夕方の倉庫前には、まだ少しだけ洗車の匂いが残っていた。
水で濡れた地面。泥を落とされた戦車たち。夕日に照らされて、ようやく戦車らしく見え始めた六両。
Ⅳ号戦車D型、八九式中戦車甲型、38(t)軽戦車、M3リー中戦車、III号突撃砲F型。
そして、TOGⅡ。
戸郷灯里は、長い車体を夕日に照らされているTOGⅡを見つめていた。
「今日も良い長さでした」
「一日の締めみたいに言うんだね、戸郷さん」
武部沙織が苦笑する。
五十鈴華は、手を拭きながら穏やかに微笑んだ。
「ですが、確かに夕日に映えますね」
「分かりますか、五十鈴さん」
「ええ。とても……長いです」
「最高の褒め言葉です」
「褒め言葉なんだ……」
沙織が小さく呟いた。
西住みほは、少し離れたところでⅣ号戦車を見ていた。昨日までより、表情は少しだけ落ち着いている。けれど、まだ不安が消えたわけではない。
戦車道をやると言った。
その言葉は、もう生徒会にも、みんなにも伝わっている。
だが、それで心の整理がつくわけではなかった。
灯里は、それを分かっていた。
だから、無理に話しかけない。近くにいる。
それくらいが、今はちょうどいい。
そんな時だった。
「あ、あの……皆さん」
秋山優花里が、少し遠慮がちに手を上げた。
沙織が振り向く。
「どうしたの、秋山さん?」
「もしよろしければ、帰りに少し寄っていきたい場所があるのですが……」
「寄り道? どこどこ?」
優花里の目が、きらりと光った。
「戦車道ショップであります!」
「戦車道ショップ? そんなのあるんだ」
「戦車道に関するお店、ということでしょうか」
華も興味を示した。
みほも、少し驚いたように顔を上げる。
「戦車道ショップ……」
「行きます」
灯里は即答した。
沙織が笑う。
「戸郷さん、返事早っ」
「戦車道ショップですので」
「理由になってるようで、なってるね」
優花里は嬉しそうに頷いた。
「では、皆さんで参りましょう!」
こうして、みほ、沙織、華、優花里、灯里の五人は、帰り道に戦車道ショップへ寄ることになった。
* * *
戦車道ショップは、想像以上に戦車道ショップだった。
店の外には、戦車のシルエットが描かれた看板。入口の横には、履帯風のマット。ショーウィンドウには、パンツァージャケット、ゴーグル、グローブ、教材、戦車模型、砲弾型のペンケースまで並んでいる。
沙織は店に入った瞬間、目を輝かせた。
「うわ、思ってたより可愛いのもある!」
「戦車道用品というと、もっと無骨なものを想像していました」
華が棚を見ながら言う。
優花里は、すでに店内の空気だけで感動していた。
「素晴らしいです……戦車道用品が、これほど整然と……!」
「秋山さん、落ち着いてください。まだ入口です」
「はい! ですが、入口からすでに戦車道であります!」
灯里も周囲を見回した。
戦車道用ヘルメット。安全靴。整備用手袋。車内用メモ帳。地図ケース。車長用の双眼鏡。
そして、紅茶用の携帯ポット。
「……英国面コーナーがあります」
「英国面コーナー?」
沙織が首を傾げる。
灯里は棚の札を見た。
『英国戦車道用品』
間違いなかった。
「素晴らしい分類です」
「そうなの?」
「英国戦車には、紅茶が必要です」
「戦車に紅茶って必要なの?」
「士気に関わります」
優花里が力強く頷いた。
「英国戦車道における紅茶文化は重要であります!」
「秋山さんまで……」
みほは困ったように笑っていた。
その笑顔は、倉庫前にいた時よりも少しだけ柔らかい。
戦車道ショップ。
みほにとっては、少し重い場所かもしれない。それでも、沙織が可愛いものを見つけ、華が静かに興味を示し、優花里が楽しそうに語り、灯里が英国面を真面目に見ている。
その空気が、戦車道という言葉の重さを少しだけ薄めていた。
「みほ、これ見て! この手袋、色かわいい」
「ほんとだ」
「パンツァージャケットも、サイズいろいろあるんですね」
「西住殿! こちら、戦車道初級者向けの教本であります!」
「うん、ありがとう、秋山さん」
灯里は別の棚の前で足を止めた。
戦車グッズの棚。
そこには、ティーガー、パンター、Ⅳ号、シャーマン、チャーチル、マチルダ、T-34などの模型やキーホルダーが並んでいる。
灯里は端から端まで確認した。
そして、静かに息を吸った。
「……TOGⅡがありません」
沙織が振り向く。
「え?」
「TOGⅡがありません」
「まあ、珍しそうだし……」
「珍しいからこそ、あるべきです」
灯里は真顔だった。
優花里も深刻そうに棚を確認する。
「本当です……TOGⅡが見当たりません」
「由々しき事態です」
「はい。由々しき事態であります」
「二人とも、そこまで?」
沙織が少し引いている。
華は穏やかに言った。
「ないのであれば、作るという選択肢もあるのではないでしょうか」
灯里は華を見た。
「五十鈴さん」
「はい」
「天才ですか」
「えっ」
「ないなら作る。TOGⅡグッズの基本です」
「基本なんだ……」
みほが小さく笑った。
「戸郷さん、自分で作れるの?」
「はい。キーホルダー、ステッカー、アクリルスタンドなら作りました」
「アクリルスタンドまで……」
「長すぎて置き場所に困りました」
「そこまで再現したんだね」
「TOGⅡですので」
みほは、少しだけ目を細めた。
灯里がTOGⅡを語る時の迷いのなさ。
その姿は、みほには不思議に見えているのかもしれない。
怖さも、迷いもある戦車道。
けれど、誰かが好きなものとして話す戦車道。
その両方が、今のみほの前にあった。
* * *
買い物は、それぞれの性格がよく出た。
優花里は戦車道教本、車両資料、整備メモ帳、そして双眼鏡を真剣に選んでいる。沙織はパンツァージャケットのデザインや小物を見て、「これ、案外可愛いかも」と何度も言っていた。華は手袋や安全靴の作りを丁寧に確認し、みほは教本の基礎項目を静かに読んでいた。
灯里は、英国戦車道用品コーナーで携帯ポットを手に取った。
「戸郷さん、それ買うの?」
「はい。TOGⅡの車内に紅茶文化を導入するためです」
「戦車内でお茶するの?」
「状況によります」
「どんな状況?」
「待機中、整備後、士気が下がった時、TOGⅡが褒められた時」
「最後はお祝いなんだ」
沙織が笑う。
みほも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
会計を終えたあと、店の外に出る頃には、空はだいぶ暗くなり始めていた。
沙織は買った袋を手に、明るく言う。
「なんか、思ってたより楽しかったね」
「はい。戦車道にも、色々な道具や考え方があるのですね」
「西住殿のお話も、もっと聞きたいであります!」
優花里がそう言って、はっと口を押さえた。
みほは一瞬だけ目を伏せる。優花里も、何かを察したように黙った。
沙織が、空気を変えるように明るく言った。
「ねえ、みほ」
「え?」
「このあと、みほの家行ってもいい?」
「私の家?」
「うん。せっかくだし、みんなでご飯作ろうよ」
「え、でも……」
「昨日からいろいろあったしさ。こういう時は、みんなで食べるのが一番だよ」
華も静かに微笑む。
「よろしければ、私もお手伝いします」
「わ、私もご迷惑でなければ……!」
優花里は少し緊張しながらも、背筋を伸ばした。
沙織が灯里を見る。
「戸郷さんも来るよね?」
灯里は少しだけ迷った。
みほの家。
そこは、かなり個人的な場所だ。自分まで行っていいのか。
けれど、みほは灯里を見て、小さく頷いた。
「戸郷さんも、よかったら」
灯里は静かに頭を下げた。
「では、お邪魔します」
みほは、少しだけ笑った。
* * *
みほの部屋は、想像していたよりも柔らかい空気だった。
そして、ボコだらけだった。
棚にボコ。
ベッドにボコ。
机の上にも、小さなボコ。
傷だらけで、どこか不器用で、それでも立ち上がろうとしているようなキャラクターのぬいぐるみが、部屋のあちこちに置かれている。
沙織が目を丸くした。
「みほ、こういうの好きなんだ?」
「うん……ボコっていうんだけど」
「西住さんらしい、優しいお部屋ですね」
「可愛いボコたちですね」
みほが、ぱっと灯里を見る。
「分かる?」
「はい。TOGⅡとは違った可愛さがあります」
「TOGⅡとは違った……?」
「ボコは、傷ついても立ち上がる可愛さです。TOGⅡは、撃たれても前に進む可愛さです」
みほは少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「そういう見方もあるんだ」
「あります」
沙織が苦笑した。
「戸郷さん、結局TOGⅡに戻るね」
「私の中心にありますので」
「中心なんだ……」
優花里は、ボコとTOGⅡの共通点を真剣に考え始めていた。
「傷ついても立ち上がるボコ、撃たれても前に進むTOGⅡ……なるほど、精神性に共通項が……」
「秋山さんも真面目に考え始めた」
沙織が少し呆れたように笑った。
みほは、自分の好きなものを否定されなかったことが嬉しいのか、さっきより表情が柔らかくなっていた。
灯里はそれを見て、少しだけ安心した。
* * *
夕食作りは、思っていたよりも本格的になった。
沙織が腕まくりをする。
「よし、今日は私が料理する!」
「お手伝いします」
「では、私は飯盒でご飯を炊きます!」
「飯盒?」
「はい! 野外炊飯ならお任せください!」
「ここ、みほの家だけど」
「炊飯に場所は関係ありません!」
灯里は食器棚の方を見た。
「私は配膳を手伝います」
「戸郷さん、料理は?」
「TOGドッグなら少し」
「今日は普通のご飯でお願いします」
「了解しました」
華が包丁を手に、野菜を丁寧に切り始める。その所作は、料理というより花を活けるように静かだった。
沙織は鍋の前で張り切っている。
「今日は肉じゃがにしよう!」
「家庭的ですね」
「モテる料理って言ったら、やっぱり肉じゃがでしょ」
「武部さんは、そこに戻るのですね」
「大事なことだから!」
みほは、そんな沙織を見て少し笑った。
「沙織さん、料理できるんだね」
「もちろん! 女子力は大事だからね」
「すごいなあ」
「みほも一緒にやろ?」
「うん」
みほが台所に立つ。
華が横で静かに補助し、沙織が明るく指示を出す。優花里は飯盒を真剣に準備し、灯里は皿を並べた。
それは、戦車道とは関係のない時間だった。少なくとも、表面上は。
けれど灯里には、少しだけ似ているようにも見えた。
役割を分ける。
声をかける。
手順を確認する。
誰かの動きに合わせる。
台所の中にも、チームワークはある。
給食部専攻の五人がTOGⅡと合いそうだと思ったのも、きっとこういうことなのだろう。
「戸郷さん?」
みほに声をかけられ、灯里は顔を上げた。
「どうかした?」
「いえ」
灯里は首を横に振った。
「肉じゃがが美味しそうだと思っていました」
「ほんと? よかった」
沙織が嬉しそうに笑う。
それでよかった。
今は、それくらいでいい。
* * *
夕食は、とても賑やかだった。
沙織の肉じゃが。華が整えた小鉢。優花里が炊いた飯盒ご飯。みほが淹れたお茶。灯里が並べた食器。
決して特別な料理ではない。けれど、みんなで作った食事だった。
「おいしい!」
沙織が自分で作った肉じゃがを食べながら言う。
「自分で言うんだね」
「だっておいしいもん」
みほが笑う。
「うん。おいしい」
「ほんと?」
「うん」
沙織の顔がぱっと明るくなる。
華も静かに頷いた。
「味がよく染みていますね」
「ありがとうございます!」
優花里はご飯を前に、なぜか感慨深そうだった。
「室内で飯盒炊飯をする日が来るとは……」
「秋山さん、そこに感動するんだ」
「経験は財産であります」
灯里は肉じゃがを口に運んだ。
温かい。
少し甘い。
落ち着く味だった。
みほは戦車道から逃げてきた。
でも、そのおかげで沙織と出会い、華と出会い、優花里と出会い、自分とも同じ場所にいる。
そのことまで、否定される必要はない。
「戸郷さん?」
みほに声をかけられ、灯里は顔を上げた。
「どうかした?」
「いえ」
灯里は首を横に振った。
「肉じゃがが美味しいと思っていました」
「ほんと? よかった」
沙織が嬉しそうに笑う。
それでよかった。
今は、それくらいでいい。
* * *
食事のあとは、みんなで片付けをした。
沙織は手際よく食器をまとめ、華は花を崩さないように片付け、優花里は飯盒を丁寧に洗った。灯里は食器を拭き、みほはそれを棚へ戻していく。
外はすっかり暗くなっていた。
帰る時間になると、みほは玄関まで見送ってくれた。
「今日はありがとう」
「また来るね、みほ!」
「うん」
「ごちそうさまでした、西住さん」
「こちらこそ。手伝ってくれてありがとう、五十鈴さん」
「大変勉強になりました!」
「何が?」
「飯盒炊飯と、ボコと、肉じゃがであります!」
「戦車じゃないんだ」
「今日は戦車以外も学びました!」
灯里は最後に言った。
「ボコ、可愛かったです」
みほの顔が少し明るくなる。
「本当?」
「はい。TOGⅡとは違う方向性ですが、かなり良いです」
「またTOGⅡと比べてる」
沙織が笑う。
みほも笑った。
「でも、ありがとう」
灯里は小さく頷いた。
五人は手を振って別れた。
帰り道。
少し歩いたところで、灯里はふと足を止めかけた。
遠くから、小さな声が聞こえた気がした。
「……やっぱり、転校してきてよかった」
みほの声だったのか。
聞き間違いだったのか。
はっきりとは分からない。
でも、灯里には聞こえた気がした。
灯里は振り返らなかった。
ただ、少しだけ微笑んだ。
西住さんは、まだ戦車道を好きになったわけじゃない。
怖さも、不安も、きっと消えていない。
でも、少なくともこの学校には、あの子がそう思える時間がある。
それだけで、今日の寄り道には意味があった。
灯里は夜の道を歩きながら、明日のことを思い出した。
明日は、教官が来る。
大洗女子学園の戦車道が、いよいよ本格的に動き出す。
その時の灯里たちは、まだ知らなかった。
翌日、砲弾よりも強烈な教官が、大洗にやって来ることを。