初めての模擬戦が終わったあと、大洗女子学園の戦車道メンバーは、しばらく倉庫前から動けずにいた。勝ったチームも、負けたチームも、どこか放心している。
初めて戦車を動かした。
初めて砲撃した。
初めて撃たれた。
初めて白旗を見た。
それは、授業というにはあまりに濃く、遊びというにはあまりに本格的だった。
西住みほは、Ⅳ号戦車の前で小さく息を吐いた。
「……終わったね」
武部沙織が、ぐったりした顔で頷く。
「終わったぁ……。もう、何が何だか分かんなかったよ」
「でも、沙織さん、車長席からちゃんと周りを見てくれてたよ」
「いやいやいや! みほが横から教えてくれなかったら無理だったって!」
「操縦も、思っていたよりずっと難しいものなのですね。手元も足元も、まだ感覚が追いつきませんでした」
「でも華、最初ちゃんと動かしてたよ」
「五十鈴殿の初期操縦、見事でありました! そして西住殿の装填補助と判断、武部殿の車長、冷泉殿の操縦……!」
「秋山さん、自分の砲撃も入れていいんだよ」
「はっ! この秋山優花里、砲手として初撃破に貢献できたこと、誠に光栄であります!」
「秋山さん、元気だね……」
沙織が苦笑する。その隣で、冷泉麻子は眠そうに立っていた。
「帰って寝たい」
「麻子、さっきも言ってたでしょ」
「今も言う」
みほは、そんな麻子を見て、少し申し訳なさそうに言った。
「冷泉さん、今日は本当にありがとう。急に乗ってもらって……」
「朝の借りを返しただけだ」
「でも、すごく助かった」
「そうか」
短い返事。けれど、麻子は少しだけ目を逸らした。
沙織が、にやっと笑う。
「それで、麻子。これからも乗るんでしょ?」
「……なぜそうなる」
「だって操縦うまかったし」
「冷泉殿の操縦は天才的であります! あの橋の上での安定感、あの回避機動、まさに逸材です!」
「買いかぶりだ」
麻子は眠そうに言う。沙織は腕を組んだ。
「でもさ、麻子。戦車道って単位もらえるんだよ?」
「単位」
「それに、成績優秀なら遅刻見逃しもあるかもって言ってたよ?」
「遅刻見逃し」
「まだ正式に決まったわけじゃないと思うけど……」
みほが苦笑する。
麻子は少し考え、静かに言った。
「……借りは、まだ完全には返していない」
「素直じゃないなあ」
「単位と遅刻のためではない」
「今、絶対ちょっと考えたでしょ」
「否定はしない」
華がくすりと笑った。
「では、冷泉さんもご一緒してくださるのですね」
「朝が来なければ、考える」
「来るよ、朝は」
「なぜ来るのだろう」
「またそれ!?」
そんなやり取りに、みほは少しだけ笑った。さっきまでの緊張が、ゆっくりほどけていく。
すると沙織が、ぱんと手を叩いた。
「よし! こういう時は、お風呂!」
「お風呂?」
「うん。汗もかいたし、いろいろ考えるのはお風呂に入ってから!」
「賛成です。体を温めれば、気持ちも落ち着くかもしれません」
「皆さんとお風呂……でありますか」
「寝られるなら行く」
「お風呂で寝ないでね!?」
* * *
湯気の向こうで、沙織が大きく息を吐いた。
「はぁー……生き返るー……」
広い浴場には、柔らかな湯気が満ちていた。模擬戦のあとの疲れが、温かい湯の中へ少しずつ溶けていく。
みほは湯船の端で肩まで浸かりながら、ぽつりと言った。
「今日は……ありがとう。みんな」
「何が?」
「試合中、支えてくれて」
「それはこっちの台詞だよ。みほが見てくれたから、勝てたんだし」
「西住さんのご判断があったから、私も最初の操縦をなんとかできました」
「西住殿の判断は、やはり素晴らしかったであります!」
「分かりやすかった」
麻子は目を閉じたまま、短く言った。
みほは少し照れたように目を伏せる。
「冷泉さんまで……」
沙織が指を立てる。
「で、決めよっか。私たちの役割」
「役割?」
「うん。今日やってみて分かったじゃん。みほは車長」
「私?」
「ほかに誰がいるの?」
沙織は、あっさり言った。
「私、今日だけ車長っぽい席にいたけど、正直ほとんどみほに聞いてたし」
「でも、沙織さんは周りを見てくれてたよ」
「それは通信手でもできる! むしろ、そっちの方が向いてる気がする!」
「私も、西住さんが車長に向いていらっしゃると思います」
「異議なしであります!」
「私もそれでいい」
みほは戸惑った。
車長。
それは、自分が逃げてきたものの中心にある席だった。
誰かに指示を出す。誰かを動かす。判断する。
その重さを、みほは知っている。
けれど、沙織たちは責めるためではなく、信じるためにそう言っている。
みほは、ゆっくり頷いた。
「……分かった。私、車長やってみる」
「決まり!」
沙織が笑う。華も嬉しそうに微笑んだ。
「では、私は……操縦手でしょうか?」
「華は、今日すごく頑張ってたけど……途中、かなりつらそうだったよね」
「はい。揺れと判断が同時に来ると、少し目が回ってしまって」
「五十鈴殿は、むしろ砲手向きかもしれません」
「砲手、ですか?」
「はい! 五十鈴殿の落ち着きと集中力なら、照準に向いていると思うのであります!」
「私が砲手をしても、よろしいのでしょうか」
「華さんなら、きっと大丈夫」
「西住さんがそうおっしゃるなら……やってみます」
沙織が嬉しそうに頷く。
「華、上品に撃ちそう」
「上品に撃つ、という表現が正しいのかは分かりませんが……」
「でも似合う」
「ありがとうございます……?」
優花里が勢いよく手を挙げた。
「では、私は装填手を希望します!」
「秋山さん、今日砲手すごかったのに?」
「もちろん砲手も光栄でした! ですが、砲弾の種類、装填手順、戦況に応じた弾種選択……装填手は非常に奥深い役割であります!」
「秋山さん、目が輝いてる」
「砲弾を間近で扱えるのであります!」
「理由が秋山さんらしいね」
「それに、装填手が弾種を理解していれば、西住殿の指示をより早く反映できます!」
「うん。秋山さんがいてくれたら、すごく助かる」
「光栄であります!」
麻子は目を閉じたまま言う。
「私は操縦手か」
「麻子、今日すごかったもん」
「眠かった」
「眠いのにあれなら、起きてたらもっとすごいんじゃない?」
「起きている時間が短い」
「そこは頑張って!」
沙織が言うと、麻子は小さくため息をついた。
「単位と遅刻見逃しのために、少しは努力する」
「やっぱりそれ目当てじゃん!」
「借りもある」
「ついでみたいに言った!」
みほが思わず笑う。それを見て、沙織は満足げに頷いた。
「で、私は通信手かな」
「武部さんが?」
「私、おしゃべり好きだし。無線で話すの向いてる気がする」
「通信手は非常に重要な役割であります! 味方との連絡、状況把握、指示の伝達。武部殿の明るさと声の通りは、きっと武器になります!」
「えへへ、そう言われると照れるなあ」
みほは沙織を見た。
「沙織さん、通信手、お願いしてもいい?」
「もちろん!」
沙織は胸を張った。
「みほの声、ちゃんとみんなに届けるから」
その言葉に、みほは少しだけ目を見開いた。そして、柔らかく笑った。
「ありがとう」
湯気の中で、五人の役割が決まっていく。
車長、西住みほ。
通信手、武部沙織。
砲手、五十鈴華。
装填手、秋山優花里。
操縦手、冷泉麻子。
それはまだ、始まったばかりのチームだった。
けれど、確かに席が埋まった瞬間だった。
* * *
その頃、戸郷灯里は風呂には行かず、倉庫前に戻っていた。
理由はひとつ。
TOGⅡが気になったからである。
夕方の倉庫前では、自動車部がまだ作業を続けていた。
各車両の点検。足回りの確認。安全装置の調整。白旗判定装置の確認。
灯里は、TOGⅡの前で深く頭を下げた。
「自動車部の皆さん、本当にありがとうございます」
「いいっていいって。戸郷さん、何回目?」
「感謝は何度しても足りません」
「真面目だなあ」
自動車部の一人が笑う。
「TOGⅡ、見れば見るほど長いよね」
「はい。長いです」
灯里は誇らしげに答えた。
「長さは魅力です」
「そういうことにしておこう」
TOGⅡは、試合で白旗を上げたものの、実際に大きく壊れたわけではなかった。足回りへの致命判定が入っただけで、整備すれば問題なく動ける。
灯里はその装甲をそっと撫でた。
「初戦、お疲れ様でした」
戦車は答えない。
けれど、灯里には少しだけ誇らしげに見えた。
そこで、ふと思った。
「……せっかくなので」
灯里はTOGⅡの長い側面を見る。
広い。
とても広い。
まるでキャンバスのようだった。
「塗装してみましょう」
「え、今から?」
「はい」
「何描くの?」
「ダックスフンドがパンに挟まっているエンブレムです」
「情報量が多い」
「Fチーム、仮称いぬさんチームですので」
「なるほど?」
自動車部の生徒は、分かったような分かっていないような顔をした。
灯里は用意していた簡易スケッチを取り出した。
長い胴のダックスフンド。
その胴体が、ホットドッグのパンに挟まっている。
顔は丸く、少し間の抜けた可愛さ。
背中には小さな白旗。
どこかTOGⅡの長さと愛嬌を思わせるデザインだった。
自動車部の生徒たちが覗き込む。
「可愛いじゃん」
「長い戦車に長い犬かー」
「いいね、分かりやすい」
灯里は真剣に頷いた。
「TOGⅡとダックスフンドは、長さで通じ合えます」
「そこなんだ」
「そこです」
灯里は塗料を準備した。
最初は小さく描くつもりだった。
だが、TOGⅡの側面を見ると、どうしても小さくまとめることができなかった。
長い車体。
長い犬。
長いパン。
これは、大きく描くべきだ。
灯里は筆を取った。
線を引く。
意外と、手が迷わない。
TOGⅡに関係することなら、なぜかできる。
エンブレム制作。
ステッカー作り。
グッズ制作。
絆創膏。
そして、車体塗装。
それが常識的かどうかは分からない。
ただ、灯里の手は確かだった。
自動車部が感心する。
「戸郷さん、普通に上手いじゃん」
「愛です」
「便利な言葉だね」
「はい」
灯里は集中して描き続けた。
ダックスフンドの長い体。
ふわっとしたパン。
ちょこんとした顔。
白旗。
そして下に、小さく文字を入れる。
『いぬさんチーム(仮)』
TOGⅡの側面に、大きなエンブレムが完成した。
夕日に照らされるその絵は、どこか間の抜けた可愛さと、妙な存在感を放っていた。
「……良いですね」
灯里は満足した。
自動車部の生徒たちも拍手する。
「いいじゃん!」
「大洗っぽい!」
「これ、反対側にも描く?」
「描きます」
「即答」
「左右対称は大事です」
* * *
反対側の塗装に取りかかろうとした頃、倉庫前に五人の姿が現れた。
火野まどか。
小走すず。
呼子かなえ。
米倉ちとせ。
早見りん。
給食部専攻の五人だった。
灯里は筆を止める。
「皆さん」
まどかが一歩前に出た。
「あの、戸郷さん。少しお話が」
「はい」
灯里は少し身構えた。
今日の仮搭乗は、決して楽なものではなかった。
初めて戦車に乗った。
初めて砲撃した。
初めて撃たれた。
白旗まで上がった。
怖かったと言われても仕方ない。
もう乗りたくないと言われても当然だ。
灯里は静かに待った。
まどかは、少しだけ言葉を選んでから言った。
「今日の仮搭乗ですが」
「はい」
「次は、もう少し手順を詰めたいです」
灯里は目を瞬かせた。
「……次?」
「あの長いの、もう少し上手く曲げたいです。曲がり始めるタイミングが遅かったので」
「無線、全然拾いきれませんでした。注文整理とは似てるけど、もっと速いですね。悔しいです」
「砲弾の受け渡し、動きが大きすぎました。米袋よりは持ちやすかったけど、流れが悪かったです」
「装填の手順、もっと短くできます。今日のは厨房なら詰まってます」
すず、かなえ、ちとせ、りんが続けて言う。
灯里は、五人の顔を順番に見た。
誰も、嫌そうな顔をしていない。
疲れてはいる。
戸惑いもある。
でも、それ以上に、悔しさがある。
灯里は、ゆっくり聞いた。
「それは、次も乗ってくれるという意味ですか?」
五人は顔を見合わせた。
少し沈黙。
それから、まどかが静かに答えた。
「出店手伝いの延長……では、もうないですよね」
「はい。戦車道です」
灯里は頷いた。
すずがTOGⅡを見上げる。
「正直、最初は長すぎるし遅すぎるし、どうしようかと思いました」
「事実です」
「でも、動かしたら少し分かりました。遅いけど、読める気がします」
「白旗が上がった時、ちょっと悔しかったです」
「途中で終わった感じがしました」
「次は、もう少し流れよくできます」
かなえ、ちとせ、りんも続く。
灯里は、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
TOGⅡは負けた。
けれど、白旗は終わりではなかった。
次へ向かう理由になっていた。
灯里は、TOGⅡの側面に描いたエンブレムを見る。
パンに挟まったダックスフンド。
いぬさんチーム、仮。
まだ候補名だったはずのそれが、少しずつ現実に近づいていく。
「皆さん」
灯里は姿勢を正した。
「改めてお願いします。TOGⅡに、乗ってください」
五人は少し驚いたように灯里を見る。
灯里は続ける。
「TOGⅡは長くて、遅くて、扱いづらいです。一人では動かせません。皆さんの手際と連携が必要です」
まどかが静かに微笑んだ。
「販売スペースとしても魅力的でしたが」
「戦車としても魅力的です」
「そこは、これから勉強します」
すずが笑う。
「操縦、やってみます」
「無線、整理します」
「装填、運びます」
「流れ、作ります」
かなえ、ちとせ、りんも頷いた。
灯里は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その時、自動車部の一人が横から声をかけた。
「じゃあ、Fチーム、いぬさんチーム候補ってことだね」
五人がTOGⅡの側面を見る。
そこには、できたばかりのエンブレムが大きく描かれていた。
かなえが思わず笑う。
「可愛い」
「長いですね」
すずも頷く。
灯里は満足げに言った。
「最高の褒め言葉です」
まどかは少し考えてから言った。
「では、次の出店では、このエンブレムの焼き印をパンに入れましょう」
灯里の目が輝いた。
「天才ですか」
「給食部専攻ですので」
「頼もしいです」
夕暮れの倉庫前で、TOGⅡの長い車体に描かれた犬が、どこか誇らしげに見えた。
* * *
その夜。
風呂上がりのAチーム五人が帰路につく頃、みほは少しだけ立ち止まって、倉庫の方を見た。
遠くに、TOGⅡの長い車体が見える。
その側面には、夕方までなかった大きなエンブレムが描かれていた。
「……あれ、戸郷さんが描いたのかな」
沙織が目を凝らす。
「犬がパンに挟まってる?」
「可愛らしいですね」
「Fチームの……いぬさんチーム候補のエンブレムであります!」
「長い犬だな」
華が微笑み、優花里は感動し、麻子は眠そうに言った。
みほは少しだけ笑った。
その笑顔は、戦車を怖がっているだけのものではなかった。
大洗の戦車道は、黒森峰とも、聖グロリアーナとも、きっと違う。
厳格で、整然として、勝つためだけの戦車道ではない。
失敗して、白旗を上げて、笑って、悔しがって。
それでも、次はと言える場所。
みほは、ぽつりと呟いた。
「……少し、楽しそう」
その声は小さかった。
けれど、確かにそこにあった。
そしてその頃、TOGⅡの前では。
灯里と給食部専攻の五人が、反対側のエンブレムを描く準備を始めていた。
長すぎる戦車の席は、もう空席ではなくなりつつあった。