背中合わせの正義―交わらない最適解 作:深見
「道は」
ルッチが短く聞いた。
燃えるアイスバーグ邸の外で、リバーはジャケットの端についた煤を指で払った。
屋敷の外はもう崩れている。
逃げる者、追う者、火を消そうとする者。
その全部が好き勝手に動けば、次の導線まで潰れる。
「通した」
そう答えると、ルッチはそれ以上聞かなかった。
「行くぞ」
それだけで、足は前へ進む。
昔は、こうはいかなかった。
ルッチが一つ問う。
リバーが一つ返す。
それで済むようになったのは、いつからだったか。
十代前半の頃、リバーは強くなかった。
少なくとも、周囲と同じ意味では。
暗殺ならできた。
気配を殺し、足音を消し、呼吸を浅くして標的の背後に回る。
首筋の一点へ指を入れろと言われれば殺せたし、殺すなと言われれば、殺さない深さを探すこともできた。
声だけを奪う深さ。
意識だけを落とす角度。
腕だけを止める位置。
呼吸を乱し、膝を折らせる一点。
そこだけは、必死に詰めた。
だが、正面から来る相手を止めるには、身体が足りなかった。
腕は細く、踏み込みは浅い。
押されれば崩れ、受ければ潰れる。
読みは合っているのに、読んだ場所へ足が届かない。
カクは早くから背が伸びた。
身体の扱いも軽く、踏み込みにも迷いがない。
ジャブラは力で押せた。
力で押せるということは、それだけで選べる手が多いということだった。
ルッチは、比較する気にもならなかった。
あれは最初から別物だった。
リバーは、自分の足りなさを知っていた。
知っていたから、腹が立った。
悔しがって身体が伸びるなら苦労はない。
だから、できることは全部試した。
よく食べ、よく寝て、肉も魚も言われた分より少し多く取った。
背が伸びると聞けば、牛乳も飲んだ。
飲んだ。
飲み続けた。
「また牛乳か」
昔、カクに言われたことがある。
まだ背丈に差があった頃だ。
食堂の端で、リバーは白い液体の入った杯を睨んでいた。
「背が伸びるらしい」
「お前さん、そういうの信じるんじゃな」
「可能性があるなら試す」
「味は?」
「嫌いになりかけてる」
カクは少しだけリバーの顔を見て、笑った。
「もうなっとる顔じゃ」
「なってない」
牛乳は嫌いになった。
身体は、すぐには応えてくれなかった。
だから先に、技術を詰めた。
踏み込みの幅。
指の角度。
息を吐くタイミング。
相手の重心が落ちる瞬間。
剃で入った後、攻撃に繋げる動作や、紙絵へ逃がすまでの一呼吸。
嵐脚を大きく飛ばすのではなく、必要な部分だけを裂く力加減。
力が足りないなら、無駄を削るしかない。
届かないなら、届く前提で動くのではなく、届く場所へ相手を置くしかない。
それでも、届かないことはあった。
十五の終わり頃だった。
場所は、ある港町の倉庫街。
任務は、政府の名を騙って資金を流していた商人の始末と、帳簿を握る仲介人の確保だった。
表向きは密輸摘発。
実際には、帳簿と人脈をまとめて回収する任務だった。
ルッチが正面を潰した。
カクが屋根伝いに逃げ道を塞いだ。
リバーは裏路地側を見ていた。
仲介人は、想定より早く逃げた。
倉庫裏の細い通路。
積まれた木箱。
雨で濡れた石畳。
角を二つ曲がれば、運河に出る。
そこから小舟に飛び乗られれば、追跡が面倒になる。
リバーは読んでいた。
どこへ走るか。
どの木箱を蹴るか。
どの角で身体を捻るか。
読んではいた。
剃で詰めた。
指先が、男の袖を掠める。
半歩、足りなかった。
男が振り向きざまに短剣を振る。
リバーは紙絵で逃がそうとして、足場の濡れに一瞬遅れた。
読みは合っていた。
男が振り向く角度も、短剣の軌道も、避けるべき方向も分かっていた。
ただ、濡れた石畳で踏み込んだ足が、思ったより半寸流れた。
その半寸が、次の半歩を遅らせた。
肩から木箱へ叩きつけられる。
肺の空気が抜けた。
次の瞬間、男はルッチに蹴り飛ばされていた。
動きは速かった。
余計な手はなかった。
男は石畳に転がり、起き上がる前にカクが腕を踏んで押さえた。
ルッチは倒れた男を一瞥し、それからリバーを見た。
「遅い」
リバーは歯を噛み締める。
「読んではいた」
「届かなければ同じだ」
何も言い返せなかった。
その通りだったからだ。
読んだ。
分かった。
予測した。
だが、止められなかった。
なら、現場では同じだった。
その日から、リバーはさらに細かくなった。
最初に変えたのは、足だった。
濡れた石畳。
砂利。
傾いた屋根。
荷で沈む床板。
どこで踏み込んでも、半寸のずれを最初から計算に入れる。
滑らない場所を探すのではない。
滑るなら、滑る分を使って止まる。
次に変えたのは、技の繋ぎだった。
剃で入って終わりではない。
届かなければ紙絵へ逃がす。
相手が戻る前に指銃へ移る。
止められないなら、足場を崩して、相手の方を止まらせる。
最後に変えたのは、壊す場所だった。
嵐脚を大きく飛ばすのではない。
斬るのでも、割るのでもない。
崩す。
相手の足元だけ。
戸板の留め具だけ。
梁の弱いところだけ。
逃げ道を塞ぐために、必要な分だけ壊す。
指銃を入れる深さだけではない。
入る前の足場。
相手の首がこちらを向く角度。
逃げようとする肩の上がり方。
そこまで含めて、一点へ届くように組み直した。
そうしている間に、身体が追いついてきた。
腕が伸び、足が長くなり、踏み込みが深くなる。
体幹がぶれなくなった。
遅れてきたものが、ようやく技術に乗った。
十七になる頃、似たような任務があった。
今度は、裏切った情報屋の確保だった。
殺すな。
持っている情報を吐かせる。
ただし、逃がすな。
条件は面倒だった。
だが、面倒な条件ほど、リバーには向いていた。
場所は、夜の市場だった。
雨上がりの石畳。
軒先の布。
積まれた樽。
運河へ続く細い橋。
情報屋は、やはり水辺へ逃げた。
ルッチが正面の護衛を潰す。
カクが高所を取る。
リバーは一拍遅れて動いた。
遅れたのではない。
待った。
情報屋が樽の脇を抜け、橋へ向かう。
その手が欄干にかかる寸前、リバーは濡れた石畳へ足を置いた。
滑る前提で、踵ではなく爪先の外側を使う。
流れる半寸まで計算に入れて、剃で横へ入る。
昔なら、半歩足りなかった距離。
今は届いた。
袖ではない。
手首でもない。
首筋の一点。
指銃。
殺す深さではない。
声と意識だけを落とす深さ。
情報屋は悲鳴を上げる暇もなく膝を折った。
身体が前へ倒れかける。
リバーは襟首を掴み、橋の縁から引き戻した。
水面へ落とさない。
殺さない。
逃がさない。
息が上がっていた。
だが、止めた。
ルッチが、少し遅れて来た。
倒れた情報屋を見る。
リバーを見る。
「遅い」
昔と同じ言葉だった。
リバーは肩で息をしながら笑った。
「止めただろ」
ルッチはわずかに目を細める。
「次は遅れるな」
それだけだった。
褒められたわけではない。
労われたわけでもない。
だが、ルッチはそれ以上、情報屋を見なかった。
拘束はリバーに任せたまま、次の敵の方へ目を向ける。
背後で動く足音を、もう確認しない。
足りない者に、背後は預けない。
それだけで分かった。
昔の「遅い」は、足りないという意味だった。
今の「遅い」は、次もやる前提の言葉だった。
それから、ルッチは少しだけ変わった。
分かりやすく態度が柔らかくなったわけではない。
笑うわけでもない。
気遣うわけでもない。
褒めることもほとんどない。
ただ、確認が減った。
どこを見るか。
どこを止めるか。
どこで待つか。
細かく言わなくなった。
リバーがそこを見ると分かっている時、ルッチはもう振り返らない。
リバーが通すべき道を通した時、それ以上は問わない。
それが、あの男なりの評価だった。
燃えるアイスバーグ邸の熱が、頬を撫でた。
リバーは瞬きをする。
過去の雨の匂いは消え、代わりに煤と炎の匂いが戻ってくる。
「道は」
「通した」
それだけで済む。
褒め言葉はない。
労いもない。
だが、リバーには十分だった。
昔、半歩届かなかった場所に、今は届く。
届いた上で、そこを誰にも気づかれないように通せる。
それが今の自分の仕事だ。
リバーは小さく息を吐き、前を行くルッチの背を追った。