岩場を抜けた瞬間、砲撃音が後ろから追いかけてきた。目の前に広がるのは、大洗の町。海沿いの道、建物の影、細い路地、坂道、店先。見慣れているはずの町並みが、試合中にはまるで別の地形に見える。
西住みほは、Ⅳ号戦車の車長席から前方を見据えた。
『全車、市街地に入ります』
通信に、みほの声が入る。
『正面から撃ち合わないでください。建物の影、路地、高低差を使って、相手の側面を狙います』
『えっと、つまり……もっとこそこそ!』
『うん。もっとこそこそ作戦です』
武部沙織がすぐに言い換え、みほが少しだけ困ったように認める。その声に、戸郷灯里はTOGⅡのキューポラから顔を出し、後方を確認した。
聖グロリアーナの隊列は、まだ追ってきている。速くはない。だが、止まらない。岩場で一両を失ってなお、隊列に大きな乱れはなかった。
「……やっぱり、崩れませんね」
灯里は呟いた。後ろから響く砲声は、さっきまでの岩場で聞いたものと同じだった。落ち着いていて、乱れがない。けれど、ここから先は市街地だ。大洗の町。みほたちの逃げ込む場所であり、反撃する場所でもある。
その時、視界の端で何かが動いた。ビルの屋上。何人かの人がこちらへ向かって手を振っている。灯里は一瞬だけ迷い、それからキューポラから片手を上げて振り返した。
「戸郷さん、今、手を振ってました?」
「はい」
「試合中ですよ?」
「TOGⅡは、いかなる時も優雅なのです」
操縦手席の小走すずが声を上げる。砲手席の火野まどかが、照準器を確認したまま静かに言った。
「聖グロ相手だからですか?」
「それもあります」
「大洗ですけど」
「今は、両方です」
呼子かなえが通信を拾いながら、少し笑った。
「Fチーム、住宅街方面へ進入します」
「進入というか、詰まりそうです」
「まだ詰まっていません」
すずが前方を見て言い、灯里は地図を見ながら指示する。
「細い道には入らず、大きめの路地を使います。TOGⅡは姿を消します」
「すぐバレそうです」
「気持ちの問題です」
「こそこそする気持ちですね」
「はい。とても大切です」
「車体が長いですけど」
「そこは、心で補います」
「補えるんですか?」
「補いたいです」
早見りんと米倉ちとせの声に、灯里は真面目に答える。TOGⅡの長い車体は、住宅街の角をゆっくりと曲がっていった。どう見ても隠れきれてはいない。けれど、灯里は本気だった。
TOGⅡは速く走れない。ならば、相手が来る場所に先にいるしかない。
それが、Fチームの戦い方だ。
* * *
聖グロリアーナ側では、オレンジペコが周囲を確認していた。
「大洗側、各車両が市街地へ分散しました」
チャーチルの車内で、ダージリンは静かに頷く。
「地の利を活かすつもりね」
「追撃しますか?」
「もちろん。でも、深追いは禁物よ」
ダージリンは、カップを持つような仕草をした。
「紅茶も戦車道も、香りを見失ってはいけませんもの」
聖グロの戦車隊は、市街地の入口で隊列を少し広げた。完全にばらけることはしない。けれど、大洗を探すために、マチルダIIがそれぞれ別方向へ進み始める。
オレンジペコは、遠くのTOGⅡを一瞬だけ見た。
「ルイボスさん……いえ、戸郷さんは、後方で道を押さえるつもりでしょうか」
「ええ。あの子は昔から、動けないものの使い方を考えるのが上手だったわ」
ダージリンは静かに微笑む。
「ただ、今のあの子は聖グロの生徒ではない。大洗のFチーム車長として、どう動くのか見せてもらいましょう」
市街地の奥。控えとして待機しているクルセイダー隊の方から、遠く騒がしい声が聞こえた気がした。
『ルイボス先輩、あんなに長い車体で隠れるつもりですのー!?』
灯里には届かない。けれど、その声の響きだけが、記憶の底で小さく跳ねた。
* * *
聖グロの一両を、建物の陰から見つめる影があった。CチームのIII号突撃砲。低い車体を利用し、建物の死角に潜んでいた。
「来たぞ」
エルヴィンが小さく言う。
「伏兵、今こそ!」
「ここが戦の分かれ目!」
マチルダIIが路地へ入る。側面が見えた。
「撃て!」
III号突撃砲の砲声が響く。砲弾はマチルダIIの側面を捉えた。
白旗。
『聖グロリアーナ、マチルダII一両、行動不能!』
Cチームの車内に歓声が上がった。
「勝鬨を上げよ!」
「我ら、戦果を得たり!」
その報告を聞いたダージリンの手元で、カップがわずかに揺れた。
「……おやりになるわね」
オレンジペコが前方を確認する。
「Cチーム、建物の影を上手く使っています」
「ええ」
ダージリンは微笑む。
「でも、ここまでよ」
* * *
別の通りでは、Bチームの八九式が、ルクリリのマチルダIIと向き合っていた。
「来るなら来い!」
「根性で受ける!」
磯辺典子たちは、なぜか真正面から気合いで張り合っている。マチルダIIの車内で、ルクリリは眉をひそめた。
「な、何ですの、あの気合いだけの戦車は!」
大洗の町並みは、広いようで意外と狭い。店先、看板、曲がり角、細い路地。八九式はそれらを利用し、マチルダIIを一瞬だけ誘い込んだ。
「今です!」
八九式が撃つ。砲弾がマチルダIIの外部燃料タンク付近に命中した。
炎が上がる。
「やった!?」
「撃破!?」
Bチームが歓声を上げかけた。しかし、白旗は上がらない。
ルクリリの怒った声が響く。
「やってくれましたわね!」
マチルダIIが砲塔を向ける。次の瞬間、八九式に砲撃が命中した。
白旗。
『Bチーム、行動不能!』
「根性が足りなかったー!」
「でも惜しかった!」
磯辺たちの声が無線に入る。
一方で、Cチームも逃げきれなかった。先ほど一両撃破したものの、車体に立てていた幟が市街地の中で目立ちすぎた。聖グロのマチルダIIが角を曲がりながら砲塔を向ける。
「旗が見えますわ」
砲撃。
III号突撃砲にも白旗が上がった。
『Cチーム、行動不能!』
「旗が……!」
「士気高揚の代償か……!」
エルヴィンたちの声が消えていく。
* * *
AチームのⅣ号車内に、撃破報告が続く。
「Cチーム、行動不能!」
沙織が通信を押さえながら叫ぶ。続けて、別の報告が入る。
「Bチームも、敵撃破失敗、行動不能!」
「残っている大洗側は、私たち、Fチーム、それからEチームの状況次第であります!」
「相手は……まだ四両です」
優花里が状況を整理し、華が静かに言った。みほは息を呑んだ。聖グロリアーナは、まだチャーチルを含めて四両。大洗は、すでにかなり削られている。
そこへ、灯里から通信が入った。
『Fチーム、行動可能。ただし、市街地での移動はかなり制限されています』
「戸郷さん、無理しないで」
『無理はしません。TOGⅡにできることをします』
みほの声に、灯里はすぐに返した。
灯里は、市街地の地図と聖グロの動きを照らし合わせた。チャーチルが押さえる。マチルダが逃げ道を塞ぐ。こちらの行き先を、一つずつ消していく。
この動き、知っている。
私は、かつてこの隊列の中にいた。でも、今は違う。今は、大洗のTOGⅡに乗っている。そう思った瞬間、胸の奥に別の記憶が滲んだ。
聖グロの整備区画。並ぶチャーチルとマチルダII。クルセイダーの軽いエンジン音。そして、そこにはない長い影。
TOGⅡは、そこにいなかった。
『ルイボス。あなたは、どうしてそこまでTOGⅡにこだわるの?』
誰かの声。
答えたのは、自分だった。
『あれに乗れない戦車道は――』
そこで、記憶は途切れた。
灯里は息を吸う。今は、試合中だ。
「Fチーム、路地を塞ぎます」
灯里が言うと、すずが息を呑んだ。
「本当に塞いだら、私たちも動けませんよ」
「それでいいです」
「よくないです」
「西住さんたちが抜ける時間を作ります」
「足止めですか」
「分断です」
まどかが照準器を覗きながら言う。TOGⅡの長い車体が、路地の入り口へ横たわるように動いた。
長い。あまりにも長い。
そこにいるだけで、道を塞ぐ。
追撃してきたマチルダIIが進路を変えざるを得なくなる。かなえが無線で報告した。
「聖グロ車両一両、進路変更! もう一両も減速!」
「よし」
灯里は頷いた。
「西住さん、今です。そちらの包囲が少し薄くなります」
『ありがとう、戸郷さん!』
みほの声が返る。だが、聖グロも黙っていない。TOGⅡが道を塞いでいる以上、そこを排除すればよい。マチルダIIが側面へ回り、チャーチルからの指示で砲撃位置を整えていく。
灯里の耳に、ダージリンの声が聞こえた気がした。
『また道を塞ぐのね、ルイボス』
穏やかで、どこか懐かしい声。
『あなたらしいわ』
灯里は静かに息を吐いた。
「ここまでです」
「撤退しないんですか?」
「撤退するより、ここに残った方が長く役に立ちます」
かなえが振り返り、すずが操縦桿を握ったまま少しだけ悔しそうに言った。
「曲がれませんしね」
「はい。ですが、曲がれないことにも意味はあります」
聖グロの砲撃がTOGⅡに命中した。車体が揺れる。まどかが踏ん張る。
「まだ撃てます」
「牽制を」
「了解」
TOGⅡが砲撃する。だが、聖グロは止まらない。
二発目。
三発目。
そして、判定装置が作動した。
TOGⅡの上に白旗が上がる。
『Fチーム、行動不能!』
かなえが小さく息を呑む。ちとせとりんも、装填位置で動きを止めた。灯里は、白旗の上がったTOGⅡの中で静かに言った。
「役目は果たしました」
まどかが照準器から目を離す。
「次は、もう少し長く塞ぎます」
「次は、もう少し曲がれるようにします」
「次は、もっと早く伝えます」
すずとかなえも続く。灯里は少しだけ微笑んだ。
「はい。次です」
* * *
TOGⅡが作ったわずかな隙を使い、Aチームは包囲を抜けた。だが、聖グロはすぐに追ってくる。逃げる途中、一両のマチルダIIが狭い通りで操作を誤り、店先に突っ込んだ。
大きな音が響く。店の看板が揺れ、壁が崩れる。店主が顔を出した。
「おお、新築にできる!」
白旗状態のTOGⅡからその様子を見ていた灯里は、思わず呟く。
「戦車道協会から補助金でも出るのでしょうか……」
「出るんじゃないですか?」
「出ないと困りますね」
りんとちとせが小さく頷く。市街地戦は、町も巻き込む。それでも町の人たちが怒らないのが、この世界の不思議であり、戦車道の常識だった。
* * *
Aチームは、さらに路地を抜ける。麻子の操縦は鋭い。細い道を選び、角を抜け、追撃をかわしていく。しかし、逃げ込んだ先は工事中だった。
前方に通行止めの看板。資材。行き止まり。
「行き止まり!?」
沙織が叫ぶ。みほはすぐに後方を確認した。
聖グロが迫っている。
チャーチル。マチルダII三両。
完全に追い込まれた。
ダージリンの声が通信に入る。
『こんな格言を知ってる?』
みほは息を呑む。
『イギリス人は、戦争と恋愛では手段を選ばない』
白旗の上がったTOGⅡの車内で、灯里はその声を聞いて小さく反応した。
「出ました」
「出た?」
「ダージリンさんの口癖です」
「思い出したんですか?」
「少しだけ」
かなえが首を傾げる。チャーチルが砲塔を向ける。みほたちは絶体絶命だった。
その瞬間。
『ちょうど間に参上〜!』
軽い声とともに、金色の38(t)が横から飛び出してきた。杏会長のEチーム。桃が砲手席で狙いをつける。
「今だ!」
砲撃。
外れた。
目の前で、外れた。
「なぜだ!」
桃の悲鳴。
「桃ちゃん、ここで外す!?」
柚子が驚いた調子で言う。次の瞬間、聖グロの四両から集中砲火を受ける。38(t)に白旗が上がった。
『Eチーム、行動不能!』
「やられた〜」
杏の声は、どこか軽かった。しかし、その一瞬で、Aチームは横の路地へ抜けることができた。
みほはすぐに指示する。
「五十鈴さん、右のマチルダII!」
「はい!」
華が砲撃する。狙いは甘くない。マチルダIIに命中し、白旗が上がる。
『聖グロリアーナ、マチルダII一両、行動不能!』
沙織が叫ぶ。
「やった!」
しかし、みほはすぐに次を見ていた。
「まだです。大通りに出ます」
「了解」
麻子が頷く。Ⅳ号は路地を抜け、大通りへ出た。
みほは周囲を見て判断する。
「相手が出てくる路地を、先に押さえます」
「なるほど! 先回りされる前に、こちらが出口を取るのでありますね!」
優花里が声を上げる。聖グロのマチルダIIが路地から出てくる。
その瞬間。
「撃ってください!」
華が撃つ。
白旗。
さらにもう一両。
建物の死角から出てきたところを、麻子の操縦で角度を取り、華が撃つ。
白旗。
市街地に、砲声と歓声が響いた。
残るは、ダージリンのチャーチル。
* * *
Ⅳ号とチャーチルが向き合った。大通り。周囲には破損した看板、砲撃跡、戦車が通った跡。そして、両者の間には静かな緊張。
みほは息を整える。
「五十鈴さん、チャーチルの側面砲塔を狙ってください」
「はい」
華が照準する。
砲撃。
命中。
だが、白旗は上がらない。
「装甲に阻まれました!」
「効いてないの!?」
優花里が叫び、沙織が青ざめる。みほは短く息を吐いた。
「距離を取ります」
Ⅳ号が後退する。チャーチルも向きを変える。ダージリンは、落ち着いたままⅣ号を見ていた。
みほは覚悟を決めた。
「このまま、決着をつけます」
「どうする」
「突撃すると見せかけて、側面に回ります」
「難しいな」
「お願い」
「分かった」
麻子が短く答える。Ⅳ号が加速した。チャーチルへ向かって、真っ直ぐ突っ込む。ダージリンのチャーチルが砲塔を向ける。
ギリギリまで引きつける。
そして。
「今!」
麻子が車体を振った。Ⅳ号が滑るように角度を変える。まるでドリフトするように、チャーチルの側面へ回り込む。華が照準する。ダージリンも砲塔を合わせる。
ほぼ同時に、二つの砲声が響いた。
一瞬、静寂。
そして白旗が上がった。
上がったのは――Ⅳ号だった。
『試合終了! 聖グロリアーナ女学院の勝利!』
会場に、審判の声が響いた。
* * *
大洗は負けた。
Ⅳ号の上で、みほはしばらく動けなかった。悔しい。けれど、不思議と、ただ怖いだけではなかった。最後まで戦った。自分の判断で、仲間と一緒に、最後まで。
「負けちゃったね……」
「ですが、最後まで戦えました」
「西住殿……素晴らしい指揮でありました」
「悪くなかった」
沙織、華、優花里、麻子の声が続く。みほは、少しだけ目を伏せた。
「うん……ありがとう」
そこへ、チャーチルからダージリンが降りてきた。オレンジペコも後ろに続く。少し離れた控え車両のそばでは、クルセイダー隊の面々が試合後の空気を見守っていた。
その中で、ひときわ落ち着きのない影が身を乗り出している。
「ルイボス先輩、本当にTOGⅡに乗ってましたのねー!」
その声は遠くからで、試合後のざわめきに半分混ざった。灯里は、白旗の上がったTOGⅡのそばで少しだけ目を細める。
聞き覚えがある。速くて、騒がしくて、紅茶より炭酸みたいな声。けれど、まだ名前までは霧の中だった。
ダージリンはみほの前まで来ると、静かに微笑んだ。
「よい試合でしたわ」
「ありがとうございました」
みほは頭を下げる。ダージリンは、少しだけ首を傾げた。
「ところで、あなたのお名前は?」
みほは一瞬、言いづらそうにした。その名前は、今も少し重い。けれど、隠すものでもない。
「……西住、みほです」
その名を聞いた瞬間、ダージリンの表情がほんの少し変わった。
「西住……」
そして、確認するように言う。
「もしかして、西住流の?」
「はい」
みほは小さく頷いた。ダージリンは少し驚いたように見つめ、それから穏やかに微笑んだ。
「そう。随分、まほさんとは違うのね」
みほは、わずかに目を伏せる。だが、ダージリンの声には責める響きはなかった。
「でも、悪い意味ではありませんわ」
みほが顔を上げる。ダージリンは続けた。
「あなたの戦車道は、まだ形になりきってはいない。けれど、今日の最後の一手には、確かにあなた自身がありました」
「私自身……」
「ええ。次にお会いする時が楽しみですわ」
みほは、言葉を探すように少しだけ黙った。そして、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
ダージリンは微笑み、それから視線を少し遠くへ向けた。そこには、白旗を上げたTOGⅡがいた。長い車体。ダックスフンドホットドッグのエンブレム。Fチーム。まだ仮名の、いぬさんチーム候補。
「それに、今日は懐かしい茶葉にも会えましたし」
オレンジペコが、静かにその視線を追う。
「ルイボスさん……いえ、戸郷さんも、最後まで大洗の一員として戦っていましたね」
「ええ」
ダージリンは穏やかに頷いた。
「TOGⅡで道を塞ぐなんて、とてもあの子らしいわ」
白旗の上がったTOGⅡのそばで、灯里はその言葉を聞いていた。
赤い制服。紅茶の香り。ルイボスと呼ぶ声。そして、長い戦車の影。
TOGⅡに乗れない。
その言葉だけが、胸の奥で引っかかっている。
けれど、その先はまだ見えない。
試合は終わった。大洗は負けた。けれど、終わっていないものがあった。
西住みほにとっての、戦車道。
そして、戸郷灯里にとっての、聖グロリアーナ。
ダージリンの紅茶の香りが、忘れていた名前の奥にある記憶を、静かに呼び覚まそうとしていた。