薄暗い部屋の中で、プロジェクターの光だけが揺れていた。
白いスクリーンに映し出されているのは、戦車道の試合映像。砂埃、砲煙、前進するアメリカ戦車。押し込まれていくフランス戦車。
そして、陣形が崩れた瞬間。
映像が止まる。
巻き戻る。
もう一度、同じ場面が流れる。
マジノ女学院戦車道隊隊長、エクレールは、椅子に座ったまま無言でその映像を見つめていた。
机の上には、作戦図が何枚も広げられている。赤いペンで書き込まれた矢印、消された配置、書き直された進路、丸で囲まれた失敗地点。その端には、胃薬の箱と、半分ほど減った水のボトルが置かれていた。
スクリーンの中で、ルノーFT-17が後退する。
そこへ砲撃。
停止。
白旗。
エクレールは、また映像を止めた。
「……崩れたのは、この瞬間ですわね」
小さく呟き、作戦図に線を引く。
その時、扉の向こうから声がした。
「フォンデュです。失礼します」
「入りなさい」
エクレールは、スクリーンから目を離さずに答えた。
扉が開き、副隊長のフォンデュが入ってくる。彼女は薄暗い部屋と、何度も映し直されている試合映像を見て、軽くため息をついた。
「エクレール様。映像とばかり向き合っていても、画面の向こうから答えは返ってきませんよ」
エクレールは、少しだけ目元を緩めた。
「ふふっ。まるで、返事を待ったことがあるような言い方ですわね」
「ありません。ただ、隊長に忠実な副隊長としては、そろそろ心配にもなります」
「では、その忠実な副隊長を持つ私は、少し耳を貸すべきなのでしょうね」
「ぜひ。ここ数日、ずっとこの部屋に籠もりきりですから」
フォンデュの言葉に、エクレールはようやくプロジェクターを止めた。
部屋の中が少し暗くなる。
静かになった部屋で、エクレールは椅子の背にもたれた。
「……それで、本題は?」
「そうでした」
フォンデュは、そこで少しだけ表情を変えた。
「おそらく、目が覚める話です」
「何かしら」
「大洗女子学園から、練習試合の申し込みが届きました」
エクレールは、思わず立ち上がった。
「大洗女子学園から……?」
「はい。先日、聖グロリアーナ女学院と練習試合を行った、あの大洗です」
エクレールは、しばらく黙った。
全国大会直前。
各校が手の内を隠したがる時期。
調整に集中し、余計な情報を外へ出したがらない時期。
その中で、練習試合の申し込み。
それも、聖グロリアーナに敗れながらも善戦したと噂される大洗女子学園から。
「天佑か……」
エクレールは、スクリーンの止まった映像を見る。
「それとも、試練の始まりかしら」
「どちらにせよ、受ける価値はあると思います。我々も、全国大会前に新しい方針を試す機会を欲していましたから」
フォンデュは静かに言った。
エクレールは小さく息を吐く。そして、はっきりと言った。
「ええ。喜んでお受けします、とお伝えください」
「承知しました」
フォンデュは一礼する。
エクレールは、もう一度スクリーンを見る。止められた映像の中で、マジノの戦車はまだ敗北の直前にいた。
けれど、今度はそこから目を逸らさなかった。
「大洗女子学園……」
その名を、確かめるように呟く。
「未完成で、読みにくく、聖グロリアーナに食らいついた学校」
エクレールの瞳に、少しだけ光が戻った。
「試させていただきますわ。私たちの、新しいマジノを」
* * *
マジノ女学院。
山梨県所属の学園艦は、遠目に見ると、どこか潜水艦を思わせる低く重い艦影を持っていた。
派手ではない。
けれど、堅牢。
華美な装飾よりも、耐えること、守ること、沈まないことを重視したような姿。艦内の通路もまた、どこか古い要塞のようだった。石造りを思わせる壁、重い扉、フランス風の意匠を取り入れた照明。静かに響く靴音。
エクレールとフォンデュは、戦車道倉庫へ向かって校内を歩いていた。
だが、その道中。廊下の端から、ひそひそとした声が聞こえてきた。
「今年……いえ、四か月前からでしたかしら。我が校の戦車道の方針が変わったんですって」
「何やら隊内で騒動があったとか」
「マジノ女学院には、防御を主体とした伝統ある戦い方がありますのに……」
「前隊長のマドレーヌ様の時代は、もっと落ち着いていましたわ」
「大胆、というより強引ではなくて?」
「それで退部された方も少なくありませんもの」
「去年まであれほど人数がいたのに、今は随分と寂しくなりましたわ」
「ほら、騒動のご本人のご登場ですわ」
声は、エクレールたちが近づくと小さくなった。
生徒たちは何事もなかったように視線を逸らす。
フォンデュは少し目を細めた。
エクレールは、聞こえないふりをして歩き続けた。
けれど、移動車に乗り込んだ瞬間、彼女は鞄から胃薬と水を取り出した。
「……何度聞いても、胃に来ますわね」
胃薬を手に、エクレールは小さく呻く。
「これでは、胃薬がいくらあっても足りませんわ……!」
フォンデュは向かいの席で、落ち着いた声を出した。
「積み重ねてきたものを動かす時は、どうしても反発が出るものです」
「言いたいことがあるなら、せめて正面から言ってほしいですわ」
「正面から言われたら言われたで、胃薬の減りが早くなりますよ」
エクレールは、胃薬を飲み込んでから沈黙した。
「……否定できませんわね」
「でしょう?」
「そこで少し嬉しそうにしないでください」
「隊長がご自分を客観視できたので」
「胃が痛くなる客観視ですわ……」
エクレールは深く息を吐いた。
移動車の窓の外を、マジノ女学院の校内風景が流れていく。古い伝統、守りを重視する校風、防御主体の戦車道。
それは確かに、マジノ女学院が積み上げてきたものだった。
前隊長マドレーヌは、その伝統を大切にしていた。守り、耐え、隙を見て返す。マジノの名にふさわしい、要塞のような戦い方。それは間違いなく、マジノ女学院の誇りだった。
けれど、今の戦車道隊は、その積み上げの途中で大きく割れている。
隊長交代騒動。
方針変更。
防御重視から、機動を取り入れた戦い方へ。
その急な変化に納得できず、部を離れた者もいる。籍は残していても、練習から距離を置く者もいる。
戦車はある。
伝統もある。
けれど、人が減った。
その事実は、エクレールの胃に、どんな砲撃よりも確実に刺さっていた。
「方針変更の目的は、ただ一つです」
エクレールは、静かに言った。
「マジノに勝利をもたらすこと」
フォンデュは何も言わず、続きを待つ。
「防御だけでは、今の戦車道では勝ち残れません。相手に主導権を渡したままでは、いずれ突破される。守ることは大切です。けれど、ただ待つだけでは守れないものもあります」
フォンデュが頷く。
「だから、機動戦術へ」
「ええ」
エクレールは、膝の上で手を握る。
「私たちは、動かなければなりません」
先日のサンダース戦。押し込まれていく防御陣。置いていかれる古い戦車。機動力で揺さぶられ、火力で押し切られる展開。
エクレールは、あの試合を忘れていない。
忘れられるはずがない。
「大洗女子学園は、聖グロリアーナと戦い、善戦したと聞いています」
フォンデュが資料を見ながら言う。
「未熟ながら、柔軟に動くチーム。さらに、TOGⅡという特殊な車両も保有しているとか」
「ええ。だからこそ、良い相手ですわ」
エクレールは窓の外へ視線を向ける。
「全国大会前に、私たちの新方針がどこまで通用するか。確かめるには、これ以上ない機会です」
「試験、ですね」
「いいえ」
エクレールは首を横に振った。
「ただの試験ではありませんわ」
その目は、真剣だった。
「大洗を利用して試すのではありません。大洗と戦うことで、私たちも試されるのです」
フォンデュは、少しだけ微笑んだ。
「では、なおさら準備が必要ですね」
「ええ」
エクレールは胃薬の箱を鞄に戻した。
「胃が痛くても、進みますわ」
* * *
マジノ女学院の戦車道倉庫は、古い要塞の地下格納庫を思わせる場所だった。
高い天井。
重い鉄骨。
壁に並ぶ整備工具。
床に残る履帯の跡。
そして、油と金属の匂い。
そこに並ぶ戦車たちは、どれもマジノ女学院の歴史そのものだった。強固に守るための戦車。古い時代から受け継がれてきた戦車。そして、これからのマジノを変えるための戦車。
エクレールは、倉庫の入り口でしばらく立ち止まっていた。
副隊長のフォンデュが、その少し後ろに控えている。
「エクレール様?」
「……分かっていますわ」
エクレールは小さく息を吸った。
「この子たちをどう動かすかで、次の試合の意味が変わります」
「大洗女子学園との練習試合ですね」
「ええ」
エクレールの脳裏に、聖グロリアーナと戦った大洗の映像がよぎる。未熟でありながら、読みづらい動き。追い込まれてからの市街地戦。
そして、長すぎる戦車――TOGⅡ。
あれは、ただの珍しい戦車ではない。あの長さで道を塞ぎ、追撃を分断し、味方の退路を作っていた。
エクレールは、無意識に胃のあたりへ手を当てた。
「……あのTOGⅡ、厄介ですわね」
「もう胃薬ですか?」
「まだ飲みません」
「“まだ”なのですね」
「フォンデュ」
「はい、失礼しました」
フォンデュは涼しい顔で一礼した。
エクレールは、倉庫の中へ一歩進む。
今日は全体への演説だけではない。次の試合に向けて、出す車両と、その役割を決めるための確認でもあった。
最初に二人が向かったのは、ルノーR35の前だった。
小柄ながら、丸みを帯びた装甲を持つ軽戦車。マジノ女学院では馴染み深い車両であり、多くの隊員が一度は乗ったことのある戦車でもある。
エクレールは、R35の車体を見上げた。
「ルノーR35。我が校の主力軽戦車の一つですわ」
フォンデュが資料を見ながら続ける。
「歩兵支援を目的とした戦車。装甲は軽戦車としては悪くありません」
「ええ。防御的な運用には合っています」
エクレールは車体の前面を見つめる。
守る。
耐える。
相手の攻撃を受け止める。
それは、これまでのマジノ女学院の戦い方に合っていた。
だが。
「ただし、こちらから主導権を取りに行くには、足が重い」
「機動戦術には不向き、ということですね」
「完全に使えないわけではありませんわ」
エクレールは首を横に振った。
「ただ、今まで通りに使えば、今まで通りに負けるだけです」
その言葉に、近くで整備をしていた隊員がわずかに手を止めた。
エクレールは気づいていた。
だが、あえて続ける。
「R35にはR35の役目があります。前に出すだけではなく、味方の動きを支える盾にする。敵を受けるだけではなく、敵の進路を制限する」
フォンデュが小さく頷く。
「守るために、動かす」
「そうですわ」
エクレールは、ようやく少しだけ笑った。
「動かない盾は、いずれ迂回されます。動く盾でなければ、今の戦車道では通じません」
「では、R35は前線の壁役。ただし、固定防御ではなく、味方の進路を作るための可動盾ですね」
「ええ。大洗を真正面から受けるのではなく、進みたい場所を進ませないために使います」
エクレールは少しだけ目を細める。
「特に、あのTOGⅡには道を選ばせてはなりませんわ」
「向こうも道を塞ぎますからね」
「ええ。ならば、こちらも塞ぐのです」
次に向かったのは、倉庫の端に置かれていた小さな戦車だった。
ルノーFT-17。
第一次世界大戦期の戦車。ビス止めの装甲、小さな砲塔。現在の戦車道の基準からすれば、あまりにも古い車体。
それでも、その姿には独特の重みがあった。
エクレールは、先ほどよりも静かな声になる。
「ルノーFT-17。戦車の歴史においては、偉大な一両ですわ」
フォンデュも姿勢を正した。
「近代戦車の原型とも言える車両ですね」
「ええ。敬意を払うべき車両です」
エクレールは一度言葉を切る。
そして、苦い表情で続けた。
「ですが、現代の戦車道では、あまりに非力」
その言葉は、重かった。
先日のサンダース戦。FT-17は懸命に動いた。隊員も怠けていたわけではない。恐れていたわけでもない。
それでも、届かなかった。速度で置いていかれ、火力で押され、通信と連携の速さに翻弄された。
「歴史に敬意は必要です。けれど、敬意だけでは勝てません」
倉庫の空気が少しだけ重くなる。
フォンデュは、エクレールの横顔を見た。
「それでも使いますか?」
「使います」
即答だった。
「切り捨てるために改革するのではありません。勝つために、役目を変えるのです」
「では、FT-17の役目は?」
「囮。目くらまし。偵察。相手の判断を一瞬遅らせるための駒」
エクレールは、FT-17の小さな車体を見る。
「主役にはなれません。けれど、戦場に意味を作ることはできます」
フォンデュは柔らかく微笑んだ。
「エクレール様らしいです」
「褒めていますの?」
「もちろんです」
「なら、素直に受け取っておきますわ」
エクレールは、少しだけ肩の力を抜いた。
伝統を変えることは、古いものを捨てることではない。
古いものにも、新しい役目を与えること。
そのための改革でなければ、マジノはただ壊れるだけだ。
倉庫の中央に並ぶソミュアS35の前で、エクレールの表情が変わった。
先ほどまでの重さが、少しだけ消える。代わりに、目に熱が宿る。
「ソミュアS35」
その名を口にする声には、期待があった。
「三十二口径四十七ミリ砲を備え、最大速度は約四十・七キロ。特筆すべきは、その足の速さ」
フォンデュが頷く。
「現行のマジノでは、機動戦術の中心になる車両ですね」
「ええ」
エクレールはS35の車体へ歩み寄った。
「防御に閉じこもるのではなく、動いて主導権を握る。相手に合わせるのではなく、相手を動かす。まさに騎兵戦車に相応しい車両ですわ」
S35の搭乗員たちが、少し誇らしげに背筋を伸ばす。
だが、その中にも不安はあった。
一人の隊員が、おずおずと口を開く。
「あの、隊長」
「何かしら」
「本当に、私たちが前に出るのですか?」
エクレールは振り向いた。
「ええ」
「でも……マジノは、守る学校です」
その言葉に、何人かの隊員が小さく頷いた。
エクレールの胃が、少し痛んだ。
だが、彼女は胃薬に手を伸ばさなかった。代わりに、まっすぐ隊員を見る。
「守るために、前へ出るのです」
「守るために……?」
「相手に好きな場所を選ばせれば、こちらは守る場所すら選べません。ならば、こちらから動く。相手の進路を限定し、撃ちたい場所へ誘導し、守るべきものを守る」
エクレールは、ソミュアS35を指した。
「そのために、S35を中心に据えますわ」
隊員は完全には納得していないようだった。
けれど、目を逸らすことはしなかった。
「……分かりました」
「ありがとう」
エクレールは小さく頷いた。
フォンデュは横で静かに見守っていた。
その時、倉庫の奥から声がした。
「守るために前へ、ねえ」
重戦車、ルノーChar B1 bisの上部ハッチから、一人の生徒が顔を出していた。
ガレット。
B1 bisの搭乗員であり、マジノ女学院の中でもはっきり物を言う隊員だった。
彼女は肘をつき、少し皮肉げに笑っている。
「随分と立派な言葉ですわね、隊長」
フォンデュの目が細くなる。
「ガレットさん」
「そんな怖い顔をなさらないで。私はただ、感想を述べただけですわ」
ガレットはB1 bisの車体から身を乗り出す。
「先日のサンダース戦では、ずいぶん勉強させていただきましたもの」
エクレールは黙って聞く。
「押し込まれて、崩されて、追いつけず、撃たれて。隊長も大変ですわね」
ガレットの声は丁寧だった。
だが、言葉の端に棘があった。
「あれだけ崩されて、それでも前を向けと言わなければならないのですから」
周囲の隊員たちが、ちらりとエクレールを見る。
空気が冷えた。
フォンデュが一歩前に出ようとする。
しかし、エクレールは手で制した。
ガレットは続ける。
「ただ、もう少しマシな戦い方も考えてほしいものですわ」
胃が痛む。
確かに痛む。
エクレールは、鞄の中の胃薬の存在を思い出した。
だが、ここで飲むわけにはいかない。
彼女は静かに頭を下げた。
「忠告ありがとうございます」
ガレットが少しだけ眉を動かす。
「肝に銘じておきます」
怒鳴り返さない。
否定しない。
言い訳もしない。
その反応に、ガレットは少しつまらなそうに息を吐いた。
「……そう」
そして、B1 bisの中へ戻っていく。重いハッチの音が、倉庫に響いた。
フォンデュが小声で言う。
「よろしかったのですか?」
「ええ」
エクレールは顔を上げる。
「間違ったことを言われたわけではありませんもの」
「ですが、言い方は相当に悪かったです」
「そこは否定しませんわ」
エクレールは少しだけ笑った。
「でも、不満を持つ者がいるのは当然です。私が変えようとしているのは、マジノの積み重ねそのものですから」
「胃薬、もう一包いりますか?」
「……試合前に買い足します」
「賢明です」
エクレールはB1 bisを見た。
重い。
硬い。
小回りは利きづらい。
だが、存在そのものが圧力になる。
「ガレットさんにも、役目があります」
「B1 bisの役目ですね」
「ええ。動く要塞として、敵の選択肢を奪う役目です」
エクレールは、静かに続ける。
「ただし、置いていかれては意味がありません。S35と連携し、相手の逃げ道を塞ぐ。重さだけで勝つのではなく、重さをどう使うかです」
フォンデュは頷いた。
「難しい役目です」
「だから、ガレットさんに任せます」
その言葉は、B1 bisの中に聞こえていたのかもしれない。
ハッチは閉じたままだった。けれど、中で誰かが少しだけ動いた気配がした。
倉庫のさらに奥。
整備用の足場に囲まれた一両があった。
ARL44。
レストア中だった車両。
その主砲は、七十六ミリ砲へ交換されていた。
まだ完全な状態ではない。車体の一部は開けられ、整備員が調整を続けている。
それでも、以前のように動けない鉄の塊ではなかった。
フォンデュが資料を確認する。
「ARL44です。主砲はなんとか交換済みです。細部調整は残っていますが、次の練習試合には出せると思います」
エクレールは、その大きな車体を見上げた。
「……重い扉をこじ開けるには、重い鍵が必要ですわね」
「大洗のTOGⅡへの対抗ですか?」
「それもあります」
エクレールは、ARL44の砲を見つめる。
「TOGⅡは長く、火力もある。正面から押し合うなら、こちらにも重い一撃が必要です」
「では、ARL44を切り札に?」
「ええ。ただし、切り札は最後に切るから切り札なのではありません」
フォンデュが首を傾げる。
「と、言いますと?」
「相手に切り札があると思わせるだけで、戦場の動きは変わります」
エクレールは静かに続ける。
「大洗は未完成ですが、柔軟です。TOGⅡのような特殊な車両も使ってくる。ならば、こちらも相手に考えさせなければなりません」
「ARL44を見せること自体が圧力になると」
「そうですわ」
エクレールはARL44へ一歩近づいた。
「そして、もう一つ」
「もう一つ?」
「この車両は、我々が守るだけの学校ではないと示すための一両です」
R35の盾。
FT-17の歴史。
S35の機動力。
B1 bisの重さ。
ARL44の火力。
どれか一つでは勝てない。
だが、組み合わせれば、まだ戦える。
エクレールはそう信じたかった。
「大洗側には、まだこの車両の情報は出さないでください」
「伏せておくのですね」
「ええ。あちらにはTOGⅡがいます。こちらにも、驚かせる一手が必要ですわ」
フォンデュは、資料のARL44の欄に印を付ける。
「切り札、ですね」
「胃に悪い切り札ですわ」
「でも、使いますよね」
「もちろんです」
エクレールは、ARL44を見上げたまま微笑んだ。
「使わない切り札は、ただの展示品ですもの」
* * *
倉庫前に戻る頃には、隊員たちが少しずつ集まり始めていた。
相変わらず全員ではない。
遅れている者もいる。
少し離れた場所で様子を見ている者もいる。
腕を組み、不満げな顔をしている者もいる。
そして、もうここには来なくなった者たちもいる。
以前なら並んでいたはずの列には、はっきりと空きがあった。名前が消された当番表、返却されたパンツァージャケット、壁際に寄せられたまま、誰も取りに来ない個人用の工具箱。
隊長交代騒動のあと、マジノ女学院の戦車道隊は確かに小さくなっていた。
エクレールは、その空白を見た。
見ないふりは、もうできなかった。
それでも、今ここにいる者たちへ伝える必要があった。
エクレールは一歩前に出る。
「皆さん、聞いてください」
ざわつきが、少しずつ収まる。
「大洗女子学園との練習試合が決まりました」
隊員たちが一斉に反応する。
「大洗?」
「聖グロと戦った学校ですわよね?」
「TOGⅡがいるとか……」
「あの長い戦車?」
「本当に戦車道を復活させたばかりなのでしょう?」
エクレールは、その声を遮らなかった。
全部聞いた上で、続ける。
「これは、全国大会前の貴重な実戦です」
声を強くする。
「そして、我々の新しい戦術が、机上の空論ではないと証明する機会でもあります」
不満そうな隊員たちも、少しだけ静かになった。
エクレールは、倉庫の中に並ぶ戦車たちを振り返る。
「R35には、前線を支える盾として」
隊員たちの視線が、R35へ向く。
「FT-17には、相手の判断を揺らすための小さな一手として」
古い戦車の前で、整備員が少しだけ顔を上げた。
「S35には、マジノの速度を決める主力として」
S35の搭乗員たちが、背筋を伸ばす。
「B1 bisには、敵の逃げ道を奪う動く要塞として」
B1 bisのハッチの奥で、ガレットが黙って聞いている気配がした。
そして、エクレールは少しだけ間を置いた。
「そして、まだ全てはお話しできませんが……切り札も用意しています」
隊員たちがざわめく。
エクレールは、それ以上は言わなかった。
ARL44の名は出さない。
だが、何かがあるとだけ伝える。
それで十分だった。
「守るだけのマジノでは、もう勝てません」
その言葉に、空気が揺れた。
何人かは眉をひそめる。
何人かは目を見開く。
何人かは、息を呑む。
エクレールは続けた。
「ですが、伝統を捨てるわけでもありません」
彼女は、もう一度戦車たちを見る。
「守るために、動くのです」
その言葉は、倉庫前に静かに響いた。
完全に理解されたわけではない。
不満が消えたわけでもない。
離れていった部員たちが、この一言で戻ってくるわけでもない。
それでも、少なくとも今この瞬間だけは、隊員たちはエクレールを見ていた。
フォンデュが隣に立つ。
「エクレール様」
「何かしら」
「少し、隊長らしかったですよ」
「少し?」
「かなり、と言った方がよろしかったですか?」
「最初からそう言ってください」
フォンデュは小さく笑った。
エクレールも、少しだけ笑う。
胃はまだ痛い。
不安も消えていない。
部員も、以前ほど多くはない。
けれど、進むしかない。
防御の伝統を背負いながら、機動の未来へ。
大洗女子学園。
未完成で、読みにくく、聖グロリアーナに食らいついた学校。
そして、長すぎる戦車を連れた、奇妙な新戦力。
その相手に、自分たちの新しいマジノが通用するのか。
エクレールは、もう一度倉庫の奥を見た。
ソミュアS35。
ARL44。
そして、まだ迷いながらもこちらを見る隊員たち。
「フォンデュ」
「はい」
「準備を始めますわ」
フォンデュは頷く。
「はい、エクレール様」
次の実戦は、もう始まっていた。
守るために、動く。
その言葉が、マジノ女学院の古い倉庫に、静かに響いていた。
第19話「マジノ女学院、動く」 END
今回から、マジノ女学院が本格的に登場します。
マジノ女学院は、フランス戦車を中心に運用する学校で、防御戦術や伝統を重んじる校風の学校です。
エクレールさんは、現在のマジノ女学院戦車道チームの隊長です。
礼儀正しく責任感の強い人物ですが、本作では「伝統を守ること」と「勝つために変わること」の間で悩む隊長として描いています。
少し胃が痛そうなのは、だいたい背負っているものが重いからです。
フォンデュさんは、エクレールさんを支える副隊長です。
落ち着いていて現実的な補佐役で、エクレールさんが一人で背負いすぎないように近くで見ている人物として扱っています。
本作のマジノ女学院は、単なる対戦相手というより、「変わろうとしている途中の学校」として描いていく予定です。
大洗とはまた違う形で、伝統と現実の間でもがくチームとして見ていただければ嬉しいです。