『TOGⅡで戦車道を……?』   作:きのこ大三元

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第15.5話「ルイボスの記憶」

 白旗が上がってから、TOGⅡの車内はしばらく静かだった。

 

 砲声はもうない。

 エンジン音も落ち着いている。

 

 それなのに、戸郷灯里の中では、まだ何かが止まっていなかった。

 

 TOGⅡに乗れない。

 

 試合の終わりにこぼれたその言葉が、ずっと胸に引っかかっている。

 

「……終わりましたね」

 

 砲手席で、火野まどかが小さく息を吐いた。

 

「負けちゃいました」

 

 無線手席の呼子かなえが、ぽつりと言う。

 操縦手席では、小走すずが操縦桿に手を置いたまま、ぐったりと前へ沈んでいた。

 

「TOGⅡ、遅いです……重いです……長いです……」

「そこは褒めるところです」

「今は褒めてません」

 

 灯里は、車長席から外を見た。

 

 大洗の町には、まだ試合の跡が残っている。砲撃で欠けた壁。揺れている看板。白旗の上がった大洗の戦車たち。そして、整然と停止している聖グロリアーナの車両。

 

 チャーチル。

 マチルダII。

 

 最後まで、あの隊列は崩れなかった。

 

 灯里は、その動きを知っていた。

 

 この圧力を知っている。

 この落ち着きを知っている。

 この紅茶の香りが似合う戦車道を、自分は知っている。

 

 でも、最後の一枚だけが、まだ見えない。

 

「戸郷さん?」

 

 かなえが振り返る。

 

「大丈夫ですか?」

「はい」

 

 灯里は答えた。

 けれど、自分でも少しだけ分かっていた。今の「はい」は、試合中の「はい」とは違う。

 

 大丈夫ではない。

 ただ、崩れていないだけだ。

 

 外から、足音が聞こえた。

 

 チャーチルの方から、ダージリンが歩いてくる。その後ろに、オレンジペコ。そして、もう一人。

 

 金髪を大きな黒いリボンでまとめたポニーテールが印象的な少女が、資料へ目を落としながら静かに歩いていた。

 

 灯里は、その姿を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。

 

「……アッサムさん」

 

 口から名前が出た。

 自分でも、少し驚くくらい自然に。

 

 アッサムは眼鏡の奥で目を細め、淡々とした声で言った。

 

「覚えていらしたのね、ルイボス」

 

 その呼び方に、TOGⅡの車内が少しだけ静まる。

 

 ルイボス。

 

 その名前は、もう他人の名前ではなかった。

 

 灯里はハッチから降り、白旗の上がったTOGⅡの横に立った。

 

「全部ではありません。でも、少しずつ」

「そう」

 

 アッサムは手元の資料を軽く叩いた。

 

「今日のあなたの動きは、記録しておく価値がありました」

「えっ」

「大洗Fチーム。TOGⅡ。マチルダII一両撃破。市街地では路地封鎖により、Aチームの離脱時間を確保。総合的には、戦果以上に妨害効果が高いと判断できます」

 

 まどかが少しだけ背筋を伸ばした。

 

「分析されています」

「されていますね」

 

 灯里も少し硬くなる。

 すずがTOGⅡの中から小声で言った。

 

「TOGⅡの遅さも記録されてますか?」

「当然です」

 

 アッサムは迷いなく答えた。

 金色のポニーテールが揺れ、大きな黒いリボンが風を受ける。

 

「速度面では、かなり厳しい戦車です」

「やっぱり」

「ただし」

 

 アッサムは、白旗の上がったTOGⅡを見上げる。

 

「そこに置かれると、非常に邪魔です」

 

 灯里は、少しだけ胸を張った。

 

「最高の褒め言葉です」

「褒めたつもりではあります」

「ありがとうございます」

 

 ダージリンが微笑む。

 

「相変わらずね、ルイボス」

 

 その声で、灯里の胸の奥にあった何かが、また少しだけ揺れた。

 

 ルイボス。

 

 聖グロリアーナで、そう呼ばれていた自分。

 

 赤い制服。

 白いカップ。

 紅茶の香り。

 整備区画。

 

 そして、そこには金髪のポニーテールを揺らしながら資料を抱えるアッサムの姿もあった。

 

 TOGⅡは、そこにいなかった。

 

 灯里は、目を閉じる。

 

 試合後のざわめきが遠のく。

 代わりに聞こえてきたのは、過去の自分の声だった。

 

 * * *

 

 聖グロリアーナ女学院の整備区画は、いつもきれいに整っていた。

 

 チャーチルが並んでいる。

 マチルダIIが整備を受けている。

 少し離れた場所では、クルセイダーの軽いエンジン音がしていた。

 

 すべてが、聖グロらしい。

 

 落ち着いていて。

 整っていて。

 美しい。

 

 けれど、そこにTOGⅡはいなかった。

 

「ルイボス」

 

 ダージリンの声がした。

 

 振り返ると、そこにはダージリン、オレンジペコ、アッサムがいた。アッサムは当時も今と同じように、資料を手にしている。金色のポニーテールを大きな黒いリボンでまとめ、冷静な目でこちらを見ていた。

 

「あなた、また資料室でTOGⅡの資料を借りていたそうね」

「はい」

 

 過去の灯里は、迷いなく頷いた。

 

「TOGⅡは素晴らしい戦車です」

 

 アッサムが眼鏡を直す。

 

「戦車道の実用面で考えると、問題点も多いわ。速度、運用性、輸送、旋回、地形適性」

「長所も多いです」

「長さ?」

「はい」

 

 オレンジペコが少し困ったように微笑んだ。

 

「ルイボスさん、それは長所なのでしょうか」

「長所です。道を塞げます」

 

 ダージリンは楽しそうに紅茶を傾けた。

 

「あなたらしい答えね」

 

 過去の灯里は、その言葉に少しだけ嬉しそうにした。

 

 聖グロが嫌いだったわけではない。

 

 ダージリンの紅茶も。

 オレンジペコの穏やかさも。

 アッサムの冷静な分析も。

 ローズヒップの騒がしさも。

 

 ここで学んだ戦車道も、全部、嫌いではなかった。

 むしろ、好きだった。

 

 けれど。

 

「ルイボス」

 

 ダージリンが、静かに聞く。

 

「あなたは、どうしてそこまでTOGⅡにこだわるの?」

 

 その問いに、過去の灯里は少しだけ黙った。

 

 整った整備区画。

 整った隊列。

 整った紅茶の香り。

 

 そのどれもが美しい。

 けれど、自分が探していたものは、そこにはなかった。

 

「あれに乗れない戦車道は」

 

 過去の灯里は、顔を上げた。

 

「私の戦車道ではありません」

 

 オレンジペコが息を呑む。

 アッサムは少しだけ目を細めた。

 

 ダージリンは、怒らなかった。

 ただ、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 

「聖グロリアーナに残れば、あなたはきっと良い車長になったでしょうね」

「ありがとうございます」

「でも」

 

 ダージリンは、紅茶のカップを置いた。

 

「TOGⅡに乗れないあなたは、あなたではなかったのでしょう?」

 

 その言葉に、過去の灯里は何も言えなかった。

 

 アッサムが資料を閉じる。

 

「合理的ではないわ」

「はい」

「けれど、理由としては明確です」

「はい」

 

 オレンジペコが、少し困ったように言った。

 

「ルイボスさん、本当に大洗へ?」

「はい」

 

 過去の灯里は頷いた。

 

「大洗には、TOGⅡがあるので」

 

 その瞬間、どこか遠くから、騒がしい声が響いた。

 

「ルイボス先輩ー! TOGⅡって本当にそんなに長いんですのー!? 走れるんですのー!?」

 

 ローズヒップだった。

 

 空気が少しだけ緩む。

 ダージリンは苦笑する。

 

「ローズヒップ、廊下で叫ばないの」

「だって気になりますの! ルイボス先輩がTOGⅡのために転校するって聞きましたの!」

「話が早すぎます」

 

 アッサムが冷静に言った。

 

 ローズヒップは、まったく気にしていなかった。

 

「でも、ルイボス先輩らしいですわ! 長い戦車で、どーんと道を塞ぎますのね!」

 

 過去の灯里は、少しだけ目を丸くした。

 そして、小さく笑った。

 

「はい。塞ぎます」

 

 ダージリンも笑う。

 

「本当に、あなたらしいわ」

 

 そこで、記憶がほどけた。

 

 * * *

 

 灯里は目を開けた。

 

 目の前には、白旗の上がったTOGⅡ。そして、ダージリン、オレンジペコ、アッサム。少し離れたところから、ローズヒップがこちらを見ている。試合中は控えだったクルセイダー隊のそばで、今にも走ってきそうな勢いだった。

 

「……思い出しました」

 

 灯里は静かに言った。

 

 ダージリンは、穏やかに微笑む。

 

「どこまで?」

「大洗に来た理由です」

 

 オレンジペコが、少しだけ表情を和らげた。

 

「ルイボスさん……いえ、戸郷さん」

「オレンジペコさん」

「聖グロが嫌で出ていかれたわけでは、なかったのですね」

 

 灯里は首を横に振る。

 

「嫌いではありませんでした。聖グロの戦車道も、皆さんのことも」

 

 そして、白旗の上がったTOGⅡを見上げる。

 

「でも、TOGⅡに乗れない戦車道は、私の戦車道ではありませんでした」

 

 アッサムが、静かに頷いた。

 

「記録と一致しました」

「記録されているんですか」

「ええ。あなたの転校前後の言動は、かなり特徴的でしたから」

「どのあたりが」

「主にTOGⅡに関する発言頻度です」

 

 灯里は少しだけ目を逸らした。

 

「それは……まあ」

「週平均でかなり多かったわ」

「具体的な数字は言わなくて大丈夫です」

「そう」

 

 アッサムは素直に引いた。

 

 ダージリンが小さく笑う。

 

「責めてはいませんわ」

 

 灯里はダージリンを見る。

 

「怒っていないんですか?」

「怒る理由がありませんもの」

 

 ダージリンは、白旗の上がったTOGⅡを見た。

 

「あなたは、自分の戦車道を選んだ。それだけですわ」

「でも、聖グロを出ました」

「ええ」

 

 ダージリンは頷く。

 

「少し寂しくはありました。でも、今日のあなたを見て、納得しました」

 

 灯里は言葉を失う。

 

 ダージリンは続けた。

 

「TOGⅡで道を塞ぎ、仲間を逃がす。遅くて、長くて、扱いにくい戦車を、あそこまで嬉しそうに使う」

「嬉しそうでしたか?」

「ええ」

「試合中でしたが」

「試合中でも分かりますわ」

 

 オレンジペコも、少し微笑んだ。

 

「とても戸郷さんらしかったです」

 

 アッサムが付け加える。

 

「戦術的にも、十分に効果がありました。あの足止めがなければ、Aチームはもっと早く包囲されていた可能性があります」

「ありがとうございます」

「ただし、TOGⅡの運用には改善点が多いわ」

「はい」

「特に市街地での旋回」

「そこは、かなり」

「あと速度」

「それは、TOGⅡなので」

「あと車体長」

「そこは褒めるところです」

 

 アッサムは、少しだけ考えてから頷いた。

 

「そういうことにしておきます」

 

 その時、我慢できなくなったようにローズヒップが駆け寄ってきた。

 

「ルイボス先輩ー! 本当にTOGⅡに乗ってましたのねー!」

「ローズヒップさん」

 

 名前が、今度は自然に出た。

 

 ローズヒップの顔がぱっと明るくなる。

 

「思い出しましたの!?」

「はい。少し」

「では、わたくしのことも!?」

「速くて、騒がしくて、紅茶より炭酸みたいな方です」

「褒められましたわー!」

「褒めたのでしょうか……」

 

 オレンジペコが苦笑する。

 

 ローズヒップはTOGⅡを見上げ、目を輝かせた。

 

「それにしても長いですわ! 長すぎますわ! これで本当にこそこそするつもりでしたの!?」

「気持ちの問題です」

「気持ちで隠れるには大きすぎますわー!」

 

 すずがTOGⅡの中から顔を出す。

 

「同じことを言ってくれる人がいました」

「味方が増えましたね」

 

 かなえが小声で言う。

 

 灯里は少しだけ不満そうにした。

 

「TOGⅡは、こそこそできます」

「してませんでしたわ! 道を塞いでましたわ!」

「それも、こそこそ作戦の一部です」

「大きく塞いでましたわ!」

 

 ローズヒップの声に、周囲の空気が少し緩んだ。

 

 その様子を、少し離れた場所で西住みほが見ていた。

 

 みほは、灯里に近づいてくる。

 

「戸郷さん」

「西住さん」

 

 みほは少し迷ってから、静かに聞いた。

 

「戸郷さんも、戦車道から離れたかったんですか?」

 

 その問いに、灯里はすぐには答えなかった。

 

 みほの言葉の奥に、黒森峰という名前があることを知っている。

 

 逃げてきたもの。

 置いてきたもの。

 まだ向き合えないもの。

 

 自分にも、それに似たものがあった。

 

「離れたかったというより」

 

 灯里は言った。

 

「探し直したかったんだと思います」

「探し直す?」

「はい。自分が乗りたい戦車で、自分がやりたい戦車道を」

 

 みほは、少しだけ目を伏せた。

 

「自分がやりたい戦車道……」

 

 灯里は、みほを見る。

 

「西住さんも、きっと見つけられます」

「私も?」

「はい」

 

 少し間を置いて、灯里は付け加えた。

 

「少なくとも、今日の最後の指示は、西住さんの戦車道でした」

 

 みほは驚いたように灯里を見る。

 

「私の……」

 

 ダージリンが、少し離れた場所から穏やかに言った。

 

「私もそう思いますわ」

 

 みほは、さらに驚いた顔をした。

 

 ダージリンは紅茶のカップを持つような仕草で微笑む。

 

「形はまだこれから。でも、最後の一手には、確かにあなた自身がありました」

 

 みほは少しだけ黙り、それから小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 灯里は、その横顔を見ていた。

 

 黒森峰から来た西住みほ。

 聖グロから来た戸郷灯里。

 

 理由は違う。

 傷の形も違う。

 

 けれど、二人ともここにいる。

 

 大洗女子学園に。

 

 自分の戦車道を探すために。

 

 その時、遠くから河嶋桃の声が響いた。

 

「おい! お前たち! 負けた以上、今後の訓練はさらに厳しくするからな!」

 

 杏ののんびりした声も続く。

 

「まあまあ、その前に反省会だねー」

 

 沙織が嫌な予感を覚えたような声を出す。

 

「反省会って、普通の反省会ですよね?」

「普通だといいですね」

 

 灯里が言うと、みほが少し不安そうにした。

 

「普通じゃない反省会って、何ですか?」

「例えば、踊るとか」

「踊る?」

 

 優花里が目を輝かせる。

 

「大洗には、あんこう踊りというものがあるそうであります!」

「秋山さん、今その情報いりますか?」

「必要になるかもしれないであります!」

 

 灯里は真顔になった。

 

「……TOGⅡの中に隠れましょう」

「戸郷さん、さっき気持ちで隠れるって言ってましたよね?」

「現実的な隠れ場所も大事です」

 

 すずが即座に言う。

 

「TOGⅡの中なら隠れられます」

「でも車体ごと目立ちます」

「そこは、気持ちの問題です」

 

 かなえが言い、Fチームの車内に小さな笑いが起きた。

 

 灯里も、少しだけ笑った。

 

 試合は負けた。

 

 大洗は、まだ弱い。

 みほの戦車道も、まだ始まったばかり。

 灯里の記憶も、ようやく戻り始めたばかり。

 

 けれど、終わりではない。

 

 西住みほは、自分の戦車道を探し始めた。

 

 戸郷灯里は、自分が聖グロを出た理由を思い出した。

 

 TOGⅡに乗れない戦車道は、自分の戦車道ではなかった。

 

 だから、今ここにいる。

 

 白旗の上がったTOGⅡの隣で、灯里はもう一度、長い車体を見上げた。

 

「次は、もう少し長く塞ぎます」

 

 まどかが頷く。

 

「次は、もう少し正確に撃ちます」

 

 いつもの淡々とした声だった。

 けれど、その奥には、撃てなかった悔しさと、次は外さないという静かな意地があった。

 

「次は、もう少し早く曲がります」

 

 すずが、操縦席から顔を出して言う。

 

「次は、もっと通信を拾います」

 

 かなえも頷いた。

 

「次は、装填を詰まらせません」

 

 ちとせが、少しだけ拳を握る。

 

「次は、もっと流します」

 

 りんの声には、いつもの明るさが戻り始めていた。

 

 ひとつずつ、次の言葉が重なっていく。

 

 負けた悔しさを、誰かのせいにするのではなく、自分たちの手元へ戻していくように。

 

 灯里は、ゆっくり頷いた。

 

「はい。次です」

 

 その言葉に、ダージリンが静かに微笑んだ。

 

「次のお茶会が、楽しみですわ」

 

 紅茶の香りが、風に混ざる。

 

 忘れていた名前は、もう遠くない。

 

 ルイボス。

 

 それは、聖グロリアーナにいた自分。

 

 そして今は。

 

 戸郷灯里。

 

 大洗女子学園、Fチーム。

 

 TOGⅡの車長だった。

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