔はもうない。

 眼鏡の奥の目は冷え、声にも揺れはなかった。

 

「安全のため帰されたわ。秘書まで巻き込めないそうよ」

 

「いい職場だな」

 

「ええ。涙の使い道としては上々ね」

 

 カリファは封書に目を通し、わずかに眉を寄せた。

 

「押印が先。控えが抜けている。緊急処理にしては経路も違う」

 

「雑だろ」

 

「雑ね」

 

 ブルーノが短く言う。

 

「今夜には関係ない」

 

「今夜はな」

 

 リバーは封書を戻した。

 

 紙の端に残ったふやけた跡が、店の灯りを受けてテーブルに影を落とす。

 

 今すぐ燃える火ではない。

 だが、こういう紙は後で燃える。

 

 火をつけた本人ではなく、たいてい別の誰かの手元で。

 

 カリファは眼鏡を押し上げた。

 

「私は撹乱を。ブルーノはニコ・ロビンと中へ」

 

「ルッチとカクは警護か」

 

「ええ。他の職長達と一緒に寝室前にいるわ」

 

「なら俺は外だ。お前の撹乱を抜けた分はこっちで止める。寝室前を見物席にする気はないだろ」

 

 カリファは小さく頷いた。

 

「派手には?」

 

「しない。お前の仕事を取る気はない」

 

「賢明ね」

 

「思いやりがあるだろ?」

 

 遠くで、またアクア・ラグナを知らせる警報が鳴った。

 

 街のざわめきが、一段低く沈む。

 風が少し強くなり、閉めた扉の隙間から湿った潮の匂いが入り込んだ。

 

 ブルーノは拭き終えたグラスを棚に戻した。

 

「時間だ」

 

 それだけで、全員が動く理由には十分だった。

 

 *****

 

 日が落ちたあとも、アイスバーグ邸の周囲には緊迫した空気が張りついていた。

 

 水路から吹き込む風は湿っている。

 アクア・ラグナを前にした街は避難と戸締まりで慌ただしいはずなのに、この屋敷の周りだけは、怒りと警戒で人が留まっていた。

 

 百人は優に超える船大工達が、屋敷を囲うように立っている。

 

 手にしているのは、斧、金槌、鉄棒、角材。

 普段は仕事道具であるそれらが、今夜だけは武器になっていた。

 

 誰もが寝室のある方角を気にしている。

 誰もが、次に現れる襲撃者を待っている。

 

 屋敷の屋根に、いくつかの影が散った。

 

 中央には、熊の被り物をした大柄な男と、緑に金の刺繍を施したマントの人物。

 東側には、羽飾りのついた帽子を被った女。

 南側の屋根には、白い半仮面の男が立っていた。

 

 リバーの仮面は、祭りの屋台で売っていそうな安物だった。

 

 白い塗装は薄く、飾り気もない。

 だが視界は広い。

 息も詰まらない。

 

 上から羽織った黒い外套も短く、走るにも跳ぶにも邪魔にならなかった。

 

 派手な衣装は柄に合わない。

 

 顔が割れず、視界が広く、動きを殺さない。

 それで十分だった。

 

 でんでん虫越しに、カリファの声が入る。

 

『準備はいいですか?』

 

 ブルーノが、傍らの女へ視線を向ける。

 

「いいな、ニコ・ロビン」

 

「ええ……いつでも」

 

『では、私が撹乱させますので……他五名は合図のあと、それぞれ任務を実行してください』

 

 通話が切れた数秒後、屋敷の一角で爆発音が響いた。

 

 船大工達の視線が一斉にそちらへ向く。

 怒号が上がり、足音が乱れる。

 

 混乱の中を、派手な赤が駆け抜けた。

 

 羽飾りの帽子を被ったドレスの女。

 侵入者の姿を認めた船大工達が、武器を構えて一斉に襲いかかる。

 

 カリファはムチを振り、空を駆け、職人達を翻弄した。

 爆煙と怒声が、屋敷の外周を大きく揺らす。

 

 だが、全員がそちらへ流れるわけではない。

 

 数人の船大工が、騒ぎを横目に寝室の方へ走った。

 アイスバーグの無事を確かめるためだろう。

 

 判断としては正しい。

 

 だからこそ、今は邪魔だった。

 

 正しい判断をした者から、先に止める。

 混乱に流される者より、目的を見失わない者の方が厄介だ。

 

 その一人が角を曲がる前に、黒い影が壁際から滑り出た。

 

 一撃。

 

 男は声を上げる前に膝から落ちた。

 

 二人目が振り返る。

 その足元で床板が浅く裂け、体勢が崩れる。

 

 三人目の背後には、すでに白い半仮面の男がいた。

 

「悪いな。今日は通行止めだ」

 

 指先が首筋を叩く。

 男の身体がその場に崩れた。

 

 リバーは倒れた船大工をそのままにした。

 

 後続が来れば、足元の邪魔になる。

 邪魔になれば、人の流れが詰まる。

 

 遠くでまた爆発音がする。

 

 カリファの撹乱は派手だ。

 

 派手だから目を集める。

 目を集めるから、大きな流れを作れる。

 

 リバーの仕事は、その流れから漏れたものを拾い、ずらし、詰まらせることだった。

 

 戦力を削っているわけではない。

 時間を削っている。

 

 一人を倒せば、一人しか減らない。

 だが、先頭の足を一拍止めれば、後ろの三人が詰まる。

 三人が詰まれば、角の向こうでさらに数人が止まる。

 

 今夜必要なのは勝利ではない。

 

 寝室まで届く足を、少しでも遅らせることだった。

 

「次から次へと……ここのボスは大層部下に慕われているようだな」

 

 指先についた血を外套の裏で拭い、次の足音へ向かう。

 

 *****

 

 襲撃開始から、どのくらい経ったか。

 

 十分か。

 二十分か。

 

 外周を走る船大工達の足音には、早くも疲れが混じり始めていた。

 それでも怒号は絶えない。

 アイスバーグの名を呼ぶ声が、爆煙と潮風の中で何度も跳ね返る。

 

 その時、でんでん虫が鳴った。

 

『おれだ』

 

 ルッチの声だった。

 

『障害が出た。全員、寝室へ。アイスバーグはまだ撃つな』

 

 通話は短く切れた。

 

 外周にいたリバーは、中庭の方へ視線を投げる。

 

 カリファも同じ連絡を受けていた。

 彼女は目の前にいたピープリー・ルルを一瞬で沈めると、寝室の方へ跳ぶ。

 

 その動きに、船大工達が反応した。

 

「逃がすな!」

「寝室だ! 寝室へ向かったぞ!」

 

 数人が追おうとする。

 

 その足元が崩れた。

 

 浅く飛ばした斬撃が床板を裂き、先頭の足を取る。

 倒れた男に後続が乗り上げ、廊下の流れが一瞬で詰まった。

 

 怒号が重なり、さらに後ろの者が足を止める。

 

 リバーは屋根の縁へ移り、月歩で一度だけ高く位置を取った。

 

 人の流れを見る。

 

 一時。

 四時。

 九時。

 

 九時の流れが寝室に近い。

 

 だが、先頭さえ止めれば後ろは勝手に詰まる。

 

 屋根瓦の一部を削る。

 落ちた破片に足が止まる。

 

 別の通路では、扉の留め具だけを壊す。

 開かなくなった扉の前で、数人が声を荒げる。

 

 さらに別の角では、焦って走る男の手首を突いて武器を落とさせた。

 

 倒す必要はない。

 止まればいい。

 遅れればいい。

 

 寝室へ向かう流れが、いくつかに割れればそれで足りる。

 

「こっちだ!」

 

 リバーはわざと姿を見せた。

 

 白い半仮面と黒い外套を認めた船大工達が、怒声を上げてこちらへ向かってくる。

 

 それでいい。

 

 寝室へ向かうはずだった足が、こちらへ逸れる。

 一人が逸れれば、その後ろもつられる。

 

 人は思ったより、前を走る者につられるものだ。

 

 その時、視界の端を何かが横切った。

 

 寝室に近い、屋敷の中心部へ向かって、一直線に飛んでいく影。

 壁を砕き、木片と煙を撒き散らしながら中へ突っ込んでいった。

 

 赤い服の青年に見えた。

 

 思わず二度見した。

 

 だが、追わない。

 

 あれは流れではない。

 流れを読んで、ずらして、止める相手ではない。

 

 心の中で、そう言い聞かせた。

 

 リバーは視線を戻し、迫ってくる職人達を引きつけるように屋根を蹴った。

 

 *****

 

 邸内を走る船大工達の足音に、はっきりと疲れが混じり始めた頃だった。

 

 屋敷の上部が、横から削がれたように崩れた。

 

 轟音が夜の街に落ちる。

 火の粉と木片が舞い、船大工達の怒号が一瞬だけ途切れた。

 

 リバーは外周で足を止める。

 

 人の流れを散らすのではなく、流れる場所そのものを切り落とすやり方。

 

 ルッチの嵐脚だ。

 

 直後、懐のでんでん虫が鳴った。

 

『撤収だ。目標変更、カティ・フラムを追う』

 

 ブルーノの声だった。

 

「……カティ・フラム」

 

 一拍置いて、古い記録が繋がる。

 

 広場での傷害事件。

 死亡扱いとなったトムの弟子。

 四年前、アイスバーグを訪ねた男。

 

 そして今の、解体屋フランキー。

 

「了解。外を空ける」

 

 通話を切る。

 

 焦げ臭い匂いが一気に濃くなった。

 火が回り始めている。

 

 ここまで来れば、撹乱はもう要らない。

 

 誰も屋敷の奥へ向かおうとはしない。

 向かうとすれば、逃げるためか、追うためだ。

 

 リバーは廊下の端に倒れていた船大工を引きずり、退路から外した。

 

 煙の薄い方へ走る。

 足音を追ってきた職人達の前には、崩れた瓦と、開かなくなった扉と、倒れた仲間が残る。

 

 それだけあれば、数十秒は削れる。

 

 数十秒あれば十分だった。

 

 *****

 

 燃える屋敷を背に、ルッチ達が動き出す。

 

 その少し先で、リバーは外周から合流した。

 

 白い半仮面の端には煤がついている。

 黒い外套の裾も、ところどころ焦げていた。

 

 仲間の姿を確認すると、リバーはそれらを外してその場に捨てた。

 

 カクがちらりと見る。

 

「お前さんサボったか? 麦わらの一味は全員来たぞ」

 

「それ以外は来なかったろ。壁を壊して来る連中までは知らん」

 

「ワハハ、そりゃ仕方あるまい」

 

 足は止まらない。

 

 ルッチは一度だけ、リバーの顔を見た。

 

 屋敷の外はもう崩れている。

 逃げる者、追う者、火を消そうとする者。

 

 その全部が好き勝手に動けば、次の導線まで潰れる。

 

「道は」

 

「通した」

 

「行くぞ」

 

 確認は、それで十分だった。

 

 リバーは一度だけ、燃えるアイスバーグ邸を振り返った。

 

 炎に照らされた屋敷の輪郭が、水路の向こうで揺れている。

 街の怒号と波の音が混ざり、夜の空気を焦がしていた。

 

 次に向かう先は、もう決まっている。

 

 カティ・フラム。

 

 今は、フランキーと名乗る男。

 

 リバーは一度だけ振り返ると、前を行くルッチ達の背を追った。

 

 背後で、アイスバーグ邸の火が夜を焦がしている。

 

 まだ、それだけで済む火だった。

 

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