マジノ女学院との練習試合が終わったあと、演習場には少しだけ穏やかな空気が戻っていた。
撃破された戦車たちは回収され、白旗は畳まれ、各チームの生徒たちはそれぞれに試合の感想を言い合っている。
勝った大洗女子学園も、負けたマジノ女学院も、どこか疲れていた。けれど、その疲れは悪いものではない。
全力で走って、撃って、考えて、悩んで、最後まで戦い切ったあとの疲れだった。
そして、その演習場の端では、簡単な交流会が開かれていた。
もともと、試合後には軽く話をする予定があったらしい。大洗側からは、給食部専攻のいぬさんチームが用意した軽食と、TOGⅡをかたどった小さな焼き菓子が並べられている。
長い。
妙に長い。
戦車というより、もはや細長いパンのようにも見える。
「これは……TOGⅡですの?」
エクレールが皿の上を見て、少しだけ目を瞬かせた。
戸郷灯里は真面目に頷く。
「はい。TOG型スイーツです」
「形は、かなり忠実ですわね」
「長さにはこだわりました」
「そこにこだわるのですね」
エクレールはそう言いながらも、少しだけ笑っていた。
一方、マジノ女学院側も、ただ受け取るだけではなかった。
白い布がかけられた簡易テーブルの上に、深い赤紫色をした飲み物が並べられている。透明なグラスに注がれたそれは、光を受けて、宝石のように揺れていた。
「ワイン……ではありませんよね?」
沙織が少しだけ戸惑った声を出す。
当然である。
ここにいるのは、戦車道をしているとはいえ高校生だった。
マドレーヌが、穏やかに微笑む。
「ええ。ブドウジュースですわ」
その声に、大洗の何人かがほっと息を吐いた。
マドレーヌはグラスを一つ手に取り、ゆっくりと続ける。
「マジノは、葡萄の文化にも縁があります。今日はワインではなく、こちらで乾杯といたしましょう」
エクレールが少しだけ背筋を伸ばした。
「マドレーヌ様……」
「試合は終わりましたもの。今は、敵味方ではなく、戦車道を共にした相手として」
その言い方は柔らかい。
けれど、エクレールに向けられた視線は、どこか静かに温かかった。
フォンデュがグラスを配り、ガレットも少し不器用そうに大洗側へ差し出す。
「どうぞ。マジノの用意したものですわ」
「ありがとうございます」
みほが丁寧に受け取る。
沙織、優花里、華、麻子もそれぞれグラスを手にした。
灯里も、グラスの中をじっと見つめる。
「綺麗ですね」
エクレールが少し誇らしげに頷いた。
「味も良いですわ」
灯里は小さく頷く。
「TOGⅡも、角度によっては綺麗です」
「そこでTOGⅡが出ますの?」
エクレールが思わず聞き返した。
マドレーヌが口元に手を添え、少しだけ笑う。
その空気は、試合中の緊張とはまるで違っていた。
大洗とマジノの生徒たちは、最初こそぎこちなかったが、少しずつ言葉を交わし始める。
どこで撃たれたのか。
どの動きが怖かったのか。
TOGⅡはなぜあんなに長いのか。
B1 bisは本当に硬かったのか。
ARL44はどこに隠れていたのか。
答えられることと、答えられないことがある。
それでも、試合後の会話はどこか明るかった。
エクレールも、ブドウジュースをほんの少しだけ口にする。
顔色はまだ少し悪い。
だが、彼女は隊長として笑っていた。
戸郷灯里は、そんなエクレールの様子を見ていた。
マジノ女学院の新隊長。
青いスペードを胸に留めた少女。
試合中は胃の不調で倒れかけていたが、今は予備のジャケットに着替え、隊員たちに囲まれている。
その姿は、試合前より少しだけ軽く見えた。
けれど、無理をしていないわけではない。
灯里はグラスを置き、エクレールへ声をかけた。
「エクレールさん」
エクレールはゆっくり振り返る。
「あら。大洗のTOGⅡ乗りさん」
その言い方は柔らかく、どこか楽しそうでもあった。
「少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
「ええ。あなたからのお話なら、喜んで」
フォンデュが心配そうにエクレールを見る。
「エクレール様、あまり長くは……」
「分かっていますわ」
エクレールはそう言って、少しだけ苦笑した。
マドレーヌは二人を見て、何かを察したように目を細める。
「行ってらっしゃい、エクレール」
「はい」
エクレールは短く答え、灯里の後についていった。
灯里は彼女を、演習場の端にあるベンチ近くへ案内した。そこなら風も通り、他の生徒たちの邪魔にもならない。
灯里は鞄の中から、小さな紙袋を取り出した。
緑色のTOGⅡのシルエット。中央には小さな十字マーク。端には、なぜか英字で「TOG MEDICAL」と書かれている。
エクレールは、その袋を見つめて固まった。
「これは……?」
「最近試作したものです」
灯里は真面目な顔で言った。
「内容は、胃薬です」
「……胃薬?」
エクレールの声が、少しだけ裏返った。
灯里は頷く。
「はい。風の噂で、マジノ女学院の新隊長は胃の調子が優れないと聞きましたので」
エクレールの頬が、ほんのり赤くなる。
「どなたから、そのような噂を……」
少し離れた場所で、フォンデュが目を逸らした。
ガレットも、なぜか遠くの空を見ている。
「……なるほど」
エクレールは小さく息を吐いた。
「マジノの情報管理には、少し課題があるようですわね」
「体調管理の共有は大事です」
「それは否定できませんわ」
灯里は紙袋を差し出す。
だが、エクレールが受け取る前に、灯里は少しだけ真剣な声になった。
「ただし、無理に使わないでください」
エクレールが瞬きをする。
「胃薬なのに?」
「胃薬だからです」
灯里は紙袋の中から、成分表と使用説明書を見せた。
「一応、成分表と使用説明書も入っています。心配なら、マジノ女学院の保健担当の方に確認してから使ってください」
「随分と丁寧ですのね」
「TOGⅡ印ですが、薬ですので」
「そこは、逆に少し不安ですわ」
「TOGⅡは安全です」
「戦車の話ではありません」
エクレールは苦笑した。
灯里は、その様子を見て少しだけ安心する。
笑えるくらいの元気はある。それなら、きっと大丈夫だ。
* * *
その紙袋の始まりは、少し前のことだった。
大洗女子学園の授業が終わったあと、灯里は自宅地下のガレージにいた。
そこには、本来ならTOGⅡが鎮座している。長く、重く、存在感のありすぎる車体。
だが最近は、TOGⅡを学校側で整備する時間が増え、自宅地下のスペースには少しだけ寂しさがあった。
「TOGⅡがいない地下ガレージは、少し広すぎますね」
灯里がそう呟いた時だった。
ガレージの奥に、見覚えのない扉があることに気づいた。
昨日まではなかった。少なくとも、灯里の記憶にはない。
だが、扉はそこにあった。
いかにも当然のように。
「……今度は医務室ですか」
灯里は数秒だけ考えた。
そして、考えるのをやめた。
「大洗ですから」
扉を開けると、そこには小さな部屋があった。
白い壁と清潔な棚。小型の薬剤調合装置、診断補助端末、薬剤成分分析機、救急箱、戦車道競技者向け健康管理キット。
そして、分厚い書類の束。
灯里は一番上の書類を手に取る。
そこには、厚生労働省らしき許認可書類と、戦車道競技者用健康管理設備としての登録書類が入っていた。
使用履歴の記録義務。
薬剤調合の制限事項。
既存薬の範囲内での安全な調合。
ドーピングに該当する成分の使用禁止。
医師の診断を必要とする症状への単独使用禁止。
灯里は、しばらく無言で読んだ。
そして、静かに頷いた。
「意外と、ちゃんとしています」
それは大事なことだった。
何でも治せる装置ではない。病気を一瞬で消すものでもない。寿命や体質を根本から変えるものでもない。
できるのは、胃薬、酔い止め、栄養補助剤、外用薬、応急処置用の薬、既存薬の範囲内での調合。
つまり、便利ではある。
けれど、万能ではない。
「よく分からないものを、よく分からないまま使うのは怖いです」
灯里はそう言いながら、説明書を読み込んだ。
試しに、いくつかの項目を確認する。
乗り物酔い止め。疲労回復補助剤。口内炎用の薬。喉飴。栄養ゼリー。長距離移動用補助食品。
さらに、妙な項目もあった。
TOGⅡ酔い止め。
長時間低速移動時の、眠気防止ではない疲労補助。
砲撃音で胃が痛い人用胃薬。
「最後のものは、需要がありそうです」
灯里は真剣に言った。
そして思い出した。
マジノ女学院のエクレール。
試合中、胃の不調で倒れかけていた新隊長。
胃薬を忘れたと言いながら、それでも戦車道を続けようとした人。
あれは、ただのギャグではなかった。
隊長としての責任。伝統を変える重さ。仲間を背負う怖さ。
それらが、彼女の胃に集まっていたのだろう。
灯里は、調合装置の画面を見た。
「まずは、普通の胃薬からですね」
そうしてできたのが、今エクレールへ渡そうとしている紙袋だった。
* * *
現在。
エクレールは、灯里から紙袋を受け取った。
袋のTOGⅡの絵を、じっと見る。
「なぜ胃薬の袋に、TOGⅡが描かれていますの?」
「分かりやすいからです」
「何がですの?」
「私から渡したことが」
「それは確かに分かりますわね」
エクレールは思わず笑った。その笑い方は、試合中よりも少し柔らかい。
灯里は続ける。
「もし飲み続けて評判が良ければ、今後も定期的に送ります。もちろん、体に合わなければすぐにやめてください」
「ありがとうございます」
エクレールは、袋を胸元に抱えるように持った。
「できれば、使わないで済むのが一番なのですけれど」
その言葉に、灯里は少しだけ目を細めた。
エクレールは、遠くにいるマジノの隊員たちを見る。
フォンデュ。ガレット。ソミュアの搭乗員たち。ARL44の整備に回っている隊員たち。
試合前とは、少しだけ空気が違っていた。
不安はまだある。疑問も消えていない。エクレールの改革を、全員が完全に受け入れたわけでもない。
けれど、彼女はもう一人ではなかった。
マドレーヌも、少し離れた場所からそれを見ている。
前隊長としてではなく、今はただ、次へ進もうとしている後輩を見守るように。
「でも」
エクレールは、青いスペードに指を添えた。
「今後は少し、ましになるかもしれません」
それは、胃薬があるからだけではない。
背負うものを、少しだけ分け合えたから。
自分が作ろうとしている伝統の中に、すでに仲間たちがいると分かったから。
灯里は、その意味をなんとなく察した。
「使わないで済む薬が、一番良い薬なのかもしれません」
「そうですわね」
エクレールは微笑む。
「でも、持っているだけで安心できるものもあります」
「TOGⅡと同じですね」
「いえ、それはどうでしょう」
即答だった。
灯里は少しだけ残念そうにする。
「TOGⅡも、いるだけで安心できます」
「相手側からすると、胃が痛くなる存在でしたわ」
「効果が出ていますね」
「出てはいけない効果です」
エクレールが笑う。
灯里も、ほんの少しだけ笑った。
* * *
少し離れた場所では、フォンデュがその様子を見ていた。
ガレットが隣に立つ。
「何を渡されていましたの?」
「胃薬だそうです」
「……大洗女子学園は、戦車だけでなく薬も出してきますの?」
「TOGⅡ印だそうです」
「なおさら不安ですわね」
フォンデュは小さく笑った。
「ですが、エクレール様は嬉しそうです」
ガレットは少しだけ黙る。
そして、そっぽを向いた。
「なら、よろしいのではなくて」
その言い方は、どこか不器用だった。
マドレーヌは、その隣で静かにグラスを傾けていた。
中身は、ブドウジュース。
かつてのマジノなら、勝った相手と同じテーブルを囲むことに、もう少し硬さがあったかもしれない。
けれど今日のエクレールは、敗北のあとでも笑っている。
悔しさを抱えたまま、前を向こうとしている。
「薬よりも」
マドレーヌが、小さく呟いた。
フォンデュとガレットが振り返る。
マドレーヌは、エクレールを見たまま続けた。
「背負うものを分け合える方が、よほど効くかもしれませんわね」
ガレットは少しだけ言葉に詰まった。
フォンデュは静かに頷く。
「……はい」
マドレーヌは微笑んだ。
「それでも、使わないで済む薬があるのは、悪くありませんわ」
* * *
灯里は、帰り際にもう一度だけ紙袋の中の説明書を確認した。
この設備で作れるものは、まだ限られている。
胃薬。酔い止め。栄養補助剤。応急処置用の薬。
完全に治す薬ではない。何でも解決するものでもない。
けれど、もしもっと正確な診断データがあれば。
もし、症状に合わせて、少しでも楽にできる補助薬が作れるのなら。
いつか、誰かの役に立つ日が来るのかもしれない。
灯里は、そう思った。
たとえば、今日のように胃を押さえる誰か。
あるいは、戦車道とは別の場所で、長く体調と向き合っている誰か。
だが、それはまだ先の話だ。
今は、目の前のことから。
戦車道で出会った人が、少しでも楽になること。
隊長として背負う重さが、ほんの少しでも軽くなること。
それくらいなら、TOGⅡ印の胃薬にも、できることがあるのかもしれない。
エクレールは紙袋を持ち、灯里へ向き直った。
「戸郷さん」
「はい」
「次に戦う時は、できれば胃薬なしで挑みたいですわ」
「それが一番です」
灯里は頷いた。
「ですが、必要なら送ります」
「ええ」
エクレールは、青いスペードを指先で軽く押さえた。
「お守りとして、受け取っておきます」
風が吹く。
高原の草が揺れる。
交流会のテーブルでは、TOG型の焼き菓子と、マジノのブドウジュースが並んでいた。
マジノ女学院の青いスペードと、TOGⅡ印の小さな紙袋が、同じ光の中にあった。
使わないで済む薬。
それはきっと、今日のエクレールにとって、少しだけ未来を軽くするものだった。