白旗が上がってから、TOGⅡの車内はしばらく静かだった。
砲声はもうない。
エンジン音も落ち着いている。
それなのに、戸郷灯里の中では、まだ何かが止まっていなかった。
TOGⅡに乗れない。
試合の終わりにこぼれたその言葉が、ずっと胸に引っかかっている。
「……終わりましたね」
砲手席で、火野まどかが小さく息を吐いた。
「負けちゃいました」
無線手席の呼子かなえが、ぽつりと言う。
操縦手席では、小走すずが操縦桿に手を置いたまま、ぐったりと前へ沈んでいた。
「TOGⅡ、遅いです……重いです……長いです……」
「そこは褒めるところです」
「今は褒めてません」
灯里は、車長席から外を見た。
大洗の町には、まだ試合の跡が残っている。砲撃で欠けた壁。揺れている看板。白旗の上がった大洗の戦車たち。そして、整然と停止している聖グロリアーナの車両。
チャーチル。
マチルダII。
最後まで、あの隊列は崩れなかった。
灯里は、その動きを知っていた。
この圧力を知っている。
この落ち着きを知っている。
この紅茶の香りが似合う戦車道を、自分は知っている。
でも、最後の一枚だけが、まだ見えない。
「戸郷さん?」
かなえが振り返る。
「大丈夫ですか?」
「はい」
灯里は答えた。
けれど、自分でも少しだけ分かっていた。今の「はい」は、試合中の「はい」とは違う。
大丈夫ではない。
ただ、崩れていないだけだ。
外から、足音が聞こえた。
チャーチルの方から、ダージリンが歩いてくる。その後ろに、オレンジペコ。そして、もう一人。
金髪を大きな黒いリボンでまとめたポニーテールが印象的な少女が、資料へ目を落としながら静かに歩いていた。
灯里は、その姿を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
「……アッサムさん」
口から名前が出た。
自分でも、少し驚くくらい自然に。
アッサムは眼鏡の奥で目を細め、淡々とした声で言った。
「覚えていらしたのね、ルイボス」
その呼び方に、TOGⅡの車内が少しだけ静まる。
ルイボス。
その名前は、もう他人の名前ではなかった。
灯里はハッチから降り、白旗の上がったTOGⅡの横に立った。
「全部ではありません。でも、少しずつ」
「そう」
アッサムは手元の資料を軽く叩いた。
「今日のあなたの動きは、記録しておく価値がありました」
「えっ」
「大洗Fチーム。TOGⅡ。マチルダII一両撃破。市街地では路地封鎖により、Aチームの離脱時間を確保。総合的には、戦果以上に妨害効果が高いと判断できます」
まどかが少しだけ背筋を伸ばした。
「分析されています」
「されていますね」
灯里も少し硬くなる。
すずがTOGⅡの中から小声で言った。
「TOGⅡの遅さも記録されてますか?」
「当然です」
アッサムは迷いなく答えた。
金色のポニーテールが揺れ、大きな黒いリボンが風を受ける。
「速度面では、かなり厳しい戦車です」
「やっぱり」
「ただし」
アッサムは、白旗の上がったTOGⅡを見上げる。
「そこに置かれると、非常に邪魔です」
灯里は、少しだけ胸を張った。
「最高の褒め言葉です」
「褒めたつもりではあります」
「ありがとうございます」
ダージリンが微笑む。
「相変わらずね、ルイボス」
その声で、灯里の胸の奥にあった何かが、また少しだけ揺れた。
ルイボス。
聖グロリアーナで、そう呼ばれていた自分。
赤い制服。
白いカップ。
紅茶の香り。
整備区画。
そして、そこには金髪のポニーテールを揺らしながら資料を抱えるアッサムの姿もあった。
TOGⅡは、そこにいなかった。
灯里は、目を閉じる。
試合後のざわめきが遠のく。
代わりに聞こえてきたのは、過去の自分の声だった。
* * *
聖グロリアーナ女学院の整備区画は、いつもきれいに整っていた。
チャーチルが並んでいる。
マチルダIIが整備を受けている。
少し離れた場所では、クルセイダーの軽いエンジン音がしていた。
すべてが、聖グロらしい。
落ち着いていて。
整っていて。
美しい。
けれど、そこにTOGⅡはいなかった。
「ルイボス」
ダージリンの声がした。
振り返ると、そこにはダージリン、オレンジペコ、アッサムがいた。アッサムは当時も今と同じように、資料を手にしている。金色のポニーテールを大きな黒いリボンでまとめ、冷静な目でこちらを見ていた。
「あなた、また資料室でTOGⅡの資料を借りていたそうね」
「はい」
過去の灯里は、迷いなく頷いた。
「TOGⅡは素晴らしい戦車です」
アッサムが眼鏡を直す。
「戦車道の実用面で考えると、問題点も多いわ。速度、運用性、輸送、旋回、地形適性」
「長所も多いです」
「長さ?」
「はい」
オレンジペコが少し困ったように微笑んだ。
「ルイボスさん、それは長所なのでしょうか」
「長所です。道を塞げます」
ダージリンは楽しそうに紅茶を傾けた。
「あなたらしい答えね」
過去の灯里は、その言葉に少しだけ嬉しそうにした。
聖グロが嫌いだったわけではない。
ダージリンの紅茶も。
オレンジペコの穏やかさも。
アッサムの冷静な分析も。
ローズヒップの騒がしさも。
ここで学んだ戦車道も、全部、嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
けれど。
「ルイボス」
ダージリンが、静かに聞く。
「あなたは、どうしてそこまでTOGⅡにこだわるの?」
その問いに、過去の灯里は少しだけ黙った。
整った整備区画。
整った隊列。
整った紅茶の香り。
そのどれもが美しい。
けれど、自分が探していたものは、そこにはなかった。
「あれに乗れない戦車道は」
過去の灯里は、顔を上げた。
「私の戦車道ではありません」
オレンジペコが息を呑む。
アッサムは少しだけ目を細めた。
ダージリンは、怒らなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「聖グロリアーナに残れば、あなたはきっと良い車長になったでしょうね」
「ありがとうございます」
「でも」
ダージリンは、紅茶のカップを置いた。
「TOGⅡに乗れないあなたは、あなたではなかったのでしょう?」
その言葉に、過去の灯里は何も言えなかった。
アッサムが資料を閉じる。
「合理的ではないわ」
「はい」
「けれど、理由としては明確です」
「はい」
オレンジペコが、少し困ったように言った。
「ルイボスさん、本当に大洗へ?」
「はい」
過去の灯里は頷いた。
「大洗には、TOGⅡがあるので」
その瞬間、どこか遠くから、騒がしい声が響いた。
「ルイボス先輩ー! TOGⅡって本当にそんなに長いんですのー!? 走れるんですのー!?」
ローズヒップだった。
空気が少しだけ緩む。
ダージリンは苦笑する。
「ローズヒップ、廊下で叫ばないの」
「だって気になりますの! ルイボス先輩がTOGⅡのために転校するって聞きましたの!」
「話が早すぎます」
アッサムが冷静に言った。
ローズヒップは、まったく気にしていなかった。
「でも、ルイボス先輩らしいですわ! 長い戦車で、どーんと道を塞ぎますのね!」
過去の灯里は、少しだけ目を丸くした。
そして、小さく笑った。
「はい。塞ぎます」
ダージリンも笑う。
「本当に、あなたらしいわ」
そこで、記憶がほどけた。
* * *
灯里は目を開けた。
目の前には、白旗の上がったTOGⅡ。そして、ダージリン、オレンジペコ、アッサム。少し離れたところから、ローズヒップがこちらを見ている。試合中は控えだったクルセイダー隊のそばで、今にも走ってきそうな勢いだった。
「……思い出しました」
灯里は静かに言った。
ダージリンは、穏やかに微笑む。
「どこまで?」
「大洗に来た理由です」
オレンジペコが、少しだけ表情を和らげた。
「ルイボスさん……いえ、戸郷さん」
「オレンジペコさん」
「聖グロが嫌で出ていかれたわけでは、なかったのですね」
灯里は首を横に振る。
「嫌いではありませんでした。聖グロの戦車道も、皆さんのことも」
そして、白旗の上がったTOGⅡを見上げる。
「でも、TOGⅡに乗れない戦車道は、私の戦車道ではありませんでした」
アッサムが、静かに頷いた。
「記録と一致しました」
「記録されているんですか」
「ええ。あなたの転校前後の言動は、かなり特徴的でしたから」
「どのあたりが」
「主にTOGⅡに関する発言頻度です」
灯里は少しだけ目を逸らした。
「それは……まあ」
「週平均でかなり多かったわ」
「具体的な数字は言わなくて大丈夫です」
「そう」
アッサムは素直に引いた。
ダージリンが小さく笑う。
「責めてはいませんわ」
灯里はダージリンを見る。
「怒っていないんですか?」
「怒る理由がありませんもの」
ダージリンは、白旗の上がったTOGⅡを見た。
「あなたは、自分の戦車道を選んだ。それだけですわ」
「でも、聖グロを出ました」
「ええ」
ダージリンは頷く。
「少し寂しくはありました。でも、今日のあなたを見て、納得しました」
灯里は言葉を失う。
ダージリンは続けた。
「TOGⅡで道を塞ぎ、仲間を逃がす。遅くて、長くて、扱いにくい戦車を、あそこまで嬉しそうに使う」
「嬉しそうでしたか?」
「ええ」
「試合中でしたが」
「試合中でも分かりますわ」
オレンジペコも、少し微笑んだ。
「とても戸郷さんらしかったです」
アッサムが付け加える。
「戦術的にも、十分に効果がありました。あの足止めがなければ、Aチームはもっと早く包囲されていた可能性があります」
「ありがとうございます」
「ただし、TOGⅡの運用には改善点が多いわ」
「はい」
「特に市街地での旋回」
「そこは、かなり」
「あと速度」
「それは、TOGⅡなので」
「あと車体長」
「そこは褒めるところです」
アッサムは、少しだけ考えてから頷いた。
「そういうことにしておきます」
その時、我慢できなくなったようにローズヒップが駆け寄ってきた。
「ルイボス先輩ー! 本当にTOGⅡに乗ってましたのねー!」
「ローズヒップさん」
名前が、今度は自然に出た。
ローズヒップの顔がぱっと明るくなる。
「思い出しましたの!?」
「はい。少し」
「では、わたくしのことも!?」
「速くて、騒がしくて、紅茶より炭酸みたいな方です」
「褒められましたわー!」
「褒めたのでしょうか……」
オレンジペコが苦笑する。
ローズヒップはTOGⅡを見上げ、目を輝かせた。
「それにしても長いですわ! 長すぎますわ! これで本当にこそこそするつもりでしたの!?」
「気持ちの問題です」
「気持ちで隠れるには大きすぎますわー!」
すずがTOGⅡの中から顔を出す。
「同じことを言ってくれる人がいました」
「味方が増えましたね」
かなえが小声で言う。
灯里は少しだけ不満そうにした。
「TOGⅡは、こそこそできます」
「してませんでしたわ! 道を塞いでましたわ!」
「それも、こそこそ作戦の一部です」
「大きく塞いでましたわ!」
ローズヒップの声に、周囲の空気が少し緩んだ。
その様子を、少し離れた場所で西住みほが見ていた。
みほは、灯里に近づいてくる。
「戸郷さん」
「西住さん」
みほは少し迷ってから、静かに聞いた。
「戸郷さんも、戦車道から離れたかったんですか?」
その問いに、灯里はすぐには答えなかった。
みほの言葉の奥に、黒森峰という名前があることを知っている。
逃げてきたもの。
置いてきたもの。
まだ向き合えないもの。
自分にも、それに似たものがあった。
「離れたかったというより」
灯里は言った。
「探し直したかったんだと思います」
「探し直す?」
「はい。自分が乗りたい戦車で、自分がやりたい戦車道を」
みほは、少しだけ目を伏せた。
「自分がやりたい戦車道……」
灯里は、みほを見る。
「西住さんも、きっと見つけられます」
「私も?」
「はい」
少し間を置いて、灯里は付け加えた。
「少なくとも、今日の最後の指示は、西住さんの戦車道でした」
みほは驚いたように灯里を見る。
「私の……」
ダージリンが、少し離れた場所から穏やかに言った。
「私もそう思いますわ」
みほは、さらに驚いた顔をした。
ダージリンは紅茶のカップを持つような仕草で微笑む。
「形はまだこれから。でも、最後の一手には、確かにあなた自身がありました」
みほは少しだけ黙り、それから小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
灯里は、その横顔を見ていた。
黒森峰から来た西住みほ。
聖グロから来た戸郷灯里。
理由は違う。
傷の形も違う。
けれど、二人ともここにいる。
大洗女子学園に。
自分の戦車道を探すために。
その時、遠くから河嶋桃の声が響いた。
「おい! お前たち! 負けた以上、今後の訓練はさらに厳しくするからな!」
杏ののんびりした声も続く。
「まあまあ、その前に反省会だねー」
沙織が嫌な予感を覚えたような声を出す。
「反省会って、普通の反省会ですよね?」
「普通だといいですね」
灯里が言うと、みほが少し不安そうにした。
「普通じゃない反省会って、何ですか?」
「例えば、踊るとか」
「踊る?」
優花里が目を輝かせる。
「大洗には、あんこう踊りというものがあるそうであります!」
「秋山さん、今その情報いりますか?」
「必要になるかもしれないであります!」
灯里は真顔になった。
「……TOGⅡの中に隠れましょう」
「戸郷さん、さっき気持ちで隠れるって言ってましたよね?」
「現実的な隠れ場所も大事です」
すずが即座に言う。
「TOGⅡの中なら隠れられます」
「でも車体ごと目立ちます」
「そこは、気持ちの問題です」
かなえが言い、Fチームの車内に小さな笑いが起きた。
灯里も、少しだけ笑った。
試合は負けた。
大洗は、まだ弱い。
みほの戦車道も、まだ始まったばかり。
灯里の記憶も、ようやく戻り始めたばかり。
けれど、終わりではない。
西住みほは、自分の戦車道を探し始めた。
戸郷灯里は、自分が聖グロを出た理由を思い出した。
TOGⅡに乗れない戦車道は、自分の戦車道ではなかった。
だから、今ここにいる。
白旗の上がったTOGⅡの隣で、灯里はもう一度、長い車体を見上げた。
「次は、もう少し長く塞ぎます」
まどかが頷く。
「次は、もう少し正確に撃ちます」
いつもの淡々とした声だった。
けれど、その奥には、撃てなかった悔しさと、次は外さないという静かな意地があった。
「次は、もう少し早く曲がります」
すずが、操縦席から顔を出して言う。
「次は、もっと通信を拾います」
かなえも頷いた。
「次は、装填を詰まらせません」
ちとせが、少しだけ拳を握る。
「次は、もっと流します」
りんの声には、いつもの明るさが戻り始めていた。
ひとつずつ、次の言葉が重なっていく。
負けた悔しさを、誰かのせいにするのではなく、自分たちの手元へ戻していくように。
灯里は、ゆっくり頷いた。
「はい。次です」
その言葉に、ダージリンが静かに微笑んだ。
「次のお茶会が、楽しみですわ」
紅茶の香りが、風に混ざる。
忘れていた名前は、もう遠くない。
ルイボス。
それは、聖グロリアーナにいた自分。
そして今は。
戸郷灯里。
大洗女子学園、Fチーム。
TOGⅡの車長だった。