背中合わせの正義―交わらない最適解 作:深見
アクア・ラグナを知らせる警報が鳴ってから、ブルーノの店は早々に扉を閉めていた。
普段なら、まだ客が残っている時間帯だ。
だが、今夜ばかりは違う。
水の都に暮らす者なら、あの警報の意味を知らない者はいない。
馴染みの客たちはいつもより早く席を立ち、店の外へ出ていった。戸口の向こうでは、家路を急ぐ足音と、店じまいを急ぐ声が水路に沿って流れている。
リバーは荷車を裏口に寄せ、懐から封書を抜いた。
港で拾ってから、紙の端のふやけた跡が妙に目に残っていた。
封書を、カウンターへ滑らせる。
「移送の追加指示だ」
ブルーノはグラスを拭く手を止めなかった。
ただ、視線だけが封書へ落ちる。
「早いな」
「早すぎる。到着順と押印が合わない」
店の奥から、カリファが出てきた。
昼間までの、泣き腫らした秘書の顔はもうない。
眼鏡の奥の目は冷え、声にも揺れはなかった。
「安全のため帰されたわ。秘書まで巻き込めないそうよ」
「いい職場だな」
「ええ。涙の使い道としては上々ね」
カリファは封書に目を通し、わずかに眉を寄せた。
「押印が先。控えが抜けている。緊急処理にしては経路も違う」
「雑だろ」
「雑ね」
ブルーノが短く言う。
「今夜には関係ない」
「今夜はな」
リバーは封書を戻した。
紙の端に残ったふやけた跡が、店の灯りを受けてテーブルに影を落とす。
今すぐ燃える火ではない。
だが、こういう紙は後で燃える。
火をつけた本人ではなく、たいてい別の誰かの手元で。
カリファは眼鏡を押し上げた。
「私は撹乱を。ブルーノはニコ・ロビンと中へ」
「ルッチとカクは警護か」
「ええ。他の職長達と一緒に寝室前にいるわ」
「なら俺は外だ。お前の撹乱を抜けた分はこっちで止める。寝室前を見物席にする気はないだろ」
カリファは小さく頷いた。
「派手には?」
「しない。お前の仕事を取る気はない」
「賢明ね」
「思いやりがあるだろ?」
遠くで、またアクア・ラグナを知らせる警報が鳴った。
街のざわめきが、一段低く沈む。
風が少し強くなり、閉めた扉の隙間から湿った潮の匂いが入り込んだ。
ブルーノは拭き終えたグラスを棚に戻した。
「時間だ」
それだけで、全員が動く理由には十分だった。
*****
日が落ちたあとも、アイスバーグ邸の周囲には緊迫した空気が張りついていた。
水路から吹き込む風は湿っている。
アクア・ラグナを前にした街は避難と戸締まりで慌ただしいはずなのに、この屋敷の周りだけは、怒りと警戒で人が留まっていた。
百人は優に超える船大工達が、屋敷を囲うように立っている。
手にしているのは、斧、金槌、鉄棒、角材。
普段は仕事道具であるそれらが、今夜だけは武器になっていた。
誰もが寝室のある方角を気にしている。
誰もが、次に現れる襲撃者を待っている。
屋敷の屋根に、いくつかの影が散った。
中央には、熊の被り物をした大柄な男と、緑に金の刺繍を施したマントの人物。
東側には、羽飾りのついた帽子を被った女。
南側の屋根には、白い半仮面の男が立っていた。
リバーの仮面は、祭りの屋台で売っていそうな安物だった。
白い塗装は薄く、飾り気もない。
だが視界は広い。
息も詰まらない。
上から羽織った黒い外套も短く、走るにも跳ぶにも邪魔にならなかった。
派手な衣装は柄に合わない。
顔が割れず、視界が広く、動きを殺さない。
それで十分だった。
でんでん虫越しに、カリファの声が入る。
『準備はいいですか?』
ブルーノが、傍らの女へ視線を向ける。
「いいな、ニコ・ロビン」
「ええ……いつでも」
『では、私が撹乱させますので……他五名は合図のあと、それぞれ任務を実行してください』
通話が切れた数秒後、屋敷の一角で爆発音が響いた。
船大工達の視線が一斉にそちらへ向く。
怒号が上がり、足音が乱れる。
混乱の中を、派手な赤が駆け抜けた。
羽飾りの帽子を被ったドレスの女。
侵入者の姿を認めた船大工達が、武器を構えて一斉に襲いかかる。
カリファはムチを振り、空を駆け、職人達を翻弄した。
爆煙と怒声が、屋敷の外周を大きく揺らす。
だが、全員がそちらへ流れるわけではない。
数人の船大工が、騒ぎを横目に寝室の方へ走った。
アイスバーグの無事を確かめるためだろう。
判断としては正しい。
だからこそ、今は邪魔だった。
正しい判断をした者から、先に止める。
混乱に流される者より、目的を見失わない者の方が厄介だ。
その一人が角を曲がる前に、黒い影が壁際から滑り出た。
一撃。
男は声を上げる前に膝から落ちた。
二人目が振り返る。
その足元で床板が浅く裂け、体勢が崩れる。
三人目の背後には、すでに白い半仮面の男がいた。
「悪いな。今日は通行止めだ」
指先が首筋を叩く。
男の身体がその場に崩れた。
リバーは倒れた船大工をそのままにした。
後続が来れば、足元の邪魔になる。
邪魔になれば、人の流れが詰まる。
遠くでまた爆発音がする。
カリファの撹乱は派手だ。
派手だから目を集める。
目を集めるから、大きな流れを作れる。
リバーの仕事は、その流れから漏れたものを拾い、ずらし、詰まらせることだった。
戦力を削っているわけではない。
時間を削っている。
一人を倒せば、一人しか減らない。
だが、先頭の足を一拍止めれば、後ろの三人が詰まる。
三人が詰まれば、角の向こうでさらに数人が止まる。
今夜必要なのは勝利ではない。
寝室まで届く足を、少しでも遅らせることだった。
「次から次へと……ここのボスは大層部下に慕われているようだな」
指先についた血を外套の裏で拭い、次の足音へ向かう。
*****
襲撃開始から、どのくらい経ったか。
十分か。
二十分か。
外周を走る船大工達の足音には、早くも疲れが混じり始めていた。
それでも怒号は絶えない。
アイスバーグの名を呼ぶ声が、爆煙と潮風の中で何度も跳ね返る。
その時、でんでん虫が鳴った。
『おれだ』
ルッチの声だった。
『障害が出た。全員、寝室へ。アイスバーグはまだ撃つな』
通話は短く切れた。
外周にいたリバーは、中庭の方へ視線を投げる。
カリファも同じ連絡を受けていた。
彼女は目の前にいたピープリー・ルルを一瞬で沈めると、寝室の方へ跳ぶ。
その動きに、船大工達が反応した。
「逃がすな!」
「寝室だ! 寝室へ向かったぞ!」
数人が追おうとする。
その足元が崩れた。
浅く飛ばした斬撃が床板を裂き、先頭の足を取る。
倒れた男に後続が乗り上げ、廊下の流れが一瞬で詰まった。
怒号が重なり、さらに後ろの者が足を止める。
リバーは屋根の縁へ移り、月歩で一度だけ高く位置を取った。
人の流れを見る。
一時。
四時。
九時。
九時の流れが寝室に近い。
だが、先頭さえ止めれば後ろは勝手に詰まる。
屋根瓦の一部を削る。
落ちた破片に足が止まる。
別の通路では、扉の留め具だけを壊す。
開かなくなった扉の前で、数人が声を荒げる。
さらに別の角では、焦って走る男の手首を突いて武器を落とさせた。
倒す必要はない。
止まればいい。
遅れればいい。
寝室へ向かう流れが、いくつかに割れればそれで足りる。
「こっちだ!」
リバーはわざと姿を見せた。
白い半仮面と黒い外套を認めた船大工達が、怒声を上げてこちらへ向かってくる。
それでいい。
寝室へ向かうはずだった足が、こちらへ逸れる。
一人が逸れれば、その後ろもつられる。
人は思ったより、前を走る者につられるものだ。
その時、視界の端を何かが横切った。
寝室に近い、屋敷の中心部へ向かって、一直線に飛んでいく影。
壁を砕き、木片と煙を撒き散らしながら中へ突っ込んでいった。
赤い服の青年に見えた。
思わず二度見した。
だが、追わない。
あれは流れではない。
流れを読んで、ずらして、止める相手ではない。
心の中で、そう言い聞かせた。
リバーは視線を戻し、迫ってくる職人達を引きつけるように屋根を蹴った。
*****
邸内を走る船大工達の足音に、はっきりと疲れが混じり始めた頃だった。
屋敷の上部が、横から削がれたように崩れた。
轟音が夜の街に落ちる。
火の粉と木片が舞い、船大工達の怒号が一瞬だけ途切れた。
リバーは外周で足を止める。
人の流れを散らすのではなく、流れる場所そのものを切り落とすやり方。
ルッチの嵐脚だ。
直後、懐のでんでん虫が鳴った。
『撤収だ。目標変更、カティ・フラムを追う』
ブルーノの声だった。
「……カティ・フラム」
一拍置いて、古い記録が繋がる。
広場での傷害事件。
死亡扱いとなったトムの弟子。
四年前、アイスバーグを訪ねた男。
そして今の、解体屋フランキー。
「了解。外を空ける」
通話を切る。
焦げ臭い匂いが一気に濃くなった。
火が回り始めている。
ここまで来れば、撹乱はもう要らない。
誰も屋敷の奥へ向かおうとはしない。
向かうとすれば、逃げるためか、追うためだ。
リバーは廊下の端に倒れていた船大工を引きずり、退路から外した。
煙の薄い方へ走る。
足音を追ってきた職人達の前には、崩れた瓦と、開かなくなった扉と、倒れた仲間が残る。
それだけあれば、数十秒は削れる。
数十秒あれば十分だった。
*****
燃える屋敷を背に、ルッチ達が動き出す。
その少し先で、リバーは外周から合流した。
白い半仮面の端には煤がついている。
黒い外套の裾も、ところどころ焦げていた。
仲間の姿を確認すると、リバーはそれらを外してその場に捨てた。
カクがちらりと見る。
「お前さんサボったか? 麦わらの一味は全員来たぞ」
「それ以外は来なかったろ。壁を壊して来る連中までは知らん」
「ワハハ、そりゃ仕方あるまい」
足は止まらない。
ルッチは一度だけ、リバーの顔を見た。
屋敷の外はもう崩れている。
逃げる者、追う者、火を消そうとする者。
その全部が好き勝手に動けば、次の導線まで潰れる。
「道は」
「通した」
「行くぞ」
確認は、それで十分だった。
リバーは一度だけ、燃えるアイスバーグ邸を振り返った。
炎に照らされた屋敷の輪郭が、水路の向こうで揺れている。
街の怒号と波の音が混ざり、夜の空気を焦がしていた。
次に向かう先は、もう決まっている。
カティ・フラム。
今は、フランキーと名乗る男。
リバーは一度だけ振り返ると、前を行くルッチ達の背を追った。
背後で、アイスバーグ邸の火が夜を焦がしている。
まだ、それだけで済む火だった。