大洗女子学園での初日は、想像していたよりも普通に終わろうとしていた。
転校初日。
知らない教室、知らない机。そして、知っているはずなのに、初めて会う人たち。
西住みほ、武部沙織、五十鈴華。
画面の向こうにいたはずの少女たちは、当たり前のように同じ教室にいて、当たり前のように会話をして、当たり前のように笑っていた。
灯里は、それを不思議な気持ちで見ていた。
物語の中に入ったというより、誰かの生活の中へ突然紛れ込んでしまったような感覚だった。
知っている。
けれど、知らない。
その距離感が、思っていたより難しい。
* * *
放課後。
教室のざわめきが少しずつ薄れていく中、灯里は鞄に教科書をしまっていた。
今日はもう帰ろう。
そして、地下ガレージのTOGⅡをもう一度確認しよう。
整備記録、車内構造、屋台セット。
そして、何より。
「搭乗員……」
小さく呟く。
TOGⅡは一人では動かない。動かすだけならともかく、戦車道で使うなら、砲手、操縦手、無線手、装填手が必要になる。
しかも、装填手は二人欲しい。
つまり、自分以外に五人。
「五人……」
灯里は、少し遠い目をした。
友達作りより先に、戦車の搭乗員探しが必要になる高校生活。
なかなか癖が強い。
その時だった。
教室のスピーカーから、短い呼び出し音が鳴った。
『二年、戸郷灯里さん』
灯里は顔を上げた。
『放課後、生徒会室まで来てください』
教室に残っていた数人が、ちらりと灯里を見る。
「生徒会?」
「転校初日なのに?」
「何したの?」
何もしていない。
少なくとも、学校ではまだ何もしていない。
地下ガレージにTOGⅡがあることを、何かしたに含めるなら話は別だが。
灯里は鞄を持ち直した。
「……早いですね」
この世界の展開は、思っていた以上に早い。
* * *
生徒会室の前で、灯里は一度だけ深呼吸した。
大洗女子学園の生徒会。
角谷杏、小山柚子、河嶋桃。
知っている名前だ。
知っている顔だ。
ただし、今から会うのは画面の中のキャラクターではない。
この学校を動かしている、現実の先輩たちだった。
「失礼します」
扉を開けると、三人がすでに待っていた。
角谷杏は干し芋を手に、にこにこと笑っている。小山柚子は書類を揃え、河嶋桃は腕を組んで立っていた。
「やっほー、戸郷ちゃん」
「戸郷ちゃん……」
灯里は一瞬だけ反応が遅れた。
「いえ。戸郷灯里です」
「うんうん、知ってる知ってる」
杏は軽く手を振る。
柚子が申し訳なさそうに笑った。
「急に呼び出してごめんね。少し確認したいことがあって」
「確認、ですか」
桃が机の上の書類を一枚持ち上げた。
「戸郷灯里。大洗女子学園二年。本日付で転入。旧聖グロリアーナ女学院在籍歴あり……」
聖グロ。
灯里の眉が、ほんの少しだけ動いた。
やはり、書類上ではそうなっているらしい。
自分の中の記憶は、まだ霧がかかっている。赤い制服、紅茶、優雅な空気。そして、誰かが呼ぶ声。
ルイボス。
だが、詳細はまだ思い出せない。
桃はさらに書類へ目を落とした。
「それと、旧戦車道関連車両登録情報に、追加車両がある」
灯里は黙った。
杏が、にこにこしたまま身を乗り出す。
「戸郷ちゃん」
「はい」
「戦車、持ってるよね?」
灯里は固まった。
かなり直球だった。
もう少し段階を踏むかと思っていた。少なくとも、「君の自宅地下ガレージにある大型車両について」くらいの言い方を想像していた。
だが、杏は一切遠回りしなかった。
戦車、持ってるよね。
灯里は数秒考えた。
「……持っている、という表現が適切かは分かりませんが」
杏の目が、少しだけ楽しそうに細まる。
「じゃあ、あるんだ」
「……あります」
桃が、やや驚いたように声を上げた。
「本当にあるのか!」
「あります」
灯里は素直に頷いた。
否定しても仕方がない。
自宅地下ガレージに、全長十メートル級の超重戦車が堂々と存在している。見間違いではない。夢でもない。しかも、整備済みだった。
杏は満足そうに頷く。
「ほらねー」
「ほらね、ではありません会長。普通、転校生が戦車を持っているとは考えません」
桃が真面目に突っ込む。
柚子も困ったように笑った。
「でも、登録情報には出てるんだよね」
桃が書類を灯里の方へ向けた。
そこには、確かに記載があった。
『大洗女子学園・旧戦車道関連保管車両』
『追加登録車両:TOGⅡ』
『車長予定者:戸郷灯里』
『搭乗員:未定』
灯里は、じっと書類を見つめた。
正式な書類だった。
しかも、なぜか行政処理まで済んでいるように見える。
自分が今朝初めて見つけたはずのTOGⅡが、すでに学校側の情報に載っている。
灯里は静かに思った。
この世界、処理が早すぎる。
「確認します」
桃が真剣な顔で言う。
「このTOGⅡという車両は、戦車道に使用可能な状態なのか?」
「整備記録を見る限り、走行可能です。安全装置や戦車道用の調整も入っているようでした」
「動かせるのか?」
「動かすだけなら、私が」
「一人でか?」
「走行だけなら。ただ、戦車道として運用するなら乗員が足りません」
桃は頷く。
「乗員六名……だったか」
「はい。車長、砲手、操縦手、無線手、装填手、装填手。私は車長と通信手を兼任できますが、それでも五人足りません」
五人。
簡単に集まる人数ではない。
ましてや、TOGⅡである。
長く、重く、遅く、目立つ。
初見で「乗りたい」と言ってくれる人間がどれだけいるかは、正直分からない。
杏は、そんな灯里を見ながら、ぽりぽりと干し芋をかじった。
「ふーん。でさ」
「はい」
「あのTOGⅡって、ホットドッグ売れるんだって?」
灯里は、また固まった。
そこまで把握されているのか。
「……正確には、TOGドッグ販売セット一式が車内にありました」
「やっぱり」
杏の表情がさらに楽しそうになる。
桃が頭を押さえた。
「会長、今はホットドッグの話ではありません」
「いやー、大事でしょ。戦車道ってお金かかるし、目立つし、お祭り感も大事だし」
「お祭り感で戦車道を語らないでください」
「でも、長い戦車から長いホットドッグ出てきたら、絶対みんな見るよ?」
灯里は否定できなかった。
TOGⅡは目立つ。
長い。
ホットドッグも長い。
悔しいほど相性がいい。
「……確かに、注目は集められると思います」
「でしょー?」
杏は満足そうに笑った。
柚子が苦笑しながら書類を確認する。
「でも、まずは戦車道の選択授業の説明会だね。戸郷さんにも、参加してもらうことになると思う」
「戦車道、復活するんですね」
灯里は静かに言った。
桃が胸を張る。
「本年度より、大洗女子学園では選択科目として戦車道を復活させる予定だ」
「予定、ですか」
「正式発表はこれからだがな」
来る。
分かっていた。
それでも、実際に言葉として聞くと、胸の奥が少しだけ揺れた。
大洗の戦車道が動き出す。
西住みほが、再び戦車に向き合う時が来る。
そして自分も、TOGⅡと共にその中へ入っていく。
杏が干し芋を揺らした。
「まあ、戸郷ちゃんのTOGⅡも、使えるなら使いたいよねー」
「戦力としては、扱いが難しいと思います」
灯里は正直に言った。
「遅いですし、長いですし、目立ちます」
「そこまで自覚しているのか」
桃が少し感心したように言う。
「はい。ですが、長いことは悪いことではありません」
「今、急に前向きになったな」
「TOGⅡなので」
「理由になっているのか?」
柚子が小さく笑った。
杏は灯里を見て、少しだけ目を細める。
「じゃあ、戸郷ちゃん」
「はい」
「搭乗員探し、頑張ってね」
軽い言い方だった。
けれど、内容は重かった。
灯里は書類をもう一度見る。
『搭乗員:未定』
未定。
その二文字が、やけに現実的だった。
「……はい」
灯里は頷いた。
「探します」
* * *
生徒会室を出た後、灯里は廊下を歩きながら考えていた。
戦車道が復活する。
TOGⅡは登録されている。
車長予定者は自分。
けれど、搭乗員は未定。
それも、ただ乗ればいいわけではない。
あの長くて重い車体を扱うには、練習が必要だ。
「誰に乗ってもらうか……」
灯里は小さく呟いた。
その瞬間、掲示板の前で足が止まる。
そこには、選択授業に関する案内が貼られていた。いくつもの授業名が並ぶ中に、まだ正式な募集開始前らしい一枚の紙がある。
灯里は近づいた。
見間違いではなかった。
『選択科目に関するお知らせ』
その下に、小さく追記されている。
『戦車道選択授業については、後日説明会を実施予定』
灯里は息を呑んだ。
始まる。
分かっていた。
それでも、実際に文字として見ると、全身がぞくりとした。
大洗の戦車道が動き出す。
西住みほが、再び戦車に向き合う時が来る。
そして自分も、TOGⅡと共にその中へ入っていく。
「……始まるんだ」
その時、ポケットの中の生徒用端末が震えた。
画面を見る。
学内システムからの通知だった。
『旧戦車道関連車両登録情報更新』
灯里は眉をひそめる。
指で画面を開いた。
表示された一覧の中に、先ほど生徒会室で見たものと同じ項目がある。
『大洗女子学園・旧戦車道関連保管車両』
『追加登録車両:TOGⅡ』
『車長予定者:戸郷灯里』
『搭乗員:未定』
灯里は固まった。
廊下の喧騒が、少し遠くなる。
紙の上で見た時よりも、端末の画面で見る方が、妙に現実味があった。
正式に登録された。
正式に、自分の名前が載った。
そして正式に、仲間はいない。
灯里は端末を握りしめ、天井を見上げる。
「……ですよね」
TOGⅡはある。
戦車道は始まる。
車長予定者にもされている。
だが、仲間はいない。
映画館の席は、もうない。
でも、TOGⅡの車長席はある。
そして、その席から見る物語は、きっとスクリーンで見るより近い。
近すぎて、怖いくらいに。
灯里は端末を閉じた。
廊下の向こうから、誰かの足音が聞こえる。
まだ誰かは分からない。
けれど、その足音が、これから始まる何かの合図のように思えた。
『戦車道選択授業、近日再開』
『追加登録車両、TOGⅡ』
『車長予定者、戸郷灯里』
『搭乗員、未定』
そして――。
戸郷灯里の戦車道は、まだ一人分の席しか埋まっていなかった。