練習試合までの一週間は、思っていたよりもずっと短かった。
いや、正確には、一日一日が濃すぎた。
朝から戦車。
昼も戦車。
放課後も戦車。
発進、停止、旋回、後退。
無線確認、砲塔旋回、装填手順、周囲確認。
昨日まで「戦車を見つけた」「洗車した」と騒いでいた大洗女子学園の戦車道は、ようやく本当に戦車道らしくなり始めていた。
「Aチーム、発進します!」
武部沙織の声が無線に乗る。
少し緊張している。けれど、昨日よりずっと聞き取りやすい。
Ⅳ号戦車D型が、ゆっくりと動き出した。
車長席には、西住みほ。
通信手に、武部沙織。
砲手に、五十鈴華。
装填手に、秋山優花里。
操縦手に、冷泉麻子。
昨日の模擬戦で、自然と決まった席。
それぞれがまだ慣れてはいない。けれど、誰が何をするのかが決まっただけで、戦車の中の空気はかなり変わっていた。
「冷泉さん、次の角で少し右に」
「了解」
「五十鈴さん、正面の標的に照準を合わせて」
「はい」
「秋山さん、装填お願いします」
「了解であります!」
「沙織さん、Bチームの位置を確認して」
「了解、みほ!」
戸郷灯里は、TOGⅡの車長席からそのやり取りを聞いていた。
少しずつ、形になっている。
みほの声は、まだ慎重だ。
自信満々というわけではない。けれど、指示は分かりやすい。迷いながらでも、ちゃんと前を見ている。
冷泉麻子の操縦は、相変わらず不思議なほど安定していた。
沙織は無線に苦戦しながらも、声が明るい。
華は砲手席で静かに集中し、優花里は装填しながらも必要な情報を差し込んでいる。
昨日の即席チームではない。
あんこうチームは、あんこうチームになり始めていた。
「西住さん、前より声が通っていますね」
灯里が無線の外で呟くと、無線手席の呼子かなえが頷いた。
「はい。Aチームの無線、昨日より整理しやすいです」
「沙織さんの声は聞き取りやすいですね」
「明るいので、緊張していても拾いやすいです」
かなえは手元のメモに、各チームの位置を書き込んでいる。
その字は綺麗だった。注文表のように整理されていて、灯里にはかなり見やすい。
「呼子さん、無線整理に慣れてきましたね」
「注文整理より難しいですが、整理できると気持ちいいです」
「その感覚は、とても大事です」
「あと、河嶋さんの声は分かりやすいです」
「大きいからですか」
「はい」
灯里は少しだけ納得した。
大きい声は、戦場でも便利である。
* * *
Fチーム。
昨日までは、そう呼ぶのが正しかった。
けれど、TOGⅡの側面には、もうダックスフンドのエンブレムが描かれている。
パンに挟まった長い犬。
小さな白旗。
そして、どこか間の抜けた愛嬌。
生徒会長が雑に言った名前。
いぬさんチーム。
まだ仮名だと思っていた。
少なくとも、灯里はそう思おうとしていた。
だが、その日の朝、杏が書類をひらひらと振った。
「はい、これねー」
「何ですか?」
「チーム登録」
灯里は受け取った紙を見た。
そこには、はっきり書かれていた。
『Fチーム 通称:いぬさんチーム』
灯里はしばらく紙を見つめた。
「会長」
「なにー?」
「通称、と書いてあります」
「うん。正式名称はFチーム。呼び名はいぬさんチーム。大洗っぽくていいでしょ」
「いつの間に」
「昨日のうちに」
「早いですね」
「勢いは大事だからねー」
灯里は無言で紙を見る。
隣で、火野まどかが静かに言った。
「戸郷さん」
「はい」
「もう、ほぼ正式では」
「……そうですね」
小走すずがTOGⅡを見上げる。
「長い犬、描いてありますし」
「呼び込みやすいですし」
かなえも頷く。
米倉ちとせは書類を覗き込んだ。
「私たちの名前も入っていますね」
「入っています」
早見りんが少し笑った。
「出店手伝いから、戦車道になりましたね」
灯里は五人を見た。
本当にいいのか。
その言葉が、喉まで出かかった。
けれど、先にまどかが口を開いた。
「戸郷さん。念のため確認ですが」
「はい」
「私たち、正式に乗るということでいいんですよね」
灯里は、少しだけ目を見開いた。
「本当に、乗ってくれるんですか?」
問い返す声が、思ったより小さくなった。
まどかは少し考えるように目を伏せ、それから答えた。
「出店手伝いのつもりでした。でも、途中で白旗が上がったのが少し悔しかったです」
すずが続ける。
「あの長いの、もう少し上手く曲げたいです」
かなえは無線機を手に取った。
「無線、注文整理より難しいですが、整理できたら気持ちよさそうです」
ちとせは砲弾模型の置き場を見る。
「砲弾の受け渡し、改善できます」
りんも頷いた。
「流れが詰まったのが悔しいです。厨房なら、あそこは直します」
灯里は、五人の言葉を聞いて、しばらく何も言えなかった。
TOGⅡは一人では動かない。
地下ガレージでそう思った日から、ずっと空席だった五つの席。
その席に、今、名前が入っている。
砲手、火野まどか。
操縦手、小走すず。
無線手、呼子かなえ。
装填手、米倉ちとせ。
装填手、早見りん。
そして車長、戸郷灯里。
六人。
ようやく、TOGⅡが戦車になった。
「……ありがとうございます」
灯里は、深く頭を下げた。
まどかが少しだけ慌てる。
「そこまでされると、こちらも困ります」
「感謝は大事です」
「それは分かりますが」
すずが小さく笑う。
「じゃあ、今日から正式にいぬさんチームですね」
「正式名称はFチームです」
「通称、いぬさんチーム」
「……はい」
灯里は少しだけ観念したように頷いた。
「いぬさんチーム、練習を始めます」
五人が、それぞれ返事をした。
「はい」
「了解です」
「無線、準備します」
「砲弾位置、確認します」
「流れ、作ります」
TOGⅡの車内に、初めて正式な六人分の声が揃った。
* * *
TOGⅡの練習課題は、はっきりしていた。
速くなることではない。
それは無理だ。
無理なものは無理である。
「TOGⅡは速くなりません」
灯里は、車内で真顔で言った。
「はい」
五人はもう驚かなかった。
「だから、先にいる必要があります」
まどかが照準器を覗きながら頷く。
「来る場所で待つ、ということですね」
「はい」
すずが操縦席から地図を見る。
「先に動く。先に曲がる。先に止まる」
「その通りです」
「遅いから、早めに全部やるんですね」
「完璧です」
かなえがメモを取る。
「Fチーム方針。速くなるのではなく、先にいる」
「良いまとめです」
ちとせが砲弾の受け渡し位置を確認する。
「装填も、先に準備ですね」
「はい。ただし安全確認は省略しません」
りんが手順表を見ながら頷いた。
「流れ作業ですが、雑にはしません」
練習が始まる。
TOGⅡは、今日も遅い。
それは変わらない。
けれど、昨日とは違う。
すずが、曲がる前にすでに減速と角度を作り始める。
かなえが無線で先に情報を拾う。
まどかが砲撃で道を塞ぐ考え方を理解し始める。
ちとせとりんの装填動作も、少しずつ流れてきた。
「小走さん、次の目印で左です」
「了解です」
灯里は、すずの左肩を足で軽く押す。
すずがそれに合わせて操作する。
TOGⅡの長い車体が、ゆっくり、しかし昨日よりも少しだけ滑らかに向きを変えた。
「……良いです」
灯里は思わず呟いた。
「良いんですか?」
「はい。今の曲がり方、とてもTOGⅡらしいです」
「褒め言葉が独特ですね」
「最高の褒め言葉です」
車内に、少しだけ笑いが起きた。
まどかが照準を合わせる。
「目標、前方の停止標識」
「撃ってください」
「発射」
砲声。
砲弾は標的のすぐ手前に着弾し、土煙を上げた。
命中ではない。
だが、標的周辺を通る想定車両なら、動きを止めざるを得ない位置だった。
「命中ではありません」
まどかが静かに言う。
「でも、相手を止めるには十分です」
灯里は頷いた。
「TOGⅡの砲撃は、当てるためだけではありません。相手を止めるためにも撃ちます」
「料理でいうと、火を通すというより、足を止める匂いですね」
りんが言う。
「例えが急にお腹に来ますね」
かなえが笑った。
ちとせは次弾を準備する。
「次、渡します」
「受けます」
ちとせが力で支え、りんが手際で流す。
昨日より、明らかに動きが短くなっている。
「装填完了」
りんの声も、昨日より早い。
灯里は、TOGⅡの車内に流れ始めたリズムを感じていた。
厨房の手際が、少しずつ戦車の手順へ変わっていく。
それは、灯里が想像していたよりずっと自然だった。
* * *
他のチームも、それぞれ苦戦していた。
Bチームの八九式は、今日も根性だった。
「根性で前進!」
「根性で停止!」
「根性で旋回!」
停止位置を少し過ぎてから止まる。
それでも、昨日よりはましだった。
「昨日より止まれていますね」
灯里が言うと、かなえが無線を拾った。
「Bチーム、根性の成果あり、だそうです」
「それは公式報告ですか」
「磯辺さんの発言です」
「では、記録しておきましょう」
CチームのIII号突撃砲は、なぜか練習中も作戦名が長い。
「これは包囲戦である!」
「いや、ここは一撃離脱の構え!」
「突撃砲に必要なのは、静と動!」
まどかが静かに言う。
「動きより言葉が多いですね」
「でも、位置取りは少し良くなっています」
灯里は地図を見ながら答える。
DチームのM3リーは、一年生たちが慌てながらも、少しずつ役割を覚えていた。
「砲がいっぱいある!」
「どっち向けばいいの!?」
「まず前!」
「前ってどっち!?」
かなえが無線を聞いて、少しだけ目を細める。
「Dチーム、混乱中。ただし昨日より声は出ています」
「声が出るのは良いことです」
Eチームの38(t)は、生徒会の色が強かった。
「桃ちゃん、そこ右ー」
「会長、今は私が指揮を!」
「でも右だよー」
「右です、桃ちゃん!」
「分かっている!」
杏の軽い声、柚子の必死な補佐、桃の大きな声。
あのチームも、あのチームで成立していた。
大洗らしい。
灯里は、改めて思う。
どのチームも、まだ弱い。
まだ危なっかしい。
けれど、昨日より動いている。
そして、昨日より自分たちの戦車に馴染んでいる。
* * *
昼休みを挟んで、午後は合同練習になった。
みほが全体の前に立つ。
まだ少し緊張している。けれど、逃げるような目ではなかった。
「今日は、各車の間隔と、合図の確認をします」
沙織が横で無線機を持つ。
「えっと、各チーム聞こえますかー?」
『Bチーム、聞こえます!』
『Cチーム、受信した!』
『Dチーム、聞こえます!』
『Eチーム、聞こえてるよー』
『Fチーム、聞こえています』
かなえがFチームの無線で答える。
みほは少しだけ息を吸った。
「最初は、Aチームを基準に一列で進みます。そのあと、私の合図で左右に展開してください」
「みほ、展開って言葉かっこいいね」
「沙織さん」
「ごめん、ちゃんとやる」
少しだけ笑いが起きた。
それで、みほの肩の力も少し抜ける。
各車が動き始めた。
AチームのⅣ号を先頭に、八九式、III号突撃砲、M3リー、38(t)、TOGⅡが続く。
当然、TOGⅡは最後尾だ。
というより、最後尾にしかいられない。
「Fチーム、距離が開いています」
かなえが報告する。
「想定内です」
灯里は答える。
「TOGⅡは、隊列の最後尾で圧を出します」
「圧、出ています」
「見た目は強いです」
すずとまどかが言い、灯里は少し満足した。
だが、隊列が曲がり角に差しかかった瞬間、問題が出た。
「Fチーム、曲がります」
「前のEチームとの距離、詰まっています」
「止まりますか?」
「止まります」
TOGⅡが停止する。
後ろにいた自動車部の見学組が、少しざわついた。
「長いなー」
「曲がるだけでイベントだね」
灯里は聞こえないふりをした。
「小走さん、もう少し大きく取ります」
「了解です」
すずが慎重に操作する。
TOGⅡはゆっくりと角度を変え、少し遅れて隊列に戻った。
みほの無線が入る。
『Fチーム、大丈夫ですか?』
「大丈夫です。TOGⅡは、少し大きく曲がっただけです」
『分かりました。次の展開では、Fチームは先に移動してください』
灯里は一瞬、目を細めた。
みほがTOGⅡの遅さを計算に入れた。
それだけで、かなり大きい。
「了解しました。Fチーム、先行します」
すずが驚く。
「先行するんですか?」
「はい。TOGⅡは速くなりません。だから、先にいる必要があります」
「今日の合言葉ですね」
「はい」
TOGⅡは、隊列より少し早めに動き出した。
それでも、最終的にはちょうどよかった。
Aチームが展開する頃には、Fチームはすでに指定位置へ入っていた。
長い車体が、道を塞ぐ。
灯里は車長席で小さく頷いた。
「これです」
速く走るのではない。
先にいて、待つ。
TOGⅡの戦い方が、少しだけ見え始めていた。
* * *
一週間は、そうやって過ぎていった。
毎日、どこかで誰かが失敗した。
八九式は止まりきれずに停止線を越えた。
III号突撃砲は待ち伏せ位置を間違えた。
M3リーは砲塔と車体砲の向きで混乱した。
38(t)は生徒会の声が三方向から飛んで迷った。
Ⅳ号は、みほが迷いすぎて一瞬指示が遅れた。
TOGⅡは、曲がり角で詰まった。
何度も。
しかし、そのたびに少しずつ直した。
Bチームは根性に、周囲確認を足した。
Cチームは作戦名に、実際の位置取りを足した。
Dチームは混乱に、声かけを足した。
Eチームは勢いに、柚子の確認を足した。
Aチームは迷いに、沙織の明るい無線を足した。
そして、いぬさんチームは。
遅さに、先読みを足した。
長さに、役割を足した。
撃たれる弱点に、止まる位置を足した。
「Fチーム、指定位置到着」
かなえの声が、無線に乗る。
少し落ち着いた声だった。
「まどかさん、前方標的」
「照準、合わせています」
「ちとせさん、りんさん、装填」
「準備できています」
「装填完了」
「小走さん、停止位置そのまま」
「了解です」
灯里は、前方を見る。
TOGⅡは、狭い道の奥で止まっていた。
長い車体が、通路の選択肢を減らしている。
逃げられない場所ではない。
逃げなくていい場所を、選んでいる。
「撃ってください」
まどかが引き金を引く。
砲声。
標的の横に土煙が上がる。
当たってはいない。
けれど、標的の前進を想定するなら、その一発は十分に足を止める。
「命中ではありません」
「でも、止めました」
まどかは、少しだけ口元を緩めた。
「はい」
灯里は頷いた。
「良い砲撃です」
車内に、小さな達成感が広がった。
* * *
夕方。
一週間の最終日、全員が倉庫前に集められた。
戦車たちは、最初に見つかった時とは見違えるようになっていた。
まだ粗い。
まだ未熟。
けれど、動いている。
みほは、全員の前で少しだけ緊張した顔をしていた。
その横に、灯里が立つ。
総隊長は、みほ。
灯里は、その隣で支える補佐。
そこは間違えてはいけない。
桃が前に出た。
「諸君。一週間の訓練、ご苦労だった」
杏が横で干し芋をかじっている。
「みんな、だいぶ動けるようになったねー」
柚子も資料を見ながら微笑んだ。
「最初に比べると、本当に良くなったと思います」
沙織が小声で言う。
「褒められてる?」
「たぶん」
麻子は眠そうに答える。
優花里は胸を張った。
「大洗戦車道、前進であります!」
その言葉に、少しだけ笑いが起きる。
桃が咳払いをした。
「そして、急ではあるが、今度の日曜日に練習試合を行う」
空気が変わった。
ざわめきが広がる。
「練習試合?」
「もう?」
「相手、どこ?」
優花里が目を輝かせた。
「練習試合でありますか!」
桃は大きく頷く。
「そうだ。相手は――聖グロリアーナ女学院」
その名前に、灯里の胸が少しだけ揺れた。
聖グロリアーナ。
通称、聖グロ。
自分が元いた場所。
赤い制服。
紅茶の香り。
整った隊列。
ダージリンの微笑み。
そして、自分に向けられた呼び名。
ルイボス。
まだ記憶は完全には戻らない。
けれど、名前を聞くだけで、胸の奥に何かが沈むような感覚があった。
周囲の生徒たちは、そこまで反応していない。
「聖グロ?」
「どんな学校?」
「強いの?」
そこで優花里が勢いよく手を上げた。
「聖グロリアーナ女学院は、全国大会でも準優勝経験のある強豪校であります! 英国戦車を中心にした優雅で堅実な戦い方、統率の取れた隊列、そして隊長のダージリン殿は、冷静沈着で優雅な指揮をされることで有名で――」
「ゆかりん、ちょっと待って。つまり、すごく強いってこと?」
「はい! とても強いであります!」
沙織の顔が引きつった。
「え、そんな強いところといきなりやるの?」
華も少し緊張したように言う。
「胸をお借りするにしても、大きな相手ですね」
杏は軽く笑った。
「まあ、せっかくなら強いところとやった方が勉強になるでしょ」
「勉強がいきなり難しすぎませんか」
かなえが小声で言い、まどかも頷いた。
みほは、聖グロリアーナの名前を聞いて、静かに表情を引き締めていた。
知っている。
みほは聖グロを知っている。
強さも、隊列も、ダージリンの戦い方も、きっと分かっている。
そして灯里自身も、知っているはずだった。
けれど、まだ霧の向こうだ。
桃はさらに続けた。
「日曜日は、朝六時に学校へ集合!」
その瞬間。
麻子の目が、少しだけ開いた。
「……六時?」
「そうだ。朝六時だ」
麻子は静かに言った。
「やめる」
沙織が振り向く。
「え?」
「やっぱり戦車道を辞める」
「ちょっと麻子!」
麻子は真顔だった。
「朝六時は、人間の活動時間ではない」
灯里は心の中で思った。
気持ちは分からなくもありません。
しかし、言っている場合ではない。
優花里が焦ったように前へ出る。
「冷泉殿がいなければ、あんこうチームの操縦手が……!」
「冷泉さん……」
「朝は来なくていい」
「来るんだよ!」
沙織が叫んだ。
桃は眉をひそめる。
「冷泉麻子、これは授業の一環だぞ!」
「朝六時は授業ではない。夜だ」
「朝だ!」
「私にとっては夜だ」
沙織が麻子の肩を掴む。
「麻子、ちゃんと卒業しないと、おばあにも怒られるよ!」
その言葉に、麻子が少し反応した。
「……祖母」
「そうだよ! 戦車道やれば単位も出るんだから! 遅刻のことだって、少しは何とかなるかもしれないし!」
麻子は考える。
「単位」
「そう、単位!」
「遅刻見逃し」
「それはまだ確定じゃないけど!」
「……朝食」
「え?」
「朝食があるなら、少し考える」
沙織は一瞬固まった。
それから、力強く頷いた。
「分かった。朝ごはん作る!」
「沙織さんが?」
みほが驚く。
「うん。私たちで迎えに行って、朝ごはんも持っていけばいいんだよ」
「そこまでしないと来ないのか」
桃が呆れたように言う。
麻子は真顔で答えた。
「朝六時だからな」
「理由になっているようで、なっていない!」
杏が楽しそうに笑った。
「いいじゃん。あんこうチーム、朝からチームワークだねー」
「朝から大変です……」
柚子は苦笑していた。
みほは少し困ったように笑い、それから沙織を見る。
「じゃあ、日曜日はみんなで冷泉さんを迎えに行こう」
「うん!」
「起床作戦でありますね!」
「朝は敵だ」
「麻子が言うと説得力があるような、ないような……」
沙織が頭を抱えた。
* * *
解散後、倉庫前には少しだけ生徒が残っていた。
空は夕焼けに染まり始めている。
戦車たちの影が、長く伸びていた。
灯里は、TOGⅡの前に立っていた。
長い車体。
ダックスフンドホットドッグのエンブレム。
その横で、いぬさんチームの五人が朝食案について話し始めている。
「聖グロ戦の日、朝食どうします?」
「朝六時集合なら、準備は前日ですね」
「軽く食べられるものがいいです」
「TOGドッグは朝には重いですか?」
「小さめならいけます」
戦車道の話なのに、いつの間にか朝食の話になる。
大洗らしい。
灯里は少しだけ笑った。
そこへ、みほが近づいてくる。
「戸郷さん」
「はい」
「聖グロリアーナ……戸郷さんのいた学校、だよね」
灯里は少しだけ黙った。
完全には思い出せない。
けれど、否定はできない。
「はい。たぶん、そうです」
「たぶん?」
「記憶が、少し曖昧で」
みほは驚いたように目を丸くする。
灯里は、TOGⅡの側面に触れた。
「でも、名前を聞くと、胸の奥が少しざわつきます。聖グロリアーナ。ダージリンさん。ルイボス。全部、知っている気がします」
みほは静かに聞いていた。
「怖い?」
その問いに、灯里はすぐには答えなかった。
怖い。
たぶん、少し。
でも、それだけではない。
「分かりません。ただ……会ってみたいとは思います」
灯里は、みほを見る。
「西住さんは、聖グロリアーナを知っていますよね」
「うん。強い学校だよ」
みほの声は落ち着いていた。
「とても整っていて、落ち着いていて、隙が少ない。ダージリンさんは、相手の動きをよく見てくる人」
「やはり、強敵ですね」
「うん」
みほは少しだけ目を伏せる。
「でも、今の大洗なら、きっと何かできると思う」
灯里は、その言葉を聞いて少し驚いた。
昨日までなら、みほはそこまで言わなかったかもしれない。
今の大洗なら。
その言葉が、灯里には嬉しかった。
「私も、補佐します」
「ありがとう」
「ただし、TOGⅡは遅いので、早めに配置してください」
みほは小さく笑った。
「うん。そこは覚えた」
「重要です」
「すごく重要だね」
二人は、少しだけ並んでTOGⅡを見上げた。
聖グロ対策。
麻子起床作戦。
いぬさんチームの練習。
TOGⅡの位置取り。
やることは山ほどある。
けれど、昨日よりも少しだけ、前に進んでいる気がした。
夕暮れの倉庫前に、戦車たちの影が伸びている。
そしてその夜。
大洗の小さな作戦会議が、静かに始まろうとしていた。