大洗女子学園での初日は、想像していたよりも普通に終わろうとしていた。
転校初日。
知らない教室。
知らない机。
知っているはずなのに、初めて会う人たち。
西住みほ。
武部沙織。
五十鈴華。
冷泉麻子。
画面の向こうにいたはずの少女たちは、当たり前のように同じ教室にいて、当たり前のように会話をして、当たり前のように笑っていた。
灯里は、それを不思議な気持ちで見ていた。
物語の中に入った、というより。
誰かの生活の中へ、突然紛れ込んでしまったような感覚だった。
放課後。
教室のざわめきが少しずつ薄れていく中、灯里は鞄に教科書をしまっていた。
今日はもう帰ろう。
そして、地下ガレージのTOGⅡをもう一度確認しよう。
整備記録。
車内構造。
屋台セット。
そして、何より。
「搭乗員……」
小さく呟く。
TOGⅡは一人では動かない。
動かすだけならともかく、戦車道で使うなら、砲手、操縦手、無線手、装填手が必要になる。
しかも装填手は二人欲しい。
つまり、自分以外に五人。
「五人……」
灯里は、少し遠い目をした。
友達作りより先に、戦車の搭乗員探しが必要になる高校生活。
なかなか癖が強い。
その時だった。
教室のスピーカーから、短い呼び出し音が鳴った。
『二年、戸郷灯里さん』
灯里は顔を上げた。
『放課後、生徒会室まで来てください』
教室に残っていた数人が、ちらりと灯里を見る。
「生徒会?」
「転校初日なのに?」
「何したの?」
何もしていない。
少なくとも、学校ではまだ何もしていない。
灯里は鞄の持ち手を握ったまま、静かに目を細めた。
来ましたね。
早いですね。
そして、たぶん。
「……長い件ですね」
誰にも聞こえない声で、灯里はそう呟いた。
◇
生徒会室の前に立つと、灯里は一度だけ深呼吸した。
中にいる相手は分かっている。
角谷杏。
小山柚子。
河嶋桃。
知っている。
けれど、会うのは初めてだ。
画面越しではない。
配信でも、円盤でも、資料でもない。
扉の向こうに、本物の生徒会がいる。
灯里は軽くノックした。
「失礼します」
扉を開ける。
生徒会室には、三人がいた。
机の上に座るような勢いでくつろいでいる小柄な少女。
その横で書類を整理している柔らかい雰囲気の少女。
そして、背筋を伸ばしてこちらを見ている凛々しい少女。
灯里は胸の中で名前を確認する。
角谷杏。
小山柚子。
河嶋桃。
「やー、戸郷ちゃん。転校初日から悪いねー」
杏が、ひらひらと手を振った。
「いえ。戸郷灯里です」
灯里は頭を下げる。
柚子が申し訳なさそうに笑った。
「急に呼び出してごめんね。少し確認したいことがあって」
桃は、机の上の書類を一枚持ち上げた。
「戸郷灯里。大洗女子学園二年、本日付で転入。旧聖グロリアーナ女学院在籍歴あり……」
灯里の眉が、ほんの少しだけ動いた。
聖グロ。
やはり、書類上ではそうなっているらしい。
自分の中の記憶は、まだ霧がかかっている。
赤い制服。
紅茶。
優雅な空気。
そして、誰かが呼ぶ。
ルイボス。
でも、詳細はまだ思い出せない。
桃はさらに書類を見た。
「それと、旧戦車道関連車両登録情報に、追加車両がある」
灯里は黙っていた。
杏が、にこにこしたまま身を乗り出す。
「戸郷ちゃん」
「はい」
「戦車、持ってるよね?」
灯里は固まった。
かなり直球だった。
もう少し段階を踏むかと思っていた。
少なくとも、「君の自宅地下ガレージにある大型車両について」くらいの言い方を想像していた。
だが、杏は一切遠回りしなかった。
戦車、持ってるよね。
灯里は数秒考えた。
「……持っている、という表現が適切かは分かりませんが」
杏の目が、少しだけ楽しそうに細まる。
「じゃあ、あるんだ」
「……あります」
桃が、やや驚いたように声を上げた。
「本当にあるのか!?」
「あります」
灯里は素直に頷いた。
否定しても仕方がない。
自宅地下ガレージに、全長十メートル級の超重戦車が堂々と存在している。
見間違いではない。
夢でもない。
しかも、整備済みだった。
杏は満足そうに頷く。
「ほらねー」
「ほらね、ではありません会長。普通、転校生が戦車を持っているとは考えません」
桃が真面目に突っ込む。
柚子も困ったように笑った。
「でも、登録情報には出てるんだよね」
桃が書類を灯里の方へ向けた。
そこには、確かに記載があった。
『大洗女子学園・旧戦車道関連保管車両』
『追加登録車両:TOGⅡ』
『車長予定者:戸郷灯里』
『搭乗員:未定』
灯里は、じっと書類を見つめた。
正式な書類だった。
しかも、なぜか行政処理まで済んでいるように見える。
自分が今朝初めて見つけたはずのTOGⅡが、すでに学校側の情報に載っている。
灯里は静かに思った。
この世界、処理が早すぎる。
「確認します」
桃が真剣な顔で言う。
「このTOGⅡという車両は、戦車道に使用可能な状態なのか?」
「整備記録を見る限り、走行可能です。安全装置や戦車道用の調整も入っているようでした」
「動かせるのか?」
「動かすだけなら、私が」
「一人でか?」
「走行だけなら。ただ、戦車道として運用するなら乗員が足りません」
桃は頷く。
「乗員六名……だったか」
「はい。車長、砲手、操縦手、無線手、装填手、装填手。私は車長と通信手を兼任できますが、それでも五人足りません」
そこまで言って、灯里は少しだけ目を伏せた。
五人。
簡単に集まる人数ではない。
ましてや、TOGⅡである。
長い。
重い。
遅い。
目立つ。
初見で「乗りたい」と言ってくれる人間がどれだけいるかは、正直分からない。
杏は、そんな灯里を見ながら、ぽりぽりと干し芋をかじった。
「ふーん。でさ」
「はい」
「あのTOGⅡって、ホットドッグ売れるんだって?」
灯里は、また固まった。
「……なぜそこまで」
「資料に書いてあったから」
杏は机の上から別の紙を取り出した。
灯里は嫌な予感を覚える。
そこには、確かに見覚えのある文字が並んでいた。
『TOGドッグ販売セット一式』
『学園艦イベント、模擬店、資金調達等にご活用ください』
『おすすめ商品名:TOGドッグ、TOGⅡロングドッグ、鈍足マスタードドッグ、履帯焼きソーセージ』
灯里は、ゆっくりと目を閉じた。
神様。
資料まで共有しないでください。
桃は眉間にしわを寄せている。
「戦車に屋台セットとは何なのだ……」
柚子は逆に、少し興味を持ったようだった。
「でも、学園艦のイベントでは使えそうだよね。戦車道の宣伝にもなるし」
杏は、にんまり笑う。
「でしょ? 戦車道もさ、復活するなら目立たないと」
「会長」
桃がたしなめるように言う。
しかし杏は気にしない。
「それに、売れそうじゃん。長い戦車から長いホットドッグ。分かりやすいし」
灯里は、静かに口を開いた。
「TOGⅡは戦車です。屋台ではありません」
杏は即答した。
「でもホットドッグ出せるんでしょ?」
「出せます」
「じゃあ、屋台機能付き戦車だね」
「否定しきれないのが悔しいです」
柚子が小さく吹き出した。
桃も咳払いをしてごまかしている。
灯里は真顔だった。
TOGⅡは戦車である。
それは絶対だ。
だが、ホットドッグ屋台セットが存在するのもまた事実だった。
しかもレシピつき。
衛生関係の書類らしきものまであった。
準備が良すぎる。
「まあまあ」
杏は手をひらひらさせた。
「もちろん、戦車としても期待してるよ。でっかいし、目立つし、インパクトあるし」
「戦力としての評価がだいぶ雑に聞こえます」
「雑じゃないって。大洗に戦車道が戻ってきたって、みんなに分かりやすいでしょ?」
灯里は、少し黙った。
確かに、それはそうだった。
TOGⅡが広場に出れば、誰でも見る。
見ざるを得ない。
長いから。
圧倒的に長いから。
戦車道に興味がない生徒でも、足を止めるだろう。
しかも、そこにホットドッグがあれば、なおさら。
「……宣伝車両として使う気ですか」
「言い方」
柚子が苦笑する。
杏は悪びれない。
「大洗は使えるものは使うからねー」
その言葉は軽い。
けれど、灯里は知っている。
この生徒会が、ただ面白がっているだけではないことを。
大洗女子学園の廃校。
その危機が、裏にある。
だからこそ、生徒会は強引になる。
だからこそ、使えるものを全部使おうとする。
それが正しいかどうかは別として。
灯里は杏を見た。
「戦車道の説明会があるんですよね」
杏の目が、少しだけ細くなる。
「知ってるんだ?」
「選択授業の件は、掲示で見ました」
全部知っているとは言わない。
それはまだ、言ってはいけない気がした。
杏はふうん、と笑った。
「近いうちに、全校生徒向けにやる予定。そこで戦車道復活を発表する」
「その後に、TOGⅡを出せと?」
「話が早いねー」
桃が書類を指で叩いた。
「正式な確認も必要だ。実働可能な戦車なら、戦力として把握しておかなければならない」
「それと宣伝ですね」
「それもある」
桃は否定しなかった。
灯里は少しだけ考える。
TOGⅡを出す。
学園の広場へ。
生徒たちの前へ。
西住みほの前へ。
秋山優花里の前へ。
そこから、何かが動き出す。
灯里には分かった。
これは、ただの確認ではない。
大洗の戦車道が動き出すための、ひとつの合図になる。
「分かりました」
灯里は頷いた。
「TOGⅡが必要なら、出します」
杏が笑う。
「お、頼もしい」
「ただし」
灯里は続けた。
「一人では、周囲確認が不十分です。車体が長いので、上から確認してくれる人が必要です」
「上から?」
「仮車長のような役です。私は操縦できますが、あの車体は長いので、曲がる時に後方や側面の確認が必要です」
桃は真剣に頷いた。
「確かに、校内で事故を起こされては困る」
「事故は起こしません」
灯里は即答した。
そこだけは譲れなかった。
「TOGⅡは長いですが、無謀ではありません」
「いや、長さの問題ではなく安全確認の話だ」
「長さは安全確認に関わる重要要素です」
「それはそうだが……」
桃が言葉に詰まる。
柚子が苦笑した。
「じゃあ、戦車に詳しい子を一人つけた方がいいかな」
杏がぽんと手を打つ。
「そうだねー。説明会の後、戦車詳しそうな子、誰か探そっか」
灯里は一瞬、ある少女の顔を思い浮かべた。
秋山優花里。
まだきちんと話したわけではない。
だが、戦車に詳しい子と言われれば、真っ先に浮かぶ。
ただ、今は名前を出さなかった。
まだ、流れがそこまで来ていない。
「それと」
杏は、机の上の紙に何かを書き込み始めた。
「ホットドッグの方も考えとこ」
「会長」
桃が低い声を出す。
「何を書いているんですか」
灯里も思わず聞いた。
杏は紙を見せる。
『TOGⅡ:説明会後、広場へ』
『ホットドッグ試食会:要検討』
『給食部専攻へ相談』
灯里は、しばらくそれを見つめた。
「……給食部専攻?」
「船舶経営科にいるでしょ。調理とか配膳に強い子たち」
杏は楽しそうに言う。
「ホットドッグ作るなら、そういう子たちに手伝ってもらった方がいいじゃん」
「それは……確かに」
悔しいが、正論だった。
灯里一人でホットドッグを作るより、給食部専攻の生徒に任せた方が絶対に良い。
屋台セットの導線も、提供の手順も、材料管理も、きっと彼女たちの方が分かっている。
だが、灯里は何かを感じた。
これは、ただの手伝いで終わらない。
そんな予感がした。
「会長」
「ん?」
「まさかとは思いますが、給食部専攻の方々をそのままTOGⅡの搭乗員にしようとは考えていませんよね?」
杏は、干し芋をかじった。
にこにこと笑う。
「まだ考えてないよ」
「まだ」
「うん。まだ」
灯里は、静かに視線を落とした。
だいたい考えている人の返事だった。
柚子が慌てて手を振る。
「だ、大丈夫。無理やりはしないから」
桃も咳払いをした。
「戦車道参加は本人たちの意思確認が必要だ。当然だ」
灯里は二人を見る。
そして、最後に杏を見た。
杏はにこにこしている。
灯里は思った。
この人、きっと必要なら全部巻き込む。
でも、それは大洗を守るためでもある。
厄介だ。
とても厄介だ。
そして、少しだけ頼もしい。
「分かりました」
灯里は息を吐いた。
「説明会後、TOGⅡを広場へ出します。ただし、安全確認要員が必要です」
「了解了解。こっちでも考えとく」
「ホットドッグについては?」
「それも考えとく」
「不安です」
「大丈夫だって。材料費は生徒会で出すから」
「もう試食会をする前提ですね」
「やるなら早い方がいいでしょ?」
灯里は、少しだけ遠い目をした。
昨日まで、映画館で結末を見るつもりだった。
今日、TOGⅡを見つけた。
そして今、なぜか生徒会とホットドッグ試食会の相談をしている。
人生は何が起こるか分からない。
いや、転生した時点で今さらだった。
◇
生徒会室を出る頃には、外の光が少し傾いていた。
廊下を歩きながら、灯里は先ほどの会話を思い返す。
TOGⅡは、すでに生徒会に把握されている。
説明会後に広場へ出すことになった。
ホットドッグ試食会も、ほぼ決まりかけている。
給食部専攻という言葉も出た。
まだ搭乗員は未定。
けれど、何かが少しずつ形を取り始めている。
灯里は窓の外を見た。
学園艦の空。
遠くに見える海。
そのどこかに、自分の家があり、地下ガレージがあり、TOGⅡが眠っている。
長くて、重くて、遅くて。
でも、確かにそこにいる自分の戦車。
「……出番ですよ、TOGⅡ」
小さく呟く。
その時、灯里はまだ知らなかった。
TOGⅡが戦車としてだけでなく。
ホットドッグ屋台としても。
そして、給食部専攻の少女たちを巻き込む中心としても。
大洗女子学園に登録されようとしていたことを。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
大洗の戦車道は、もう動き始めている。
そして――その先頭に出されるのは、たぶん、とても長い戦車だった。