体育館の扉が開くと、ざわめきが一気に大きくなった。
全校生徒集合。
その言葉通り、体育館にはすでに多くの生徒たちが集まっていた。
普段の集会とは少し違う空気がある。
何かが始まる。
誰もがそう感じているようだった。
「何の集会だろうね」
武部沙織が、隣を歩く西住みほに小さく声をかける。
「……うん」
みほは小さく頷いた。
けれど、その声は弱い。
顔色もまだ良くない。
さっき保健室で少し休んだとはいえ、戦車道という言葉が消えたわけではない。
五十鈴華は、そんなみほの様子を気遣うように少し横へ並んでいた。
「西住さん、無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう、五十鈴さん」
みほは笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
灯里は、三人の少し後ろを歩いていた。
近すぎず、遠すぎず。
何かあったら声をかけられる距離。
体育館の中を見渡す。
生徒たちは、思い思いに話している。
「戦車道って本当なの?」
「うち、戦車なんてあったっけ?」
「選択科目って言ってたよね」
「何か面白そうじゃない?」
「危なくないのかな」
その声を聞きながら、灯里は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
ここから、大洗女子学園の戦車道が始まる。
画面の向こうで何度も見たはずの始まり。
けれど、今は自分もその場にいる。
観客席ではない。
スクリーンの外でもない。
同じ体育館に立っている。
灯里は、そっと拳を握った。
映画で見られなかった続きを、自分の目で見る。
そう決めた。
けれど、その続きを始める場所に立ってみると、想像していたよりずっと怖かった。
なぜなら、ここにいる人たちは全員、生きているからだ。
西住みほも。
武部沙織も。
五十鈴華も。
そして、まだ知らない誰かも。
物語の登場人物ではない。
選んで、迷って、傷ついて、笑う人たちだ。
だからこそ、灯里は自分に言い聞かせた。
踏み込みすぎない。
決めつけない。
西住さんの選択を奪わない。
その時、体育館の前方にあるステージへ、生徒会の三人が上がった。
角谷杏。
小山柚子。
河嶋桃。
生徒たちのざわめきが、少しずつ静まっていく。
杏はマイクを持つと、いつもの軽い調子で口を開いた。
「はいはい、みんな集まったねー。今日は大事なお知らせがありまーす」
その軽さに、体育館の空気が少し緩む。
だが、隣に立つ桃は違った。
背筋を伸ばし、マイクを受け取ると、きっぱりとした声で言う。
「本年度より、大洗女子学園では、選択科目として戦車道を復活させることになった!」
体育館が、どっと揺れた。
「戦車道!?」
「本当に?」
「うちで?」
「戦車なんてあったの?」
「選択科目って、あのプリントのやつ?」
ざわめきの中、灯里はみほを見た。
みほは俯いている。
沙織と華は、その反応に少し心配そうな顔をした。
桃は続ける。
「戦車道は、古くから乙女のたしなみとして知られ、心身を鍛え、礼節を学ぶ由緒ある武道である!」
その横で、柚子が資料を準備していた。
杏は干し芋を片手に、のんびり頷いている。
灯里は内心で思う。
会長、自由ですね。
だが、説明そのものは進んでいく。
やがて、ステージ横のスクリーンに映像が流れ始めた。
戦車道紹介映像。
颯爽と走る戦車。
整列する少女たち。
華やかな試合風景。
礼儀正しい挨拶。
凛々しい砲撃。
整備された車両。
そして、笑顔で握手を交わす選手たち。
映像は、実に綺麗だった。
戦車道は危険なものではなく、格式と伝統のある競技。
礼儀や精神力を養い、進学や就職にも有利。
全国的にも人気があり、女子のたしなみとして広く親しまれている。
そう見えるように、とても丁寧に作られていた。
「へえ……」
沙織が、思わず声を漏らす。
「戦車道って、思ってたより華やかなんだね」
華も、興味深そうにスクリーンを見つめていた。
「礼儀作法や精神面にも関わるのですね。少し意外でした」
「なんか、女子力高そうじゃない?」
「女子力、ですか?」
「だって、こういうのやってる子って、かっこいいし、モテそうだし」
沙織の言葉に、華は少し考え込んだ。
「華道とは異なりますが、姿勢や心構えを重んじる点では、通じるものがあるのかもしれません」
二人の声には、明らかな興味が混ざっていた。
灯里はそれを聞きながら、みほの横顔を見る。
みほは、映像を見ていなかった。
いや、見てはいる。
けれど、その目は画面の華やかさを追っていない。
きっと、別のものを見ている。
試合。
黒森峰。
雨。
川。
助けに向かった先。
そして、その結果。
灯里はそこまでを知っている。
知ってしまっている。
けれど、それをここで口にすることはできない。
映像は綺麗だ。
でも、西住さんにとって戦車道は、こんなに綺麗なものだけじゃない。
灯里は、プリントを握るみほの手を見た。
指が、少し震えていた。
◇
紹介映像が終わると、桃が再びマイクを取った。
「戦車道は選択科目である。履修を希望する者は、配布された履修届に記入し、指定の期日までに提出するように!」
杏が横から軽く付け加える。
「まあ、興味ある子はどんどん来てねー。初心者歓迎だからさ」
柚子が資料をめくる。
「初心者向けの説明や見学も予定しています。経験がない人でも大丈夫です」
その言葉に、生徒たちのざわめきはさらに大きくなった。
「初心者でもいいんだ」
「見学だけでも行ってみようかな」
「戦車って乗れるの?」
「選択科目なら単位も出るんだよね?」
その流れに乗るように、杏がにこにこしながら言った。
「それと、成績優秀者には特典も検討中でーす」
桃がぎょっとする。
「会長、それはまだ正式には――」
「たとえばー」
杏は指を折りながら数えた。
「食堂の食券百枚とか」
体育館がざわついた。
「百枚!?」
「え、食券!?」
「本当に?」
「それから、遅刻見逃し二百日とか」
桃がマイクを奪いかける。
「会長!」
しかし生徒たちは別の方向でざわついていた。
「遅刻見逃しって何!?」
「二百日は多くない?」
「誰向けの特典?」
灯里は無表情のまま、心の中で呟いた。
まるで誰かのための特典だぁ……。
まだその誰かは、この場にはいない。
少なくとも、灯里の視界にはいない。
だが、低血圧で朝に弱い誰かに向けられたような露骨さを感じる。
杏はさらに続けた。
「あと、通常授業の三倍の単位とか」
「会長! 確定事項のように言わないでください!」
桃がついに止めに入る。
柚子が慌ててフォローした。
「え、ええと、詳細は今後正式にお知らせします!」
体育館は笑いとざわめきで少し明るくなった。
緊張していた空気が、少しだけ緩む。
沙織は目を輝かせていた。
「食券百枚ってすごくない?」
華も静かに頷く。
「それほど期待されているということなのでしょうか」
みほは困ったように笑った。
でも、その笑顔はまだ弱い。
灯里は、それを見落とさなかった。
◇
説明会が終わり、生徒たちは体育館から出始めた。
あちこちで戦車道の話が飛び交っている。
「ちょっと面白そうじゃない?」
「見学だけ行ってみようかな」
「食券百枚は大きいよね」
「戦車ってどんな感じなんだろ」
沙織も、完全に興味を持った様子だった。
「ねえ、みほ。戦車道って、思ってたよりすごいんだね」
「……うん」
「私、ちょっとやってみてもいいかなって思っちゃった。なんか、かっこいいし」
華も頷く。
「私も、少し興味があります。武道としての側面があるなら、学べることも多いかもしれません」
「五十鈴さんも?」
「はい。もちろん、まだ詳しくは分かりませんが」
二人は前向きだった。
悪気はない。
むしろ、純粋に興味を持っている。
でも、みほは明らかに戸惑っていた。
「でも……」
小さく呟く。
沙織はすぐには気づかない。
「それに、みほって戦車道詳しいんだよね? だったら安心かなって」
その言葉に、みほの肩がわずかに強張った。
灯里は、足を止めた。
このままだと、みほの気持ちが置いていかれる。
沙織と華は、みほを傷つけたいわけではない。
ただ、戦車道の紹介映像を見て、前向きな気持ちになっているだけだ。
だからこそ、少しだけ間に入る必要があった。
「西住さん」
灯里は静かに声をかけた。
みほが振り向く。
「はい……?」
沙織と華も、灯里を見る。
灯里は少しだけ言葉を選んだ。
「西住さんが決めていいと思います」
みほが目を瞬かせる。
「私が……?」
「はい」
灯里は頷いた。
「誰かに決められるんじゃなくて、西住さんが選んでいいと思います」
その言葉に、沙織の表情が変わった。
「あ……」
沙織は、ようやくみほの顔色を見た。
「ごめん、みほ。私たちだけ盛り上がっちゃってた?」
華も、申し訳なさそうに目を伏せる。
「西住さんのお気持ちを、先に伺うべきでしたね」
みほは慌てて首を振った。
「ううん、二人が悪いんじゃないの。私が……」
言葉が続かない。
戦車道が嫌い。
そう言い切れるわけではない。
戦車道が好き。
それも、今は言えない。
みほは、どちらにも進めずにいるようだった。
沙織は、そんなみほの手を取った。
「じゃあ、急いで決めなくていいよ」
「え?」
「一緒に考えよ。みほが嫌なら嫌って言えばいいし、ちょっと考えたいなら考えればいいし」
華も静かに頷く。
「はい。すぐに答えを出す必要はないと思います」
みほの表情が、少しだけ緩んだ。
「……ありがとう」
灯里は、そのやり取りを見て、胸の奥で息を吐いた。
この二人なら、西住さんを一人にはしない。
でも、西住さんの代わりに決めることもしない。
それが、今はとても大事だった。
灯里自身は、戦車道を選ぶ。
TOGⅡがあるから。
自分の理由があるから。
けれど、みほにはみほの理由がある。
逃げたいなら、逃げてもいい。
戻りたいなら、戻ってもいい。
ただ、それを誰かが勝手に決めてはいけない。
灯里はそう思った。
◇
体育館の出口付近で、灯里はひとりの少女を見つけた。
ふわりとした髪。
少しおどおどした姿勢。
けれど、その手に握られた履修届だけは、まるで宝物のように大事にされている。
秋山優花里。
灯里は、自然と足を止めた。
優花里は周囲のざわめきの中で、少し浮いていた。
誰かに話しかけたい。
でも、自分からはなかなか行けない。
そんな雰囲気がある。
それでも、目だけは輝いていた。
「戦車道……本当に、大洗で……」
小さな呟きが、灯里の耳に届いた。
灯里は、そっと声をかけた。
「秋山さん、ですよね」
優花里は、びくっと肩を跳ねさせた。
「は、はい! 秋山優花里です!」
勢いよく振り向く。
その反応に、灯里は少しだけ微笑んだ。
「戸郷灯里です」
「戸郷殿……!」
「殿?」
「あっ、す、すみません! つい!」
優花里は慌てて頭を下げる。
灯里は首を振った。
「大丈夫です。むしろ、少し嬉しいです」
「そ、そうでありますか?」
「はい」
灯里は、優花里の手元を見る。
「戦車道、選ぶんですか?」
優花里の表情がぱっと明るくなった。
「はい! 戦車、大好きなので!」
その声には、迷いがなかった。
戦車が好き。
戦車道をやりたい。
ただそれだけの、真っ直ぐな気持ち。
灯里は、その眩しさに少しだけ目を細めた。
「戦車、好きなんですね」
「はい! 戦車は素晴らしいです! 設計思想、運用思想、国ごとの特色、履帯の音、装甲の角度、砲塔の形状……!」
優花里はそこまで一気に言って、はっと口を押さえた。
「す、すみません。つい……」
「分かります」
灯里は真顔で頷いた。
「分かるのですか?」
「はい。特にTOGⅡはいいですよね」
その瞬間、優花里の目が大きく見開かれた。
「今、TOGⅡとおっしゃいましたか!?」
灯里は静かに頷いた。
「言いました」
「TOGⅡ! あの英国面あふれる超重戦車! 長大な車体! 試作車両ならではの異様な存在感! 全長十メートル級の、まさにロマンの塊!」
優花里の声が、どんどん熱を帯びていく。
灯里は、その言葉を聞いて胸が熱くなった。
いる。
ここにいる。
TOGⅡを分かる人が。
灯里は、静かに右手を差し出した。
「友達になりましょう」
優花里は一瞬固まった。
それから、両手で灯里の手を握った。
「はい、戸郷殿!」
沙織が少し離れたところからそれを見て、目を丸くした。
「え、何この速さ」
華は穏やかに微笑んだ。
「共通の趣味とは、距離を縮めるものなのですね」
みほは、その様子を見て少しだけ笑った。
さっきよりも、ほんの少しだけ自然な笑顔だった。
◇
体育館の前方では、生徒会が履修希望者の確認を始めていた。
希望者は、履修届を提出していく。
灯里も、自分のプリントを持って進んだ。
桃が書類を確認する。
「戸郷灯里は……すでに戦車道に丸がついているな」
「はい」
灯里は真面目に答えた。
「なぜか最初からついていました」
桃が眉をひそめる。
「なぜか?」
杏が横から笑う。
「でも、やるんでしょ?」
「やります」
灯里は即答した。
「TOGⅡがありますので」
周囲にいた生徒が、少しざわついた。
「TOGⅡ?」
「なにそれ?」
「戦車?」
「名前?」
優花里だけが、明らかに反応していた。
「TOGⅡ……あります、とは……?」
灯里は、まだ答えなかった。
その代わり、杏を見た。
杏は、まるで分かっていたようににこにこしている。
「戸郷ちゃん、例のやつ、よろしくねー」
「分かりました」
灯里は頷く。
桃は真面目な顔で言った。
「くれぐれも校内で事故を起こすなよ」
「TOGⅡは長いですが、安全運転はできます」
「長いことは否定しないのだな」
「事実ですので」
柚子が少し不安そうに聞く。
「本当に大丈夫? 誘導する人、必要なんだよね?」
「はい。上から周囲を確認してくれる人がいると助かります」
灯里は、そこで優花里を見た。
戦車に詳しい。
TOGⅡという名前に即座に反応した。
そして、おそらく上に乗って周囲確認を頼んでも、怖がるより興奮する可能性が高い。
適任だった。
灯里は、優花里へ向き直る。
「秋山さん」
「はい!」
「少し付き合ってもらえますか」
「はい? 何にでしょうか?」
灯里は、当たり前のように言った。
「TOGⅡを出します」
優花里は、数秒固まった。
そして、震える声で聞き返す。
「……今、なんと?」
「TOGⅡを出します」
「TOGⅡを……出す……?」
「はい。実物を」
優花里の瞳が、みるみるうちに輝いていく。
「じ、実物……実働……?」
「たぶん動きます」
「たぶん!?」
沙織が目を丸くする。
「え、戸郷さん、戦車持ってるの?」
華も驚いたように口元に手を添えた。
「それは、また……大きなお話ですね」
みほも、信じられないように灯里を見ていた。
「戸郷さん……TOGⅡって……」
灯里は静かに頷く。
「長い戦車です」
説明としては、あまりにも足りなかった。
だが、灯里にとってはそれが最重要だった。
杏が楽しそうに笑う。
「じゃ、説明会の次は実物見学ってことで」
桃が頭を抱える。
「会長、段取りが雑です!」
「インパクトは大事だよー」
柚子は苦笑しながら、資料に何かを書き足していた。
灯里は、体育館の出口の向こうを見た。
その先には、校舎があり、広場があり、さらにその先に自宅がある。
地下ガレージには、TOGⅡが待っている。
映画館の席は、もうない。
けれど、車長席はある。
そして今、その長すぎる戦車が、大洗女子学園の前に姿を現そうとしている。
灯里は、小さく息を吸った。
「行きましょう、秋山さん」
優花里は、感極まったように敬礼した。
「はい、戸郷殿!」
その日の放課後。
大洗女子学園の広場に、
誰も予想していなかった長すぎる戦車が姿を現すことになる。