果たして灯里の反応は…?
2026年6月28日 11時40分
あとがきに次回予告を追加しました。
大洗女子学園の面々が抽選会場へ到着した時、入口には大きな横断幕が掲げられていた。
『第63回 戦車道 全国高校生大会』
白い布地に濃く印刷されたその文字は、遠くからでもよく見えた。周囲には各校の生徒たちが集まり、制服の色も、歩き方も、話す声の調子も、大洗とは少しずつ違っている。潮風と油の匂いが混ざる大洗の格納庫とは違い、ここには大会前の緊張と、名門校が持つ静かな圧があった。
「うわあ……本当に全国大会なんだ」
「すごいであります! 全国の強豪校が一堂に会する、この空気……感動であります!」
武部沙織が小さく息を呑み、秋山優花里はすでに目を輝かせていた。
会場の周囲には、様々な制服を着た生徒たちが集まっている。重厚な雰囲気の制服。華やかな制服。見覚えのある名門校の制服。そして、大洗女子学園とはまるで違う、戦車道の歴史を背負っているような空気。
西住みほは、その中を少し緊張した様子で歩いていた。
隣にはAチームの四人。沙織、五十鈴華、優花里、冷泉麻子。さらに少し後ろに、戸郷灯里。そして、生徒会の角谷杏、小山柚子、河嶋桃が続いている。
「なんか、みんな強そうだね……」
「実際、強い学校ばかりであります」
「言わないでほしかったなあ」
沙織が肩を落とす。
麻子は半分眠そうな顔で周囲を見た。
「朝から人が多い」
「麻子、それ感想そこなの?」
「大事だ」
華は会場の様子を静かに見回していた。
「全国大会というだけあって、空気が違いますね」
「はい」
みほは頷く。
「ここにいる学校は、みんな勝ち上がるために来ているんだと思います」
その声には、少しだけ硬さがある。
灯里は、みほの横顔を見た。
隊長としての緊張。西住流として見られるかもしれない重さ。そして、初めての全国大会。その全部が、みほの小さな肩に乗っているように見えた。
そこへ、聞き覚えのある落ち着いた声が届いた。
「ごきげんよう」
振り返ると、そこには聖グロリアーナ女学院のダージリンとオレンジペコがいた。
ダージリンは、いつも通り優雅に微笑んでいる。
「西住さん、戸郷さん。全国大会の抽選会でまたお会いできましたわね」
「はい。よろしくお願いします」
みほが少し緊張しながら頭を下げる。
灯里も続いた。
「ごきげんよう、ダージリン様」
言ってから、灯里は少しだけ固まった。
自然に出た。
聖グロ時代の名残。紅茶の香り、整えられた隊列、決められた礼儀。まだすべてを鮮明に思い出せるわけではないのに、身体だけが先に覚えている。
ダージリンは楽しそうに目を細めた。
「ふふ。少しずつ戻ってきているようね、ルイボス」
「……はい。でも、今は大洗の戸郷灯里です」
「ええ。分かっていますわ」
その言葉は、穏やかだった。
ダージリンの視線が、みほへ移る。
「抽選は、時に戦いの半分を決めます。良い紅茶になるか、少し渋い紅茶になるかは、運次第ということもありますわ」
「運次第……」
沙織が小声で呟く。
「なんか余計に緊張してきた……」
「武部殿、戦車道において運も重要な要素であります!」
「秋山さん、それ励ましになってる!?」
ダージリンは小さく笑った。
「では、また後ほど」
聖グロの二人が去っていく。
その少し後、今度は黒髪の少女と副官らしき少女が近づいてきた。
マジノ女学院のエクレールとフォンデュだった。
「大洗女子学園の皆さん。先日は、よい試合をありがとうございました」
エクレールは丁寧に一礼する。
みほも慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
灯里は、エクレールの顔色を見た。
前よりは良さそうだ。少なくとも、今すぐ胃薬が必要そうな顔ではない。
「エクレールさん、体調はいかがですか」
「ええ。おかげさまで」
エクレールは少しだけ苦笑する。
「いただいたものは、まだ大切に持っていますわ。できれば使わないで済ませたいですけれど」
「それが一番です」
フォンデュが横で微笑む。
「試合以降、エクレール様は少しだけ胃薬の量が減りました」
「フォンデュ」
「良いことです」
「否定はしませんけれど、ここで言わなくてもよろしいですわ」
灯里は真剣に頷いた。
「TOG MEDICAL、役に立っているようで安心しました」
「その名前はまだ少し不安ですわね」
エクレールはそう言いながらも、柔らかく笑った。
そして、会場の奥を見る。
「お互い、良い組み合わせになるといいですわね」
「はい」
みほが頷く。
だが、灯里は内心で少しだけ祈っていた。
良い組み合わせ。
その言葉が、どこまで良いものなのかは分からない。
でも、少なくとも。
ここだけは、ずれないでください。
* * *
抽選会場の指定席に着くと、正面には大きなトーナメント表が掲げられていた。
十六校。
四回勝てば、優勝。
言葉にすれば簡単だった。
だが、その四回の中には、強豪校がひしめいている。
プラウダ高校。
サンダース大学付属高校。
聖グロリアーナ女学院。
黒森峰女学園。
継続高校。
名前を見ているだけで、空気が重くなる。
「四回勝てば優勝……」
沙織が小さく呟く。
「四回だけって聞くと、いけそうな気もするんだけど」
「その四回が、とんでもなく大変なのであります」
「だよねえ……」
みほはトーナメント表を見つめていた。
大洗女子学園の抽選順は八番目。
まだ、いくつかの枠が空いている。
灯里は、その空き枠を目で追った。
四番。
すでにそこには、プラウダ高校の名前があった。
前回優勝校。雪原での持久戦。カチューシャとノンナ。今の大洗がいきなり当たるには、あまりにも厳しい相手だった。
八番。
サンダース大学付属高校の名前がある。
強豪校。資金力も、戦車数も、人員も多い。だが、まだ勝ち筋を作れる相手。
灯里は、その枠をじっと見つめた。
TOGⅡが置いていかれず、役目を持てる相手。
それでいて、大洗が勝ち筋を作らなければならない相手。
十二番。
ヨーグルト学園。
灯里は少しだけ首を傾げた。
ブルガリア系モチーフの学園艦だったはずだ。前の二校に比べれば、勝てる可能性は高いのかもしれない。だが、そのブロックの先には聖グロリアーナ。さらに勝ち上がれば、黒森峰が来る可能性もある。
厳しい。
そして、十五番。
継続高校。
灯里は、心の中で少しだけ身構えた。
ある意味、今の大洗が一番当たりたくない相手かもしれない。
機動力。奇策。地形利用。TOGⅡが完全に置いていかれる未来が、少しだけ見える。
灯里は静かに手を合わせた。
どうか。
ここだけは、ずれないでください。
「戸郷さん?」
隣のみほが小声で聞いてくる。
「何か、祈ってる?」
「はい」
「何を?」
「TOGⅡが細い道に入らなくて済む未来を」
「そ、そうなんだ……」
みほは困ったように笑った。
だが、灯里はかなり真剣だった。
やがて、司会の声が会場に響く。
『続いて、大洗女子学園』
大洗の席に緊張が走った。
みほが立ち上がる。
「行ってくるね」
「みほ、がんばって!」
「西住殿、武運を祈るであります!」
「落ち着いて引けば大丈夫です」
「寝ずに見てる」
「麻子、それ今言うこと?」
沙織たちの声を背に、みほは壇上へ向かった。
箱の前に立つ。
一瞬、深呼吸。
そして、手を入れる。
カードを一枚、引いた。
会場が静まる。
みほがカードを司会へ渡す。
司会が高らかに読み上げた。
『大洗女子学園、八番!』
その瞬間、灯里は小さく息を吐いた。
トーナメント表に、大洗女子学園の名前が表示される。
八番。
その隣には。
サンダース大学付属高校。
『大洗女子学園、初戦の相手はサンダース大学付属高校です』
会場がざわついた。
「大洗?」
「聞いたことない学校ですわね」
「戦車道、復活したばかりでは?」
「相手はサンダースでしょう? これは……」
周囲の声が、遠くから聞こえる。
サンダース側の席では、金髪の少女が明るく笑っている。その近くで、別の少女が何かを確認しながら、こちらを見ていた。
「よっしゃー!」
遠目に、アリサらしき生徒が喜んでいるのが見えた。
沙織がそれを見て、少し顔を引きつらせる。
「もしかして、喜ばれてる?」
「無名校ですから、そう見られるのも仕方ないであります」
優花里が少し悔しそうに言う。
みほが席へ戻ってきた。
「ごめんね。強豪校と当たっちゃって……」
「みほが謝ることじゃないよ!」
沙織がすぐに言う。
だが、不安は消えない。
「サンダース校って、そんなに強いの?」
「強いであります!」
優花里は資料を取り出した。
「サンダース大学付属高校は、アメリカ系の強豪校です。資金力が非常に高く、戦車道の規模も大きいです。一軍から三軍まであると言われるほど、層も厚いのであります!」
「一軍から三軍……」
華が少し目を丸くする。
「そんなに多くの方が戦車道を?」
「はい! 保有車両数もかなり多いであります!」
みほが補足する。
「一回戦は最大十両までだから、全部の戦力が出てくるわけじゃないけど……それでも、こちらより四両多いです」
「四両……」
沙織が指を折る。
「大洗が六両だから、相手は十両?」
「はい」
「多い!」
麻子がぽつりと言った。
「負けたら、単位がもらえないのでは」
「えっ、もらえないんじゃない……?」
沙織まで不安になり始める。
麻子は無言で、持っていたメモ紙にフォークを刺すような仕草をした。
「麻子、今ケーキじゃないよ!?」
「怒りを表現した」
「フォークで!?」
少しだけ空気が緩む。
だが、生徒会の三人だけは、笑い方が少し違っていた。
柚子は資料を見ながら、少し顔色が悪い。桃は口を結び、腕を組んでいる。杏だけが、いつも通りの笑みを浮かべていた。
「まあ、勝つしかないよねー」
その言葉は軽い。
けれど、灯里には分かる。
軽く聞こえるだけだ。
この人たちにとって、その言葉はきっと、重すぎる。
* * *
抽選は進んでいった。
マジノ女学院の初戦の相手は、アンツィオ高校。
それを聞いたエクレールが、少しだけ安堵したように見えた。
灯里は小さく頷く。
エクレールさんの胃に、少し優しい組み合わせかもしれません。
もちろん、アンツィオ高校を侮るわけではない。だが、初戦からプラウダや黒森峰に当たるよりは、まだ現実的だ。
一方、聖グロリアーナ女学院の相手はBC自由学園だった。
その瞬間、BC側の席から言い争う声が聞こえてきた。
「強豪校と当たってしまったではないか!」
「君のくじ運が悪いんだ!」
「なにをー!」
沙織がびくっとする。
「な、なんか揉めてる?」
「BC自由学園は、二つの学校が合併した学園艦であります。内部の派閥意識が強いという噂も……」
優花里が小声で説明する。
灯里は少しだけ遠い目をした。
たしか、マジノ女学院とも関係の深い学校だったはずだ。
これ以上、エクレールさんの胃が痛まないことを祈ります。
トーナメント表は、少しずつ埋まっていく。
聖グロリアーナとは反対ブロック。
次に戦うとしたら、決勝。
だが、その前に向こうには黒森峰がいる可能性が高い。
灯里は表を見上げた。
「遠いですね、決勝は」
「うん」
みほも小さく頷いた。
「でも、まずは初戦だね」
「はい」
灯里は、サンダースの名前を見た。
初戦。
大洗女子学園の全国大会は、強豪校との戦いから始まる。
* * *
抽選会が終わると、ちょうど昼時だった。
生徒会は大会関係者との確認があるらしく、別行動になった。
Aチームの五人と灯里は、会場近くの喫茶店に入ることにした。
店の看板には、こう書かれていた。
『戦車喫茶 ルクレール』
「戦車喫茶……」
沙織が看板を見上げる。
「すごい名前だね」
「戦車道の抽選会場の近くですから、こういうお店も多いのであります!」
優花里はすでに興味津々だ。
店内に入ると、そこは戦車道関係者向けの小さなテーマパークのようだった。壁には戦車の写真。テーブル番号は車両番号風。呼び出しボタンは砲塔の形。メニュー表には、各国戦車をモチーフにした料理やスイーツが並んでいる。
華が感心したように言う。
「内装もメニューも、戦車を意識しているのですね」
「流石、戦車喫茶ですね」
灯里も頷く。
そして、メニューを開いた瞬間、動きが止まった。
「……あります」
「何が?」
沙織が覗き込む。
そこには、写真付きでこう書かれていた。
『TOGⅡスイーツセット』
長いエクレア。細長いロールケーキ。履帯風チョコクッキー。小さな砲塔飾り。それは、かつて大洗の調理実習室で生まれたTOG型スイーツの発展形だった。
「えっ、戸郷さんのやつじゃない!?」
「はい」
灯里は、震える声で言った。
「世界が、少しずつTOGⅡに近づいています」
「近づいてるのかな、それ」
沙織が首を傾げる。
優花里は目を輝かせていた。
「素晴らしいであります! TOGⅡスイーツが一般展開されているとは!」
「実は、あの試作品を見た戦車道協会の蝶野教官が、戦車道を盛り上げる企画として提案してくださったそうです」
灯里は、妙に誇らしげだった。
「現在は、TOGⅡバームクーヘンも考案中です」
「バームクーヘンまで……」
みほが少し困ったように笑う。
灯里はメニューを見ながら、しばらく動かなかった。
世界がTOGⅡで埋め尽くされる未来。
喫茶店にTOGⅡ。
土産物屋にTOGⅡ。
遊園地にTOGⅡ。
給食にTOGⅡ。
なんて素晴らしい世界でしょう。
「戸郷さん、すごくいい笑顔になってる」
「危険な笑顔だ」
沙織と麻子が小声で言う。
席に座り、六人はメニューを決めた。
テーブルの端には、砲塔型の呼び出しボタンがある。
「これを押すんですか?」
華が不思議そうに見る。
「押してみようよ」
沙織が軽く押した。
次の瞬間。
どん、と大きな砲撃音が店内に響いた。
「ひゃっ!?」
沙織が飛び上がる。
麻子は半目のまま呟いた。
「起きた」
「麻子が!?」
優花里は目を輝かせる。
「おそらく九〇式戦車の砲撃音を再現したものですね! 実際の音とは当然違いますが、雰囲気があります!」
「戦車道をやっていると、こういう音にも少し慣れてきますね」
華が静かに言う。
「慣れたくなかったかも……」
沙織が肩を落としたところで、店員がやって来た。
「ご注文はお決まりですか?」
華が皆の前に置かれたメニューを静かに確認した。
「では、まとめてお願いいたします」
沙織が頼んだパスタ。みほのサンドイッチと紅茶。優花里の戦車カレー。麻子の甘いものと飲み物。灯里のTOGⅡスイーツセット。
華はそれらを順に伝えたあと、最後に自分の分を続ける。
「それから、私はチョコレートケーキを二つ、いちごタルトを一つ、レモンパイ、ニューヨークチーズケーキをお願いいたします」
店員は一瞬だけ固まった。
「……以上で、六名様分でしょうか?」
「はい」
華はにこやかに頷く。
沙織は思わずメニューから顔を上げた。
「華、全員分まとめてくれたんだよね?」
「はい」
「でも最後のケーキ、全部華の分だよね!?」
「はい。軽く、です」
「軽く!?」
みほが苦笑する。
優花里は感動していた。
「五十鈴殿、見事な注文であります!」
「ありがとう、秋山さん」
麻子は眠そうに呟く。
「私は甘いものなら賛成だ」
「麻子まで……」
沙織は頭を抱えた。
* * *
しばらくすると、テーブル横の小さなレーンが動き出した。
ドラゴンワゴンを模したミニ搬送台が、料理を乗せてやって来る。
「わあ、何これ!?」
「ドラゴンワゴン型の搬送台であります! 回転寿司の新幹線レーンに近い仕組みですね!」
優花里が嬉しそうに説明する。
一台目に軽食。二台目にケーキ類。そして三台目。
長い。
やたら長いスイーツが乗っていた。
写真より大きい。
明らかに、TOGⅡだった。
灯里は立ち上がりそうになった。
「スイーツでもTOGⅡですね」
「戸郷さん、座って」
みほが慌てて止める。
華は目を輝かせた。
「まあ。想像よりも立派です」
「華さん、食べられますか」
灯里が真剣に聞く。
華は上品に微笑んだ。
「もちろん完食します」
その声には、一点の迷いもなかった。
灯里は深く頷く。
「頼もしいです」
やがて、料理とスイーツが並ぶ。
戦車型のケーキ。砲塔を模したチョコ飾り。履帯風のクッキー。主砲のような棒菓子。
華は嬉しそうに眺める。
「どれも可愛いですね」
「戦車モチーフなのに、ちゃんと可愛いのすごいね」
沙織も感心していた。
灯里はTOGⅡスイーツにフォークを入れる。
だが、長い。
食べても、まだ長い。
華と麻子がそれぞれのケーキを食べ終える頃、灯里はまだTOGⅡの半分ほどだった。
「TOGⅡは、スイーツになっても長いですね」
「そこが魅力です」
灯里は真剣だった。
* * *
少し落ち着いたところで、みほが小さく口を開いた。
「ごめんね」
沙織が顔を上げる。
「え?」
「強豪校と当たっちゃって」
みほは、サンドイッチの皿を見ながら言った。
「サンダースは、本当に強い学校だから」
華が静かに首を横に振る。
「西住さんが謝ることではありません」
「そうだよ、みほ。くじだもん」
沙織も笑って見せる。
だが、みほの表情はまだ少し重い。
優花里が説明を続けた。
「サンダース大学付属高校は、資金力も人員もかなり豊富です。戦車もたくさん持っていて、練度も高いであります」
「一回戦は十両までだから、極端な差にはならないけど……」
みほが言う。
「それでも、こちらより四両多いです」
「四両差って、やっぱり大きいよね」
沙織が少し不安そうに言う。
麻子は、ケーキにフォークを突き刺した。
「単位がかかっている」
「麻子、本当にそこなんだね」
「重要だ」
沙織が苦笑する。
それから、ふと思い出したように顔を明るくした。
「でもさ、全国大会って勝ち進んだらテレビ中継とかあるんだよね? もしかして、有名になっちゃうかもー」
「武部殿、確かに注目度は上がると思います!」
「えへへ、どうしよう。インタビューとか来ちゃったら」
「まず勝つ必要がある」
「麻子、現実に戻さないで!」
みんなが少し笑う。
その笑いは、まだ軽い。
全国大会に出られるだけでもすごい。負けても記念になる。ベストを尽くせば、それで十分。
きっと、大洗の多くの生徒は、まだそう思っている。
灯里は、TOGⅡスイーツの残りを見つめた。
生徒会だけは違う。
そして、自分も。
負けても記念。
そう言える状況ではないことを、知っている。
だが、今ここで言うことはできなかった。
* * *
食事を再開しようとした時だった。
通路側から、声がした。
「副隊長……?」
その声に、みほの手が止まった。
灯里も顔を上げる。
そこに立っていたのは、黒森峰女学園の制服を着た二人だった。
一人は、西住まほ。
もう一人は、逸見エリカ。
みほの表情が、明らかに変わった。
「お姉ちゃん……」
まほは、鋭い視線でみほを見る。
エリカは、少しだけ口元を歪めた。
「ああ、元でしたね」
その言葉に、沙織が眉をひそめる。
華も、優花里も、麻子も、息を呑んだ。
まほは静かに言った。
「まだ戦車道をやっているとは思わなかった」
みほは、俯いた。
去年の決勝。黒森峰。西住流。逃げるように転校した過去。その重さが、ほんの一言でテーブルに落ちてきた。
優花里が立ち上がる。
「あの試合のみほさんの判断は、間違っていませんでした!」
エリカの視線が、優花里へ向く。
「部外者は黙ってて」
「す、すみません……」
優花里は怯む。
みほは何も言えない。
まほは短く言った。
「行こう」
二人は去ろうとする。
重い空気。
それを見ながら、灯里はエリカをじっと見ていた。
そして、心の中で呟いた。
あっ。
ワニの人です。
「逸見エリカさん」
灯里は立ち上がった。
エリカが怪訝そうに振り返る。
「何よ」
灯里は鞄の中から、小さなぬいぐるみを取り出した。
ワニ。
ただし、普通のワニではない。
TOGⅡの着ぐるみを着たワニだった。
長い車体風の布をまとい、背中には小さな砲塔がついている。
灯里は真剣な顔で、それを差し出した。
「あなたに、これを」
「……何よ、これ」
エリカの顔が、困惑で固まった。
「TOGⅡの着ぐるみを着たワニのぬいぐるみです」
「見れば分かるわよ! 分からないけど!」
灯里は続ける。
「TOGⅡ世界征服プロジェクトの試作品です」
「何その物騒な名前!?」
「去年の練習試合の時から、あなたを見ていたら、そんなアイディアが浮かびまして」
「なんで私を見て、ワニにTOGⅡを着せる発想になるのよ!」
「直感です」
「最悪の直感ね!」
沙織が小声で言う。
「戸郷さん、すごい方向から空気変えてきた……」
麻子は半目で頷いた。
「強い」
灯里は、さらにエリカへ近づき、小声で言った。
「ちなみに、この喫茶店にはTOGⅡハンバーグがあります。ぜひ食べてみてください」
エリカの表情が変わった。
「……なんで、私がハンバーグ好きだって知ってるのよ」
灯里は、少しだけ意味深に笑う。
「ふふっ。私は日本帝国軍情報省の者でして」
「どこにあるのよ、そんな省!」
「秘密機関です」
「嘘つきなさいよ!」
エリカはワニぬいぐるみを受け取ったまま、突き返さなかった。
その手は、微妙にぬいぐるみの砲塔を撫でている。
灯里は内心で頷いた。
ツンデレです。
エリカがぎろりと睨む。
「今、何か失礼なこと考えたでしょ」
「いえ。ワニは可愛いと思っていました」
「なおさら失礼よ!」
まほは、そのやり取りを静かに見ていた。
何かを言うわけではない。
ただ、少しだけ視線をみほへ向ける。
そして、今度こそ歩き出した。
「行くぞ、エリカ」
「は、はい」
エリカは、ぬいぐるみを持ったまま慌ててまほの後を追う。
去り際、もう一度だけ振り返り、灯里を睨んだ。
「これ、借りるだけだから!」
「はい。正式採用版をお楽しみに」
「いらないわよ!」
二人は去っていった。
重かった空気は、少しだけ変わっていた。
けれど、みほの表情は完全には戻らない。
華が静かにメニューを手に取った。
「もう一つ、食べましょうか」
「華、そういう励まし方!?」
沙織が思わず突っ込む。
麻子は、すでに自分のケーキを食べ終えていた。
「私は賛成だ」
「麻子も!?」
灯里は、自分のTOGⅡスイーツを見た。
まだ半分。
華は、すでに追加注文の準備をしている。
みほは、その様子を見て、ほんの少しだけ笑った。
完全に元気になったわけではない。
でも、ひとりではない。
テーブルの上には、食べかけの皿があり、冷めかけた紅茶があり、長すぎるTOGⅡスイーツがまだ半分残っていた。さっきまで胸を締めつけていた言葉は消えない。それでも、隣には沙織がいて、華がいて、優花里がいて、麻子がいて、灯里がいる。
黒森峰にいた頃とは違う。
ここでは、沈黙しても、誰かが隣に座ってくれる。
みほは、もう一度だけ小さく笑った。
それが、今の大洗だった。
* * *
夕方。
抽選会を終えた大洗の面々は、学園艦へ戻るための小型移動艦に乗っていた。
空は少し赤く染まり始めている。
昼間の会場にあった熱気は、少しずつ遠ざかっていた。代わりに、甲板を撫でる風と、低く響くエンジンの音と、海の匂いが戻ってくる。大洗の空気に近いその匂いを吸うと、灯里はようやく一日が終わりに近づいているのだと感じた。
みほは艦橋近くで、海を眺めていた。
風が髪を揺らす。
そこへ、優花里が静かに近づいた。
「西住殿」
「秋山さん」
「寒くないですか?」
「うん、大丈夫」
みほは小さく笑った。
優花里は、少しだけ迷ってから言う。
「私は、全国大会に出られるだけでも嬉しいです」
みほが、優花里を見る。
「たとえ、ベストを尽くして負けたとしても……それはきっと、大切な経験になると思うのであります」
優しい言葉だった。
みほは、少しだけ目を伏せる。
その時。
「それじゃあ困るんだよねー」
杏の声がした。
振り返ると、そこには生徒会の三人がいた。
杏はいつものように笑っている。
だが、柚子の表情は少し硬い。
桃は、はっきりと険しい顔をしていた。
「絶対に勝て」
桃が言った。
「我々は、どうしても勝たなければならない」
優花里が驚いたように目を見開く。
「どうしても……?」
柚子が、つい口を開きかける。
「そうなんです。だって、負けたら――」
その瞬間、杏が軽く手を上げた。
「柚子ちゃん」
柚子は、はっとして口を閉じた。
空気が止まる。
みほも、優花里も、何かを感じ取ったように黙った。
杏はすぐに、いつもの調子へ戻る。
「まあ、西住ちゃんと戸郷ちゃんにかかってるから、頑張ってねー」
「か、会長……」
桃が何か言いたげにするが、杏はそれ以上言わなかった。
生徒会の三人は、そのまま去っていく。
みほは、海へ視線を戻した。
「どうしても、勝たなきゃいけない……」
優花里は不安そうに言う。
「全国大会で優勝するというのは、簡単なことではありません。ですが、生徒会の皆さんは、何か……」
言葉が続かなかった。
少し離れた通路。
灯里は、その会話を聞いていた。
みほたちからは見えない位置。
けれど、生徒会の言葉は、はっきりと届いていた。
負けたら。
終わる。
その事実を、灯里は知っている。
でも、まだ言えない。
ここで言えば、みほの戦車道はまた別の重さを背負ってしまう。大洗のみんなの空気も変わってしまう。戦車道を選んだばかりの生徒たちが、まだ知らなくていい重さが、全部のしかかってしまう。
生徒会だけが抱えている重さ。
それを、灯里は知っている。
知ってしまっている。
夕暮れの海は、静かだった。
学園艦の方角に、光が見える。
あの上には、普通科も、船舶科も、商業科も、農業科も、給食部専攻もある。何千人もの生徒がいて、もっと多くの人たちが暮らしている。昼休みに食べるご飯があり、放課後の格納庫があり、購買の声があり、誰かが洗濯物を干す生活がある。
そこは、戦車道チームだけの学校ではない。
灯里は、静かに息を吐いた。
「……そろそろ、ですね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
次の試合は、サンダース大学付属高校。
全国大会一回戦。
けれど、その前に。
灯里には、向き合わなければならない人たちがいた。
生徒会。
大洗女子学園の秘密を、たった三人で抱えている人たち。
夕暮れの風の中で、灯里は小さく拳を握った。
全国大会は始まった。
そして、大洗女子学園の本当の重さも、少しずつ姿を見せようとしていた。