日曜日の朝。
空はまだ、夜の色を少しだけ残していた。
大洗の町は静かで、いつもなら人通りも少ない時間帯。
そんな住宅街の一角に、早朝とは思えないほど重い空気が漂っていた。
「麻子ー! 起きてー!」
武部沙織が、布団の端を両手で掴んで引っ張っている。
しかし、布団の中の冷泉麻子は動かなかった。
「朝は……まだ来ていない……」
「来てる! もう来てるから!」
沙織がさらに引っ張る。
だが麻子は、布団と一体化したかのように抵抗していた。
西住みほは、部屋の入口で困ったように立っている。
「冷泉さん、今日は聖グロリアーナとの練習試合だから……」
「練習試合は昼にすればいい」
「それは、もう決まってるから……」
五十鈴華は心配そうに見守っていた。
「冷泉さん、本当にお目覚めになりませんね」
秋山優花里は、どこから持ってきたのか、小さなラッパを構えている。
「ここは、起床ラッパであります!」
そして、思いきり吹いた。
ぱぱらぱっぱぱー。
早朝の部屋に、妙に元気な音が響いた。
「秋山さん、すごい音!」
「とても力強い音色ですね」
「冷泉さん……?」
みほは麻子を見る。
麻子は、布団の中で少しだけ眉を動かした。
そして、また眠った。
「効果なしであります……!」
優花里が愕然とする。
沙織は肩で息をしながら言った。
「こうなったら、最後の手段……!」
* * *
家の外。
Ⅳ号戦車D型が、住宅街の道に慎重に停まっていた。
近所迷惑。
どう考えても近所迷惑。
けれど、すでに朝六時集合の危機は迫っている。
みほは申し訳なさそうに周囲を見回した。
「本当に、やるの……?」
「これで起きなかったら、もうどうしようもないよ!」
沙織が真剣な顔で頷く。
優花里は少し緊張しながらも、Ⅳ号の砲塔を確認している。
「空砲とはいえ、音はかなり響くであります」
「冷泉さんが驚きすぎないとよいのですが」
華が心配そうに家の窓を見る。
みほは深呼吸した。
「じゃあ……空砲、撃ちます」
Ⅳ号の主砲が、ゆっくりと空へ向けられる。
次の瞬間。
どん、と大きな音が響いた。
住宅街に音が反響する。
あちこちの家の窓が開き、近所の人たちが顔を出した。
「何だ何だ!?」
「戦車!?」
「朝から!?」
みほは慌てて頭を下げた。
「す、すみません! 空砲です!」
「すみませーん! 起こしたい人がいて!」
「いや、もう起きたよ!」
近所のおじさんがそう返す。
しかし、肝心の麻子は。
起きなかった。
窓の中から、沙織の悲鳴が聞こえる。
「麻子ー! 何で起きないのー!?」
灯里は、その様子をTOGⅡの横で見ていた。
TOGⅡは住宅街の少し広い場所に停まっている。
長い。
朝から見ると、さらに長い。
灯里はしばらく考えた。
Ⅳ号の空砲で起きない。
ラッパでも起きない。
毛布を引いても起きない。
ならば。
「……うちも、やりますか」
「本当にやるんですか」
まどかが隣で冷静に聞き返す。
「はい」
「音、大きそうですね」
「TOGⅡですので」
「苦情が来ませんか?」
「謝ります」
かなえが近所を見回す。
ちとせが言った。
「ガラス、大丈夫でしょうか」
「振動が強そうです」
りんも頷く。
灯里は少しだけ考えた。
「できるだけ上に向けます」
そして、TOGⅡの主砲がゆっくりと空へ向く。
朝の住宅街に、長い車体が静かに構える。
灯里は深く息を吸った。
「空砲、撃ちます」
次の瞬間。
どごん、と重い音が響いた。
Ⅳ号より、さらに低く、腹に響く音。
近くの窓ガラスが、かすかに震えた。
どこかで、ぴし、と嫌な音がした気がした。
灯里は即座に頭を下げた。
「すみません! 空砲です!」
給食部専攻の五人も慌てて頭を下げる。
「すみません!」
「朝からすみません!」
「安全です!」
「たぶん安全です!」
「たぶんって言わない方がいいです!」
近所の人たちが次々と顔を出す。
灯里は、ガラスにヒビが入っていないか本気で心配した。
すると、ひとりのおじさんが親指を立てた。
「いやあ、目覚めがいいな!」
別の人も笑う。
「戦車道、今日試合なんだろ? 頑張れよ!」
「大洗の名前、見せてこいよー!」
灯里は少し固まった。
「えぇ……」
怒られると思った。
しかし、なぜか応援された。
これが大洗なのか。
灯里は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。TOGⅡも頑張ります」
その時、ようやく家の中から沙織の声が響いた。
「起きた! 麻子、ちょっと目開けた!」
みほがほっとしたように息を吐く。
「よ、よかった……」
麻子は、しばらくして布団に包まれたまま外へ連れてこられた。
目はほとんど開いていない。
「……地震か」
「空砲!」
沙織が叫ぶ。
麻子はTOGⅡを見た。
「……長い目覚ましだな」
「効果はありました」
「近所迷惑だ」
「否定できません」
* * *
麻子は、半分眠ったままⅣ号へ乗せられた。
操縦席に座らせるにはまだ危険なので、最初は車内で毛布に包まれている。
集合時間は迫っていたが、ここから学校までは戦車でゆっくり移動することになった。
AチームのⅣ号。
FチームのTOGⅡ。
その周囲に、他の戦車も少しずつ合流していく。
朝の町を戦車が進む。
これだけでも相当な光景なのに、その中にTOGⅡがいる。
長い。
とにかく長い。
一般の道にいるだけで、異物感がすごい。
灯里はTOGⅡの車長席から周囲を見ながら、少し申し訳ない気持ちになった。
「通行の皆さん、すみません。TOGⅡです」
「謝罪の内容が独特です」
かなえが無線席で笑う。
「TOGⅡは長いので」
「それは分かります」
その一方で、Fチームは朝食配布も担当していた。
今日の朝食は、朝用TOGドッグ。
レバニラ案は却下された。
麻子本人から、朝からは重いと言われたからだ。
そこで、まどかたちが考案したのは、たまごとほうれん草の軽めのTOGドッグ。
小さめのパンに、ふんわりした卵、ほうれん草、少しのチーズ。
温かいスープもついている。
灯里は少し名残惜しそうに言った。
「レバニラは朝には重いとの判断でした」
「妥当です」
「匂いも強いですし」
まどかとすずが即答する。
かなえは、道端のチームメンバーに声をかけた。
「朝用TOGドッグ、配りまーす!」
ちとせが保温ケースを運び、りんが手際よく包みを渡す。
沙織が受け取って、目を輝かせた。
「おいしい! これ朝にちょうどいい!」
「卵が優しい味ですね」
「戦車移動中に温かい朝食……補給の大切さを実感するであります!」
華と優花里も、それぞれ朝用TOGドッグを口にする。
みほは、麻子の分を持ってⅣ号の中へ戻った。
「冷泉さん、食べられる?」
「……内容による」
「たまごとほうれん草だよ」
「採用」
麻子はゆっくり起き上がり、朝用TOGドッグを受け取った。
一口食べる。
「……悪くない」
灯里は無線越しにそれを聞いて、静かに頷いた。
「レバニラでなくても成功です」
「まだレバニラ諦めてなかったの?」
沙織の声が無線越しに聞こえた。
「将来的には」
「朝以外でね!」
* * *
戦車が町を進むと、思った以上に多くの人が声をかけてきた。
朝早いというのに、家の前や店先に人が出ている。
「戦車道復活したんだってな!」
「試合頑張れよー!」
「大洗の名前、見せてこい!」
「気をつけて行ってこいよ!」
子どもたちも手を振っている。
「あの長い戦車、なにー?」
「犬の絵が描いてある!」
「かわいい!」
灯里の背筋が、少しだけ伸びた。
「聞きましたか」
「可愛いと言われましたね」
「TOGⅡが」
「エンブレムも含めてだと思います」
「つまり、TOGⅡが可愛いということです」
すずが操縦席で小さく笑う。
「戸郷さん、すごく満足そうですね」
「ふっ……分かる子たちです」
かなえが無線席で言った。
「TOGⅡ、町の人気者ですね」
「当然です」
りんが包み紙を整理しながら言う。
「次から子ども向けの小さいTOGドッグも作りますか?」
「採用です」
灯里は即答した。
ちとせが頷く。
「ミニTOGドッグですね」
「素晴らしい響きです」
戦車道の試合前だというのに、Fチームの車内は少しだけ屋台会議になっていた。
けれど、その空気は悪くなかった。
緊張しすぎない。
でも、戦う準備はする。
それが今の大洗には合っている気がした。
* * *
学園艦から陸へ降りると、景色が変わった。
茨城県大洗町。
港。
道路。
町並み。
そして、一般車に混じって移動する戦車たち。
普通の車の横を、Ⅳ号が走る。
八九式が走る。
金色の38(t)が走る。
ピンクのM3リーが走る。
赤い三突が走る。
そして、TOGⅡが走る。
いや、走るというより進む。
ゆっくり、長く、存在感を放ちながら進む。
灯里は内心で呟いた。
自動車に紛れるTOGⅡ。
紛れていない。
まったく紛れていない。
「すみません。TOGⅡです」
また心の中で謝った。
それでも、町の人たちは笑顔で手を振ってくれる。
戦車道が、この町に受け入れられているのだと感じた。
みほもⅣ号の車長席から、その光景を見ていた。
沙織が無線で明るく言う。
『みほ、すごいね。みんな応援してくれてる』
「うん……」
みほの声は、少しだけ震えていた。
怖さではなく、驚きに近い。
戦車道が、誰かに責められるものではなく、応援されるものとしてそこにある。
それは、みほにとっても新鮮だったのかもしれない。
『温かい町ですね』
『大洗の皆さんの期待を背負っているのであります!』
『朝は嫌いだが、朝食は悪くなかった』
『そこなんだ』
華、優花里、麻子、沙織の声が続く。
いつものやり取り。
けれど、その向こうには確かに町の声があった。
* * *
少し進んだところで、灯里は後ろを振り返った。
そこには、大洗女子学園艦があった。
巨大だった。
頭では知っていた。
この世界の学園艦が、常識外れに大きいことは。
けれど、陸から振り返って見ると、改めてその大きさがよく分かる。
町の向こうに、船というより都市が浮かんでいる。
「……大きいですね」
灯里は思わず呟いた。
かなえが外を見て言う。
「学園艦って、やっぱりすごいですね」
「TOGⅡより大きいです」
「比べる対象がおかしいです」
「でも、TOGⅡより大きいです」
「それはそうです」
すずが即座に返す。
その時、進行方向の横に、さらに巨大な影が見えた。
聖グロリアーナ女学院の学園艦。
大洗女子学園艦より、さらに大きく見える。
二倍以上、とまでは正確には分からない。
けれど、圧倒されるほどの存在感があった。
灯里はしばらく見つめた。
胸の奥が、またざわつく。
あそこに、自分はいた。
赤い制服を着て。
紅茶の香りの中で。
誰かに「ルイボス」と呼ばれて。
でも、今は大洗の制服を着て、TOGⅡに乗っている。
その事実が、少し不思議だった。
『あれ、聖グロの学園艦? 大きくない!?』
沙織の声が無線に入る。
優花里が興奮気味に答える。
『聖グロリアーナ女学院は名門校でありますから、学園艦の規模も大きいのでしょう!』
『朝から大きいものばかりだな』
『たしかに、今日は驚くことばかりですね』
麻子と華の声が続く。
みほは少しだけ黙ってから、静かに言った。
『もうすぐ、試合会場だね』
その声に、緊張が混ざっていた。
灯里は前を見る。
試合会場へ向かう道。
大洗の戦車たちが、それぞれの色をまとって進んでいく。
金色。
赤。
ピンク。
バレー部復活の文字。
ボコのぬいぐるみを乗せたⅣ号。
そして、長いダックスフンドを描いたTOGⅡ。
町の人たちの声援を背に受けながら、未熟な大洗女子学園戦車道チームは、初めての対外試合へ向かっていた。
相手は聖グロリアーナ女学院。
全国大会準優勝経験を持つ強豪校。
そして、灯里がかつていた場所。
「Fチーム」
灯里は通信機に向かって言った。
「まもなく会場です。朝食の片付けと、車内確認をお願いします」
「了解です」
まどかが答える。
すずが操縦桿を握り直す。
「TOGⅡ、ゆっくり進みます」
「各車、会場方向へ移動中。町の応援、多数です」
「朝食配布、完了です」
「ミニTOGドッグ案、あとで詰めます」
かなえ、ちとせ、りんが続く。
灯里は小さく頷いた。
「はい。あとで」
今は、試合だ。
TOGⅡの長い車体が、朝の光の中を進んでいく。
聖グロの巨大な学園艦を横目に、大洗の戦車たちは会場へ向かった。
そして、灯里の胸の奥で。
赤い制服の記憶が、少しずつ、輪郭を取り戻し始めていた。