初めての模擬戦が終わったあと、大洗女子学園の戦車道メンバーは、しばらく倉庫前から動けずにいた。
勝ったチームも、負けたチームも、どこか放心している。
初めて戦車を動かした。
初めて砲撃した。
初めて撃たれた。
初めて白旗を見た。
それは、授業というにはあまりに濃く、遊びというにはあまりに本格的だった。
西住みほは、Ⅳ号戦車の前で小さく息を吐いた。
「……終わったね」
武部沙織が、ぐったりした顔で頷く。
「終わったぁ……。もう、何が何だか分かんなかったよ」
「でも、沙織さん、車長席からちゃんと周りを見てくれてたよ」
「いやいやいや! みほが横から教えてくれなかったら無理だったって!」
五十鈴華も、少し疲れた様子でⅣ号を見上げていた。
「操縦も、思っていたよりずっと難しいものなのですね。手元も足元も、まだ感覚が追いつきませんでした」
「でも華、最初ちゃんと動かしてたよ」
「五十鈴殿の初期操縦、見事でありました! そして西住殿の装填補助と判断、武部殿の車長、冷泉殿の操縦……!」
「ゆかりん、息継ぎして」
秋山優花里は、興奮と疲労が混ざった顔で拳を握っていた。
冷泉麻子は、Ⅳ号の横に座り込んでいる。
「……眠い」
「麻子、さっきまで戦車をあんなに動かしてたのに!?」
「操縦はできる。朝はできない」
「基準が分かんないよ!」
沙織の声に、みほは少しだけ笑った。
模擬戦は大変だった。
怖かった。
混乱した。
けれど、終わったあとに残っているのは、ただの恐怖だけではなかった。
みんながいてくれた。それだけで、みほの中にあった戦車道の重さが、ほんの少しだけ別の形になっていた。
そこへ、沙織が腕を組んだ。
「で、さ。決めよっか」
「何を?」
「私たちの席」
みほが首を傾げる。
「席?」
「うん。戦車の中の役割。今日、かなり無茶な配置だったでしょ?」
それは全員が思っていた。
車長席に沙織。
操縦手席に華。
砲手席に優花里。
装填手位置にみほ。
途中から操縦手に麻子。
初めての模擬戦だから仕方ないとはいえ、そのまま続けるには無理がある。
沙織は、あっさり言った。
「みほは車長」
「私?」
「ほかに誰がいるの?」
「でも……」
「私、今日だけ車長っぽい席にいたけど、正直ほとんどみほに聞いてたし」
「でも、沙織さんは周りを見てくれてたよ」
「それは通信手でもできる! むしろ、そっちの方が向いてる気がする!」
華も穏やかに頷いた。
「私も、西住さんが車長に向いていらっしゃると思います」
「異議なしであります!」
「私もそれでいい」
麻子も目を閉じたまま言った。
みほは戸惑った。
車長。
それは、自分が逃げてきたものの中心にある席だった。
誰かに指示を出す。誰かを動かす。判断する。その重さを、みほは知っている。
けれど、沙織たちは責めるためではなく、信じるためにそう言っている。
みほは、ゆっくり頷いた。
「……分かった。私、車長やってみる」
「決まり!」
沙織が笑う。
華も嬉しそうに微笑んだ。
「では、私は……操縦手でしょうか?」
「華は、今日すごく頑張ってたけど……途中、かなりつらそうだったよね」
「はい。揺れと判断が同時に来ると、少し目が回ってしまって」
「五十鈴殿は、むしろ砲手向きかもしれません」
「砲手、ですか?」
「はい! 五十鈴殿の落ち着きと集中力なら、照準に向いていると思うのであります!」
みほも頷いた。
「華さんなら、きっと大丈夫」
「西住さんがそうおっしゃるなら……やってみます」
沙織が嬉しそうに頷く。
「じゃあ華は砲手!」
「では、秋山さんは……」
華が優花里を見る。
優花里は一瞬、砲手席への未練がありそうな顔をした。だが、すぐに背筋を伸ばす。
「私は装填手であります! 砲弾の種類、車両の特徴、敵戦車の弱点、すべてを西住殿へお伝えするには、その位置が良いかと!」
「ゆかりん、装填しながら解説する気?」
「もちろんであります!」
「砲弾落とさないでね?」
「細心の注意を払います!」
沙織が少し不安そうに笑う。
麻子は眠そうに片手を上げた。
「操縦は私でいい」
「麻子、やってくれるの?」
「借りは返すと言った」
沙織がにやりとした。
「でもさ、麻子。戦車道って単位もらえるんだよ?」
「単位」
「それに、成績優秀なら遅刻見逃しもあるかもって言ってたよ?」
「遅刻見逃し」
「まだ正式に決まったわけじゃないと思うけど……」
みほが苦笑する。
麻子は少し考え、静かに言った。
「……借りは、まだ完全には返していない」
「素直じゃないなあ」
「単位と遅刻のためではない」
「今、絶対ちょっと考えたでしょ」
「否定はしない」
華がくすりと笑った。
「では、冷泉さんもご一緒してくださるのですね」
「朝が来なければ、考える」
「来るよ、朝は」
「なぜ来るのだろう」
「またそれ!」
そんなやり取りに、みほは少しだけ笑った。
さっきまでの緊張が、ゆっくりほどけていく。
すると沙織が、ぱんと手を叩いた。
「よし! こういう時は、お風呂!」
「お風呂?」
「うん。汗もかいたし、いろいろ考えるのはお風呂に入ってから!」
「賛成です。体を温めれば、気持ちも落ち着くかもしれません」
「皆さんとお風呂……でありますか」
「寝られるなら行く」
「お風呂で寝ないでね!」
* * *
湯気の向こうで、沙織が大きく息を吐いた。
「はぁー……生き返るー……」
広い浴場には、柔らかな湯気が満ちていた。
模擬戦のあとの疲れが、温かい湯の中へ少しずつ溶けていく。
みほは湯船の端で肩まで浸かりながら、ぽつりと言った。
「今日は……ありがとう。みんな」
「何が?」
「試合中、支えてくれて」
「それはこっちの台詞だよ。みほが見てくれたから、勝てたんだし」
「西住さんのご判断があったから、私も最初の操縦をなんとかできました」
「西住殿の判断は、やはり素晴らしかったであります!」
「分かりやすかった」
麻子は目を閉じたまま、短く言った。
みほは少し照れたように目を伏せる。
「冷泉さんまで……」
沙織が指を立てる。
「で、改めて確認ね。みほが車長。私が通信手。華が砲手。ゆかりんが装填手。麻子が操縦手」
「こうして並べると、かなり形になりましたね」
「はい! 役割が決まると、戦車の中で何を見るべきかも分かりやすくなります!」
「私は通信手かあ……」
沙織は少し考える。
「無線って、ちゃんとできるかな」
「沙織さんなら大丈夫だと思う」
「ほんと?」
「沙織さんの声は明るいから。きっとみんなに届くよ」
みほがそう言うと、沙織は一瞬固まった。
それから、少し照れたように笑う。
「……じゃあ、頑張る」
華は静かに湯面を見つめた。
「私は砲手……花を活ける時の集中とは違いますが、静かに狙いを定めるという点では、少し似ているのかもしれません」
「華なら当てそう」
「努力します」
優花里は嬉しそうに頷いた。
「五十鈴殿の砲撃、楽しみであります! 私は装填手として全力で支えます!」
「秋山さん、解説もいいけど、装填もよろしくね」
「もちろんです! 砲弾を込め、情報を添えて、西住殿へお届けします!」
「お届けって言い方、ちょっと面白いね」
麻子は湯船の縁に頭を預けた。
「操縦はする。だが朝は無理だ」
「そこは変わらないんだ」
「朝が悪い」
「朝のせいにしないの!」
沙織が笑う。
みほも、つられて笑った。
戦車道は、まだ怖い。
でも、この席なら。
この人たちとなら。
もう少しだけ、前を向けるかもしれない。
「……私、ちゃんと車長できるかな」
みほが小さく言う。
沙織は即答した。
「できるよ」
「早いね」
「だって今日できてたもん」
「私たちも、できるように支えます」
「西住殿には、この秋山優花里がついております!」
「操縦は任せろ」
麻子の声は眠そうだったが、不思議と頼もしかった。
みほは、ゆっくり頷いた。
「……ありがとう」
* * *
一方その頃。
戸郷灯里は、浴場にはいなかった。
誘われなかったわけではない。
ただ、模擬戦後のTOGⅡが気になりすぎて、先に倉庫へ戻っていた。
白旗判定を受けた足回り。
側面の被弾位置。
履帯基部。
砲塔の動き。
車内の配置。
確認したいことが多すぎた。
「お風呂よりTOGⅡ」
灯里は真顔で呟いた。
倉庫前では、自動車部が整備作業をしていた。ライトに照らされた戦車たちの中で、TOGⅡは相変わらず長い車体を横たえている。
自動車部の一人が顔を上げた。
「あれ、戸郷さん。お風呂行かなかったの?」
「TOGⅡの状態確認が先です」
「ブレないねー」
「TOGⅡですので」
灯里は足回りを確認し、白旗判定が出た位置をノートへ書き込んだ。
履帯基部。
側面。
旋回遅れ。
弱点は分かった。
だが、それだけでは終わらせない。
灯里は、TOGⅡの長い側面を見た。
そこは弱点でもある。
同時に、広い余白でもある。
広い余白。
長い車体。
そして、前に杏会長が雑に決めた仮チーム名。
いぬさんチーム。
灯里は、ふと思った。
「せっかくなので、塗装しましょう」
「今から?」
「今からです」
「何を描くの?」
灯里は、鞄からスケッチを取り出した。
長い胴のダックスフンドが、ホットドッグのようにパンに挟まっているデザイン。小さな白旗。簡略化した砲塔風の飾り。
TOGⅡの長さと、ホットドッグと、いぬさんチームらしさを詰め込んだエンブレム。
自動車部の生徒たちは、それを見て目を丸くした。
「え、戸郷さん、普通に上手いじゃん」
「長い戦車に長い犬、いいねー」
「これ、大洗っぽい!」
灯里は静かに頷いた。
「TOGⅡとダックスフンドは、長さで通じ合えます」
「通じ合えるんだ」
「はい」
否定はなかった。
少なくとも、灯里の中では真理だった。
自動車部が塗料や刷毛を用意してくれる。
灯里は下描きをして、慎重に線を引いた。
TOGⅡの側面に、少しずつ長い犬が現れていく。
長い。
可愛い。
どこか間の抜けた愛嬌がある。
灯里は筆を動かしながら、少しだけ満足した。
「……良いですね」
自動車部の生徒たちも拍手する。
「いいじゃん!」
「大洗っぽい!」
「これ、反対側にも描く?」
「描きます」
「即答」
「左右対称は大事です」
* * *
反対側の塗装に取りかかろうとした頃、倉庫前に五人の姿が現れた。
火野まどか。
小走すず。
呼子かなえ。
米倉ちとせ。
早見りん。
給食部専攻の五人だった。
灯里は筆を止める。
「皆さん」
まどかが一歩前に出た。
「あの、戸郷さん。少しお話が」
「はい」
灯里は少し身構えた。
今日の仮搭乗は、決して楽なものではなかった。初めて戦車に乗った。初めて砲撃した。初めて撃たれた。白旗まで上がった。
怖かったと言われても仕方ない。
もう乗りたくないと言われても当然だ。
灯里は静かに待った。
まどかは、少しだけ言葉を選んでから言った。
「今日の仮搭乗ですが」
「はい」
「次は、もう少し手順を詰めたいです」
灯里は目を瞬かせた。
「……次?」
すずがTOGⅡを見上げる。
「あの長いの、もう少し上手く曲げたいです。曲がり始めるタイミングが遅かったので」
かなえが無線機の方を見る。
「無線、全然拾いきれませんでした。注文整理とは似てるけど、もっと速いですね。悔しいです」
ちとせは自分の腕を軽く回した。
「砲弾の受け渡し、動きが大きすぎました。米袋よりは持ちやすかったけど、流れが悪かったです」
りんも頷く。
「装填の手順、もっと短くできます。今日のは厨房なら詰まってます」
灯里は、五人の顔を順番に見た。
誰も、嫌そうな顔をしていない。
疲れてはいる。戸惑いもある。
でも、それ以上に、悔しさがある。
灯里は、ゆっくり聞いた。
「それは、次も乗ってくれるという意味ですか?」
五人は少し顔を見合わせた。
まどかが小さく息を吐く。
「出店手伝いの延長……では、もうないですよね」
「はい」
「でも、途中で白旗が上がったの、少し悔しかったです」
すずが続ける。
「TOGⅡは遅いです。でも、動かし方を覚えたら、もう少し何とかできそうです」
かなえも頷いた。
「無線は怖かったです。でも、聞き取れなかったのが悔しいです」
ちとせが穏やかに言う。
「砲弾は重かったです。でも、持てないわけではありません」
りんが少し笑った。
「流れ作業としては、改善の余地があります。厨房なら、まだやり直せます」
灯里は、しばらく何も言えなかった。
TOGⅡの前に、六人目までの席が埋まっていく感覚。
それは、地下ガレージで一人だけ車長席を見上げていた時には、想像できなかったものだった。
「……ありがとうございます」
灯里は深く頭を下げた。
まどかが少し慌てる。
「まだ正式に決めたわけでは……」
「分かっています。仮、です」
「はい。仮です」
すずがTOGⅡの側面を見る。
「それ、何を描いているんですか?」
「いぬさんチーム仮エンブレムです」
「仮なんですね」
「仮です」
かなえが少し笑う。
「でも、もうだいぶ正式っぽいです」
「会長が聞いたら、そのまま通しそうですね」
りんが言うと、全員が少し黙った。
あり得る。
とてもあり得る。
灯里は咳払いをした。
「今は仮です」
まどかが静かに言った。
「では、仮のうちに、反対側も手伝います」
灯里は顔を上げた。
「いいのですか?」
「この絵が、私たちの戦車につくかもしれないなら」
その一言に、灯里は目を見開いた。
私たちの戦車。
まだ仮。
まだ決定ではない。
けれど、その言葉は確かにそこにあった。
灯里は、ゆっくり頷いた。
「お願いします」
五人が、それぞれ道具を手に取る。
まどかは線を整え、すずは全体の位置を見て、かなえは必要な道具を呼び、ちとせは塗料缶を支え、りんは細かい部分を塗った。
それは、戦車というより、厨房の作業に少し似ていた。
役割を分ける。
声をかける。
手順を回す。
そして、ひとつのものを仕上げる。
TOGⅡの長い側面に、二匹目のダックスフンドホットドッグが少しずつ形になっていく。
* * *
夜の倉庫前に、塗料の匂いと、少しだけ湿った風が流れていた。
遠くでは、風呂上がりのあんこうチームが楽しそうに歩いてくる声が聞こえる。
灯里は、完成したエンブレムを見上げた。
長い車体。長い犬。パンに挟まった、少し間の抜けた可愛い姿。
TOGⅡは、今日白旗を上げた。
けれど、その側面には、新しい印が描かれた。
弱点だった長さに、名前が与えられたような気がした。
まどかが静かに言う。
「……悪くないですね」
「はい。とても良いです」
すずが横から見る。
「長い戦車に長い犬。分かりやすいです」
かなえが頷く。
「呼び込みやすい名前です。いぬさんチーム」
ちとせは少し笑った。
「覚えやすいです」
りんも明るく言う。
「白旗も可愛いです」
灯里は、五人を見た。
それぞれの席は、まだ正式に決まっていない。
けれど、今日の模擬戦で、確かに何かが生まれた。
あんこうチームは、戦車の中の席を決めた。
そしてTOGⅡの前でも、別の席が埋まり始めていた。
車長席に、戸郷灯里。
砲手席に、火野まどか。
操縦手席に、小走すず。
無線手席に、呼子かなえ。
装填手席に、米倉ちとせ。
もう一つの装填手席に、早見りん。
まだ、仮。
でも、もう空席ではない。
灯里はTOGⅡの長い車体に手を触れた。
その鋼は、昼間より少しだけ温かい気がした。
いぬさんチームは、ようやく六人になろうとしていた。