マジノ女学院の作戦車両内は、静かだった。
外では、大洗女子学園の戦車たちが開始位置へ向かっている。
高原には穏やかな風が吹き、遠くの木々が揺れていた。
けれど、その穏やかさとは裏腹に、車内には張り詰めた空気がある。
エクレールは地図を広げ、マジノの隊員たちを見渡した。
「装甲では、こちらに分がありますわ」
その声は柔らかい。
けれど、弱くはない。
「ですが、火力では大洗に警戒すべき車両があります。三号突撃砲。そして……足は遅くとも、TOGⅡ」
ガレットがわずかに眉を動かした。
「TOGⅡ……あの、長い戦車ですか」
「ええ」
エクレールは頷く。
「あれは、遅いからと侮れば退路を塞がれます。あれは動く壁ですわ」
「動く壁……」
フォンデュが小さく復唱した。
エクレールは地図の一点に指を置く。
「まずは五両で、有利な地形に布陣します」
隊員たちの何人かが、少しだけ安堵したような顔をした。
有利な地形に布陣する。
相手を受け止める。
それは、マジノ女学院が長く守ってきた戦い方だった。
だが、エクレールの次の言葉で、空気はまた変わる。
「従来の防御陣形を取るように見せます」
「……見せる?」
ガレットが聞き返した。
エクレールは静かに目を向ける。
「ええ。見せるだけですわ」
車内に、わずかなざわめきが生まれた。
ガレットが地図を見る。
「ですが、大洗もマジノの防御陣形は警戒しているはずです。それで本当に……」
「わたくしは、五両で、と言いましたわ」
その一言で、ガレットの表情が変わった。
「……五両?」
マジノ女学院の出場車両は六両。
つまり、残る一両がいる。
別の場所に。
別の目的で。
エクレールは地図の脇に、細い矢印を引いた。
「大洗が、わたくしたちを従来のマジノ女学院だと考えているなら」
そこで、彼女は小さく笑った。
「その考え、改めていただきませんとね」
フォンデュは、その横顔を見ていた。
柔らかい雰囲気をまとった隊長。
胃薬を手放せない苦労人。
けれど、その芯は、誰よりも頑固だった。
エクレールは胸元に手を当てる。
そこには、青いスペードの記章があった。
マジノ女学院の隊長が受け継ぐ証。
青いスペード《スペード・ブルー》。
「守るために、動く。この試合で、証明しますわ」
通信機から、試合開始の準備を告げる声が入る。
エクレールはインカムに手を添えた。
「各車、準備はよろしくて?」
返答が続く。
その中には、不安もある。
迷いもある。
けれど、エクレールはそれごと背負うように前を向いた。
「En avant」
そして、静かに告げる。
「前進せよ」
同じ頃。
大洗女子学園側でも、西住みほの声が各車両へ届いていた。
『パンツァー・フォー!』
戦いが、動き出した。
* * *
少し離れた観戦地点。
そこには、あまりにも場違いなほど優雅な空間が作られていた。
白いテーブル。
整えられたティーセット。
小さな焼き菓子。
観戦用モニター。
そして、紅茶の香り。
聖グロリアーナ女学院のダージリンは、いつものようにカップを手にしていた。
隣には、オレンジペコが控えている。
モニターには、大洗女子学園とマジノ女学院の開始位置が映っていた。
「この時期に、他校の練習試合を観戦していてよろしいのでしょうか。公式戦も近いですし……」
オレンジペコが少し心配そうに言う。
ダージリンは紅茶を一口含み、穏やかに微笑んだ。
「こんな格言を知ってる?」
「はい」
「伝統とは、灰を崇めることではなく、火を受け継ぐこと」
オレンジペコは、小さく頷いた。
「オーストリアの作曲家、グスタフ・マーラーの言葉ですね。伝統とは、形をそのまま残すことではなく、そこに込められた精神を受け継ぐことだと」
「ええ。マジノ女学院が守ってきたものが、灰なのか、火なのか」
ダージリンは、モニターの中のマジノ女学院を見つめた。
「今日は、それが見られるかもしれないわ」
オレンジペコもモニターを見る。
マジノ女学院。
防御の伝統を持つ学校。
その戦い方は堅実で、美しい。
けれど、近年は勝利から遠ざかっている。
「それに」
ダージリンは続ける。
「西住流らしくない西住みほさんが、今日はどんな戦いを見せてくれるのか。興味があるのよ」
オレンジペコは少しだけ頷いた。
「聖グロ戦でも、最後まで粘っていました」
「ええ」
ダージリンの視線が、別のモニターへ移る。
そこには、ゆっくりと動くTOGⅡが映っていた。
「それに、ルイボスもいるもの」
「戸郷さんですね」
「守りの学校を相手に、あの長いTOGⅡをどう置くのか。見ておきたいわ」
ダージリンは楽しそうに微笑んだ。
「今日は、良い紅茶になりそうね」
* * *
さらに別の観戦地点。
そこには、もう一人、マジノ女学院の試合を静かに見守る者がいた。
やや明るいオレンジ色の髪。
赤いカチューシャ。
整えられたツインテール。
マジノ女学院の制服を着た三年生。
マドレーヌ。
約三ヶ月前まで、マジノ女学院戦車道隊の隊長だった少女である。
彼女の前にも、小さなティーセットと観戦用モニターが置かれていた。
ただし、ダージリンほど余裕に満ちた空気ではない。
マドレーヌは、モニターの中のエクレールを静かに見つめていた。
「エクレール……」
その声には、懐かしさと、少しの心配が混ざっていた。
青いスペードを胸元に留めた後輩。
かつて、自分に正面から挑んできた少女。
マドレーヌは、三ヶ月前のことを思い出す。
* * *
三ヶ月前。
マジノ女学院の戦車道隊は、低迷していた。
昨年の全国大会は初戦敗退。
一年間の公式戦成績は、四敗一分け。
防御陣形は美しい。
伝統は守っている。
隊員たちも、決して怠けていたわけではない。
けれど、勝てなかった。
それでも、多くの隊員は思っていた。
マジノ女学院とは、守る戦車道の学校である。
防衛戦術こそが誇りである。
勝てないからといって、伝統を捨ててよいのか。
マドレーヌもまた、その伝統を守ろうとしていた。
ただ古いものにしがみついていたわけではない。
マジノ女学院が積み上げてきた戦い方を、軽々しく壊したくなかった。
守る戦車道には、守る戦車道の美しさがある。
耐え、受け止め、相手を削り、最後まで崩れない。
それは、マジノの誇りだった。
その空気の中で、二年生だったエクレールは、マドレーヌの前に立った。
「マドレーヌ様」
真っ直ぐな声だった。
「このままでは、マジノ女学院は勝てません」
その言葉だけなら、まだ部員たちも聞いていた。
悔しいが、事実でもあったからだ。
しかし、エクレールはさらに踏み込んだ。
「勝つことに消極的であるかのように見える伝統なら」
周囲の空気が変わる。
フォンデュが、はっとエクレールを見た。
エクレールは引かなかった。
「わたくしは、その伝統はいらないと思います」
ざわり、と部屋が揺れた。
「エクレールさん……?」
「今、何と……」
「伝統が、いらない……?」
「それは、あまりにも……」
マジノ女学院の伝統を、正面から否定する言葉。
それは、部員たちにとって衝撃だった。
これまでの自分たちを否定されたように感じた者もいた。
前隊長であるマドレーヌを否定されたように受け取った者もいた。
エクレールは、多数派の代弁者ではなかった。
むしろ、その瞬間、彼女は異端になった。
マドレーヌは怒鳴らなかった。
だが、伝統を守ろうとしてきた前隊長として、その言葉を軽く受け流すこともできなかった。
ただ、表情は静かに冷えた。
「……今の言葉、自分が何を言ったのか理解していて?」
「理解していますわ」
エクレールは答える。
「それでも、勝てない伝統を守るだけでは、マジノ女学院は前へ進めません」
マドレーヌは、しばらくエクレールを見つめた。
その瞳には、怒りだけではないものがあった。
失望。
痛み。
そして、ほんの少しの期待。
「そこまで言うなら、何か考えがあるのでしょうね?」
「あります」
エクレールは一歩前に出た。
「わたくしと、決闘してください」
部屋が再びざわつく。
マドレーヌは静かに問う。
「隊長の座をかけて、ということかしら?」
「はい」
エクレールは迷わず頷いた。
「わたくしが勝てば、隊長の座を譲っていただきます」
マドレーヌは、すぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「よろしいですわ」
周囲が息を呑む。
「勝てば、隊長の座を譲ります」
だが、そこで終わらなかった。
「けれど負けたなら、あなたには戦車道を辞めてもらいます」
フォンデュが声を上げかけた。
「マドレーヌ様……!」
マドレーヌはエクレールから目を逸らさない。
「伝統を変えるというのは、それほど大きなことです」
その声は厳しかった。
「ただ勝ちたいだけなら、許されません。背負う覚悟があるのなら、証明なさい」
エクレールは、深く頭を下げた。
「望むところですわ」
* * *
決闘は、ルノーFT-17改同士で行われた。
同じ車両。
同じ条件。
違うのは、乗り手の考え方だけ。
マドレーヌは、従来の防衛戦術を取った。
有利な地形に布陣し、射線を固定する。
相手の接近を拒み、近づく前に削る。
守りとは、臆病者の逃げ場ではない。
相手を削り、近づかせず、勝つための技術。
これが、マジノ女学院の戦車道。
マドレーヌは、そう信じていた。
エクレールは苦しんだ。
正面から近づこうとすれば、撃たれる。
迂回しようとすれば、射線を押さえられる。
マドレーヌの布陣は堅かった。
美しかった。
まさに、マジノ女学院の伝統そのものだった。
だが、エクレールは止まらなかった。
「煙幕、展開」
白い煙が、戦場に広がる。
視界が切られる。
マドレーヌの射線が、機能しなくなる。
エクレールは正面から付き合わなかった。
防御陣形が意味を持つ距離を、潰しに来た。
マドレーヌは気づく。
守りを壊すのではない。
守りが機能する条件そのものを、消しに来たのだ。
「……エクレール」
マドレーヌは小さく呟いた。
「あなた、本気で……」
煙の向こうから、エクレール車が現れる。
近い。
近すぎる。
防御姿勢の隙を突かれた。
砲声。
マドレーヌの車両に、白旗が上がった。
決闘は終わった。
勝者は、エクレールだった。
「……勝ちましたわ」
遠くで見守っていたフォンデュが、ほっと息を吐く。
周囲の隊員たちは、言葉を失っていた。
伝統の陣形が破られた。
それも、同じ車両で。
同じ条件で。
マドレーヌは、車内でしばらく目を閉じていた。
悔しい。
当然だった。
だが、それ以上に、妙な納得もあった。
まさか、こちらが用意した皿の上で、食べるつもりだった相手に食べられるとは。
マドレーヌは小さく笑った。
自分は気づいていた。
マジノ女学院の車両は、防御主体の思想に向いている。
機動戦術には向かないものも多い。
だからこそ、防衛戦術を変えられなかった。
いや。
変えることを恐れていた。
私が守ろうとした伝統は、間違いではなかった。
けれど。
正しいだけでは、勝てない時代になっていた。
マドレーヌは車両から降りた。
エクレールも車両を降り、緊張した顔で待っている。
マドレーヌは、彼女の前まで歩いた。
「お見事でしたわ」
「マドレーヌ様……」
エクレールは息を詰める。
マドレーヌは、胸元からひとつの記章を外した。
青いスペード。
マジノ女学院の隊長の証。
「これは、マジノ女学院の隊長が受け継ぐ証」
マドレーヌは、それをエクレールへ差し出す。
「青いスペード《スペード・ブルー》」
エクレールは、両手でそれを受け取った。
「ただの飾りではありません」
マドレーヌは言う。
「マジノの伝統を背負う、ということです」
エクレールの手が、わずかに震えた。
マドレーヌは静かに続ける。
「あなたが変えるというのなら、変えてみせなさい」
その声は、厳しく。
けれど、冷たくはなかった。
「ただし、捨てるのではなく、背負った上で」
エクレールは、深く頭を下げる。
「マドレーヌ様……ありがとうございました」
マドレーヌは、少しだけ微笑んだ。
「頑張りなさい、エクレール」
* * *
現在。
マドレーヌは、モニターの中のエクレールを見ていた。
青いスペードを胸元に留めた後輩は、今、隊員たちに指示を出している。
まだ不安はあるだろう。
周囲の全員が納得しているわけでもない。
それでも、エクレールは前へ進もうとしている。
「エクレール」
マドレーヌは静かに呟いた。
「見せてもらうわ」
紅茶のカップに、指を添える。
「私が守ろうとしたものを、あなたがどう受け継ぐのか」
* * *
聖グロリアーナの観戦地点。
モニターの中で、マジノ女学院の五両が動いていた。
それは一見、従来の防御陣形に見える。
有利な地形へ進み、相手を受け止める形。
だが、オレンジペコはすぐに違和感に気づいた。
「ダージリン様」
「ええ」
ダージリンは紅茶を手にしたまま、モニターを見つめる。
オレンジペコの声には驚きがあった。
「マジノ女学院、一両だけ別行動です」
「防御陣形ではなく……?」
「守る学校が、前へ出ようとしている」
ダージリンは微笑んだ。
「だからこそ、見に来たのよ」
オレンジペコは、もう一度モニターを見る。
五両は守りに見せる。
だが、一両が別の道を選んでいる。
それは、今までのマジノ女学院ならしなかった動き。
ダージリンは、楽しそうにカップを置いた。
「西住流らしくない西住みほさん」
次に、別のモニターへ視線を向ける。
「TOGⅡに乗ったルイボス」
そして、マジノ女学院の表示を見る。
「守ることをやめなかったまま、前へ進もうとするマジノ女学院」
ダージリンは静かに笑った。
「今日は、本当に良い紅茶になりそうだわ」
* * *
マジノ女学院の五両は、防御陣形を組むために前進する。
だが、その背後で、一両だけが別の道を選んでいた。
エクレールは、青いスペードを胸元に留め、インカムに告げる。
「En avant!!」
その声は、守りに閉じこもるためのものではなかった。
「前進せよ」
一方、大洗女子学園。
西住みほの声が、各車両に届く。
『パンツァー・フォー!』
大洗の戦車たちが動き出す。
その中で、TOGⅡだけは少し遅れて、ゆっくりと地面を踏みしめた。
戦いは、まだ始まったばかり。
そしてこの試合は、守る者同士の戦いでは終わらない。