翌日の昼休み前。
戸郷灯里は、机の上に置かれた一枚のプリントを見つめていた。
教室の中は、少しだけざわついている。
それも無理はない。
今配られたのは、選択科目の履修届だった。
問題は、その一番上。
妙に大きな文字で、堂々と、まるで主張するように書かれている。
――戦車道。
「……圧が強いですね」
灯里は、思わず小さく呟いた。
知っていた。
いつか来るとは分かっていた。
大洗女子学園に戦車道が復活する。
それは、この世界に来た時点で予想していたことだ。
けれど、こうして実物のプリントとして目の前に置かれると、想像以上に迫力があった。
周囲でも、クラスメイトたちが顔を見合わせている。
「戦車道?」
「え、うちって戦車道あったっけ?」
「聞いたことないよね」
「今年から?」
「なんか……強そう」
ざわめきは、少しずつ広がっていく。
灯里は、自分のプリントへ視線を戻した。
選択科目の一覧。
その一番上にある戦車道。
そして、その欄には――。
「……ん?」
丸がついていた。
しかも、かなり綺麗な丸だった。
自分で書いた覚えはない。
灯里は、プリントを持ち上げて確認する。
裏にも表にも、間違いなく自分の名前がある。
戸郷灯里。
そして戦車道の欄には、すでに丸。
「私のだけ、最初から丸がついているんですが」
小さく呟く。
誰も聞いていない。
いや、聞かれても困る。
灯里はしばらく考えた。
誰がつけたのか。
なぜつけたのか。
そもそもこれは正式な履修届なのか。
疑問は尽きない。
だが、結論は早かった。
「……まあ、どのみち丸をつける予定でしたけど」
そう言って、灯里は静かにプリントを机へ戻した。
戦車道。
その三文字を見ていると、胸の奥が少し熱くなる。
TOGⅡがある。
車長予定者にもされている。
搭乗員はまだいない。
けれど、戦車道が始まらなければ何も始まらない。
だから、灯里に迷いはなかった。
ただ――。
隣の席の方から、空気が変わった。
灯里は、そっと視線を向ける。
西住みほが、プリントを見つめたまま固まっていた。
顔色が悪い。
さっきまで普通に沙織や華と話していたはずなのに、今は血の気が引いたように白い。
指先が、紙の端を強く握っている。
灯里の胸の奥が、きゅっと痛んだ。
来てしまった。
西住さんにとって、来てほしくなかったものが。
灯里は声をかけようとして、止まった。
何と言えばいいのか分からなかった。
大丈夫ですか。
そんな言葉で済む話ではない。
戦車道、嫌ですか。
それはあまりにも踏み込みすぎている。
灯里は、みほが戦車道から逃げてきたことを知っている。
けれど、それは画面越しに知っていた知識だ。
本人が目の前で顔色を失っている今、その知識を簡単に使っていいとは思えなかった。
だから灯里は、ただ黙っていた。
その時だった。
教室の扉が開いた。
ざわめきが、一瞬で別の種類に変わる。
入ってきたのは、三人。
小柄で飄々とした雰囲気の少女。
その隣で困ったように控える少女。
そして、背筋を伸ばして厳しい顔をしている少女。
生徒会。
角谷杏。
小山柚子。
河嶋桃。
灯里は、息を止めた。
知っている。
でも、初めて見る。
画面越しではない。
資料でも映像でもない。
今、同じ教室の中に、生きている生徒会がいる。
不思議な感覚だった。
杏は軽い足取りで教室に入り、桃は周囲を見回した。
クラスメイトたちが一斉に静かになる。
桃の視線が、みほを捉えた。
「西住みほさん。少し話がある」
みほの肩が、小さく跳ねた。
「……私、ですか?」
「そうだ。少し廊下へ」
沙織が不安そうにみほを見る。
「みぽりん……?」
みほは小さく頷いた。
けれど、その足取りは明らかに重い。
灯里は、みほが教室を出ていく背中を見つめた。
扉が閉まる。
教室の中に、ざわめきが戻る。
「何の話?」
「生徒会が直接?」
「戦車道関係かな」
「西住さんって何かあるの?」
耳に入ってくる声が、少し遠い。
灯里は、廊下の方を見ていた。
全部は聞こえない。
けれど、何が話されているかは分かる。
今年から戦車道が復活すること。
みほに履修してほしいこと。
それがお願いという形をしていても、ほとんど決定事項に近いこと。
みほは言うはずだ。
この学校には戦車道がないと聞いていた。
だから選んだのに、と。
そして生徒会は、今年から復活すると返す。
強引だ。
かなり強引だ。
灯里はそう思う。
けれど、同時に知っている。
生徒会は何も考えていないわけではない。
その裏には、大洗女子学園の廃校という危機がある。
それでも。
みほにとっては、ただの理不尽だ。
戦車道から逃げてきた少女に、もう一度それを突きつける。
灯里は、机の上の履修届を見つめた。
戦車道。
自分が追いかけてきたもの。
みほが逃げてきたもの。
同じ三文字なのに、二人にとって意味がまるで違っていた。
◇
数分後、みほが戻ってきた。
教室の扉が開く。
みほは、静かに席へ戻る。
足取りはふらついていない。
表情も大きく崩れてはいない。
けれど、目に光がなかった。
灯里はそれを見た瞬間、胸が冷えた。
本当に、目が死んでいる。
沙織が慌てて声をかける。
「みぽりん、大丈夫?」
「……うん」
返事はある。
でも、声が薄い。
華も心配そうに身を乗り出した。
「西住さん、お顔の色が……」
「大丈夫……」
大丈夫ではない。
灯里には分かった。
次の授業が始まっても、みほの様子は戻らなかった。
先生が黒板に文字を書く。
生徒たちがノートを取る。
いつも通りの教室の空気。
その中で、みほだけがどこか遠くにいた。
「西住さん」
先生が名前を呼んだ。
反応がない。
「西住さん?」
もう一度呼ばれて、みほはようやく顔を上げた。
「……はい」
「ここの答え、分かりますか?」
「……えっと」
視線が泳ぐ。
教科書のどこを見ればいいのかも、分かっていないようだった。
灯里は、ゆっくり手を上げた。
「先生」
「戸郷さん?」
「西住さん、少し具合が悪そうです。保健室へ連れて行きます」
教室が少しざわつく。
みほが灯里を見る。
「戸郷さん、私は……」
「顔色が悪いです」
灯里は静かに言った。
強い口調ではない。
けれど、引くつもりはなかった。
「少し休んだ方がいいと思います」
先生はみほの顔色を見て、すぐに頷いた。
「そうですね。戸郷さん、お願いできますか」
「はい」
灯里が立ち上がると、沙織も勢いよく手を上げた。
「先生、私も行きます!」
華も続いた。
「私も、ご一緒します」
先生は一瞬困った顔をしたが、みほの様子を見て頷いた。
「では、三人で付き添ってあげてください」
みほは小さく頷いた。
「ありがとう……」
灯里はみほの横に立つ。
「行きましょう、西住さん」
みほは、少しだけ迷ってから立ち上がった。
◇
保健室は静かだった。
白いカーテン。
消毒液の匂い。
窓から入る柔らかな光。
みほはベッドに横になった。
沙織は椅子を引き寄せ、華はベッドの横に立つ。
灯里は少し離れた場所に座った。
近すぎない距離。
今のみほには、それくらいがちょうどいいと思った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、沙織だった。
「ねえ、みぽりん。さっき、生徒会の人たちに何言われたの?」
みほは、布団の上で指を握った。
「……戦車道を、履修してほしいって」
「戦車道を?」
沙織が眉をひそめる。
「でも、さっきのプリントにあったやつだよね。そんな急に?」
「今年から、復活することになったって……」
みほの声は小さかった。
「でも私、この学校には戦車道がないって聞いて……だから、ここに来たのに」
その言葉に、沙織も華も黙った。
灯里は、視線を落とす。
知っていた。
けれど、本人の口から聞くと、重さが違った。
画面越しに見ていた時には、物語の一部だった。
でも今は違う。
目の前で、同じクラスの女の子が傷ついている。
それは、物語ではなかった。
みほは少しずつ言葉を続ける。
「うちは……代々、戦車道をやっている家で。小さい頃から、戦車道が身近にあって……」
沙織は黙って聞いている。
華も、みほの言葉を遮らない。
「でも、私は……あまり、いい思い出がなくて」
みほの声が震えた。
「だから、戦車道がない学校に来たかったの。普通に友達を作って、普通に学校生活を送って……そういうのを、してみたかった」
灯里は唇を引き結んだ。
戦車道から逃げてきた子。
第1話で自分がそう思った言葉が、今さら胸に刺さる。
逃げたのではない。
みほは、休みたかったのだ。
戦車道ではない場所で、自分を取り戻したかったのだ。
「じゃあ、断ろうよ」
沙織が言った。
みほが顔を上げる。
「え……?」
「嫌なんでしょ? だったら断ればいいよ」
沙織の声は明るい。
けれど、軽くはなかった。
「生徒会の人たちが何て言ったか知らないけど、みぽりんが嫌なら嫌って言っていいと思う」
華も静かに頷いた。
「私も、そう思います。西住さんが望まないのであれば、無理にする必要はないと思います」
「でも……」
「一人で言いにくいなら、一緒に行くよ」
沙織が笑う。
「ね、華」
「はい。私もご一緒します」
みほは目を見開いた。
その表情が、少しだけ崩れる。
泣きそうで、でも泣くのを堪えているような顔だった。
灯里は、その三人を見ていた。
沙織。
華。
そして、みほ。
やっぱり、西住さんにはこの二人が必要だ。
灯里はそう思う。
自分が何かを言う必要はない。
少なくとも、今は。
みほを戦車道へ戻す役目は、自分ではない。
みほが安心して迷えるように、そばにいること。
それくらいなら、できるかもしれない。
沙織が、ふと灯里を見る。
「戸郷さんは?」
「え?」
「戸郷さんも、戦車道やるの?」
灯里は少しだけ考えた。
机の上のプリント。
最初から丸がついていた履修届。
地下ガレージのTOGⅡ。
まだ一人分しか埋まっていない車長席。
「私は……やります」
みほの肩が、わずかに強張る。
灯里はすぐに続けた。
「でも、西住さんにやってほしいからではありません」
みほが灯里を見る。
灯里は、ゆっくり言葉を選んだ。
「私には、私の理由があります。だから戦車道を選びます」
TOGⅡに乗るため。
映画で見られなかった結末を、この世界で見届けるため。
その全部を、今ここで話すことはできない。
だから灯里は、短く言った。
「西住さんには、西住さんの理由があっていいと思います」
保健室が静かになる。
沙織が、少し驚いたように灯里を見る。
華は穏やかに目を伏せた。
みほは、小さく息を吸う。
「……ありがとう」
それだけだった。
けれど、灯里には十分だった。
◇
授業終了のチャイムが鳴った。
保健室の空気が少しだけ動く。
残っているのはホームルームだけ。
このまま教室に戻るべきか、少し迷う時間だった。
その時、校内放送のスピーカーが音を立てた。
『全校生徒に連絡します』
灯里は、顔を上げた。
来る。
そう思った。
『全校生徒は、体育館へ集合してください』
保健室の中の空気が、一瞬で変わる。
『繰り返します。全校生徒は、体育館へ集合してください』
みほの顔が、また強張った。
沙織がすぐにその手を取る。
「大丈夫。私たちも行くから」
華も静かに頷いた。
「はい。ご一緒します」
灯里も立ち上がった。
戦車道の説明会。
分かっていた。
この放送の先にあるものを、灯里は知っている。
けれど、やはり実際にその場へ向かうとなると、胸がざわついた。
みほはベッドから起き上がる。
その動きはまだ少し重い。
「行こう、みぽりん」
「……うん」
四人は保健室を出た。
廊下には、同じ放送を聞いた生徒たちが次々と流れ出していた。
「何だろうね」
「体育館って、全校集会?」
「さっきの戦車道の話かな?」
「え、マジで?」
ざわめきの中を、灯里たちは進む。
灯里は、隣を歩くみほを見た。
みほは前を向いている。
けれど、その指先は沙織の手を少し強く握っていた。
その先に待っているものを、灯里は知っている。
戦車道。
西住みほが逃げてきたもの。
戸郷灯里が追いかけてきたもの。
そして――大洗女子学園の運命を変えるもの。
体育館の扉が、ゆっくりと開いた。